尾八原ジュージ

 ねえさんがいつからかおかしくなっていたことを、たぶん誰も気づいていなかった。わたしは父が突然つれてきた継母の機嫌をとるのに必死だったし、父は外で新しい女を物色するのに忙しいようだった。

 五月のよく晴れた日曜日の朝、ねえさんは突然、寝ていた継母の両足首を斧で叩いて砕いてしまった。ものすごい声をあげて暴れる継母の細い襟首をつかんで引きずり、奥の六畳間に放り込んで襖を閉めた。それからご飯茶碗を持ったまま呆然としているわたしを振り返ると、ねえさんはにっこり微笑んだ。

「れいちゃん、このことは誰にも言わないでね。お父さんにも、おじいさんやおばあさんにも、学校の先生にもないしょにするのよ。でないとねえさんといっしょに暮らせなくなるよ」

 わたしはこわれた人形みたいにがくがくとうなずいた。


 それからその部屋に入るのはねえさんだけだ。父はちっとも帰ってこないし、お客さんも訪ねてこない。

 ねえさんはしっかり者なので、だれにも心配されたり、疑われたりしない。近所の人に何か言われても、大丈夫ですよと答えてにこにこしている。

「近ごろは継母ともずいぶん仲良くなったんですよ。若いひとだから、お母さんというよりお姉さんみたいなの」

 そう言って、ねえさんは朗らかな声で笑う。


 夏が終わり、秋が過ぎて、木枯らしが吹くようになったけれど、継母はまだ生きている。

 いつからかもう喋りもしなくなったけれど、ご飯はちゃんと食べるし、おまるも使う。時々はねえさんが体を拭いてあげる。

 閉ざした襖の向こうからは、ときどき畳を擦るような音が聞こえる。でも、継母が襖を開けたことは不思議と一度もない。

 襖をほんの少し開けて、隙間から中を覗いたことがある。ちらりと見えた継母の姿は、わたしの記憶にあるよりもずっと痩せていた。元々華奢で小柄なひとだったけれど、さらに細くて青白かった。髪はほどけ、着物は乱れて、後れ毛のかかった白いうなじが薄闇に浮かんで見える。

 豪華な色打掛を着て澄ましていた結婚式のときよりも、今の幽霊のような姿の方がずっと好ましいと思った。今までわたしにわからなかっただけで、ねえさんがやっていることは正しいことなのかもしれない。

「おかあさん、最近きれいになったんじゃない」

 わたしがそう言うと、ねえさんは心底うれしそうに笑った。

「そうでしょう」

 襖の向こうから、さりさりと畳を這うような音がした。

 父は相変わらず帰ってこない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ