第4話 I have never been useful.

 自分の肉体がこれほど弱いとは思わなかった。


 現在地、N山の麓にある小さな旅館。その一室。旅館の周りはバーチャルじゃない本物の、地に根を下ろした木が無数に生えている。風が吹く度、さわさわと木の葉が擦れる音が心地よい。部屋の窓は開けられていて、そこから鳥の声も聞こえてくる。気温は、夏ということもあって少し高めだが、湿気が少なく過ごしやすく感じた。土の匂い、草の匂い、感触、それらすべてが新鮮で、楽しかった。


 旅の始まりは順調だった、と畳の上に敷いた布団の中で振り返る。現在身体は重く、頭が痛い。全身がだるく、熱がこもっていた。鼻水が止まらず、喉も少しいがらっぽい。つまり、私は夏風邪を引いていた。


「失礼致します。お連れ様の様子はいかがですか?」


「まだ少し熱が下がらないみたいで。お手数おかけします」


 部屋の出入り口で、宿の仲居とアキアカネが会話する音が聞こえる。聞こえているが、意味までは頭の中で構築できない。頭の中を音が通り過ぎている。苦しい。こんな風に熱を出したことなんて近年ほとんどなかったから、ただひたすら、つらいとしか頭の中に浮かばない。昨日までは体調も良好で、不安なんて何もなかったのに。


 一週間前。カラオケボックスから始まった旅は列車での移動を重ね、今ではお金持ちしか許されないはずの旅館に泊まるというところまで来てしまった。これまで宿の手配や列車移動の先導はすべてアキアカネが行っている。私は自分の希望を彼女につたなく伝えて、初めて都市部から出ることに好奇心を高鳴らせることしかできなかった。そして今でも彼女は、当たり前のように熱を出した私に薬や着替えや食事の手配を行ってくれている。


「起きてる?」


 布団の中で蹲っている私に、小さな声で声がかけられる。私は閉じていた目を開いて首を動かし、視線だけでアキアカネに返事をした。


「宿の人に頼んで、薬と水もらったから、飲んで」


「……ご迷惑を、おかけします……」


「なにそれ。別にいいのに」


 食事はいいけど、水分補給だけはしっかりして。というアキアカネの言葉に従って、私はなんとか身体を起こして、朝から水を定期的に摂取している。今回も食事の前に薬を飲めと言われたので、すぐ後ろの壁にもたれつつ自分でペットボトルの水を口に運ぶ。最初にコップで飲もうとしたら見事にこぼしたので、二回目からペットボトルに変更された。


「環境の変化に身体がついていってないだけだから、三日もすれば平気になるよ。都市部の人間は花粉とかそういうのにも弱いから、仕方ないね」


 それなら、何故あなたは平気なのか。という私の視線に、「こればっかりは慣れとしか言えないな」とアキアカネは答える。


 旅のお供として、彼女は優秀だった。優秀すぎた。私の希望と列車の都合を合わせ、山に入ってからも、服装など装備をあっという間に揃え、ガイドを雇って目的地まで私を連れて行ってくれた。自分一人だったら、希望の場所一つ巡るのだって一苦労だっただろう。


 部屋にかかった針時計を見上げると、時刻は四時を指していた。おそらく夕刻。太陽はまだ高いようで、窓の外は明るかった。三日もしたら平気になる、とアキアカネは言うが、あと三日も同じところに滞在していて平気なのだろうか。私たちはこれまで、一日以上同じ場所にはいなかった。それは、まだ姿も気配も見えない追っ手を警戒してのことだ。それを私の体調のせいで同じ場所に留まり続けるというのは、リスクを高めることにはならないだろうか。生ぬるい水が薬と共に胃の奥に落ちていく。こんなことなら。


 はぁ、と熱い息が口から漏れた。アキアカネがこちらを向く。私は壁にもたれたまま、彼女に視線を投げた。


「……昨日、死んでおけば良かったな……」


 アキアカネは何も言わない。長い睫に縁取られたアーモンド型の瞳が私を見ている。黄色い肌、一重の目、黒い髪、それらは私とは似ても似つかない。かつてこの土地に存在していた単一民族。彼女はその生き残りなのだろうか。彼女のことを知りたいと思った。それは、しかし言葉にならない。私は目を伏せて、彼女から視線を外す。脳裏には昨日見た光景が広がっている。


 昨日、私たちは山の中で滝を見た。流れ落ちる水の轟音、足下にまで届く水飛沫、自分が立っている岩の硬さ、大きさ、感触、こびりついた苔、滝に冷やされた風、木々の静謐さ、草のざわめき。間近で見たそれらに私のテンションは最高潮になって、足下を水に浸したり、水を手ですくって空中に投げたりしてみた。川の水は飲んではいけないと言われているので口にはしない。消毒されていない水。土の中から湧き出て、土の中に還っていく物。私は自分の衝動に身を任せて、水面をじっと眺めたり、岩の上を伝ってみたりしたのだ。足場の悪いところでバランスを取るのは存外難しくて、手に触れた植物の柔らかさや堅さに驚いて、また意味もなく笑っていた。


 VRではなく、本物だ。土の上は、じっと見ていれば小さな生物が生きているのを見せてくれる。足下にも、頭の上にも、生きている物がいる。生命で満たされている。その中に、自分がいる。その事実が私を開放的にして、楽しい気持ちにさせていた。


 ひとしきりはしゃいで岩の上に腰を下ろした私に、隣に立つアキアカネから声がかかる。


「今、どんな気持ち?」


「人生で一番ってくらい、楽しい」


「じゃあいま、死んでみる?」


 その時、さぁ、と私たちの間に風が吹いて、彼女の言葉自体を流してしまうようだった。だけどその言葉はしっかりと私の胸に深々と刺さっている。これ以上ない、不意打ちだった。


 人生で最高な瞬間に死ぬ。それも一つの選択肢だろう。むしろこれ以上ない死に方かもしれない。あんなに焦がれていた命たちに囲まれて、自分の命を捨てるのだ。あの無機物の中で命を終えるよりもずっとずっと、贅沢で、傲慢な死に方だ。違うのかもしれない。私は今ここで死ねば、無機物だった曽根塚アコを殺すことができる。そして、生きている物の一つになれる。――本当に?


 拳を緩く握った手首には、まだあのバングルがはめられている。私は自分に付けられた腕輪を、自分の意思で外すこともできない。GPS機能が死に、私の生体データを送信することもできず、その中に記録し続けているだけの、ただの腕輪を。これを外せば、私はあの社会から文字通り抹殺される。それを望んでいた。今だって望んでいる。私は私を殺すために、この場所に来たいと思ったのではなかったのか。


 アキアカネの声と風にざわめく木々が私の気持ちを追い立てる。本物の木は風に吹かれると、幹に近い方から震えて枝葉に震動を伝えていくのだ。今の私のようだ。


「人生サイコーって時に死んだら、サイテーなことを思い出さずに気持ち良く逝けるって」


「そうなんですか」


「そういう人もいるって話。人生サイテーで、どうしようもなくて、追い詰められて死にたいっていう人は、サイテーな場所から出てサイコーな瞬間を知ると、存外死ねなくなるもんだよ。人間って欲張りな生き物だから。サイコーなんて、それこそ何度も得られるもんじゃないのにね」


 最高潮を突き詰めていこうと思えば、際限なくなってしまう。どこが最高潮かなんて、自分で決められるのだろうか。自分が望んだ物が、何度も目の前に現れれば、それが最高になるのだろうか。ここが自分の到達点だと決められる人が、そこで死ねるのだろう。私は決められるのだろうか。ここが私の最高潮だ、と。


「なんて、私が決めることじゃないけどね。どうせあなたは今更止められないんだし」


 私の迷いなんて見透かしたように、アキアカネはふいと視線を外した。その視線の先には滝がある。滝壺の中に飛び込めば、文字通り肉体も精神も、両方死ねるだろう。私は答えを返すことができなかった。


 それが昨日の話。死ぬことを突きつけられて、心臓が痛んだことを思い出す。肉体が死ぬわけではない。それでも、今までの経過をすべて無くすことを、自分が楽しいと感じている時には選択できなかった。昨日と比べて今日が最低だから、あの時決断しておけばと後悔しているだけだ。病気になって、弱気になっている。


「じゃあ今から死んどく?」


 意識がぼんやりとしている。そこに誘惑のようにアキアカネの言葉が流れ込んできた。それがいいかもしれない。これ以上、〝あの時〟と思うような瞬間を増やさないためにも、今行っておくのが最適なのかもしれない。


 この一週間で、私は存外、自分がどこにでも行けるのだと知った。勿論そのためには必要な物もあるのだけど、それでも、あの家から、学校から離れて、こんなところまで来られるのだと。そのことを知っただけでもう充分な気がした。私は死にたかったのではなく、あの場所から離れたかった、逃げたかったのだ。だって見てよ、こんなところまで来たら、私のことなんて誰も知らない。探さない。声もかけない。だったら最初から、いなかったのと一緒じゃない。例えばこのまま宿から消えたとして、誰が気にする?


「……その前に、教えて。なんで名前、アキアカネにしたの?」


 曽根塚アコという人間は、あの街のどこにもいなかった。旅に出るまで、存在しなかった。私が私という意志を明確に持ったのは一週間前が初めてで、私という存在を認められたのも、一週間前。あのカラオケボックスが最初なのだ。


「アキアカネって、昔はこの土地にいっぱいいたんだって。秋になるとそこら中飛んでて、珍しくもなんともなかったみたい。でも今じゃ一度絶滅した昆虫って言われてる。今生きているアキアカネは全部、死んだ昆虫から遺伝子を抜き取って、人間が人工的に繁殖させたものなの。もう絶滅してるのにムリヤリ生かされてるところが、私と一緒だなって思って、この名前にしたんだ」


 私の隣で、アキアカネが名前の由来を静かに語る。その横顔はとても綺麗で、落ち着いていて、私は少し見入ってしまった。薬の効果だろうか、段々と眠気が襲ってくる。この睡魔に身を委ねれば、楽になれる気がした。


「じゃあ、あなたも」


「そう、私も一回死んだの」


 私を見たアキアカネは口元だけで笑っていた。


 安楽死プログラムを受けて、社会から消えた存在。誰も知らない人物で、どこにも存在しないことになっている。あなたは何故そうしようと思ったの。死んで何が変わったの。この身にまとわりつく重さから逃れられたの。どうして、死にたいと願ったの。


 知りたい。彼女のことが。でも聞けない。聞いても答えてもらえないから。アキアカネは静かに微笑みながら、すべての問いを拒絶していた。何も聞かない代わりに、何も答えない。全身でそう表現していた。彼女のその態度は、私自身も拒絶している。まだ誰でもない私を。


 宿の外が少しずつ暗くなっている。太陽が沈む。この旅に期限なんてなかったけれど、限界はある。私の旅も、そろそろ終わりなのだ。私は何一つ自分で決められなかったことが嫌だった。決められた家、決められた親、決められた学校、決められた授業、決められた食事、管理された体型、ローテーションの服。そこに『私』はいない。役割を求められただけの人形がいるだけだ。そこに心なんていらない。不特定多数が見て美しいという物を、定義されただけの物をその定義通りに答えるだけなら、アンドロイドだってできる。私は血の通った選択をしたかった。自分の心に従って、自分という人間を表現してみたかった。それには当然だけど、喪失と痛みが伴うのだ。人の手がこぼさずにいられるものなんて、せいぜい一つとないくらいだろう。


 もし、今ここで戻りたいと言えば、彼女は何も言わずに私をあの家に戻してくれる。そして私はこの一週間のことなんてなかったかのように保護施設に入れられ、そこで人格を抜本的に改革され、見事社会に適応したような顔をして生きていくのだ。


 心を殺して生きていくか、心を生かして死ぬか。


 今この場に転がっているのは、その二択だ。私が選べるのは、一つだけだ。


「元気になったら、また聞くよ。今は考えるのもしんどいだろうし」


「ううん。……ううん、今決める」


 ゆるゆると首を振って、隣から離れようとした彼女の手を引き留める。握った手は冷たかった。自分の身体は相変わらず重く熱い。でも、それよりも自分の最初の意思を変えたと、彼女に思われたくなかった。失望したくなかった、されたくなかった。私は自分の意思を変えないと、はっきり彼女に宣言したから。それを覆すような態度は取りたくなかった。一週間、私は私として生きた。ずっとやりたいと思っていた場所に来て、思うまま誰に制限されることなく楽しんで。それで充分じゃないか。人生としては、長い方。


 ここが私の最高潮だ。


「いま、しぬ」


「――そ、わかった」


 アキアカネの声はとても冷えていて、熱に浮かされた頭には心地よく響いた。


「それなら、まずはゆっくりおやすみ」


 布団に横たえられ、バングルをはめた腕を取られる。そうして意識が消える直前。はめてから一度も外したことのないバングルの、カチリと外れる音が、遠くで聞こえた。

 

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