第10話
モノローグ④
私は、なんて幸せなんだろう。こうしてまた、自分の居場所を見付けられるなんて。
当ても無くさまよっていた今までの自分は、考えてみればやはり幸福では無かった。自らに使命を課して、それに従うだけ。それを後悔した事は無いけれど、本当は辛かった。
でも、そのお陰でこの人達に出会えた。とても素敵な一家に。「おかえりなさい」と言ってもらえた時、私はどんなに嬉しかったか。喜びに心が震えるほどだった。
この人達となら、私は人間らしく生きていけると思うの。だから、可能な限りこの人達と、一緒にいたいと思います。
良いでしょう、タカユキ・・・。
数年前④ 織絵の過去
織絵が燻士家に居候するようになってから、一週間程が経ちました。
当初、彼女はこの町で仕事を探し、燻士家に少しでも家賃を払おうとしていました。しかし、弥生はきっぱりとその申し出を断ったのです。
「そんな事、気にしなくて良いんですよ」
「でも、ご迷惑では・・・?」
申し訳なさそうに織絵が言うと、
「もし迷惑なら、私は『おかえりなさい』なんて、かっこいい事言いませんよ!」
弥生はそう言って、子供のように頬を膨らませました。
(かっこいい事って・・・。弥生さんって、愉快な女性ね・・・)
織絵は苦笑しながらも、弥生の言葉を嬉しく思います。
そのやり取りを、そばで見ていた源一郎も、
「織絵さん、ワシは、貴女を本当に気に入っているんじゃ。ワシだけでは無い。弥生さんも、琴子も銀子もじゃ。ワシらは貴女を、本当の家族と思っておるんじゃ」
と、微笑みながらそう言いました。
「源一郎さん・・・」
「だから、ここを我が家と思って、遠慮無く過してくだされ」
そう言われて、織絵の心は、温かな幸福感で満たされていくのでした。
(それなら、私はこの人達の為に、自分が出来る事をしよう・・・)
そう決心した織絵は、程無くしてその『出来る事』を見付けるのでした。
昼下がり、織絵は燻士家の庭で、武術の型の練習をしていました。腕を錆び付かせないように、彼女は空いた時間があると、いつも修行にあてています。
静かに構えをとり、精神を集中します。気合いをため、それが充実した時、右正拳突き、左足刀蹴り、左正拳突き、右上段回し蹴り、そして、体を回転させ左後ろ回し蹴りを放ちました。
静かに流れる清流のように、その動きには淀みが無く、それでいて、一撃一撃に岩をも砕くかと思われる程の、力がみなぎっていました。
織絵の型を、源一郎と銀子が縁側に正座して見ていました。傍に、お盆に乗ったお茶とようかんがありましたが、源一郎はそれを口にするのも忘れて、織絵の動きを惚れ惚れと見つめています。銀子もまた、まばたきするのも忘れたかのように、織絵の動きに見入っています。彼女は現在夏休みで、憧れの織絵に、いつもべったりとくっついていました。その織絵を見る銀子の目には、熱いものがこもっています。
やがて、織絵は一通りの型を終えると、最後に息を「ふ~」と吐き、動きを止めました。それと共に、源一郎と銀子から拍手が沸き起こります。
「いや~、お見事!!」
「すご~い!」
思いがけない賞賛の声を浴びせられて、織絵は先程の凛々しさはどこへやら、思いっきり照れていました。
「いえ、それ程でも・・・」
「はい、タオルです!」
ニコニコと笑った銀子が、織絵にタオルを手渡してくれました。
「ありがとう」
タオルで汗を拭きながら、織絵は銀子を見ていました。
(銀子ちゃん、すっかり明るくなったわね。本当に良かった)
燻士家の次女である銀子は、初めて会った頃の暗さはほぼ無くなり、笑顔を多く見せてくれるようになりました。織絵が自分を守ってくれた事、そして、自分と同じような不幸に見舞われても、強く生きていると言う事に対し、感謝と、尊敬の念を抱いていたからです。
(でも、それだけじゃない。銀子ちゃんには元々強さが備わっていたんだわ。自分の力で立ち上がる強さが。私はただ、きっかけを与えただけ・・・)
織絵は銀子の心の変化を、我が事のように嬉しく思うのでした。
三人で縁側に座り、のんびりとお茶をすすっていると、銀子がためらいがちに織絵に話しかけてきました。
「あの~、織絵さん・・・」
「なぁに?」
織絵が顔を向けたとたん、何故か銀子は顔を真っ赤にして、うつむいてしまいました。
「どうしたの?」
「あ・・・あの、えっと・・・」
「?」
「これ銀子、自分からちゃんとお願いしなさい」
何も言えない銀子に、源一郎はそう言ったのですが、
「で、でも~」
ますます銀子はうつむいてしまうでした。
「仕方ないのう」
源一郎がそう言って笑うと、訳が分からず首を傾げている織絵にこう言うのでした。
「実はの、銀子から織絵さんに、一つお願いがあるそうなんじゃ」
「何でしょう?」
「織絵さんに、武術を教えてもらいたいそうなんじゃ」
「銀子ちゃんに、武術を・・・?」
源一郎がうなずくと、銀子もようやく顔を上げました。
「織絵さんが、練習してるのを見て、カッコイイなって・・・。それで・・・あたしも、織絵さんみたいになりたいって、思ったんです・・・。それと・・」
「つまり、弟子になりたいってこと?」
もうひとつ、何かを言いかけた銀子でしたが、織絵の問いに、またうなずきます。
「・・・・・・・・・」
織絵は、何故か考えこんでしまいました。
(弟子・・・か。弟子と言えば・・・)
その様子に、祖父と孫娘は顔を見合わせます。
(今、あの娘はどうしているだろう・・・)
織絵が自分の考えに没頭していると、
「ダメ、ですか・・・?」
と言う声がしました。その声にはっと我に返ると、銀子が不安そうにこちらを見ています。
「ワシからもお願いします。この子に、武術を教えてやってくれませんか。これ程真剣な目をした銀子は、今まで見た事がありませんのでな」
そう言う源一郎も、真剣な顔をしています。
「それに、織絵さんになら、安心して任せられると思うのです」
織絵は目を閉じると、もう一度考え込みました。
(弟子・・・。私の・・・)
源一郎と銀子は、固唾をのんで織絵の様子を見守ります。
やがて、織絵が目を開くと、微笑みながらうなずきました。
「良いわよ!」
それを聞いて、銀子と源一郎は顔を輝かせました。
「本当ですか!?」
「えぇ」
「やったー!!」
銀子は跳び上がって喜びをあらわにし、源一郎は孫のそんな姿に目を細めました。
「銀子ちゃんたら、そんなに喜んで」
「だって、嬉しいんだもん」
三人は笑っていましたが、織絵は急に真顔になりました。
「だけど、教えるからにはビシビシ行くわよ。覚悟は良い?」
その言葉に銀子は一瞬驚いたようでしたが、すぐに真剣な顔になると、
「はい!よろしくお願いします!」
深々と礼をしました。
「うむ!その意気や良し!!早速、修行を付けてもらいなさい!!」
源一郎が力強くそう言いました。彼の体からは、激しい熱気がほとばしっているかのようです。
「いや、急にはとても・・・」
「そうですかの?善は急げと申しますし」
「やはり、大切な銀子ちゃんに教えるのですから、きちんと計画を立てて、無理のないようにしませんと・・・」
「あ、あたしは平気です!!」
「いや、あの、銀子ちゃんも落ち着いてね」
すっかり熱くなっている二人に気圧されながらも、織絵は内心、羨ましく思いました。
(やっぱり家族ね。熱血漢な所が、とても似ているわ・・・。私の家族は・・・)
「織絵さん、どうしたんですか?」
「いえ、別に・・・」
「?」
「それでね、銀子ちゃん・・・、いや、銀子」
「は、はい!」
「明日から修行を始めるわ。もう一度聞くけど、覚悟は良いわね?」
「はい!よろしくお願いします!!」
「え?弟子になった?あんたが?」
部活から帰った琴子は、銀子の弟子入りの話を聞いて、驚きの声を上げました。
「大丈夫なの?あんた、弱虫のくせに」
「弱虫じゃないよ!!」
銀子はむきになって言い返します。
「あたし、弱虫じゃないもん!織絵さんに強くしてもらうんだもん!!」
それを聞いて、弥生と一緒に夕飯の支度をしていた織絵は、くすくすと笑いました。
「琴子ちゃん、そんな事言わないで。本当の銀子は、元気で明るい子よ」
「たしかに、以前よりは明るくなりましたけど・・・」
「それと銀子。私に強くしてもらうんじゃなくて、自分の力で強くなるの。それを忘れてはダメよ」
「は、はい!」
三人のやり取りを見て、弥生と源一郎は楽しそうにしています。
「織絵さんが来てくれたおかげで、我が家はにぎやかになったわね」
「本当じゃのう」
「さあ、ご飯が出来たわよ。沢山食べてね」
「は~い」
五人がテーブルに着くと、全員が手を合わせ、
「いただきます!」
いっせいに言うと、食事を始めました。
(しかし、これは・・・)
織絵は、自分の目の前にある料理―今晩のメニューはカレーライスです―を見て絶句しました。何故なら、それは頭に『超』が着く程の大盛りで、おそらくは、成人男子でも完食出来ないのではないかと思われる程の量だったのです。しかし、燻士家の人々もわりと大盛りで、弥生も夕飯を作りながら、
「お義父さんはもちろんだけど、琴子も銀子もカレーは好きだから、軽く3杯はおかわりするのよ」
と、平然と言っていました。
(だからって、この量は何なんだろう・・・?)
織絵は、大盛りチャーハンを軽く平らげた時と、大量のようかんを完食した時の事を思い出していました。
(けど、チャーハンはとても美味しかった上に久しぶりのまともな食事だったし、ようかんも、断ったら気を悪くすると思ったからだし・・・。やっぱり私、大食い女だと思われてるのかしら・・・?)
織絵が、カレーライスを前に苦悩(?)していると、
「あら?織絵さん、カレーお嫌いでした?」
弥生が心配そうに尋ねて来ました。
「いえ!そんな事は・・・」
あわてて否定すると、織絵はカレーライスを食べ始めました。
「とっても美味しいですよ」
「良かった。まだありますから、遠慮無くおかわりして下さいね」
弥生にそう言われて、
(無理ですってば!これだって全部、食べ切れないかもしれないし・・・)
織絵はそう思いながら食事を続けました。
それから数分後・・・。
(やっぱり、全部食べちゃった・・・)
織絵のカレーライスは、跡形も無く彼女の胃袋に収まっていました。
「織絵さんすごーい!」
琴子は驚きの声を上げます。
「私が一皿食べ終わるのと、ほぼ同時に食べ終わってましたよね?」
「あたしも~」
銀子も、ようやく2杯目を食べようとしている所です。
「いや~、いつ見ても織絵さんは良い食べっぷりですのう!」
「織絵さん、おかわりいかがですか?」
「いえ!もうおなかいっぱいで・・・」
弥生の申し出を、織絵はあわてて断ります。
「そう?もしかして、遠慮してません?」
「いえいえ!ごちそうさまでした」
手を合わせて織絵は食事を終えましたが、
(私って、本当に大食いだったのね。しかも、まだ食べられそうな気がする・・・)
自分の意外な食欲に、驚くと同時に呆れてしまう織絵でした。
翌朝、銀子の部屋にジャージ姿の織絵が入ってきました。
「銀子、起きなさい。銀子!」
「もう食べられにゃい・・・」
「何を寝ぼけているの?ほら、さっさと起きなさい!」
銀子はのそりと上体を起こすと、大きくあくびをし、眠そうに目をこすりました。
「ん~。何ですかぁ・・・?」
「何ですかじゃないでしょう。今からランニングに行くから、早く着替えなさい」
織絵は、厳しい口調で命じてきます。
「今、何時ですか・・・?って、まだ5時じゃないですか!?」
枕元の時計を見て、銀子は目を丸くします。
「それに、今日は日曜日ですよ」
不満そうに訴える銀子でしたが、織絵は、
「それがどうしたの?だいたい今は夏休みでしょう?修行に、土日祝日は関係ないのよ」
と、取り合ってくれません。
「さあ!早く顔を洗って、体操着に着替えなさい!!」
「は、は~い・・・」
銀子は、急に厳しくなった織絵に戸惑いを隠せませんでした。
二人が町内を一周して帰って来ると、弥生が出迎えてくれました。
「おかえりなさい。朝ごはん出来てますよ」
「すいません、こんな朝早くに」
「いつも琴子の朝練の為に、早めに作ってるんだから、気にしなくて良いのよ」
「そうですか。ありがとうございます」
「さぁ、手を洗って、うがいをしてらっしゃい。銀子もよ」
弥生が織絵の後に向かって声をかけると、
「は・・・い・・・」
汗だくになって地面にへたり込み、ゼイゼイ言っている銀子がいました。
「全く、運動不足も良いとこね」
ため息まじりにそう言う織絵はと言うと、全く息を乱してはいません
「これじゃ、先が思いやられるわ」
「す・・・いま・・・せん・・・」
二人が走った距離は約4キロほど。走り慣れた人間にとっては大した距離ではないのでしょうが、銀子には相当こたえたようです。
「まあ良いわ。とりえず、朝ごはんをいただきましょう」
織絵はそう言うと、銀子にタオルを手渡しました。
「早く汗を拭きなさい。体を冷やすと、これからの修行に障るわ」
「これからって、まさか・・・?」
そのまさかでした。織絵は淡々とした口調でこう言いました。
「今日一日、修業するわよ」
「えぇ~~~~~~~~!!」
「何なのその顔は?当然でしょ。それに今朝も言ったけど、修行に土日祝日は関係無いのよ。むしろ、学校の無い日は、自由に時間を使えるから貴重なのよ」
そう言うと、織絵はさっさと家に上がってしまいました。後に残された銀子は、救いを求めるように弥生に目を向けます。弥生は肩をすくめると、
「自分で決めた事なんだから、最後までやり遂げなさいね」
そう言って、やはり家に入ってしまいました。
「そ、そんなぁ~~~~~~~~~」
銀子は初日早々、弟子入りした事を後悔し始めていました・・・。
朝食の後、30分ほど休憩をとると、二人は燻士家の庭に出て修行を再開しました。
「まずは腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット、それぞれ30回ずつ。始め!」
その命令に、銀子は何か言いたそうでしたが、織絵の有無を言わさぬ迫力に何も言えず、仕方なしに腕立て伏せを始めました。
しかし、
「ダメだぁ~~~~~~」
まだ10回もしていない内に、銀子は力尽き、地面に突っ伏してしまいました。
「織絵さん・・・もう、できませ~ん」
情けない声を上げる銀子に、織絵の𠮟咤が飛びます。
「出来ないじゃないわよ!それと、私の事は『先生』と呼びなさい!」
「すいません・・・」
銀子が身を起こすと、すかさず織絵は命じます。
「誰が止めて良いと言ったの!?最後までやりなさい!!」
「え~!?だってもう・・・」
「だってじゃないわよ。30回やりなさい!」
「・・・・・・」
「や~り~な~さ~い!」
厳しい目をした織絵に命じられ、銀子は泣きそうな顔をしながら、腕立て伏せを再開しました。しかし、すぐに力尽きてしまいます。仕方が無いので、腹筋、背筋、スクワットとやらせたのですが、どれも目標回数には至りませんでした。
「もう、ダメ・・・」
ヘナヘナと座り込んでしまった銀子を見て、織絵はため息つきました。
「本当にもう、だらしないわね」
「す、すいませ~ん・・・」
銀子はそう言うのが精いっぱいです。
「あなたは基礎体力がなってないのよ。こんな事じゃ、武術を教えるなんて出来ないわ」
「すいません・・・」
「まったく・・・」
呆れつつも、織絵は仕方無いとも思っていました。
(今まで、スポーツをほとんどやらなかったらしいから、仕方ないわね・・・)
銀子は、確かに同年代の子と比べると、体格は恵まれています。だからと言って、何もスポーツをしていないのでは、体力がある訳がありません。腕立て伏せ等をやらせたのも、今の銀子にどれ位の体力があるのかを、見極めるためでした。
(これは、一から鍛え直さないといけないわね。でも、決して甘やかしたりはしないわ、銀子のためにも!)
織絵は一人うなずくと、まだへたり込んでいる銀子に命じました。
「何をいつまで座っているの?さあ、またランニングに行くわよ!」
「は、はい織・・・、先生」
銀子はあわてて立ち上がると、もう外へ走り出している織絵の後を追いました。
「ただいま~って、あんたどうしたのよ?」
夕方、部活から帰って来た琴子が家に入ると、居間でのびている銀子を発見しました。
「うぅ・・・。疲れたよ~」
「疲れた?あ、そうか。織絵さんに弟子入りしたんだっけ。それで、こんなになっちゃったんだ。アハハ」
やっぱり、と言うような感じで琴子が笑うと、銀子は唇を尖らせました。
「何よ!人がこんなに苦しんでるのに~」
それに対して、琴子はまた笑いました。
「あのねぇ、苦しいのは当たり前でしょ?何かに挑戦するのはいつも苦しいし、辛いものなのよ」
そう言って、自分の部屋へ行こうとした琴子は、一度だけ妹の方へ振り返ると、
「でもね、苦しみを乗り越えて、何かをやり遂げた時って、本当に嬉しいし、自分を誇らしく思えるんだよ」
そう言い残して、2階へと上がって行きました。
「そんなの、分かってるよ・・・」
後に残された銀子は、しばらく姉の言った言葉の意味を考えていました。
琴子は、小学生の時にバスケを始め、中学一年生の時には既に、レギュラーの地位を獲得していました。現在、琴子は高校のバスケ部のキャプテンであり、エースでもあります。
しかし、バスケを始めたころの彼女は、あまり目立った選手ではありませんでした。大会にも出してもらえず、チームメイトが大会で活躍しているのを、ただ応援するだけの日々が続いたのです。
それが悔しかったのか、彼女は人の何倍も努力し、徐々に力を付けて行き、ついにはエースと呼ばれるまでになったのです。それらを経験しているからこそ、琴子の言葉には、確かな重みがありました。
「だけど・・・、あたしはお姉ちゃんとは違うよ・・・。お姉ちゃんみたいには、なれないよ・・・」
銀子は天井を見上げながら、そうつぶやきます。その目には、いつしか涙が滲んでいました。
「やっぱり、あたしは何をやってもダメなのかなぁ・・・?」
銀子は、ゆっくりと身を起こしました。疲労のため、自分の体が鉛のように重く感じられます。明日はきっと、筋肉痛になってしまうでしょう。そう思うと、まるで自分が以前の自分に戻ってしまったような気がして、銀子は尚更、自分が情けなくなってきました。
「やっぱり、ダメだなぁ、あたしって・・・」
銀子は、テレビの台になっている棚の中から、一本のビデオテープを出しました。それは、銀子がいつも見ていたアニメで、パッケージには『超鋼戦士ガイアースvol,1』とタイトルが書かれています。そのビデオを、銀子はデッキに入れました。
やがて、テレビにアニメが映し出されました。主人公の活躍を、膝を抱えながら見ていた銀子は、心の中でつぶやきました。
(あたしも、こうなりたかったな・・・)
銀子はこのアニメだけでなく、あらゆるアニメや、特撮ヒーロー番組のファンでもありました。強く、優しく、勇敢で、どんな困難にもくじけないヒーロー。それは、銀子にとって憧れであり、それと共に、届くはずの無い幻想でもありました。
(でも、いつかはこんな風に強くなりたい。強くなって、そして・・・)
銀子は、拳をぎゅっと握りしめます。
(そして・・・)
「あれ?またソレ見てるの?」
振り返ると、部屋着に着替えた琴子が立っています。
「あんたも、本当に飽きないわね」
「だって、好きなんだもの・・・」
「・・・・・・」
「好きなものは好きなんだから、しょうがないじゃない・・・」
琴子は肩をすくめると、次に、気が付いたように銀子に尋ねました。
「そう言えば、みんなどこ行ったの?」
「お祖父ちゃんは、お医者さんの所へ将棋を指しに。お母さんと織絵先生は、一緒にお買い物・・・」
そっけなく答える銀子に、琴子は少し困ったような顔で笑いました。
「なんだかさぁ、あんた、元に戻っちゃったみたいね?」
「!!」
「織絵さんと仲良くなって、せっかく明るくなれたのに・・・」
「・・・・・・」
「このまま、また今までの自分に戻っちゃうのって、ちょっと勿体なくない?」
琴子の言葉を受けて、銀子は黙り込んでしまいました。
「ねぇ、何であんたは織絵さんの弟子になりたいと思ったの?」
「・・・・・・」
「多分、強くなりたいと思ったからでしょうけど、それじゃ、どうして強くなりたいと思ったの?」
「・・・・・・」
黙って何も答えない妹に、以前の琴子ならば「はっきりしなさいよ!!」と怒鳴りつけていた事でしょう。しかし、織絵との出会いが、琴子の心にも少なからず変化を与えていました。今、銀子は心の中で自問自答しているのだと、琴子には何と無く分かります。だから彼女は、静かに、妹の返答を待っていました。
そして不意に、銀子が口を開きました。
「・・・それは・・・」
「うん」
琴子は、静かに次の言葉を待ちます。
「強くなって、そして・・・」
「・・・・・・」
「そして、いつかお父さんを・・・捜しに行きたいから・・・」
「そう」
琴子は、銀子の言葉に優しく微笑みました。
「だったら、答えはカンタンじゃない」
「え?」
「出来るまで、あきらめずに頑張れば良いのよ」
銀子の顔に、不満げな表情が浮かびます。
「何がカンタンよぉ。それが一番難しいんじゃないのよ・・・」
「そうかしら?」
琴子は平然とした顔をしています。
「出来る事からコツコツと、地道に、出来るまで、決してあきらめずに続ける事。それが成長するための秘訣よ」
「出来る事から・・・?」
「そう。織絵さんも、出来ない事をしろって言ってはいないんじゃない?」
「うん。腕立てとか腹筋とか・・・」
「そんなの、毎日続けていれば、徐々に回数は増やしていけるわよ。私なんて、最初は腕立て10回も出来なかったんだから」
「え!?それ本当!?」
「本当よ。多分、今のあんたとどっこいだったんじゃないかな?」
姉の琴子の事を、銀子はずっと、スポーツの才能に恵まれている天才だと思っていました。しかしそれは、琴子自身の努力があったからであり、決して才能だけによるものではなかったのです。
「だからさ、あきらめないでもう少し頑張ってみなよ。努力は決して、自分を裏切ったりしないんだから」
「・・・うん・・・」
琴子の励ましを受けて、銀子はやる気を取り戻してくれたようです。
(だけど、こんなに簡単に立ち直るなんて、この子も案外、単純なのね。まぁ、私の妹だから当然か・・・)
琴子は呆れつつも、笑顔を浮かべている妹を見て、何だか自分も嬉しくなってきました。その時、「ただいま~」弥生と織絵が帰ってきました。二人とも、沢山の荷物を抱えています。
「おかえりなさ~い」
琴子と、すっかり元気になった銀子が二人を出迎えます。
「お腹すいたでしょ?すぐご飯にするから」
「今日は何にするの?」
「レバニラ炒めよ」
「よっしゃぁ!」
好物の名を聞いて、琴子は大袈裟にガッツポーズをきめて喜びました。
「まったく、この子ったら・・・」
笑いながら、弥生は台所へと向かいます。その母の後を、琴子は小走りで追いました。
「あ、手伝うよ」
「良いの?部活で疲れてるんじゃないの?」
「平気平気!」
そんな親子の会話を、織絵は微笑ましく見ていましたが、銀子が真剣な顔をして自分を見上げている事に気付きました。
「どうしたの?」
銀子は、何かを決意したかのように強くうなずくと、織絵の目を真っすぐに見つめて話し始めました。
「先生・・・、あたしは体力も、才能もありません・・・。正直言って、根性もありません・・・。先生がやれって言った事の半分も出来なくて、そのせいで、先生を怒らせる事があるかもしれません・・・。
でも、あたし、出来るようになるまで頑張ります!最初はダメでも、出来る事からコツコツと努力して、時間はかかっても出来るようになります!絶対にあきらめずにやり通します。だから・・・、だから、これからも、よろしくお願いします!!」
銀子は腰を90度に曲げて、深々と頭を下げました。
不器用な銀子の言葉に、しかし、真っすぐな心意気を感じた織絵は、胸に熱いものが込み上げて来るのを抑えられませんでした。ふと、織絵が顔を上げると、台所から弥生と琴子が顔を出してこちらを見ています。琴子と目が合うと、彼女は少し照れたように笑いました。全てを察した織絵は、
(琴子ちゃん、ありがとう・・・)
心の中で礼を言うと、まだ頭を下げたままの銀子に命じます。
「顔を上げなさい」
「は、はい!」
銀子はすぐに直立不動の体勢になりました。
「一つだけ言っておくわ・・・」
「・・・・・・」
「今言った言葉を、決して忘れないでね」
「はい!」
銀子の力強い返事に、織絵は思わず微笑んでしまいましたが、すぐに表情を改めると、
「体長はどう?明日の修行に差し障りはないかしら?」
飽くまで厳しい態度を崩さぬように、そう尋ねます。それに対して銀子は、
「へっちゃらです!!」
と、拳を突き上げるように返事をしました。その姿が、先程の琴子のガッツポーズに似ている気がして、織絵は思わず吹き出しそうになります。
「ぷっ・・・。そう?なら、今日は沢山食べて、ゆっくり寝て、明日に備えなさい」
「はい!」
必死に笑いをこらえている織絵に、銀子は気付いていませんでした。
その銀子は、やはり夕食の手伝いをするために、台所へと向かいます。弥生と琴子はすでに調理に入っており、銀子は食器を用意していました。疲れはまだ残っているようですが、その動きは先程と違ってキビキビとしています。
(頑張っているわね銀子。タカユキにも、こんな子供時代があったのかしら?)
夕食の用意が終わる頃には源一郎も帰宅し、皆で楽しく食卓を囲みました。
「銀子、今日は織絵さんに鍛えてもらったんじゃろう?どうだった?」
「うん、ばっちりだよ!」
源一郎の問いに元気に答える銀子に、
「嘘おっしゃい。完全にへばっていたじゃないの」
織絵は呆れて言いましたが、
「確かにそうだったけど、明日はもっと頑張りますよぉ!!」
銀子は唇を尖らせてそう言いました。源一郎は「わはははっ」と笑うと、
「その通りじゃ。今日よりも明日、少しでも成長しようとする気持ちが大切なんじゃ。ワシも虎太郎も、そうやって強くなってきたんじゃからな。
虎太郎も子供の頃は体が弱く、ワシも女房も随分と心配したものじゃが、ある時、自分から体を鍛えたいと言い出してきてな。そこで、ワシが柔道と剣道を教えてやったんじゃが、最初はすぐに疲れてしまって修行にならんかった。
もう止めたいと、弱音を吐いている虎太郎に対してワシは、『それでお前は良いのか?自分を成長させてあげられるのは、所詮は自分だけなんだぞ』と言ってやった。虎太郎はその言葉から、何かを感じてくれたのか、それからは弱音を吐くこと無く、修行にせいを出し、メキメキと実力と体力を付いていったんじゃよ。その後は、自分で合気道や中国拳法まで習いだしてな。見違えるほど逞しくなって行ったんじゃ」
そう銀子に語って聞かせました。
「そうなんだ。お父さんも、あたしと同じだったんだ・・・」
「ほらね、楽して強くなった人はいなのよ」
琴子がそう言うと、弥生と織絵もうなずきます。
銀子から見て、虎太郎は『質実剛健』を絵に描いたような人物でした。その父の意外な子供時代を知って、銀子は驚くと同時に嬉しさも感じていました。
「あたしも頑張れば、お父さんや先生やヒーローみたいに、強くなれるかも・・・」
「そうね。その為にも、明日からまた、ビシビシ行くわよ。覚悟なさい」
そんな事を言いながらも、織絵の表情は優しげなものでした。銀子がやる気を出してくれたのが、とても嬉しいのです。
「しかしまぁ、何だ、強くなりすぎて、嫁の貰い手が無くなるのは困ってしまうがのぅ」
源一郎のその言葉を聞いて、食卓に笑いの渦が巻き起こるのでした。
「う~ん!良く寝たぁ!」
翌朝、銀子はランニングに行くために早起きをしました。筋肉痛が少しありましたが、体を動かすのに支障はなさそうですし、何より気力が充実しています。銀子はベッドから下りると大きくのびをし、カーテンを開けました。白み始めた空が美しく見えて、銀子は晴れやかな気持ちになります。
「おはよう、お父さん」
父の写真に挨拶するのも、もちろん忘れません。
「さってと、早く先生の所に行って、やる気があるんだって所を見せなくちゃ!」
銀子はジャージに手早く着替えると、勢い良くドアを開けました。その途端、
ガンッ!!
何かがドアにぶつかる音がしたのですが、銀子は気にせず、廊下に跳び出します。
「よしよし、先生はまだ来てないな。先生を呼びにって・・・、あれ?先生、そんな所で何してるんですか?」
何故か、扉の陰に織絵がいます。彼女は両手で顔を押さえ、うずくまっていました。
実は、今より少し前、織絵は銀子を起こそうと部屋の前に来ていたのです。彼女がドアをノックしようとした瞬間、扉が勢い良く開き、織絵は扉で鼻を強打してしまったのでした。
「いきなり扉を開ける人がありますか!!」
と、織絵は言いたいのですが、痛みの為に声を出す事が出来ず、不思議そうな顔をして自分を見ている銀子を、涙目になって睨む事しか出来ませんでした。
その日、銀子は織絵から、徹底的にしごかれた事は言うまでもありません・・・。
そんな、騒がしくも穏やかな日々が過ぎて行き、織絵が燻士家に来てから、2年の月日が経ちました。
銀子は小学5年生に、琴子は大学の体育学部の2年生になりました。弥生と源一郎は、相変わらず元気に暮らしています。
織絵はと言うと、今でも燻士家の一員として仲良く暮らしていて、銀子との師弟関係も続いています。
また、この2年の間に、織絵の身にも、色んな出来事がありました。容姿の美しい彼女の評判を聞いて、モデル事務所や芸能プロダクションから、スカウトが来た事がありました。それに、彼女に交際を申し込む男性も多数いました。そのほとんどは近隣に住む男性でしたが、中には財閥の御曹司や青年実業家、果ては、有名俳優までいたのです。どうやら、芸能界のスカウトを通じて、織絵の存在を知ったようでした。
しかし織絵は、その全てを丁重に断ってしまいました。
「もったいない。良い話しじゃないの」
「そうですよ。セレブの仲間入り出来る、良いチャンスだったのに」
仲良くなった近所の奥様方から、そう言われても、
「私には、銀子を鍛えるという約束があります。それに、私の想い人はタカユキだけです。彼以外の男性を、愛する事は出来そうにありません・・・」
織絵はそう答え、少し、淋しそうに笑うのでした。
そんなある日のこと、銀子はいつものように織絵に修行を付けてもらっていました。銀子はその手に木刀を握り、庭に真っすぐに埋められた丸太に、左右交互に打ち込みを繰り返しています。丸太は高さが1・5メートル、太さは20センチ程で、それに銀子は、毎日千回、打ち込みを行っていました。
千回終えると、銀子は汗でびっしょりになりました。しかし、彼女はその場にしっかりと立ち、呼吸を整えています。修行が終わるたびにへたりこんでいた、初めの頃とは大違いでした。タオルで汗を拭きながら、銀子は感心したように、師匠である織絵に尋ねました。
「先生って、素手の格闘技だけじゃないんですね」
当初は突きや蹴り、投げ技や関節技などを教えてくれていた織絵でしたが、銀子に体力が付いてくると、剣術や棒術、薙刀、更には槍術まで修行の中に組み込んで来ました。
「自慢じゃないけど、私は武芸百般に精通しているのよ。その内、あなたには手裏剣術も教えてあげるわ」
「手裏剣?先生って、本当に忍者みたいですね」
「忍者?そうね、それに近いかもしれないわね・・・」
遠い目をしてそうつぶやく織絵に、銀子は今まで気になっていた事を、思い切って尋ねてみる事にしました。
「先生、ちょっと、聞いて良いですか?」
「何を?」
「先生って、戦った事って、あります?」
「戦ったって、どう言う意味・・・?」
「つまり、実戦ってことです」
早い話、銀子は、織絵の武勇伝を聞きたかったのです。
織絵は、ほとんど自分の過去を語ろうとしません。源一郎と弥生も、織絵に気を使ってか、その事には触れないようにしているようです。でも、まだ子供の銀子にしてみれば、憧れの織絵の過去、特に武勇伝に興味が湧かないはずがありません。それでも、家族の目があるので、今までは我慢していたのです。
でも、最近の織絵は自分の成長を認め始めているように感じますし、長く一緒に暮らしているので気安さも生じてきます。銀子の心に、「今なら大丈夫だよね」と言う気持ちが芽生えるのも無理はありませんでした。
「織絵さんの武勇伝を、聞かせてくれませんか?」
「ぶ、武勇伝・・・?」
「はい!お願いします!!」
織絵は戸惑いの表情を浮かべています。
「あまり、聞いても愉快な話しじゃないと思うけど」
「そんな事ありません!きっと、参考になると思います!!」
(参考ねぇ・・・)
銀子が話を聞きたがるのは、明らかに興味本位からだとは分かっています。しかし、銀子の目は期待にキラキラと輝いていて、その目を見ると、織絵は何故か切なくなってしまいました。結局、「少しだけなら」と前置きして、織絵は銀子の願いを聞く事にしました。
「でも、武勇伝って、一体何を話せば良いのかしら・・・?」
「そうですね~。例えば、あいつは強かったとか、あの時のバトルは激しかった、とかですかね?」
「強かった相手?」
「そうです。誰か、強かった人っていましたか?」
「タカユキは、本当に強かったわね」
「タカユキさんとも、戦ったことがあったんですか?組手とか?」
「え?えぇ。結局私は、彼に一度も勝てなかったわ」
「それは、相手が男の人だからですよ。女の人なら、織絵さんに敵う人なんているわけ無いですよ~」
銀子は本気でそう言いましたが、
「そうでもないわよ。私と互角、もしくはそれ以上の実力を持った女性もいたわ」
そう言って、織絵は肩をすくめます。
「嘘ですよ~。そんなわけが・・・って、マジですか?」
「マジで」
織絵は、真面目な顔でうなずきます。
「それ、どんな人ですか?」
「ジャヒー・・・」
そうつぶやく織絵の顔には、どこか懐かしむような表情が浮かんでいます。
「ジャヒー?その人って、外国人ですか?」
「そうね。少なくとも、日本人ではないわ」
「どこの国の人ですか?」
「何て言ったらいいのかしら・・・?西洋人の容貌をしていたけど・・・」
「その人って、どれくらい強かったんですか?」
「とっても強かったわよ」
「そんなにですか?」
「えぇ。銀子、レイピアって知ってる?」
「レイピア?確か、フェンシングみたいな細身の剣の事ですよね?」
「そう。彼女はそれを、両手で一本ずつ持って巧みに操る二刀流の剣士だった。見た目は麗しい美少女なのに、それはそれは、鬼のように強かったんだから」
「そ、そうですか(美少女で鬼のようにって想像もつかないな・・・)」
「でも結局、彼女とは決着をつけられなかったわ・・・」
織絵の言葉には、まるで、親友を讃えているかのような響きがあります。
「それにね・・・」
「?」
「ジャヒーもどうやら、タカユキを愛していたみたいなの・・・」
「え!?そうなんですか!!」
「彼女はそんな事、一言も言わなかったけど、私にはそれが、何となく分かったの・・・」
そう言って、織絵は切なげに溜め息をつきました。
「焼き餅とか、焼かなかったんですか?」
「私が?どうして?」
銀子の問いに、織絵はキョトンとします。
「だって、そのジャヒーさんって、言わば恋敵なんですよね?だったら、タカユキさんを盗られちゃうかもって、思わなかったんですか?」
「タカユキを、信じていたもの。それにね・・・」
「?」
「彼女は立場上、その想いを、隠さなければならなかったの・・・」
「どうしてですか?」
「それは・・・色々と、ね?」
「色々と、ですか」
銀子は、話をはぐらかされたのは分かりましたが、その〝ジャヒーの立場〟について、あまり深く追求してはいけないのだと、何となく思いました。代わりに、別の気になっていた事を尋ねます。
「じゃぁ、ジャヒーさんの事、もしかして、先生は嫌っていたんですか?」
「・・・いいえ・・・」
銀子の問いに、織絵は静かに首を振ります。
「むしろその逆。彼女には、親近感を覚えたわ。自らの立場と、想いとの板挟みに悩んでいた彼女。報われない愛に苦しんでいた彼女は、私の合わせ鏡のように思えたわ・・・」
(報われない愛?何で?先生は、タカユキさんと恋人同士だったはずじゃ・・・)
銀子には、織絵の言っている事の意味が、全く分かりませんでした。銀子は織絵の顔を不思議そうに見つめています。それに気付いた織絵は少し慌てて、
「と、言う訳で、私とジャヒーとは似た者同士の『友』って関係だったのよ」
と、言いました。織絵の様子に、少し違和感を覚えた銀子でしたが、ジャヒーの事を織絵のかつてのライバルで、そして、親友でもあったのだろうと思いました。
「へ~。あたしもいつか、そのジャヒーさんに会ってみたいな~」
「・・・それは、難しいわね・・・」
そうつぶやく織絵は、何故か苦笑しています。
「他には?他に、強い女の人っていなかったんですか!?」
いつの間にか、話しは女性限定になっています。
「そうね。かつて、清海(キヨミ)って仲間がいたわね。彼女も強かったけど、どちらかと言うと、彼女は忍びの技に長けていたわ」
「忍びの技?それって、忍者って事じゃないですか!」
「そ、そうとも言うわね・・・」
銀子は、神妙な顔つきで織絵をまじまじと見つめました。
「ど、どうしたの銀子?私の顔に何か付いてる?」
「織絵先生って・・・もしかして・・・」
「!!」
何故か、織絵は焦りました。
(いけない、話し過ぎたかしら?まさか、この子・・・)
「もしかして、忍者オタクなんですか?」
織絵は盛大にズッコケました。
「おぉ~!!先生はズッコケかたも華麗なんですね~!!」
妙な事に感心している銀子に、
「そんなワケあるか~!!」
と、織絵は苦笑いしながら怒鳴りました。
「あなたと一緒にしないでちょうだい!」
「良いじゃないですか。オタクはその道の求道者なんですから、何も恥ずかしがる事は無いですよ~」
「いや、あ、あのね・・・」
一人納得している銀子に、織絵が呆れていると、
「なんだか楽しそうですね」
大学から帰って来た琴子が、自転車を押しながら庭にやって来ました。
「あ、琴子ちゃんお帰りなさい」
「お姉ちゃんお帰り~。あのね、先生って忍者オタクなんだよ」
「は?忍者オタク?」
「だからっ!違うって言ってるでしょ!!」
怪訝な顔をする琴子に、銀子は先程聞いた織絵の話を語って聞かせました。それを聞いた琴子は、妹のデリカシーを欠いた行為に溜め息をきます。
「あんたねぇ、人の過去を詮索するのは良くないわよ。お祖父ちゃんもお母さんも、織絵さんの過去を、根掘り葉掘り聞いたりしないでしょう?」
「だって~」
「だってじゃないでしょう。ごめんなさい、織絵さん。後でこの子はきつく叱っておきますから」
申し訳なさそうに謝る琴子に、織絵は優しく微笑みました。
「良いのよ。聞かれて困る様な事は話していないから」
「でも・・・」
「それに、あまり秘密が多いと、何かやましい事でもあるんじゃないかって、勘ぐられてしまうかもしれないじゃない?」
「そうですか?まぁ、織絵さんが良いなら・・・」
琴子が安堵していると、銀子が胸を張ってこう言いました。
「あたしは先生の武勇伝を聞いて、何かを学びたっかただけなんだよ」
「なぁに言ってんのよ?単に興味があっただけでしょう?」
さすがは実の姉です。琴子は銀子の気持ちなど、すっかりお見通しでした。
「む~!それなら、あの事先生に話しちゃうんだから!」
銀子が唇を尖らせてそう言うと、何故か琴子は顔を赤くしました。
「な!?や、やめてよ!!」
「あの事?」
織絵はきょとんとした顔で、姉妹を交互に見ます。
「あのね先生、お姉ちゃんはね~」
「やめてよ!言わないでったら!!」
話しをしようとする銀子と、それを阻止しようとする琴子は、やがて追いかけっこを始めました。そんな二人を、織絵は楽しそうに見つめるのでした。
「それで、何が聞きたいの?」
琴子と銀子、そして織絵は、縁側に座ってくつろいでいます。織絵は気さくな態度で、琴子に改めて尋ねました。
「いや、その・・・別に大した事じゃないんで・・・」
琴子は話しを誤魔化そうとしたのですが、
「お姉ちゃんは、タカユキさんの事が聞きたいんですよ」
銀子が代わりに答えてしまいました。
「タカユキの事?」
「ちょ・・・!やめなさいよ!」
再び真っ赤になった琴子が抗議しましたが、銀子は構わず続けます。
「先生とタカユキさんって、どんな恋人同士だったんだろうな~とか、どんなデートしたんだろ~とか、すっごく知りたがってましたよ~」
「あ~ん~た~ね~~~~!!」
琴子は怨みの声を上げましたが、銀子はいたずら小僧のように舌を出します。
「二人がどうして出会ったのか、それも気にしてたよね~」
「ぎ~ん~こ~~~~~~~~!!」
「そんな事が知りたかったの?」
織絵は苦笑しています。
「あ!その、良いんです。どうか、忘れてください・・・」
そして琴子は、あわてて織絵に頭を下げました。
「本当にごめんなさい。織絵さんの気持ちも考えないで・・・」
「琴子ちゃん・・・」
「どうしたのお姉ちゃん?」
「子供は黙ってなさい!!」
琴子に怒鳴られて、銀子は頬を膨らませます。
「何よ~。自分だって、親のスネ齧ってる子供のくせに」
「何ですって!?生意気な事言うんじゃないわよ!!」
「だって、お母さんがそう言ってたもん」
「むぅ・・・!」
「まあまあ二人とも」
このままではケンカになりそうだったので、織絵は仲裁に入ります。
「つまり、琴子ちゃんも、私の過去が知りたいってわけね?」
「え?いえ、そんな・・・」
「恋に恋するお年頃か・・・」
「え?」
「ううん。何でもないわ」
「?」
「?」
さっきまで言い合いをしていたのも忘れて、姉妹は不思議そうに顔を見合わせました。
「私がタカユキと出会ったのは・・・」
織絵は、青空を見上げると、静かに語り始めました。
「随分と昔のようでもあり、ついこの間のような気もするわね・・・。
あの頃の私は、とても深い苦しみに囚われていて、この世を恨んでいたわ。そんな時、タカユキに出会ったの。強い心と優しい心、そして強靭な力を秘めた彼。
でも、最初の頃は、私は彼を認めてはいなかった。彼の言う事はきれい事にしか聞こえなかったし、彼を憎んですらいたわ。私は彼の全てを否定しようと、何度も挑んでいった。でもその度に、私は自分の無力さを思い知らされた。悔しくて悔しくて、たまらなかった。
そして、これが最後だと自分に言い聞かせて、全力で彼に挑み・・・そして敗れたの。
私は、深い悲しみと絶望に打ちのめされたわ・・・。自分の力はこんなものなのか。私は結局、何も出来ないのかってね・・・。でも、タカユキは嘆く私にこう言ってくれたの。
『お前は無力なんかじゃない。ただ、力の使い道を誤っていただけだ』と。
また、こうも言ってくれたわ。
『人は、幸せになるために産まれてくるんだと俺は信じてる。お前も、きっとそうに違いない。お前が諦めなければ、きっといつか、幸せを掴めるはずだ』
って・・・。
その後、彼と行動を共にするようになった私は、彼の人間としての大きさに魅了されていったわ。そして、いつしか私は彼を、深く愛するようになっていたの・・・」
そこまで言うと、織絵は琴子と銀子に視線を戻しました。二人は黙ってうつむいています。織絵は悲しそうに微笑むと、
「やっぱり、私の話しは、聞いていて愉快なものじゃなかったでしょう・・・?」
と、二人に尋ねました。しかし、姉妹は何も答えません。
「どうしたの二人とも・・・?」
織絵はさすがに不安になって来ました。
「ねえ、本当にどうしたの・・・?」
「・・・織絵さん・・・」
「・・・先生・・・」
姉妹は顔を上げました。その顔を見た織絵は、
「え・・・?」
と、呆気にとられてしまいます。何故なら、琴子と銀子が、泣いていたからです。
「な、何で泣いてるの?泣くような事、私言ってないでしょう?」
「いいえ、泣けます!泣ける話しです!!」
「あたしも、胸に熱いものが込み上げてきちゃいます!!」
「そ、そうかな・・・?」
「タカユキさんと織絵さん、本当に愛し合っていたんですね!!」
「先生も偉いけど、タカユキさんも偉い!一等賞です!!」
「い、一等賞・・・?」
「本当に、素敵な男性だったんでしょうね~」
「うむ、正に清廉潔白!男の中の男であったのだろうのう!」
「いや、それ程でも・・って、えぇっ!?」
いつのまにか、背後には涙ぐむ弥生と源一郎が立っていました。
「お、お二人とも、いつからそこに・・・?」
「タカユキさんが『お前は無力じゃない』って言った辺りから・・・」
「なんと熱い魂を持った青年じゃろうか!虎太郎と良い勝負じゃ!!」
燻士家の人々は織絵の話に感動し、特に琴子と銀子の姉妹は大量の涙を流し、わんわんと泣いていました。
(感動してくれるのは嬉しいけど、こんなに泣かれるとは思わなかったわね・・・)
いつまでも泣いている姉妹を、織絵が何とかなだめる事に成功したのは、それから20分後の事でした・・・。
それからさらに数日後、いつものように織絵は銀子に修行をつけていました。
「拳を内側にひねり込むように撃つべし!!」
「はい!せい!やあ!せい!やあ!」
銀子が拳を突きだすたびに、汗が飛沫となって飛び、それが日の光を浴びてキラキラと輝きます。その輝きがまるで、銀子の清らかな魂を表しているように感じて、織絵の心は喜びに満ち溢れてくるのでした。
(頑張って、銀子!)
そんな二人を、源一郎は自分の書斎の窓から、微笑ましく眺めていました。
大きな樫の木製の机と、文学書や百科事典の並んだ本棚、そして時代がかったステレオが、あまり広いとは言えない部屋を占めています。
源一郎は、机に備え付けられた引き出しを開けました。中には、息子の虎太郎が海外から送ってくれたハガキや手紙、写真が入っています。戦場カメラマンである虎太郎ですが、送ってくる写真は悲惨な戦場のものではなく、美しい風景と、そしてその地に住む人々の笑顔でした。その写真を、次々とアルバムに入れていきます。
源一郎はそれらの写真を見て、
「ふふ、虎太郎らしい、良い写真じゃのう」
思わず目を細めてしまいます。
その時、源一郎の手から一枚の封筒が滑り落ちました。何気なくその封筒を拾い上げると、中に入っている手紙と写真が、半ばまで出ています。
「ふむ・・・?」
その写真には、二人の人物が写っていました。
一人は虎太郎、そしてもう一人は、見知らぬ青年でした。髭に覆われた厳つい虎太郎とは対照的に、その青年は、二枚目の優男でした。しかし、その体は逞しく、胸板の厚い虎太郎にも負けない程です。何かの記念撮影なのでしょうか、二人はお互いに肩を組み、白い歯をむき出しにして、まるで少年のように笑っています。
「この写真、見覚えがあるのう・・・」
そうつぶやくと、源一郎は同封してあった手紙を読んでみました。
『 拝啓 親父どの
元気でやっているか?弥生は元気か?琴子はバスケットを頑張っているか?銀子はもう、歩けるようになったかな?
こちらは、相変わらず戦場を走り回っているよ。毎日、沢山の人が死に、家が壊され、多くの悲しみと絶望がこの国を支配している。
この国では、親を失った子供達までもが、銃を手に戦場で戦わされている。琴子と同い年位の子が、戦って、そして死んで行くんだ。生まれてきた国が違うだけで、どうしてこうも違う運命が待っているんだろうな。いつまでこんな事が続くのかと、本当に悲しくなるよ。おっと、すまない。話が暗くなってしまったな。俺が今回話したいのは、この事じゃないんだ。
実は、俺に新しい友が出来たんだ。一緒に送った写真に写っている、ハンサムな男がそうだ。彼の名は真田隆幸と言って、丁度、俺と同い年なんだぜ』
「真田隆幸?タカユキとな!?」
源一郎は驚きつつも、手紙を読み続けました。
『隆幸は、とてつもなく大きな戦いに身を投じているんだ。でも彼は、金や名誉など一切の見返りを求めずに、人々の為に戦っている。彼のお陰で助かった人も大勢いるんだ。
ある日、どうしてそこまで出来るのか彼に尋ねたら、
「かつて、命を賭して自分を助けてくれた人がいる。俺はただ、その人のようになりたいだけさ」
と、笑って答えてくれた。俺は思ったよ。彼こそ、今の時代に必要な男なんだってな。
親父、俺は、罪無き人々を救うために尽力する彼に協力するつもりだ。今まで以上に危険な目に遭うかもしれないが、彼の仲間達も頼りになる連中だから、どうか心配しないでくれ。
その仲間達も気の良いやつばかりでな、その中に、鉄心と言う僧侶がいるんだ。そいつは絵に描いたような生臭坊主なんだが救世の心を忘れてはいない、真の僧侶と呼ぶに相応しい人物だと俺は思う。
あと、清海っていう女性がいるんだが、彼女の話は止しておくよ。彼女は相当な変わり者なんでな。あ、誤解の無いように言っておくが、彼女とは別に何も無いからな。本当だぞ。
それと、まだ俺は会っていないんだが、隆幸の恋人で織絵さんって言う女性がいるらしい。とても美人で、そして、そうとう腕も立つと言う話しだ。隆幸ののろ気話しを聞いていると、こっちが恥ずかしくなって来るほどだが、本当に二人は愛し合っているんだと分かるよ。
親父、いつか俺は、隆幸と織絵さん、そして仲間達を我が家へ連れて帰るよ。その時は、皆で楽しく酒を酌み交わそうな。きっと、親父も彼らを気に入るはずだ。
それまでは、弥生と琴子、銀子をよろしく頼む。
不出来な息子 虎太郎より』
「何と・・・、タカユキくんは、虎太郎の友じゃったのか・・・。最初に織絵さんからタカユキくんの名を聞いた時、どこかで聞いた名だと思ったが、そうか、この手紙を読んでいたから、タカユキくんの名を憶えておったのか・・・」
源一郎はこの手紙を、他の家族には見せていませんでした。何故なら、『大きな戦い』や、『今まで以上に危険な目に遭うかもしれない』と言う文章が、弥生と、まだ幼い孫娘達に心配をかけるのではないかと思い、ずっと引き出しの中に隠しておき、そして、そのまま忘れてしまっていたのです。
「じゃが、本当にこんな偶然があるものかのう?」
虎太郎の友と、織絵の恋人が同一人物で、しかし織絵は、虎太郎と会った事が無いのか、その存在を知らなかったようです。それなのに、今、織絵は恋人の友、虎太郎の実家に身を寄せているのです。
「不思議な縁も、あるもんじゃのう・・・」
源一郎はそうつぶやくと、窓から織絵を見ました。
「どうですかの、銀子は?」
源一郎は、織絵と銀子の元へやって来ました。正拳突きを繰り返している銀子を、織絵が見守っています。
「やはり血は争えませんね。上達が早いです」
織絵がそう答えると、源一郎は満足気にうなずきました。
「それもこれも、全ては織絵さんの指導があってこそ。感謝しておりますぞ」
「いえ、それよりも、銀子の熱意があるからですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいですのう。まぁ、そのお礼と言ってはなんじゃが・・・」
「?」
「これを、貴女にお渡ししておこうと思いましてな」
そう言って差し出したのは、先程の写真です。それを受け取って、何気なく見た織絵の目は、やがて、驚きに大きく見開かれました。
「タ、タカユキ!?」
「やはり、そうでしたか」
「・・・・・・」
「虎太郎とタカユキくんは、友だったそうです」
「・・・・・・」
「ワシもまさか、こんな偶然があるとは夢にも思いませんでしたわい」
「・・・・・・」
「ならばなおさら、ワシもタカユキくんに会ってみたかったですのう」
「・・・・・・」
「む?どうしたんじゃ、織絵さん?」
「どうしたんですか?」
写真を手にしたまま、何故か織絵は黙って俯いています。源一郎と、それに気付いて動きを止めた銀子は、顔を見合わせて首を傾げました。
「あの、先生・・・?」
銀子は織絵の顔を覗き込みました。
「えっ!?」
銀子は驚きの声を上げました。何故なら、織絵が泣いていたからです。彼女の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちて行きます。
「せ、先生!どうしたんですか!?」
「タカユキくんの写真を見れば、喜んでくれると思ったんですがのう・・・」
思いもかけない織絵の反応に、源一郎と銀子は戸惑いました。特に、織絵の事を無敵で怖いもの知らずと思っていた銀子の驚きは相当なものです。その間にも、織絵の涙は止まる事無く流れて行きます。
「先生が・・・泣いてる・・・」
「織絵さん、すまん!どうか気を悪くせんでくだされ」
すると織絵は・・・、
「い、いいえ・・・。うぅっ!!」
呻くようにそう言うと、そのまま外へと走り出してしまいました。
「織絵さん、どこへ!?」
「先生!?」
織絵の後を追って外へ出た二人でしたが、織絵の姿はすでに、どこにもありませんでした・・・。
燻士家からそう遠くない場所に、小さい空き地があり、そこに、一本のケヤキの木が生えています。源一郎がまだ若かった頃から、ずっとこの町を見守っているかのように、その木はそこにありました。
その木の一本の太い枝に、腰掛けている女性がいました。彼女は膝を抱え、その膝に顔を埋めるようにし、肩を震わせています。
それは織絵でした。
彼女は燻士家から走り出すと、そのまま夢中で走り、気が付くとこの場にいたのです。
「タカユキ・・・」
織絵は、かつて、心から愛した恋人の名を呟きました。
「タカユキ・・・あぁ、タカユキ・・・」
彼女の目からは、止めどなく涙が溢れ、頬を濡らし続けます。
「・・・タカユキ・・・」
彼女はいつしか、幸せだった頃の記憶を思い出していました・・・。
その日、織絵はタカユキと共に、自然豊かな山にドライブに来ていました。二人は静かなせせらぎで、久しぶりの安らぎを得ています。
「織絵、コーヒーが入ったぞ」
「ありがとう」
タカユキからカップを受け取ると、織絵はコーヒーを一口飲みました。ほろ苦い味と共に、幸福感がじんわりと広がり、織絵は自然と微笑んでしまいます。
「ふふ・・・」
「ん?そんなに美味かったか?俺もようやく、お前の好みが分かってきたかな?」
「そうじゃないってば」
勘違いして悦に入っているタカユキを、織絵は呆れつつも、愛おしそうに見つめます。そして二人は、日の光を浴びてきらきらと輝く川面を、ただ眺めていました。語り合わなくとも、共にいるだけで二人は幸せでした。
どれくらい、そうしていたでしょうか、ふいにタカユキが話しかけてきました。
「なぁ、織絵・・・」
「なぁに?」
織絵は川面を見つめたまま、何気なく答えます。
「もしも、もしもだぞ・・・」
「うん」
「この戦いが終わって、そして・・・」
「え?」
タカユキの声にわずかな震えを感じて、織絵は振り向きました。いつもは屈託の無い笑顔のタカユキが、今に限ってひどく真剣な表情をしています。
「どうしたの、タカユキ?」
「そして・・・世の中が、少し平和になったら、その時は・・・」
「・・・・・・」
「俺と、結婚してくれないか!」
「!!」
最愛の恋人からのその言葉は、強い衝撃となって、織絵の心を撃ちました。織絵は最初、頭の中が真っ白になりましたが、やがてその衝撃から覚めると、心の中から喜びが溢れてくるのを、彼女は抑えられませんでした。
「タ、タカユキ・・・」
織絵の目に、涙が溢れていきます。その涙が何を意味するのかを、タカユキは理解し、彼の心にもまた、喜びが溢れてきました。
「織絵・・・」
「タカユキ・・・」
織絵は、恋人の胸の中へ跳び込もうとし、タカユキも、それを受け止めようと両腕を広げます。
しかし・・・。
(あ・・・!)
織絵は、ある事を思い出し、唐突に動きを止めました。その顔から喜びは消え、代わりに、深い悲しみの色が浮かんで行きます。
「織絵?」
「・・・・・・」
織絵はタカユキに背を向けると、大きな岩に腰を下ろしました。
「全く、いつもそうやって、私をからかうんだから・・・」
「違う、からかってなんて・・・」
「冗談も、休み休み言ってよね」
「聞いてくれ、織絵!」
必死に自分の想いを伝えようとするタカユキに、しかし、織絵は背を向けたまま、振り返る事はありませんでした。
「もう、その話しはやめにしましょう」
「織絵、俺は本気でお前の事を・・・!!」
「やめて!!」
織絵は叫びました。まるで、血を吐くかのようなその叫びに、タカユキは声を失います。
「・・・やめて・・・」
次に、弱々しい声でそうつぶやくと、織絵は自分の体を両手で抱き締め、肩を震わせ始めました。
「うっ・・・うぅ・・・」
「織絵・・・」
織絵は嗚咽していました。彼女の瞳を濡らしているのは、悲しみの涙でした。そんな織絵の背中を、タカユキもまた、悲しみに満ちた目で見つめています。
「どうせ、私を置いて・・・いなくなってしまうくせに・・・」
「・・・・・・」
「私を置いて、いってしまうくせに・・・」
彼女の嘆きは、まるで、自らの運命を呪っているかのようです。
「こんなに苦しいなら、悲しいのなら、いっそ・・・」
「・・・・・・」
「こうなったのも、みんな、あなたに会ったせいよ・・・」
「そうか?」
そう言うと、タカユキは織絵を後ろから抱き締めました。織絵はそれを拒む事なく、されるがままにしています。
「俺のせいなら、責任をとらないとな」
タカユキは、いつもの明るい声に戻っています。彼の温かく逞しい腕が、自分を包み込んでくれている事で、織絵は落ち着きを取り戻しました。
「責任って・・・?」
「俺は、どこにもいかない」
タカユキの腕に、力がこもります。
「俺は、いつまでもお前の傍にいる」
「・・・・・・」
「お前を決して、一人にはしない」
「無理よ・・・」
織絵は、震える声でそう言いました。
「そんなの、絶対に無理だわ・・・」
「何とか方法を探すさ」
「もし、その方法が見つからなかったら?」
「ん~と、その時は・・・」
「・・・・・・」
「根性で、何とかする」
織絵は思わず噴き出しました。
「何よそれ?」
「笑うなよ」
「だって・・・」
涙を浮かべたまま笑う織絵の顔を覗き見て、タカユキも笑いました。
「やっぱり、お前の笑顔は最高だな」
「そう?笑顔だけ?」
「いや、お前は美人だから、どこを見ても最高だよ」
真面目くさって答えるタカユキに、再び愛おしさが込み上げてくるのを、織絵は抑えられませんでした。それはタカユキも同じで、織絵を抱き締める腕に、さらに力がこもります。
「織絵」
「なに・・・?」
「俺は、いつまでも、お前と一緒にいる。どこへも行ったりしない・・・」
「・・・・・・」
「俺はいつまでも、お前の傍にいるからな・・・」
「嘘つき・・・」
そうつぶやいた織絵の目から、大粒の涙がまた一つこぼれ落ち、そのまま地面へと落下していきました。
「どこへも行かないって、約束したのに・・・」
丁度その頃、銀子が空き地にやって来ました。織絵を発見した銀子は、大声で呼びかけようとしました。
「せんせ~・・・」
言いかけた時、銀子は、織絵がまだ泣いている事に気付いたのです。
「先生が・・・先生が泣いてる・・・。どうして・・・?」
走り去る前、織絵は泣いていました。でも、それは何かの間違いで、あんなに強い織絵が泣く訳が無いと銀子は思っていたのです。でも現に、織絵は泣いています。そんな彼女の意外な姿に、銀子は信じられない気持ちになりました。泣き続ける織絵の姿は、普段の彼女からは想像もつかないほど、弱々しく見えます。
「ここにおったのか」
後ろから声をかけてきたのは源一郎です。
「お祖父ちゃん、先生が泣いてるよ。どうして?どうして、あんなに強い先生が泣いてるの!?」
不安と戸惑いで自分が泣きそうになりながら、銀子は祖父に尋ねました。源一郎は愛する孫娘の頭を撫でながら、静かに語ります。
「銀子よ、良く聞きなさい。強くなると言う事はな、決して、涙を流さなくなると言う事ではないんじゃよ」
「・・・・・・」
「涙を流すのは、心に弱さがあるからじゃ。じゃが、弱さがあるから、人の痛みが分かるんじゃよ」
「弱さがあるから、痛みが分かる・・・」
源一郎は静かにうなずくと、織絵に目をむけました。
「ワシはな、お前には、織絵さんのように、強く優しく、そして人の痛みの分かる、素敵な女性になって欲しいと思っておるんじゃ」
その時、織絵が木から飛び降りました。泣くだけ泣いて気が済んだのか、その顔には笑みが浮かんでいます。もっとも、その目は真っ赤で、涙がまだ滲んでいました。
「・・・恥ずかしい所を、見られてしまいましたね・・・」
織絵は、申し訳なさそうにそう言いました。
「いやいや、ワシこそ済まなかった。織絵さんの気持ちも考えんで・・・」
源一郎は頭を下げ、何故か銀子も釣られて頭を下げました。そんな二人を、織絵は微笑ましく見つめます。
「どうか、顔を上げてください。私はもう大丈夫ですから。銀子、今日はもうお終いにしましょうね」
「あ、はい!ご指導、ありがとうございました!」
「さて、それでは帰るとしますかの。もうそろそろ夕食の時間じゃ」
そう言って、源一郎は先に歩き出していました。銀子が織絵と話したいだろうと考え、気を使ったのです。源一郎の少し後ろを、若い師弟は並んで歩きました。
「タカユキと銀子のお父さんが、まさか親友だったなんてね・・・」
先に話しかけて来たのは織絵の方でした。先程から、銀子が何か言いたそうにこちらを窺っていたからです。
「え!?そうだったんですか!?」
「驚いたでしょう?」
「はい。あ、先生も、その事は知らなかったんですか?」
「えぇ。そういえば、新しく親友が出来たって、言っていたけど・・・」
「・・・・・・」
「その親友―多分、銀子のお父さんね―を紹介してもらう前に、タカユキは・・・」
「そうだったんですか・・・」
銀子は今の織絵の気持ちを思って、悲しそうに目を伏せました。
「タカユキが、導いてくれたのね。きっと」
「何の事ですか?」
穏やかな織絵のその声に、銀子は顔を上げます。
「もちろん、あなたと、そのご家族に会えた事よ」
「?」
「タカユキと言う安住の地を失い、さ迷っていた私に、再び、安住の地を与えてくれたのが、あなた達だった」
「えぇ?そ、そんな事は・・・」
銀子は、照れて顔を赤くします。
「タカユキが言っていたわ。捨ててしまったものは、もう戻ってはこないけれど、失ったものは、また、取り戻す事が出来るって。彼の言う通りになったわね」
「安住の地って、そんな大袈裟な・・・」
ますます照れてしまう銀子に、織絵は満面の笑みを浮かべ、こう言ったのです。
「あなた達に会えて、本当に良かった!」
「先生・・・」
「ありがとう、銀子・・・」
その時、銀子の目に、見る見る涙が溢れてきました。
「ど、どうしたの?銀・・・」
「先生!ありがとうございます!!」
「え・・・?」
泣きながら、銀子は頭を下げています。
「先生はとても素敵な人です!あたしの憧れです!そんな人に、そこまで言ってもらえるなんて、本当に幸せです!!」
「銀子・・」
「あたしこそ、先生に会えて、本当に良かったです!!ありがとうございます!!」
泣いている銀子を、織絵は優しく抱き締めました。そうしていると、織絵の胸にも熱いものが込み上げて来て、彼女の目に、再び涙が溢れてきます。しかし、それはもちろん、悲しみの涙ではありませんでした。
その時、織絵は、手に持っていた写真のタカユキと目が合いました。彼の笑顔が、まるで「良かったな」と言っているように見え、織絵は「うん」とうなずきます。
「ありがとう、銀子。これからもよろしくね」
「はい!」
織絵と銀子は微笑みを交わすと、歩き出しました。皆の家、安住の地へと・・・。
織絵達が去った後に、音も無く、人影が現れました。
ボロボロの布で全身を包み、一見すると浮浪者のようですが、布の間から覗いている両目からは、激しい憎悪と殺気が放たれています。その目は真っすぐに、織絵の歩いて行った方向を見据えていました。
「・・・見付けた・・・」
人影は、獣のような唸り声を発しました。
「とうとう見付けたぞ、織絵ぇ!!」
第10話完 第11話に続く
ダークサイド・アリスⅡ 超虎太郎@KBI48 @fumiyoshimura
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