現在③ 絶体絶命

 石造りの暗い廊下を、メイド服の少女が歩いています。彼女はとても美しい少女でしたが、その顔は青白く、そして感情が無いかのように無表情でした。それでも、彼女は背筋をピンと伸ばし、しっかりとした足取りで歩いて行きます。

 彼女の名は『ジャヒー』。魔界の大国バインの女王、ファフネーの直属のメイドであり、姫君であるアリスの教育係でもあった者です。今、ジャヒーは女王から呼び出され、女王の私室へと向かっている所でした。

 その時、無表情のジャヒーの顔に、一瞬動きがありました。廊下の先に、人影をみとめたからです。ジャヒーがさらに歩を進めると、その人影の正体が分かり、彼女は思わず形の良い眉をひそめ、その人物の名をつぶやきました。

「紅葉さま・・・」

 紅葉と呼ばれたその人物は、腰まで届く艶やかな黒髪と、雪のように白い肌をした、若く美しい女性でした。長身ではありますが華奢な体格をしており、何故か、日本の着物を着ています。着物は、鮮やかな赤を基調とした見事な物でした。それを紅葉は両肩と、体格のわりには豊かな胸の、その谷間を露出させるように着くずしていて、その姿は見る者に淫らな印象を与えます。

紅葉のその容姿は日本人のように見えます。しかし、この城の中にいると言う事は、やはり普通の人間ではないのでしょう。

ジャヒーと目が合うと、紅葉は、

「ごきげんよう、ジャヒー」

艶やかな声で話しかけてきました。ですが、ジャヒーは無表情のまま会釈すると、そのまま通りすぎようとします。

「黙って行ってしまうの?相変わらずつれないのね」

「・・・」

ジャヒーは立ち止まりましたが、紅葉と視線を合わそうとはしません。

「あぁ、何て悲しいのかしら。私がこんなにあなたを想っていると言うのに、あなたは私を嫌うのね」

「・・・・・・」

「やっぱり、あなたの心の中には姫さまの事しか無いのね・・・。せめて、その10分の1、いいえ、100分の1でも私を想ってくれると言うならば、私のこの命、差し出しても惜しくはないと言うのに・・・」

芝居がかった口調で語る紅葉を、初めてジャヒーは、横目でじろりと睨みました。

「不死身のあなたさまが、どうやって命を差し出すと言うのですか・・・?」

「やぁねぇ、例えばの話しよ」

紅葉は、ジャヒーがやっと言葉を交わしてくれたからか、心なしか嬉しそうな顔をしています。

「それはそうと、もしお暇なら私の館に来ない?良いお酒が手に入ったんだけど」

「私は、酒は飲みませんから・・・」

 そう答えるジャヒーは、飽くまで無表情です。

「あらそう?あなたはやっぱり、血の方がお好みなのかしら?」

「どちらにしても結構です・・・」

ジャヒーは一礼すると、

「失礼いたします・・・」

その場から立ち去ろうとしました。

すると、

「待って」

紅葉は音も無くジャヒーに近付くと、いきなり彼女を抱き締めました。

「な、何を・・・!?」

驚くジャヒーの耳元で、紅葉はささやきます。

「お願いだから、私の気持ちを分かってちょうだい。あなたを想うたびに、私の胸は苦しくなってしまうの」

「なら、私の事など考えなければ良いでしょう・・・」

どうやら、紅葉のこのような行為は日常茶飯事らしく、すぐに落ち着きを取り戻したジャヒーは、抑揚の無い声でそう言いました。

「それが出来ればいっそ楽なのだけれど、この想いはどうする事も出来ないわ」

「・・・・・・」

「だからお願い、その可愛らしい唇に、せめて一度だけ、キスさせてちょうだい・・・」

その美しい顔に切なげな表情を浮かべて、紅葉はジャヒーの唇に自分の唇を近付けていきました。

 もう少しで、唇と唇が重なり合いそうになった時、紅葉はただならぬ気配を感じてその動きを止めました。

「あらぁ?」

紅葉は、自分の喉元に細身の剣が突き付けられている事に気付きました。どこに隠し持っていたのか、その剣は、ジャヒーの右手に握られています。

「お戯れは、おやめ下さい・・・」

ジャヒーの声には怒気が含まれており、彼女が本気だと言う事が伝わって来ました。

 しかし・・・、

「ちょ、ちょっと・・・!」

紅葉はかまわずにキスをしようとするので、ジャヒーは大いに慌てました。

「言ったでしょう?私はこの命、差し出しても惜しくは無いって」

「本当に、刺しますよ!!」

「良いわよ。その代わり、遠慮なくキスさせてもらうから」

「ああん、もう・・・」

さすがのジャヒーも困り果てていたその時、

「止めよ」

重厚な響きを持った声がしました。二人が同時に振り向くと、そこに、大柄な人物が立っています。

 それは、黒い鎧で全身を覆い、身長ほどもある大剣を背負った戦士でした。黒衣の戦士は静かに、それでいて確固たる存在感を持って佇んでいます。

「ティーゲル将軍・・・」

その戦士の名をつぶやいたジャヒーの顔には、安堵の表情が見てとれました。

「ジャヒー殿が困っている。大概にせよ」

黒衣の戦士にそう言われて、紅葉は「うふふっ」と笑うと、ジャヒーを解放しました。

「そうね。ちょっと、大人気無かったかしら?」

「そう言う問題ではありません・・・」

ジャヒーは無表情になると、ティーゲルに向き直り、

「将軍、ありがとうございました・・・」

丁寧に礼をのべましたました。

「そなたは女王陛下のメイド。重臣と言えども、その任務を邪魔する事まかりならぬ。そうであろう?」

最後の問いかけは、紅葉に向けられたものです。

「邪魔なんてとんでもない。ちょっと挨拶しようとしただけよ」

ティーゲルにたしなめられても、紅葉は全く反省しておらず、おどけたようにそう答えました。

「ジャヒー殿、女王陛下がお待ちである」

そんな紅葉には構わず、ティーゲルがそう告げると、ジャヒーは思わず口を押さえました。

「いけない。女王様の所へ行こうとしていたんだった・・・」

「ダメじゃない、女王様を待たせては」

からかうようにそう言う紅葉を、ジャヒーはキッと睨みました。

「あなたのせいです!!」

ジャヒーはそう言い放つと、何とか気を取り直し、

「それでは、失礼いたします・・・」

二人に一礼しました。

「ジャヒー。さっきの続きは、また後でね」

紅葉の言葉を無視して、ジャヒーは歩き去って行きました。

 ジャヒーを見送るこの二人は、共にバイン国の重臣です。

 戦士団を率いる『黒衣の将軍・ティーゲル』と、諜報と暗殺を司る部隊の長である『妖女・紅葉』。二人は、女王ファフネーの家臣の中では新参者の方であり、仕えるようになってから、それほど年月は経っていません。しかし、その実力の高さから、すぐに重臣に取り立てられ、一軍を任される程になったのです。

しかし、その早すぎる出世のためか、他の家臣達からは嫉妬や憎しみを向けられていました。そのせいか、二人の間には暗黙の了解があるらしく、一緒にいる事が多いようです。

「ジャヒー殿を邪魔してはダメではないか」

「だって、ジャヒーったら可愛いんだもの~!」

 再びティーゲルにたしなめられた紅葉は、今度はふてくされたように答えました。ジャヒーが立ち去った事で、不機嫌になってしまったようです。

「ならばなおの事、ジャヒー殿を怒らせてはならぬ」

「そうなのよね~。私、あの娘を怒らせちゃったのよね~」

自分の行為を少しは反省しているらしい紅葉を(珍しく殊勝な)と、ティーゲルは感心しましたが、

「でもあの娘って、怒った顔も可愛いのよね~」

紅葉の発言に、自分の考えが間違いだったと思い知らされるのでした。

「・・・・・・」

「でもでもぉ、やっぱり笑顔が一番可愛いと思うのよ。まぁ、あの娘の笑顔なんて一度も見た事は無いんだけどねって、どうしたの?私の顔に何か付いてる?」

「いいや・・・」

「やあねぇ、言いたい事があるなら、はっきり言いなさいよ」

「別に・・・」

「ジャヒーにした事、まだ怒っているの?」

「怒っておらん」

「分かった!私がジャヒーにべったりだからって、妬いてるんでしょ!?」

(何を言っているのだお主は?)

 黒衣の将軍は、この変わり者の同僚に、呆れて物も言えませんでした・・・。


 ジャヒーが女王の部屋の前に立つと、手も触れていないのに扉が開きました。

「・・・・・・」

しかし、ジャヒーは特に驚いた様子もありません。沈黙したまま、広く、そして薄暗い室内を見回します。

 やがて、部屋の中央にこちらに背を向けて立っている人影を認めました。その人影は、台座の上に乗っている直径50センチ程の水晶玉を、熱心に覗き込んでいます。ジャヒーはその人影に対して、恭しく頭を下げました。

「ジャヒーでございます。お召しにより、参上いたしました・・・」

「遅かったわね」

その人影は振り返りながら、静かに語りかけてきました。

その人影の正体は女性、しかも、絶世の美女でした。流れるような金髪に、雪の様な白い肌、切れ長のその目に妖しく輝くのは、金色の瞳。黒いドレスに身を包み、頭には銀色のティアラを被っています。

その女性こそ、バイン国の女王にしてアリスの母、『ファフネー・バイン』でした。

「何をしていたの?」

ファフネーの問いに、ジャヒーは困ったような顔をすると頭を下げます。

「申し訳ありません・・・。言い訳ではありませんが、こちらに向かう途中で・・・」

「どうせまた、紅葉にからかわれていたんでしょう?本当に仕方のない」

全てお見通しなのか、ファフネーは苦笑まじりにそう言いました。

その時です。

「痛っ・・・!」

ファフネーは、急に腹部を手で押さえると、その場にうずくまってしまいました。

「どうなさったのですか女王様!?」

あわててジャヒーが駆け寄ると、ファフネーはそれを手で制しました。

「大丈夫よ、ジャヒー・・・」

「医師を呼びますか?」

「本当に大丈夫。すぐ、治まるわ」

「でも・・・」

心配そうなジャヒーに、ファフネーはその美しい顔に汗を浮かべながらこう言ったのです。

「古傷が、痛むだけだから・・・」

「!!」

女王の言葉に、何故かジャヒーは激しく動揺しました。

「十数年前に負った傷なのに、最近になって、また痛むようになったのよ」

「・・・・・・」

「おかしいわよね。とっくに、傷は塞がったはずなのに」

「何故、でしょう・・・?」

ジャヒーは動揺しているのを悟られまいと、努めて平静を装うとしました。しかし、声の震えは完全には抑えられません。その事には気付かず、ファフネーはこう答えました。

「もしかしたら、何かの前触れかもしれないわね」

「何か、とは・・・?」

「何か、よ。そこまでは、さすがの私でも分からないわ」

ファフネーはそう言って微笑みました。どうやら、痛みは治まってきたようです。

「近い内、紅葉に調べさせましょう。あんな変わり者でも、有能ではあるのだから」

「・・・・・・」

「?」

苦手なはずの紅葉の名を聞いても、ジャヒーの反応は鈍い物でした。心ここにあらずと言った感じで、ファフネーはそれを不審に思います。

「どうかしたの?」

「え!?い、いいえ・・・、何も・・・」

「そう・・・?」

ファフネーは、(考え過ぎね)と、一人納得すると、次には水晶玉へと目を向けました。ジャヒーがかすかに、

「タカユキ・・・」

と、呟いた事に気付く事も無いままに。

「それはそうと、そろそろ始まるわよ」

「何が、でございますか・・・?」

ジャヒーは首を傾げます。

「以前、適当な人間に渡すようお前に渡した、『憎悪のアミュレット』を覚えているでしょう?」

『憎悪のアミュレット』

それを身に着けた者の、憎しみの心に反応し、その姿を怪物へと変えてしまい、更に憎しみを煽りたてると言う、恐ろしい魔法のアイテムです。占い師に変装したジャヒーが由利恵に渡した、黒いペンダントこそがそれです。

「はい・・・。あれは確かに、鮎美を憎んでいる女に渡しましたが・・・」

「その女が、今まさに鮎美を襲おうとしている所なのよ」

女王に促されて、ジャヒーは水晶玉に視線を向けます。そこには鮎美と、そしてアリスが映っていました。二人は楽しそうに話をしながら、土手の上を歩いています。

「姫さまがご一緒ですが、大丈夫でしょうか?あの女には、姫さまだけは傷付けないようにと、言ってはありますが・・・」

「何も心配する事は無いわ」

不安を感じているジャヒーとは対照的に、ファフネーはむしろ楽しそうにしています。

「ですが、鮎美が襲われたなら、きっと姫さまは鮎美を守ろうとするはずです!もしかしたら、姫さまが傷付けられる可能性も・・・」

「大丈夫よ。だってあの子は、私の娘なんですもの。いくら魔法の力を借りているとは言え、人間如きに後れをとるはずが無いわ」

「それは、そうですが・・・」

「それに、要は鮎美を人間の手で殺害できれば良いの。鮎美を守りきれなければ、アリスは二重の意味で人間に失望する事になる」

「それは・・・?」

「憎悪によって鮎美を殺害する人間と、守りきれなかった人間としての自分。そのどちらにも、アリスは深い失望の念を抱くわ。そうすれば、今度こそ、アリスはドラゴンとしての自分を受け入れ、自分のやるべき事に気付くはずよ」

 嬉々として語る女王に、しかし、ジャヒーは従いかねました。何故なら、彼女はアリスを、親愛なる姫君として忠誠を尽くすのみならず、妹のようにも愛していたからです。最愛のアリスが傷付くかもしれない事態を、黙って見ているなど、ジャヒーには耐えられませんでした。

「しかし、それでは姫さまが・・・。女王様、せめて、せめて私が今、この場に行く事をお許し下さい!!姫さまは、このジャヒーが必ずお守りいたします!!」

その願いに対してファフネーは、

「だめよ」

と、冷たく答えました。

「お前は余計な事はしなくて良いの。私のそばにいなさい」

「ですが!!」

「お黙り」

なおも食い下がろうとするジャヒーを、ファフネーは恐ろしく冷たい目で睨みました。そうなると、ジャヒーは何も言えなくなってしまいます。

「お前は誰に仕えているの?私?それともアリス?」

「・・・・・・」

「勘違いしてはだめよ。確かに、お前にはアリスの世話と教育を任せたけれど、それは飽くまでも役目の上」

「・・・・・・」

「お前は、私だけの部下なのよ」

「・・・申し訳、ありません・・・」

「分かれば良いのよ」

ファフネーはまた、水晶玉に目を向けました。

「始まるわ。お手並み拝見と行きましょう」

ジャヒーも心配そうに、水晶玉の中のアリスを見つめます。

(姫さま、どうかご無事で・・・)

ジャヒーは、心の中でそう祈る事しか出来ませんでした。


 夕闇迫る土手の上を、アリスと鮎美は楽しそうに話しをしながら歩いていました。

 その時・・・。

「どうしたの、アッちゃん?」

今まで笑っていたアリスの顔から、急に笑みが消えました。

「・・・・・・」

アリスは黙ったまま、素早く視線だけを動かして、何かを探しているようです。

「アッちゃんてばぁ」

「しっ!」

その瞬間、アリスは鋭い視線を鮎美に向け、その迫力に鮎美は驚き、何も言えなくなってしまいます。

(どうしたんだろう?私、何か気に障るような事言ったかなぁ?)

鮎美は心配しましたが、アリスの態度の急変の理由は、全く別の所にあったのです。

(何なの、この殺気は!?)

アリスは、皮膚が痛くなる程の強烈な殺気が自分達に向けられているのを感じ、その主を捜していたのです。

(一体何者なの!?この殺気の強さは異常だわ!!)

 やがて、アリスはその殺気の出所を察知しました。

「鮎美」

「な、なに?」

アリスは、心配そうに自分を見つめる鮎美をちらりと見ました。

「私が合図したら走って。絶対に振り返っちゃだめよ」

「どうして?」

「訳は後。それとそのお菓子とか、荷物は全部置いていきなさい」

「えぇ?せっかくもらったのに、置いてくなんて悪いよ」

「あのねぇ・・・。後で、ちゃんと私が持って行くから大丈夫。だから、今は私の言う事聞いて。それと、家に着いたら鍵をかけて、大人しくしてるのよ」

「でも・・・」

「お願い」

「う、うん・・・」

アリスの態度は真剣そのもので、鮎美は訳が分からないものの、うなずきました。

そして、

「鮎美、走って!!」

アリスが叫び、鮎美はわずかのためらいの後に、土手を走って行きました。

 アリスは鮎美を見送ると、やがて、ゆっくりと振り返りました。彼女から見て、右には流れる川が、左には森があります。彼女は、森に向かって鋭い視線を投げかけると、こう言い放ちました。

「隠れてないで出てきたら!?」

その声に答えるように、殺気は一段と強くなり、そして、何かが暗い森の中から這い出して来ました。

「何よ、こいつ・・・?」

その姿を見た、アリスの第一声がこれでした。

 それは、ワニとも、トカゲともつかない姿をした怪物でした。青黒く、ヌメヌメとした全身からは、とても不気味な印象を受けます。しかし、それ以上に目を引くのは長い尾でした。長さはゆうに10メートルはあるでしょうか、それはまるで、別の生物のように、のた打ち回っています。

(こいつ、何者なの?確かに、この日本にも妖怪や化け物の類はいるでしょうけど・・・)

アリスは油断なく、間合いを取りながら、怪物を観察します。

 その時、アリスはある事に気付きました。

(あれは・・・?ま、まさか!?)

彼女の視線の先にあるもの、怪物の左肩にある模様に、アリスは見覚えがありました。それは、黒い竜を象った紋章です。

「あれは、『バイン』の紋章!!」

自分の故郷であるバインの紋章を身に着けた怪物、すなわち、その怪物を差し向けて来た者は!

「母さん・・・?」

アリスは思わず、そう呟いていました。それを聞いた怪物は「くっくっく・・・」と、くぐもった笑声を上げます。

「あらあら、中学生にもなって『母さん』だなんて。そんな事だと、将来、この厳しい世間を渡って行けないわよ」

怪物となった由利恵は、アリスの呟きを恐怖のためだと誤解し、嘲笑しました。

「余計なお世話よ」

驚きから覚めたアリスは、怪物が口をきいた事から、高い知能を有しているのだと冷静に判断していました。しかし、その正体が以前会った由利恵だとは、さすがに気付く事はありません。

 そしてアリスは、この怪物がバインの手先であり、さらに、先程まで鮎美がいた事から、一つの結論を導き出していました。

「お前の狙いは、鮎美ね・・・」

アリスは、金色の瞳で怪物を睨みつけました。

「母さんの命令でここに来たんだろうけど、鮎美には手は出させないわ。さっさと消えなさい!」

バイン国の姫君であるアリスの命令に、しかし、怪物はかしこまる所か「ふふん」と鼻で笑いました。

「何で私が、あなたなんかに命令されなければならないのよ?」

「何ですって!?」

「それに、さっきから何を言っているの?あなたの母親なんて、私が知るはず無いでしょう?」

「お前は、バインからの刺客ではないの?」

「バイン?何よそれ?」

 アリスは改めて、怪物を観察しました。

(私や母さんの事を知らない上に、バインの名も知らないなんて、こいつ一体、何者なの?)

その時アリスは、ある事に気付きました。

(こいつは生き物なんかじゃない!これは鎧だわ!そしてこの中身は、おそらくは人間)

この怪物は一見すると生物のようですが、関節部に継ぎ目が見られ、その体型も人間に近い気がします。そして胸の中央には、赤い宝石がはめ込まれた、黒い金属製のメダルが貼り付いていました。

「なるほど・・・。今度はこう来たか・・・」

アリスは、母がこの人間に何らかの魔法のアイテムを与えて、この姿にしてしまったのだと理解しました。

「だから、母さんと私のことも、バインの名も知らないんだ」

「何を一人で納得しているのよ!?」

由利恵は、尾で地面を「バシン!!」と叩きました。自分を恐れる所か、余裕すら見せているアリスに苛立ちを覚えました。

「ううん、別に。ただね・・・」

「?」

「また、バカな奴が現れたと思ってさ」

「な、何ですってぇ!?」

アリスの言葉に、由利恵は激怒しました。しかしアリスは臆する事無く、むしろ面白そうにこう言い続けます。

「お前をバカだって言ってるのよ。大方、自分の心の暗い部分をつつかれて、それを利用されたんでしょう?」

「うぅ・・・!」

「え~と、何て言ったっけ・・・?そうそう、礼香と同じで、プライドが高すぎて足元すくわれたタイプなんじゃない?」

「れいか・・・?中谷・・・礼香・・・」

「ん?何でお前が、あいつを知ってるのよ?」

アリスは怪訝な顔をしました。しかし由利恵はその疑問に答える事無く、

「あんなクソガキと一緒にするんじゃないよぉぉぉ!!」

そう吼えると、いきなり跳びかかってきました。

「おっと!」

その突進を、アリスは難なくかわします。

(こいつ、急にキレたりして、一体どうしたって言うの?)

不思議に思いながら、アリスは再び間合いを取りました。

「あの・・・あのクソガキが、もう少しうまくやっていれば、私は・・・私はこんな風になっていなかったのに~~~~!!」

「はあ?」

「どいつもこいつも、クズばっかりだよぉ!!」

呪詛の叫びを上げる由利恵を、

「アッハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

アリスは高らかに嘲笑いました。由利恵は怒りに身を震わせ怒鳴ります。

「何がおかしいのよ!!」

「ハハハハハハハ!いや、どう考えてもお前の方がクズだってば!アハハハ!」

アリスは、まだ笑い続けています。

「だってそうじゃない?お前の心の中に、母さんのお眼鏡に適うような、暗くて、醜い面があったからこそ、お前はそんな姿になってしまったんじゃないの!」

「なっ!?」

「お前はさ、自分に相応しい姿になったんだよ。つまり、身も心も、本当の化け物になっちまったんだよ!!」

 アリスにしてみれば、最愛の少女である鮎美を狙う者など、所詮は怨敵でしかありません。ここまで辛辣な言葉を浴びせたのは、その為でした。

一方の由利恵にしてみれば、自分の事を何も知らない小娘に、ここまで言われて屈辱を覚えました。仕事も無くし、恋人にも去られ、全てを失ってしまったのは周りの人間のせいであり、自分こそが被害者なのだと彼女は信じていたのです。もっとも、それは自業自得なのですが・・・。

アリスの言葉は、由利恵の心に更なる憎悪をたぎらせるには充分でした。

「殺す!殺してやる!お前も、北条鮎美も、燻士琴子も、どいつもこいつもぶっ殺してやる!!」

「どうしてここで、燻士の名前が出てくるのよ?」

アリスは肩を竦めましたが、それも一瞬の事で、すぐに構えをとりました。

「魔法の鎧を着ていようと、所詮はただの人間だからねぇ・・・」

不敵な笑みを浮かべると、アリスは由利恵を手招きしました。

「死ね~~~~~~~~~~~~~~~!!」

挑発に乗った由利恵は突進して来ましたが、アリスはそれをかわし、次から次へと繰り出される鋭い鉤爪も、余裕で避けてしまいます。怪物の攻撃がいかに強力でも、所詮は力任せであり、武術を身に付けたアリスにとって、それを見切るのは造作も無い事でした。

 大きく振り下ろされた鉤爪を、後ろに跳んでかわしたアリスは、右手を怪物に向け、左手で印を結ぶと、小声で何かを唱えました。

「・・・・・・」

その途端、アリスの手のひらが青く光り、そこから何本もの光の矢が撃ち出されました。

「なっ!?」

驚愕する由利恵の、腕、足、そして胴体を、光の矢は狙い違わず貫きました。その傷口からは、赤い血が噴水のように噴き出します。

「ギャアァァァァァァァァァ!!」

痛みに体をのけ反らせ、叫び声を上げると、由利恵はどうと倒れてしまいました。

「どう?『魔法の矢』の味は。初歩的な魔法だけど、けっこう効くでしょう?」

アリスは、地に倒れ伏している怪物に歩み寄ると、蔑みの目を向けます。

「お前がどこの誰かは知らないけど、私の鮎美を狙ったのが運のつきさ!」

「お・・・お前は一体、何者なの・・・?」

「知りたい?」

アリスはニヤリと笑いました。

「そうねぇ、人間達のお伽話に出てくる『悪い魔法使い』って所かしらね」

「ま、魔法・・・?そんなバカな・・・」

「信じられない?でも、お前だって魔法のアイテムの力で、その姿になったんじゃないの?」

「!」

「それに、お前は私の魔法にやられて、無様にも地面に這いつくばっているじゃない?同じ魔法でも、使い手の差がこうも開いていると、勝負はあっさり着くものね」

 勝ち誇ったようにそう語るアリスに、由利恵は恐る恐る尋ねました。

「私を、どうするつもりなの・・・?」

アリスの金色の瞳が、妖しく光りました。

「決まっているでしょう・・・」

「ま、まさか・・・」

「ふふふ・・・」

 アリスは、凄みのある笑みを浮かべました。それこそが答え。由利恵は恐怖におののきました。

「た、助け・・・て・・・」

由利恵は、震える声で命乞いをしました。

「お前にかける慈悲なんて無いよ。でもそうねぇ、苦しみを長引かせるのも趣味が悪いから・・・」

そう答えたアリスは、両手を、もうすっかり暗くなった空へと掲げ、再び何かを唱え始めました。

「・・・・・・・・・・・・」

 アリスの両手の上に、炎が現れました。最初は小さな炎でしたが、それは渦を巻くように回転していき、徐々にその大きさを増していきます。そしてついに、直径1メートル程の火の玉となったのです!

「この『爆炎球』で、とどめをさしてあげるわ」

「ひ、ひぃぃぃぃぃ~!」

由利恵は情けない悲鳴を上げましたが、それを聞いても、アリスは哀れみを覚える事はありません。彼女は、冷酷な笑みをその美しい顔に浮かべていました。

「覚悟は良いかい?」

「や・・・、い、いや!やめて!殺さないで!!」

 由利恵は、アリスから逃れようと無我夢中で足掻きました。でも、その身に受けた傷のせいで、思うように動く事が出来ません。その無様な姿に、アリスの表情は冷笑から一転、怒りの形相へと変わりました。

「鮎美を殺そうとしたくせに、命乞いなんて見苦しいんだよ!!」

「お願い!許してぇ!!」

「骨も残さず焼き尽くしてやる!!」

そう叫んだアリスが、由利恵目がけて火の玉を投げようとした、正にその瞬間、

「アッちゃ~~~ん!」

いきなり遠くから、鮎美の声が聞こえてきました。アリスが振り返ると、逃がしたはずの鮎美が、何故か、こちらに向かって走って来ます。

「あ、鮎美!?」

アリスは慌てて、頭上の火の玉を消し去ります。やがて、アリスの元に、息を弾ませた鮎美が到着しました。

「アッちゃん、ハア、どうしたの?フウ、何か、ハア、あったの?フウ・・・」

「何かあったの?じゃあないわよ!どうして戻ってきたの!?」

「だってぇ、ハア、やっぱり、フウ、アッちゃんが、ハア、心配、フウ、なんだ、ハア、もん、フウ・・・」

「あのさ、もう少し落ち着いてから話しなよ」

アリスは、(そう言えば、前にもこんな事あったな・・・)と思って苦笑しましたが、今はそれどころでは無いと気付き、顔を引き締めるとこう言いました。

「とにかく、危ないから家に帰ってなさいよ!後で必ず私も行くから!」

「危ないって、何が?」

「だからこいつが・・・」

「?」

鮎美はヒョイッとアリスの後ろを覗きました。

「え・・・?え?え?えぇ~~~!?なに!?なに!?なにこれ~~~!?」

そこに倒れている怪物を目にした鮎美は、素っ頓狂な声を上げました。

「アッちゃん、なにこれ!?お化け!?怪獣!?宇宙人~~~!?」

生まれて初めて見る怪物に、鮎美はほとんどパニックを起こしていました。アリスはそんな鮎美の姿に、再び苦笑してしまいます。

「あのね、こいつは・・・。う~んと・・・、私を狙って現れた怪物なのよ」

「怪物って・・・。それじゃ、やっぱりこれって本物の・・・」

「そう。だけど、返り討ちにしてやったのよ」

「本当に、こんなお化けっているんだ・・・」

 アリスは一刻も早く、ここから鮎美を立ち去らせたかったので、この場をごまかそうと嘘をつきました。しかし、鮎美は当然、こんな質問をしてきます。

「でも、どうしてアッちゃんが、こんなお化けに狙われないといけないの?」

「え?そ、それは・・・」

アリスは、鮎美の思いもかけない鋭い質問に、答えに詰まってしまいました。

「どうして?どうしてアッちゃんが、こんな怖いお化けに狙われるの?」

「ど、どうして・・・かな~」

「アッちゃんが普通の人じゃないから?でも、だからって、どうしてこんな怖い目に遭わないといけないの?」

「そりゃあ、確かに普通じゃないけど・・・」

「アッちゃん。もしかして、何か危ない事に巻き込まれてるんじゃないの?」

(いや、危ない事に巻き込まれてるのは、むしろアンタなんだってば)

アリスは心の中でつぶやきましたが、ふと、鮎美が目に涙を溜めている事に気付きました。もちろん鮎美は、アリスの身を按じて泣いているのです。そしてその事を、もちろんアリスは理解していました。

鮎美の想いを感じて、アリスは戦いの最中だと言う事も忘れ、微笑んでしまいます。

「違うよ。こいつはさ、今どきの凶悪犯みたいに、『誰でも良いから殺ってやろう』って言う奴なのよ」

「本当・・・?」

「本当、本当」

「誰でも良いって、そんなのひどい・・・」

鮎美は、咎めるような視線を怪物に向けます。

「もしかして、このお化けみたいな人が、潤ちゃんや、さやかちゃんのお母さんを・・・」

思わずそうつぶやいた鮎美に、

「そう言えば・・・、この前、橋の上で性悪女を一人、血祭りにあげてやったわねぇ。くっくっく・・・」

怪物と化した由利恵は、地に這いつくばり、苦しそうにしながらもそう言いました。

「え!?」

鮎美は驚愕しました。怪物が口をきいたのはもちろんですが、その内容に心当たりがあったからです。

「確か、さやかちゃんのお母さんも、橋の上で・・・!」

「まさか、お前があの子の母親を!?」

アリスも驚きに目を見開いています。由利恵は何も言わず、ただ「くっくっく・・・」と気に障る笑声を上げるだけでした。

「どうして?どうしてそんなひどいことを!?さやかちゃんのお母さんが、何をしたって言うの!?」

「くっくっく・・・うぅ・・・」

「お母さんを亡くしたさやかちゃんの気持ちが、あなたには分からないの!?」

「くっくっく・・・。ふふふ、あははは・・・!」

「お前、なに笑ってんだよ!!」

そう怒鳴ったのはアリスです。彼女は、さやかを悲しませた張本人を目の前にして、自分でも何故かは分かりませんが、激しい怒りを覚えていました。それでも、由利恵は嘲笑を止めません。

「相変わらずねぇ、北条さん・・・」

「え!?どうして、私の名を・・・?」

鮎美は再び驚愕しました。

「誰?あ、あなたは誰なの!?」

「そんな事は・・・どうでも良いよ・・・」

そう答えたのはアリスです。彼女は一歩前に進むと、鮎美に振り返りました。

「鮎美、あんたは先に帰ってて・・・」

「アッちゃん?」

「私は、こいつを始末しておくから・・・」

アリスの『始末する』と言う言葉に、鮎美は不吉なものを感じました。

「始末って・・・。まさか・・・?」

アリスの金色の瞳が、冷たく光りました。

「その、まさかよ・・・」

「えぇ!?」

鮎美は、アリスが怪物の殺害を宣言しているのだと悟り、戦慄しました。

「ダメだよ!そんな事しちゃダメだよ!!」

「何がダメなのよ!?こんな最低のクズ、殺した方が良いのよ!!」

「だって!」

「この化け物は、あの子の母親を殺したのよ!!あの子の仇なんだよ!!だったら、その無念を晴らしてやらないといけないじゃない!!」

「それは・・・」

「それに、放っておけばまた、誰かがこいつに殺されるかもしれない」

「・・・・・・」

「あんたの大切な人、例えばお父さんとかが殺されたら、あんたはどうするの!?それでも良いの!?」

 鮎美は、何も言い返せません。アリスの言う事はもっともですし、自分もこの怪物が許せないのも事実です。

でも・・・。

「やっぱり、やめようよ・・・」

鮎美は、悲しそうに言いました。その目には、涙が光っています。

「な・・・!あんた、何を言ってるのよ!?」

「確かに、このお化けは許せないよ。とってもひどいと思うよ。でもね、だからって、殺したりしたら、アッちゃんも同じになっちゃうんだよ・・・」

「お、同じ?」

「人殺しに、なっちゃうんだよ。取り返しのつかない事をしてしまうんだよ」

「鮎美・・・」

「私ね、そんな事、アッちゃんにしてほしくないんだ。アッちゃんは、本当は優しくて、キレイな心の女の子だから。そんな事、してほしくないんだよ・・・」

涙ながらに訴えてくる鮎美を、アリスはじっと見つめていました。

そして、

「分かったわよ、鮎美。あんたの言う通りにするわ・・・」

アリスは溜め息まじりにそう言うと、

(全く、この子には敵わないわね・・・)

心の中でそうつぶやき、肩を竦めました。

 鮎美はほっとして、嬉しそうに笑うと涙を拭います。

「ありがとう・・・」

「でも、こいつはどうする?このままって訳にもいかないでしょう?」

「そうだよね・・・。うん」

鮎美は何かを決意するようにうなずくと、何と、怪物に近付いて行きました。

「ま、待って鮎美!!」

驚くアリスに、鮎美は「大丈夫」と言うように微笑むと、怪物のそばにしゃがみこみました。

「お化けさん、私は、あなたを許せません。人の命を奪っておきながら、笑っているあなたを、私は心から憎いと思いました。

 でも、今のあなたもまた、大ケガをして苦しんでいるでしょう?でも、その何百倍もの苦しみを、あなたは、さやかちゃんとその家族にあたえたんですよ。

 私、上手くは言えないけど、その痛みが少しでも分かるなら、もう二度と、人を苦しめたりしないで。でないと、あなたもいつか、必ず不幸になってしまうから・・・」

「・・・・・・」

怪物―由利恵―は何も答えず、ただじっとしています。

「だから、これからは、人を苦しめたりしないで、心安らかに生きてください。お願いします」

そう言って、鮎美は頭を下げました。

それを見ていたアリスは、

(甘いよ鮎美。こいつがあんたの言う事を聞く訳が無いよ)

そう考えてしまうのですが、

(でも、これだから私は、鮎美が大好きなんだよね)

とも思ってしまうのです。

「鮎美、そろそろ行こうか?」

アリスが声をかけると、鮎美はそっと立ち上がり、「うん」とうなずきました。その顔には、清々しい笑みが浮かんでいます。

二人がその場を立ち去ろうとしたその時、

「待って・・・」

怪物が言葉を発しました。アリスと鮎美は、警戒しながら振り返ります。

「何よ!?」

アリスが鋭く言い放つと、怪物は、大人しい口調でこう言いました。

「ありがとう・・・」

それを聞いて、アリスと鮎美は思わず顔を見合わせました。

「え?えぇ・・・」

怪物の意外な言葉に、鮎美は驚きつつも、嬉しそうな顔をしました。

「分かってくれたんですね。良かった」

「本当に、ありがとう・・・。あなたが・・・」

「?」

「あなたが・・・、バカで助かったわ!」

「!?」

その途端、地面から何かが跳び出し、それは鮎美に向かって真っすぐに伸びてきました。

「危ない!!」

何も分からず立ち尽くす鮎美とは逆に、アリスは反射的に体が動いていました。アリスは鮎美を突き飛ばし、向かってくる何かから鮎美を守りました。しかしその結果、アリスは鮎美のいた位置に立つ事になります。

 そして、

ザクゥゥゥ!!

「ウグァァァァァァ!!」

胸が悪くなるような音とともに、アリスの悲鳴が響き渡りました。

 地面に倒れ込んだ鮎美が、慌てて身を起こして最初に目にしたもの。それは・・・。

「ア、アッちゃん・・・?アッちゃぁぁぁぁん!!」

触手のような物に胴体を刺し貫かれた、アリスの姿でした・・・。


「アッちゃん!!アッちゃぁぁぁん!!」

鮎美は声を限りに叫びましたが、アリスは何も答えられません。触手のような物―長い尾―に刺し貫かれ、その激痛に声も出ないのです。

「あら、失敗しちゃった」

由利恵はその鋭い尾を、一旦、地に突き刺して潜りこませ、そして、地面と言う死角を利用し、油断していた鮎美を刺し貫こうとしたのです。

 由利恵が尾を『ぶぅん!』振るうと、アリスの体は宙を舞いました。噴き出す血液が、夜空に弧を描きます。そして、アリスは受け身をとる事も出来ず、そのまま地面に叩き付けられてしまいました。

「ぃ、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

悪夢のような光景を目にして、鮎美は絶叫し、アリスの元へと駆け寄りました。

アリスは、胴体を背中まで貫かれていました。体の前後の傷口から、血がドクドクとあふれ出ています。その出血を止めようと、鮎美は自らが血まみれになる事もいとわず、両手で傷口を押さえました。しかしそれは、全く止血の役に立ちません。

「アッちゃん!!しっかりしてぇ!!アッちゃぁん!!」

鮎美は必死に呼びかけましたが、血まみれのアリスは、まるで物言わぬ人形のように力無く横たわっています。

「アッちゃん!!死んじゃだめぇ!!死なないでぇ!!」

涙で顔をくしゃくしゃにしながら、鮎美は叫び続けます。

 その時、鮎美の背後から、

「良い〝番犬〟を飼っているのねぇ・・・」

そう嘲笑する声がしました。鮎美が振り返ると、そこには怪物が立っています。鮎美は一瞬戦慄しましたが、怪物もまた、体のいたる所から血を流し、実際は立っているのがやっとのようです。

「そいつも、あなたお得意の愛と思いやりで、飼い馴らしたのかしら・・・?」

「アッちゃんを、バカにするなぁ!!」

 大切な友達を傷付けられた上に〝番犬〟だなどと侮辱されて、鮎美は泣きながらも激怒していました。こんなに怒ったのは、生まれて初めての事です。

しかし、悲しい事に、それがこの状況を打開する事にはなりません。由利恵にはまだ、鮎美を殺害するだけの力は充分残されているのです。

「そんなに大切な友達なら、いっそ、仲良くあの世に送ってあげましょう、か・・・?」

由利恵は、ふらつく足取りで鮎美に向かって来ます。鮎美はとっさに両手を広げると、アリスを庇うように立ちふさがりました。

「アッちゃんを、アッちゃんをこれ以上傷付けさせない!!」

「チッ・・・。相変わらず生意気な・・・」

由利恵は忌々しそうに吐き捨て、右手の鋭い鉤爪を振り上げました。鮎美は、ぎゅっと目を閉じます。

「死になさい」

「うぅ!」

 正に絶体絶命。もはや、助かる術は無いと思われたその時、それは起こりました。

「うぅぅぅぅ・・・」

急に、アリスが呻き声を上げたのです。それは、獣の唸り声にも似ていました。

 その声に振り向いた鮎美と、そして由利恵が目にしたのは、黒いオーラに包まれたアリスでした。銀色の髪は逆立ち、褐色の肌は黒ずんで、カッと見開かれた瞳は金色に光っています。また、右腕は倍以上に膨らみ、爪は鋭く尖り、黒いウロコがびっしりと右腕を覆っています。

 アリスの体に〝発作〟が起きたのです。

「うぐ・・・。ハア、ハア・・・。鮎美に、手を・・・出すなぁ・・・!!」

アリスは光る両目で由利恵を睨みました。しかし、傷のために、まだ動く事は出来ないようです。

「何よ!?何なのよコイツは!?」

由利恵は、目の前で起こっている事に驚いてしまい、半ばパニックに陥っていました。その反対に、鮎美は一度アリスの発作を目にした事があるため、パニックを起こしはしませんでした。

「アッちゃん大丈夫!?」

鮎美はアリスにすがりつくと、必死になって呼びかけました。

「うぅ・・・、あんたこそ、大丈夫・・・なの・・・?ケガは、無い・・・?」

鮎美にアリスは顔を向けると、苦しい息の中、尋ねてきました。

「平気だよ。アッちゃんこそ痛くない?」

「ちょっと・・・、痛い、かな・・・。ウゥッ!!」

アリスの顔は、刺し貫かれた痛みと、発作の痛みの為に、汗でびっしょりです。

「アッちゃんごめんね!ごめんね!私のせいで!!」

 泣きながら謝る鮎美を、アリスは辛そうにしながらも、優しく見つめていました。しかし次の瞬間、アリスは急に身を起こすと、右手を突き出しました。

「え!?」

鮎美が何事かと驚いていると、後ろから襲ってきた怪物の鉤爪を、アリスが防いでいたのです。

「くっ・・・。鮎美には、指一本ふれさせないよ・・・!」

苦しそうに呻きながら、アリスは由利恵の手首を、握り潰さんばかりに掴みます。しかしその間にも、腹部と背中の傷からは、真っ赤な血が止め処無く流れていました。

「離せ!この化け物!!」

由利恵はそう怒鳴ると、二人を血祭りに上げようと、渾身の力を込めて押してきます。お互いにダメージを受けていましたが、より重症のアリスは力負けしそうでした。しかし、

「こんのおぉぉぉ!!」

アリスは一旦右手を離すと拳を固め、渾身の力で怪物を殴り飛ばしました。その威力は強烈で、怪物は10数メートル先まで吹っ飛ばされてしまいました。鮎美を守ると言う想いが、彼女に力を与えたのです。

「アッちゃん、すご~い!」

鮎美は歓声を上げましたが、アリスはその場にくずおれてしまいました。発作はまだ治まっていないのです。

「うぅぅ・・・」

「アッちゃん大丈夫!?」

「うぅ・・・はぁ・・・」

アリスは苦しそうに呻くだけです。

「早く逃げなきゃ!」

そう言いつつも、鮎美はどうすれば良いのか思いつきません。すると、

「逃げるって、どこへ・・・?」

背後から聞こえた声に、鮎美は再び戦慄しました。いつの間にか、怪物が戻っていたのです。

「今度こそ・・・」

怪物は鉤爪を振り上げ、

「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

振り下ろそうとした、正にその時でした。

「フギャ~~~~~~!!」

いきなり現れた一匹の猫が、猛然と由利恵に跳びかかり、その顔をひっかきまくったのです!

「うっ!?何だ、こいつは!?」

由利恵は猫の攻撃に驚き、それを引き剥がそうともがいています。そのスキを、アリスは見逃しませんでした。

「鮎美ぃ!!」

「きゃあ!?」

アリスは死力を振り絞って立ち上がると、鮎美を抱きかかえ、そのまま土手をころがり落ちて行きました。そして、

ザブーン!!

と、激しい水音がして、二人の姿は流れる川の中へと消えて行きました。

「いい加減に離れろぉ!!」

由利恵はやっとの事で猫を捕まえると、乱暴に投げ捨てました。猫は「ニャ~~~!!」と悲鳴のような鳴き声を残して、土手の斜面に生えた、高い草の中へと消えて行きます。

「もう少しだったのにぃ・・・」

土手に一人残された由利恵は、悔しそうにそうつぶやくと、二人が消えた川面を忌々しそうに睨んでいました。しかし、由利恵は後を追おうとはしません。自身もダメージを負い、それ所では無かったのです。どこかで体を休めなければ、と考えていた由利恵は、そこではっとなって後方を振り返りました。

夜の暗がりから、ハーモニカらしき音色が、風に乗って流れて来ました。何者かが、こちらに向かって歩いて来ます。

由利恵は、先程まで自分が潜んでいた森の中へと、傷付いた体を引きずるように入っていきます。その間にも、ハーモニカの音色はだんだんと大きくなっていました。やっとの思いで森に入った由利恵が、木々の間から様子を窺っていると、やがて、一人の人間が姿を現しました。

それは、若い女性のようです。その女性は夜道を一人で歩いていると言うのに、ハーモニカを吹きながら悠然と歩を進めています。長い棒状の物、おそらくは木刀を護身用のつもりなのか、肩に担いでいました。

その時、ハーモニカの音がふいに止みました。

「おや、何だいこれは?」

女性が足を止めた場所は、先程までアリスと由利恵が戦っていた場所です。そこには、アリス達の荷物が散乱しています。さらにそこから数メートル離れた地面には、アリスと由利恵の血が飛び散った跡があるのですが、夜の暗さで、それは女性には見えていないようです。

「鞄とお菓子ですか。忘れ物にしてはおかしいね・・・って、ダジャレじゃないよ」

女性はおよそ緊張感の無い独り言を言うと、鞄とお菓子の入った袋を拾い上げ、木刀に引っかました。そして、

「よっこいショーイチっと・・・」

変な掛け声とともに立ち上がると、再びハーモニカを吹き始め、その場を立ち去るのでした。

(行ったようね・・・)

由利恵もまた、ふらつきながら森の奥深くへと消えていきました・・・。

 

土手を挟んだ森の反対側の斜面には、背の高い草が一面に生えています。先程、猫が消えた場所です。

そこに、一人の少女がいました。16歳くらいの、可愛らしい少女です。髪は黒いロングのストレートで、それとは対照的に、雪のように白い肌をしています。

「よくも、やってくれたわね・・・」

彼女の服装は変わっていて、この辺りでは全く見かける事の無い、袖や裾にフリルの付いた、変わったデザインの服装をしています。

「憶えときなさいよ」

可愛い顔には不似合いな鋭い目をして、少女はそうつぶやくと、次には川面を見つめました。一転して、少女の顔は不安そうな表情になります。

 そして、彼女はこうつぶやくのでした。

「無事でいてね、鮎美・・・」


「姫さまぁ!!姫さまぁぁぁ!!」

バイン城内のファフネーの自室では、ジャヒーが水晶球にすがりつくようにして泣き叫んでいました。その隣では、女王ファフネーが、心持ち青ざめた顔をして、じっと水晶球を見つめています。水晶球には、暗い川面が映っています。

二人は最初、アリスが優勢であった事を、実は喜んで見ていました。鮎美を殺害させるために選んだ由利恵に、特に期待はしていませんでしたし、所詮人間など、いくらでも代わりはいます。アリスの勝利は、むしろファフネーにとっては想定内の事だったのです。ジャヒーもまた、自分の心配が杞憂であったと胸を撫でおろしていました。そこに、『目障りな小娘』が乱入してくるまでは・・・。

鮎美が戻ってきたために戦いは中断され、あろう事かアリスは、相手に止めも刺さずに見逃そうとしたのです。その挙句、アリスは怪物にスキを突かれて重傷を負い、鮎美ともども川の中へと消えてしまいました。

アリスが血まみれになって倒れた時、ジャヒーは悲鳴を上げ、半狂乱になって泣き叫びました。ファフネーは、悲鳴こそ上げる事はありませんでしたが、実の娘が傷付いた瞬間を目の当たりにし、激しく動揺しています。

「姫さまぁ!あぁ・・・。姫さまが・・・」

床に座り込んでむせび泣くジャヒーに、ファフネーは相手と、誰より自らを落ち着かせるために、努めて静かに語りかけました。

「泣かないでジャヒー。あの子は大丈夫よ。だって、私の娘なんですもの。あの位で命を落としたりしないわ」

しかし、その言葉にジャヒーは安心する所か、咎めるような視線をファフネーにむけました。

「女王様!あなたは平気なのですか!?姫さまがあんなに傷付いて、苦しんでいたのに・・・。それでは、あまりにも姫さまが可哀そうです!!」

そう言ってまた泣き出すジャヒーを、ファフネーは責める事無く、優しくこう言いました。

「ジャヒー、もう良いわ。お前は疲れているのね。今日はもう休みなさい」

しかし、ジャヒーは首を振ると、涙を拭いて立ち上がります。

「いいえ、休んでいる場合ではありません。今すぐ行かなければ・・・」

「どこへ行くと言うの?」

「姫さまを、お助けしなければ・・・」

「それはダメよ」

先程とは一転して、女王は冷たい態度をとります。それに驚いたジャヒーは、思わず目をみはりました。

「それは、許可出来ないわ」

ファフネーの態度は、氷のような冷たさを感じさせます。それでも、ジャヒーはこう問わずにはいられませんでした。

「何故でございますか!?女王様には、傷付いた姫さまのお姿が、見えなかったとでも言うのですか!?」

「ジャヒー、良くお聞き。アリスがああなったのも自業自得。いつまでも人間を捨て切れず、甘い考えを持ち続けるから、あんな目に遭うのよ。むしろ、今回は良い薬になると思うわ」

淡々と語るファフネーに、母親らしさは微塵も感じられません。少なくとも、ジャヒーにはそう見えました。

(貴女は、それでも母親なのですか!?)

そう叫びたいのを、ジャヒーは必死に耐えます。

「それでは、姫さまをお助けしてはならないと・・・?」

「そうよ」

「あんなに苦しんでいられたのに・・・?」

「えぇ」

「どうしてもですか・・・?」

「くどいわよ」

ジャヒーはうなだれると、一言「かしこまりました・・・」と答え、扉へと向かいました。

「それでは、休ませていただきます・・・」

振り返らずにそう言うと、ジャヒーは部屋を出ました。

閉じられた扉に寄りかかっていたジャヒーは身を震わせ、そして・・・。

「うぅ・・・!うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

泣き叫びながら廊下を駆けて行きました。

部屋に残ったファフネーは、ジャヒーが出て行った扉を見つめています。

「・・・仕方ないのよ、ジャヒー。これくらい冷酷でないと、魔界の女王なんて勤まらないのよ・・・」

そう独りつぶやくと、ファフネーは水晶球にそっと触れました。それと共に、映っていた川面は消え、透明な水晶球に戻ります。その表面には、淋しそうなファフネーの顔が逆さまに映っていました・・・。


紅葉とティーゲルは、先程と同じ場所にいました。二人で(と言うより紅葉が一人で)話していると、向こうからジャヒーが走って来ます。

その姿を見つけた紅葉は、嬉しそうに笑うと両腕を広げました。

「ジャヒー!戻って来てくれたのね!!さぁ、私の胸の中に飛び込んでいらっしゃ・・・」

ジャヒーは紅葉の横を、もの凄い速度で走り抜けて行きました。ティーゲルは黙ってそれを見送り、紅葉は笑顔を凍り付かせています。

「行ってしまったぞ」

「分かってるってば・・・」

紅葉は、笑顔のまま泣いています。

「それに、あの娘泣いていたわ」

振り返った紅葉は、一転して真剣な表情をしています。

「何かあったようだな」

「そうね。恐らくは、姫さまの身にね」

走り去るジャヒーを、紅葉はいつまでも見つめていました。

「ジャヒー・・・」


自室に駆け込んだジャヒーは、ベッドに身を投げるとそのまま泣き続けました。

「姫さま・・・。姫さまぁ・・・」

涙は止めどなく溢れ、シーツに沁み込んでいきます。

「姫さま・・・申し訳ありません・・・」

ジャヒーは、ただひたすらに泣き、アリスの名を呼び続けます。

やがて、少し落ち着きを取り戻したジャヒーは、ベッドから身を起こし、壁の一点を見つめました。

彼女の部屋は質素で飾り気が無く、必要最低限の物しか置かれていません。しかし、ジャヒーが見つめる壁にだけは、絵の入った額が掛けられています。その額は、彫刻の施された見事な物でしたが、肝心の絵はと言うと、名画とは程遠い物です。

一人の人物が描かれているのですが、それは、頭が大きく体が小さい、バランスの悪い構図でした。目はただ丸いだけで、笑顔を表現したいのか、口は三日月のような形をしています。そして、人物の足元には拙い文字で、「ジャヒー」と書かれていました。

落書きのようなこの絵は、しかし、ジャヒーにとってはどんな名画よりも大切で、価値のある物だったのです。

「姫さま・・・」

ジャヒーは、この絵を賜わった時の事を、思い出していました。


それは、アリスがまだ幼かった頃の事です。その日、ジャヒーはきれいに畳まれた衣類を持って、アリスの部屋へとやってきました。

「失礼いたします・・・」

恭しくお辞儀をしたジャヒーが顔を上げると、膝を抱えたアリスが、ベッドの上にちょこんと座っていました。その姿がとても可愛らしかったので、ジャヒーは思わず微笑んでしまいます。しかし次の瞬間、アリスの様子がおかしい事に気付きました。アリスは、とても悲しそうな顔をしています。

「姫さま、どうされました・・・?」

ジャヒーはアリスの前にしゃがむと、その目を正面から見つめ、そう尋ねました。

「ねぇ、ジャヒー・・・」

「はい、何でしょう・・・?」

「私って・・・出来そこないなの?」

「え・・・?」

思いがけない言葉をアリスが口にしたので、ジャヒーは戸惑います。

「姫さま・・・?」

「私って、出来そこないなのかなぁ?」

アリスは、今にも泣き出しそうです。

「姫さま、何かあったのですか・・・?このジャヒーに、全てお話し下さい・・・」

ジャヒーは、親愛なる姫君に優しくそう言いました。その言葉に元気づけられたのか、アリスはうなずくと、ぽつりぽつりと話し始めます。

「今日ね、私がお城の中で遊んでたら、兵隊さん達がお話ししてたの。それでね、私、何をお話ししてるのか聞いてみたくて隠れてたの。そしたら、私の事をお話ししてたの」

自分の家臣である者達を、『兵隊さん』と呼ぶアリスの子供らしさに、ジャヒーは微笑ましい想いを抱きましたが、続くアリスの告白に驚く事になります。

「それでね・・・私の事・・・人間の血が半分入った、出来そこないだって言ってたの・・・」

「!」

「お母様は強いけど、私は・・・私は半分人間だから、きっと弱いに決まってるって。そんな出来そこないに、仕えたくないって」

「・・・」

「私は・・・みんなに嫌われてるのかな?みんなは、私と仲良しになってくれないのかな?」

そして、アリスはついに泣き出してしまいました。両手で顔を覆い、肩を震わせ嗚咽しています。みんなと仲良くしたいと言う、およそ、魔界の姫君らしからぬ想いを踏みにじられ、アリスはその小さな胸を痛めていたのでしょう。そんなアリスを、ジャヒーは哀れみ、そして、愛おしく思うのでした。

「それなら、私は姫さまと同じですね・・・」

ジャヒーはそっと、アリスの手を握ると、優しくそう言いました。

「え?」

アリスは、涙に濡れた顔を上げます。

「同じって?」

「私も、人間と吸血鬼の、混血なのです・・・」

「本当!?」

「はい・・・。私は吸血鬼の父と、人間の母との間に産まれました・・・」

アリスはとても驚きました。ジャヒーはアリスの教育係でしたが、それと共に、武術の師でもあったのです。ジャヒーの強さは女王の重臣達と比べても決して劣る物では無く、その実力を知る者は、

「何故、あれ程の手練れがメイドなどに身をやつしているのだ?」

と、首を傾げる程でした。

「それなら、どうしてジャヒーは強いの?」

目を丸くしているアリスに、ジャヒーは微笑むとこう答えました。

「頑張ったからですよ・・・」

「頑張ったの?」

「はい・・・。他の者の何倍も、何十倍も頑張ったから、今の私があるのですよ・・・」

「でも、人間との混血は弱いって、みんな言ってるよ?」

「それは、関係ありません・・・。親や、生まれた環境がどうあれ、その後に、自分がどれだけ頑張る事が出来たか、それが大切なのです・・・。両親が、強い力や権力を持っていようと、それに安心して努力を怠れば、いつまで経っても強くはなれません・・・。逆に、自分の目標に向かって、懸命に努力していれば、いつかはそこに、たどり着けるかもしれませんよ・・・」

ジャヒーは自らの言葉を、ひとつひとつ、噛みしめるように語りました。何故なら、彼女もまた幼い頃、アリスと同じ事を言われ、心を傷付けられた事があったからです。その時、泣いているジャヒーに父は今と同じ事を語って聞かせ、励ましてくれたのです。

アリスは、ジャヒーの言葉に目を輝かせました。

「ジャヒー、ありがとう!私、頑張る!!」

「姫さま、その意気です・・・」

そしてアリスとジャヒーは、微笑みを交わすのでした。

その次の日、アリスがにこにこ笑いながらジャヒーの元へと走って来ました。

「どうかなさいましたか・・・?」

ジャヒーは掃除の手を止め、アリスに尋ねます。

「あのね、うんとね」

「はい・・・?」

アリスは後ろに何かを持っていて、ジャヒーから見えないように隠しているようです。

「昨日はありがとう。だからね、ジャヒーにね、これあげる!」

そう言ってアリスが差し出した物は、一枚の絵でした。その絵を見て、ジャヒーはくすりと笑います。

「もしかして、これは・・・」

「ジャヒーだよ!どう?上手でしょ!」

その絵こそ、現在、ジャヒーの部屋に飾られている絵でした。得意になって答えるアリスに、ジャヒーは満面の笑みを向けます。

「えぇ、とってもお上手ですよ・・・。まぁ、私はこんなに美人ですか・・・?」

「うん!ジャヒーはね、強くて美人で、とっても優しいんだよ!だからぁ・・・」

「?」

「私、ジャヒーのこと、だーい好き!!」

そう言って、アリスはジャヒーに抱き付いてきました。

嬉しそうに抱き付くアリスを、ジャヒーもまた抱き締め、

「身に余る光栄です・・・。私も、姫さまをお慕いしておりますよ・・・」

と、心からの想いを口にしました。

「ジャヒー、いつまでも、一緒にいてね!」

「はい、お約束いたします・・・」

 

「そう、約束したはずなのに・・・」

 ジャヒーの目に、再び涙が溢れてきます。

「仕方ないとは言え、姫さまのおそばにお仕えする事もできず、あまつさえ、姫さまの危機に馳せ参じる事も出来ないなんて・・・」

涙がひとつ、またひとつとこぼれ落ち、シーツに沁み込んで行きます。

「姫さま、どうか、どうかご無事で・・・」

ジャヒーは、さめざめと泣き続けました。その時、真剣な顔の紅葉が、ドアの外に立っているのにも気付かずに・・・。


その頃、アリスと鮎美は、川岸の砂地に並んで倒れていました。

アリスは重傷を負いながらも、鮎美を抱きかかえたまま川を泳ぎ、水深が浅くなった所で岸に上がりました。力尽きたようにその場に倒れた二人は、荒く息をしています。

負傷していない鮎美は早く回復し、起き上がるとアリスに呼びかけました。

「アッちゃん、大丈夫!」

アリスは何も答えず、荒く呼吸を繰り返しています。発作はすでに治まっていて、体は元に戻っていました。出血も止まっていましたが、しかし、制服には血の染みが広がっていて、それが出血の多さを物語っています。

「アッちゃん!アッちゃんてば!!」

必死に呼びかける鮎美の目には、涙が光っています。

「アッちゃんお願い!何か言って!!アッちゃん!!」

 何度目かの呼びかけに、

「あ・・・あ、ゆ・・・み・・・」

ようやくアリスは答えてくれました。その声は、今にも消え入りそうなか細いものでしたが、それでも、鮎美の顔はぱっと明るくなりました。

「良かったぁ、気が付いたんだね」

「さっきから・・・気付いてたわ・・・。声を出す・・・気力が、無かったの・・・・」

苦しい息の中、それでも鮎美を安心させようと、アリスは笑って答えます。その笑顔も、わずかに唇の端が上がっているにすぎませんでしたが。

「アッちゃん、大丈夫!?痛くない!?」

「痛いわよ・・・。それに、あんまり・・・大きな声を・・・出さないで・・・。ヤツが追って来て・・・いたら・・・見つかってしまう・・・」

鮎美は慌てて辺りを見まわします。もし、あの怪物が今やって来たら、今度こそ助からないでしょう。鮎美は、声を潜めてアリスに尋ねました。

「ねえアッちゃん、立てそう?」

「う~ん・・・。ムリ・・・」

アリスは胴体を刺し貫かれ、同時に発作まで起こしていました。その上、鮎美を助けるために川を泳いだのです。もはや彼女の体はボロボロで、本当は話すのも辛いのです。

「とりあえず、病院に行かなきゃ」

鮎美は誰にともなくそうつぶやくと、

「ちょっと痛いかもしれないけど、ガマンしてね」

アリスを抱きあげようとしました。

「あんたの力じゃ・・・無理よ・・・」

「平気だよ。アッちゃんのためだもん」

そう言ったものの、やはり鮎美の力ではアリスを持ち上げられるわけも無く、

「うんしょっ・・・て、わあ!!」

鮎美はころんと倒れ、ぐったりしたアリスの下敷きになってしまいました。

「いったぁ・・・。私が・・・ケガしてるのを、忘れないでよ・・・」

「あ!ごめん!!」

鮎美は悪戦苦闘しながらも、何とかアリスを背負う事に成功しました。

「これなら、何とかなりそう・・・」

鮎美はそのまま、土手を登ろうとしました。しかし、彼女が非力なのと、土手の草で足が滑ってしまうせいで、思うように進む事が出来ません。途中まで登っても、すぐにずるずると下がってしまいます。

「ま、負けるもんか~!!」

それでも、鮎美は諦めません。しかし、何度やっても結果は同じでした。

「せめて、階段があれば、上に行きやすくなるのにな~」

鮎美が、彼女にしては珍しく弱音を吐いていると、

「無理、しなくて良いよ・・・。鮎美だけでも、逃、げ、て・・・」

アリスが耳元で、力無くささやきました。

「そんな!ダメだよ、アッちゃんを置いていくなんて!!」

憮然とする鮎美に、アリスは言いました。

「そうじゃ、なくて・・・、あんたが、助けを呼びに・・・行けば・・・良い・・・でしょ・・・」

しかし、その提案を、鮎美はきっぱりと断りました。

「でもその間に、アッちゃんがあのお化けに襲われたらどうするの!?私が助けを呼んで戻ってきたら、アッちゃんが・・・」

「鮎美・・・」

「アッちゃんにもしもの事があったら、私、嫌だよ!!」

「あ、あゆ・・・み・・・」

「大丈夫だよ。私が、絶対にアッちゃんを助けてあげるからね!」

鮎美はアリスを元気づけるように笑うと、再び土手を登り始めました。

「鮎美・・・」

そうつぶやくアリスは、力無くうなだれているため顔が見えません。でも、彼女が泣いている事に、鮎美は気付いていました。

「泣かないでアッちゃん、私は平気だよ。だから心配しないで」

そう言いながらも、鮎美は心の中で叫んでいました。

(早く、早くアッちゃんを病院に!!このままだとアッちゃんが!!)

鮎美は焦っていました。アリスの命の危機を救うには、自分は余りにも非力だと言う事を、鮎美は理解していました。でも、今ここには自分しかいません。アリスを救えるのは、自分しかいないのです。

その時、鮎美は背負っているアリスの様子がおかしい事に気付きました。

「アッちゃん・・・?」

「・・・・・・」

返事がありません。

「アッちゃん、どうしたの!?」

鮎美は、アリスを地面に横たえました。気絶しているのか、アリスは苦しそうな顔をして、固く目を閉じています。鮎美は大きな声で呼びかけました。

「アッちゃん!アッちゃん!!返事してぇ!!」

「・・・・・・」

「アッちゃんお願い!!目をあけてぇ!!」

「・・・・・・」

どんなに呼んでも、アリスは反応してくれません。気のせいか、呼吸までもが弱まっているように思えます。

「アッちゃん!だめぇ!目を開けてよぉ!!死んじゃだめぇ!!」

鮎美は、夜空に向かって叫びました。

「誰か助けてえ~~~~~~~~~~~!!」

しかし、

「・・・だれ・・・か・・・」

その叫びは、空しく川面を流れて行くだけでした。

鮎美が呆然とその場に座り込んでいると、何かが聞こえたような気がしました。

「・・・?」

その音は、土手の上から聞こえてきます。そしてそれは、だんだんとこちらに近付いているようでした。

「何の・・・音・・・?」

やがて鮎美は、それがハーモニカの音だと気付きました。誰かがハーモニカを吹きながら、こちらに向かって土手の上を歩いているのです。鮎美が見上げると、人影が見えました。

鮎美は、反射的に叫んでいました。

「助けて!助けてくださーい!!」

ハーモニカの音が、ぴたりと止まりました。鮎美は更に、人影に向かって叫びます。

「お願い!そこの人、助けてください!!お願いしまーす!!」

その途端、鮎美の目に光が飛び込んできました。彼女はその眩しさに目を細め、手で光を遮ります。

「!?」

訳が分からず戸惑っていると、上から声がしました。

「君、そこで何してるの!?」

それは、若い女の声でした。

「だ、誰ぇ・・・?」

鮎美は眩しさに顔をしかめながら、逆に尋ねてしまいます。

「誰って・・・。それはこっちのセリフだわよ!」

ムッとした声が返って来ました。その時になって、鮎美はようやく、自分が懐中電灯の光を向けられているのだと気付きました。

「あ、怪しい者じゃありません!友達を、アッちゃんを助けてほしいんです!!」

「アッちゃん?」

懐中電灯の光が、ゆっくりと鮎美の足元へと移動し、そして、倒れているアリスを照らし出しました。

「ちょっと!!その子、ケガしてるの!?」

人影は、土手を滑り下りて来ました。

「一体何があったの!?」

その女性は、持っていた荷物―木刀に掛けられた学生カバンと、お菓子等が入ったビニール袋―を、ドサッとその場に置くと、アリスに駆け寄りました。

女性は思っていたよりも若く、鮎美とそれほど年が離れていないようです。彼女はとても背が高く、ジャージ姿で、そして何故か、頭には白い鉢巻きをしていました。

「うわっ!血だらけじゃない!!事故にでも遭ったの!?」

「えっと、あの・・・」

まさか本当の事を言う訳にも行かず、鮎美が口ごもっていると、

「だめだ、やっぱり病院に行かなきゃ!」

少女はそれには構わず、ジャージの上着を脱ぐと、アリスの胴体に巻き付けました。そして、ぐったりとしたアリスを軽々と背負い、

「悪いけど、それ持ってきて!」

木刀に掛けられた荷物をあごで指すと、そのまま一気に土手を駆け上がってしまいました。

「あ!待ってぇ!!」

鮎美が荷物を担いで土手に登ってくると、

「病院に行くからついて来て!!」

そう言うが早いか、少女は走り出し、鮎美もそれに従いました。

少女はアリスを背負っていると言うのに、それを感じさせない程の力走で、鮎美はどんどん引き離されてしまいます。

「ま、待ってぇ~~~!」

ヨロヨロと走りながら鮎美が叫ぶと、

「この先の階段を下りて、真っすぐ行った所に病院があるから、そこに来て!!」

少女はそう怒鳴ると、走って行ってしまいました。

「は~・・・い・・・」

鮎美がゼイゼイ言いながらそう答えた時、すでに少女は、町へと続く階段を駆け下りて行ってしまいました。


「失礼しまーす!!」

病院の扉を開けると、少女は大きな声で叫びました。

「すいませーん!大至急、先生呼んで下さーい!!」

その声を聞いて、ナースステーションから若い女性看護師が出て来ました。

「あらあら、どうしたの?またトレーニング中にケガしたの?」

看護師は最初、にこにこと笑いながら歩いて来ましたが、少女に背負われたアリスを見て、瞬時に顔を引き締めました。

「こっちに来て!」

看護師に導かれて、少女は診察室に入り、二人がかりでアリスを診察台に横たえました。

「先生呼んでくるから」

看護師は診察室を出て、しばらくして、白髪頭の老医師と共に戻って来ました。医師はアリスの血に染まった姿を見て、とても驚いたようです。

「何があったんだね?」

そう少女に尋ねながら、医師はアリスの容体を診はじめます。

「それが、あたしにも良く分からないんですけど・・・」

「うむ。とにかく治療が先だ。すまないが、廊下で待っていてくれ」

「はい」

少女は後の事を二人にお願いすると、そのまま病院の外に出ました。

「あの小さい子はまだかな?」

少女が自分が来た方向を見ると、小さな影がよたよたと走っているのが見えます。街灯に照らされたその人物は、まぎれも無く鮎美でした。

「あ、まだあんな所にいたのね」

少女は鮎美の元へと走ります。

「君、大丈夫?」

「ハア、ハア、ハア、だい、ハア、ハア、じょうぶ、ハア、ハア、ですぅ、ハア」

声も絶え絶えに答える鮎美でしたが、急にはっとなって少女に尋ねました。

「アッちゃんは!?アッちゃんはど・・・ゴホッゴホッ!!」

急に大声を出したため、鮎美は激しく咳きこんでしまいます。

「落ち着いて。今、お医者さんが診てくれてるから」

鮎美の背中をさすりながら、少女はそう言うと、

「こっちよ」

荷物を代わりに持ってくれて、まだふらついている鮎美の肩を抱いて支えるように、病院へとつれて行ってくれました。


廊下にある長椅子に、長身の少女と鮎美が座っています。鮎美は、濡れてしまった制服から、体操着に着替えていました。

アリスがこの病院に運ばれてから、すでに二十分ほどが経過しています。しかしまだ、治療が終わる気配はありません。また、ここに着いてからと言うもの、鮎美はほとんど口をきかず、うなだれたまま床を見つめていました。

(私のせいだ・・・)

鮎美は、心の中でつぶやきました。

(私のせいで、アッちゃんは・・・)

今日、公園でさやかがいじめられていた時に、鮎美はアリスに「強いんだから守ってくれれば良いのに」と言ってしまいました。しかし、アリスはその鮎美を守ろうとして、重傷を負ってしまったのです。

人を守ると言う事は、その人の代わりに傷付くかもしれないと言う事。そんな大切な事に、鮎美は気付いていなかったのです。

(アッちゃん、アッちゃんごめんね・・・)

鮎美は、涙を流していました。

(私、何も分かってなかった・・・。アッちゃんは、私を助けようとしてあんなに傷付いて、苦しんで・・・。アッちゃんごめんね!偉そうな事言って、本当にごめんね!!)

自らを責める鮎美の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、床へと降り注いでいきます。

すると、

「これ、使ってよ」

隣に座っていた少女が、ハンカチを差し出してくれました。

「・・・でも、助けてもらった上に、ここまでしてもらったら・・・」

「良いから、遠慮しないで」

「どうも・・・」

鮎美はペコっと頭を下げると、少女からハンカチを受け取りました。涙を拭いていると、ふと、そのハンカチから温もりを感じ、鮎美は少し心が落ち着きました。

「あの、ありがとうございました。これ、洗って返しますね」

「良いわよ、そんなに気を使わなくても。どうせ家に何枚もあるんだから」

「でも・・・」

「良いってば。もう、君ってば随分と律儀なんだね」

「そうですか?そう言えば、見た目の割に、しっかりしてるって言われる時があります」

鮎美は、困ったように笑いました。

「ふぅん。ちなみに、君って何歳なの?」

「14歳。中学2年生です」

「えぇ!?」

少女は目を丸くしました。

「あたしと同い年じゃない!!」

「え!!そうなんですか!?」

二人はお互いを、まじまじと見つめました。

(小学生だと思ってたのに・・・)

(大学生だと思ってたのに・・・)

鮎美は、改めてその少女を見てみました。彼女はとても身長が高く、アリスや、かつての友人である佐藤潤よりも長身でした。おそらくは、180センチ近いのではないかと思われます。日焼けしたその顔と、濃い眉はいかにも気が強そうでしたが、ややつり目気味の大きな目はとても涼やかで、むしろ優しそうな印象を受けます。肩まで伸びた黒髪は意外と艶やかで、天井の照明を反射して煌めいていました。

「でも、何で鉢巻きなんてしてるんですか?」

「あぁ、これ?」

「白組・・・なんですか?」

鮎美の意味不明な質問を聞いて、少女は椅子から転げ落ちそうになりました。

「あのねぇ!今は体育祭の季節じゃないでしょお!」

「あ、そうですよね」

「これはね、もらったんだ」

「誰にですか?」

少女は鉢巻きを外すと、とても大事そうに両手で持ち、懐かしそうにそれを見つめました。

「大切な人にね・・・」

その時鮎美は、少女の横顔に、誰かの面影を見ました。

(この人、誰かに似てる・・・)

長身に、ジャージ姿の気の強そうな少女。それと同じような人物が、身近にいたような気がしましたが、

(でも、誰だっけ・・・?)

思いだす事ができません。それに今は、

(アッちゃん、大丈夫かな・・・?)

アリスの事が気になってしまい、たった今抱いた疑問を、鮎美はすぐに忘れてしまいました。手術室の扉を見たまま黙ってしまった鮎美に、

「心配?」

と、少女は話しかけてきます。

「・・・はい・・・」

小さく答える鮎美に、少女も「そうだよね」とうなずきます。

しばらくは、その場を沈黙が支配しましたが、やがて少女が口を開きました。

「そう言えば、君たちってびしょ濡れだったね。川に落ちたの?」

「え?は、はい。そうです・・・」

「どうして?」

「え!そ、それは・・・」

「?」

「え~と、あの、私が川に落ちちゃって、それで・・・アッちゃんが・・・」

「アッちゃんって、あの外国人の娘?」

「そうです、アリスって言うんです」

「その『アッちゃん』が、川に落ちた君を助けようとして、跳びこんだ訳だ?」

「は、はい!そうなんです!」

「それで、ケガしちゃったんだね」

「・・・・・・」

少女は納得したようにうなずき、鮎美は再び、自らを責めるようにうなだれました。

 すると少女は、こう言ったのです。

「あの娘、それだけ君を、大切に思ってるんだね」

「え・・・?」

鮎美は少女に目を向けました。

「あの娘、あたしが背負っている間中、ずっと『鮎美・・・』って―多分、君の名前だよね―呼び続けていたもの」

「アッちゃん・・・。あんなに苦しんでいたのに、私の事を・・・」

鮎美の目に、また、涙が溢れてきました。

「もう、君って泣いてばかりだわね。ほら貸して」

少女は鮎美の手からハンカチを受け取ると、涙を拭いてくれました。

「どうもすみません・・・」

恐縮する鮎美に、少女は「良いってば」と屈託の無い笑みを向けました。

その時、『手術中』のランプが消え、それに気付いた二人は思わず立ち上がります。

「アッちゃん・・・」

「・・・・・・」

やがて扉が開き、ベッドに寝かされたアリスが運び出されてきました。腕に点滴をされて、両目をつむっています。

「大丈夫、アッちゃん?」

鮎美が呼びかけると、意外にも、アリスは目を開けました。

「うん・・・。何とかね・・・」

「え!?」

それに驚いたのは鉢巻きの少女です。アリスの制服は血まみれで、よほどのケガをしているのだろうと思っていたのです。しかし、アリスは辛そうではありましたが、鮎美に笑顔を向けています。

「アッちゃん、本当に大丈夫なの?だって、あんなに・・・」

「大丈夫。ただ、もの凄くだるいけどね」

「でも・・・」

「休ませてやんなさい。軽傷だったが、疲労が激しいようだからな」

老医師の言葉に、今度は鮎美が驚きました。

「軽傷!?」

「うむ。出血がひどいようだから、どれ程の重傷かと思ったが、腹と背中にわずかに傷がある程度だったよ」

「本当ですか・・・?」

「あぁ。おそらくは心配無いだろう。今夜一晩入院して、様子を見る事にしよう」

それを聞いて、鮎美は心底ほっとしました。

「良かった・・・。本当に良かった・・・」

「鮎美ったら・・・。う・・・ん・・・」

安堵して、思わず涙する鮎美にアリスは微笑みましたが、すぐに辛そうに呻いてしまいます。

「それじゃ、行きますね」

女性看護師に運ばれて、アリスは病室へと入って行きました。

それを見送る鮎美は、アリスの無事を喜びつつも、複雑な気持ちになりました。

(アッちゃんって、やっぱり普通の人じゃないんだね・・・)

アリスの人間離れした身体能力、発作による体の変化、そして、驚異的な回復力。更に、先程、自分達を襲った怪物など、恐ろしい事が立て続けに起こりました。

(私達、これから一体、どうなっちゃうんだろう・・・?)

鮎美が不安に苛まれていると、ぽんと肩に手を置かれました。ふり返ると、鉢巻きの少女がにこにこと笑っています。

「良かったね、友達が無事で」

鮎美はそこで初めて、自分がまだ、助けてもらったお礼を言っていない事に気がつきました。

「あ、あの!助けてもらってありがとうございました!!」

「なぁに、当然の事をしたまでさ」

「いずれ改めて、お礼をしに行きますから」

深々と頭を下げる鮎美を見て、少女は照れくさそうに鼻をこすります。

「良いってば。困った時はお互いさまでしょ?」

そう言うと少女は、次に老医師に向き直り、

「急にケガ人をつれて来てすいませんでした」

と、頭を下げました。鮎美も「いっけない」とつぶやいて、老医師に頭を下げます。

「友達を助けてくれて、ありがとうございました!」

「うちは病院だからな、ケガ人を助けるのは当たり前だよ」

老医師は笑うと、次には少女に、

「そう言えば、あいつはどうした?最近見かけないが、もしかしてお迎えが来たか?」

と、ニヤニヤ笑いながら尋ねました。

「それ、お医者さんのセリフじゃないですよ。お祖父ちゃんなら元気ですよ。『曾孫の顔を見るまでは死なない』って、いつも言ってますから」

「奴なら100歳まで生きそうだからな。たまにはうちに将棋を指しに来いって言っといてくれ」

「はい、伝えておきます」

その時、病室から看護師が出て来ました。彼女は鮎美と目が合うと『ニコッ』と笑いかけ、鮎美も『ペコっ』と頭を下げました。そのまま看護師はナースステーションへ入って行きます。

「そう言えばさ、君、まだ家の人に連絡してないでしょ?」

少女は気が付いたように言いました。

「あ!そうだった!」

鮎美は慌てました。一度に色々な事が起きたせいで、父に連絡するのを忘れていたのです。

(お父さん、心配してるだろうな。晩ごはんだって、まだ作ってないし、お腹すかせてるだろうな・・・)

「早く電話してきなよ。ね?」

「はい」

鮎美が院内の公衆電話に向かおうとすると、

「それじゃ、あたしはこれで」

少女は木刀をかつぐと、出口に向かって歩き始めました。鮎美は慌ててその後を追います。

「待って!」

すでに病院の外に出ていた少女に、鮎美は呼びかけます。

「なぁに?」

「あの、やっぱりお礼を・・・」

「いいよ、お礼なんて」

「なら、せめて名前だけでも・・・」

すると少女は「ピュ~」と口笛を吹き、気取った感じで、

「名乗るほどの者じゃないよ」

と言ってウインクしました。

「はぁ・・・(本当に、こんな事言う人っているんだ・・・)」

呆気にとられる鮎美でしたが、

「それじゃ、お大事にね」

手を振って去って行く少女の背中に、

「ありがとうございました!」

鮎美は、深々と頭を下げるのでした。


その少し前、病室では女性看護師と、ベッドに寝かされたアリスがいました。

「点滴が終わる頃にまた来るけど、何かあったらそのスイッチを押してね」

看護師はアリスに毛布をかけながら、彼女を気遣うように優しく語りかけました。

「あの、鮎美は、大丈夫ですか・・・?」

アリスは自分より、最愛の少女の身を案じる質問をします。

「あの小柄な女の子ね?心配しないで。あの子はケガひとつしてないわ」

看護師はそう答えると、

「ゆっくり休んでね」

病室を出て行きました。

残されたアリスは、天井を見上げています。その顔には、苦い表情が浮かんでいました。

(まさか、発作のおかげで助かるなんてね・・・)

腹の傷を押さえながら、アリスは複雑な思いにとらわれていました。

彼女が受けたひどい傷は、今は数針縫う程度になっています。何故なら、アリスの体は発作のために、一時的にドラゴンの強靭な生命力と回復力を有する事になったからです。人間ならば命を落としていたかもしれない傷も、ドラゴンの生命力ならば再生する事は造作も無い事でした。

もしあの時、発作が起きていなければ、アリスの命は無かったかもしれません。あるいは、命の危機を迎えた彼女を救うために、発作が起きたのかもしれません・・・。

忌まわしいと感じていた発作に、逆に救われた形になったアリスは、改めて、自分が人間ではないのだと思い知らされました。

(それに、あの程度のヤツに後れを取るなんて・・・)

アリスは悔しさに唇を噛みました。しかしそれは、戦いから逃げた事に対するものではありません。

当初アリスは、戦いを優位に進めていました。しかし、鮎美が戻って来たためにこのような事態になってしまったのです。もちろん、その事で鮎美を責める気は無いのですが、鮎美が怪物を見逃そうと言った時、自分はそれに反対するべきだったと後悔していました。

(鮎美の気持ちを大切にしようとしたのに、結局、鮎美を危ない目に遭わせてしまったわ・・・)

アリスは、唇を噛みました。

(あの時、猫が乱入してこなかったら、今頃私達は・・・)

そして、アリスは泣いていました。自分の油断のために、鮎美を危機にさらしてしまった事に対する悔しさのために。

(こんな事じゃ、鮎美を守るなんて出来やしない・・・)

一人泣いていたアリスでしたが、急にある事に気付きました。

(あの猫、そう言えばどこかで・・・)

急に現れたあの猫に、アリスは見憶えがありました。記憶の糸を手繰り寄せていたアリスは、やがて、ある日の出来事を思い出したのです。

今から数ヶ月前、魔界に帰っていたアリスが鮎美と再会したその日、塀の上に一匹の猫がいました。その猫は、礼香が変身した小鳥の死骸をくわえていたのです。まるで、自分達にそれを見せつけるかのように。

(あの時の猫!?でも、何故あいつが?)

 アリスが考え込んでいたその時。

「アッちゃん、大丈夫?」

心配そうな顔の鮎美が、部屋に入ってきました。

「あ・・・」

アリスは慌てて涙を拭うと、笑顔を作ります。

「う、うん。何とかね」

「アッちゃん、もしかして、泣いてたの?」

「な、泣いてなんかいないよ!」

「・・・・・・」

「本当だってば」

「・・・・・・」

「鮎美?」

下を向いてしまった鮎美は、肩を震わせていました。アリスは苦笑してしまいます。

「何よ。あんたこそ泣く事ないでしょう?」

「アッちゃん・・・ごめんね・・・」

「何を謝ってるの?あんたは何も悪い事してないじゃない」

「ううん、私が悪いんだよ。私のせいで、アッちゃんに大ケガさせちゃったんだもん」

「違うよ。私が油断しただけだよ。鮎美が気に病む事ないよ」

「だって・・・」

「それよりさ・・・」

アリスは手を差し伸べます。

「こっち来て・・・」

「・・・うん・・・」

鮎美はアリスの手を、そっと握りました。鮎美の温もりが、体の中へと流れ込んでくるように感じて、アリスは心が温まる思いがしました。

「あ~。こうしてると癒されるな~」

「もう、アッちゃんたらぁ・・・」

微笑み合いながらも、二人はそれぞれの決意を胸に秘めていました。

(鮎美を、何があっても守るんだ・・・)

(アッちゃんを、今度は私が助けるんだ・・・)

((絶対に!!))


「娘達がお世話になりました」

鮎美から連絡を受けた護は、軽自動車で迎えに来てくれました。その車は中古車で、鮎美が買い物を大量にしなければならない時や雨の日の為に、護が思い切って購入した物です。今まで、鮎美に苦労をかけてしまった事への、せめてもの罪滅ぼしと思っての事でした。

「二人とも、大事でなくて良かった。あの娘の事は、まかせておいてくれ」

「気を付けてね」

「それでは、失礼いたします」

「アッちゃんを、よろしくお願いします」

老医師と女性看護師に見送られて、鮎美と護は出発しました。

「電話をもらった時は驚いたぞ」

「うん、ごめんねお父さん・・・。晩ごはんだって、まだだし・・・」

助手席に座っている鮎美は、申し訳なさそうにしています。「そんな事気にしなくて良いよ。でも父さん、本当は腹ペコなんだ」

この時、時間は午後八時を過ぎていましたから、護はもちろん鮎美も空腹でした。

「うん。帰ったらすぐ作るね」

「今からじゃ大変だろう。そうだ、ラーメンでも食べに行こうか?」

「ラーメン!良いの?わーい!」

両手を上げて喜ぶ鮎美でしたが、急に、

「あ・・・。やっぱり、良いよ・・・」

と、目を伏せてしまいました。

「どうして?」

「どうしても・・・」

鮎美の態度に、護はピンと来ます。

「アリスさんが心配だからかい?」

「え!?」

「アリスさんが入院してるのに、自分だけ美味しいものを食べるなんて出来ないって、思ってるんだろう?」

「どうして分かったの?」

「それは分かるよ。親子なんだから」

「そっか。親子だもんね・・・」

二人はしばらく沈黙していましたが、やがて、鮎美が口を開きました。

「私と違って、アッちゃんはお母さんと離れて暮らしてるんだよ・・・。一人きりなんだよ・・・」

「そうだったね」

護は運転しながら答えます。

「それにね、そのお母さんとも、あまり上手くいってないみたいなんだ・・・」

「・・・そうか・・・」

「そんなアッちゃんが、私のせいでケガをして、今は一人で病院にいて・・・。それなのに・・・」

「それなのに、ラーメンなんて食べる気になれないと?」

後の言葉を護が続けると、鮎美は「うん」と頷きました。

その後、また二人は沈黙してしまいましたが、今度は護が口を開きました。

「なあ鮎美、だったらこれからも、アリスさんに家に遊びに来てもらいなさい」

「え?」

鮎美は意外に思いました。

「良いの?お父さん、アッちゃんが苦手なんじゃなかったの?」

娘のはっきりとした指摘に、護は苦笑します。

「そんな事は無いよ。それに、アリスさんはお前を助けてくれたんだろう?それに、以前も助けてもらった事があったし・・・」

数ヶ月前、鮎美が不審者に追いかけられた時、アリスに助けてもらった事がありました。アリスは鮎美の大親友であると同時に、命の恩人でもあったのです。

「だから、何も遠慮はいらないから、これからも遊びに来てもらいなさい」

「うん!」

父がの言葉が嬉しくて、鮎美は元気を取り戻していました。

「それなら、明日あらためてお見舞いに行くとするか」

「お医者様がね、明日には退院できるだろうって」

「それは良かった。それじゃ、この車で迎えに行ってあげような」

「本当?やったー!!」

鮎美は、先程よりも元気にバンザイしました。

「お父さん、明日、うちで退院のお祝いしても良い!?」

「ああ、良いとも」

親子は顔を見合わせてニコニコと笑いました。

「あ~ぁ、元気になったらお腹すいちゃった。お父さん、やっぱりラーメン食べに行こう!」

「全く、現金なやつだな」

「良いじゃない。ね、お父さんは何にする?私は味噌ラーメンが良いかな~。コーンとバターと、ゆでたまごをトッピングして、厚切りチャーシューのせて・・・」

「あ、俺もそれにしようかな~」

「あははっ!それじゃ、ラーメン屋さんにしゅっぱーつ!」

「しゅっぱーつ!」

楽しそうに笑う親子を乗せて、車は夜の街を、ラーメン屋目指して走って行きました。


「おはよう。具合はどうかしら・・・って、あら?」

翌朝、女性看護師がアリスの部屋に入ると、そこにアリスの姿はありませんでした。

「トイレにでも行ったのかしら?」

ベッドに近付くと、毛布がきちんとたたまれています。そしてその上に、一枚のメモが残されていました。

そのメモには、こう書かれています。

『お世話になりました。治療費は後で払いに来ます』

「た、大変!!」

女性看護師は、慌てて部屋を跳び出して行きました・・・。


そんな事があったとはつゆ知らず、鮎美はいつものように登校しています。今日は、学校から帰った後、父と共にアリスを迎えに行き、そして三人で晩ごはんを食べようと決めていました。その後は、アリスに泊まってもらうつもりです。アリスとは何の約束もしていませんでしたが、彼女もきっと、この申し出を喜んでくれると鮎美は信じています。

(早く、放課後にならないかな~。アッちゃんに早く会いたいな。今日はいつもよりも腕によりをかけて、美味しいご飯を作ってあげるんだ。あ、でも、退院したばっかりだから、あまり脂っこい物とかは、止めといた方が良いかな?)

アリスを交えた今日の夕食は、とても楽しいものになるでしょう。鮎美はその時を想うと、踊る様な足取りで歩いてしまい、自然と鼻歌まで出てしまいます。そんな鮎美を見て、同じ学校の生徒達がくすくすと笑っています。それに気付いた鮎美は顔を真っ赤にすると、恥ずかしそうにひとつ咳払いをし、何事も無かったかの様に澄ました顔をしました(相変わらず、頬は赤みを帯びていますが)。

しばらく歩くと、鮎美は周りの様子がおかしい事に気が付きました。いつもなら登校してくる生徒達のおしゃべりする声で騒がしい程なのに、その声が徐々に小さくなってきたのです。

それとともに、

カツーン。カツーン。カツーン・・・。

と、何か固い物がアスファルトを打つ音が響いて来たのでした。

「?」

振り返った鮎美は、そこにいるはずの無い人物の姿を見付けて、驚きの声を上げました。

「アッちゃん!?」

その声に、その人物は顔を上げ、そして力無く微笑みました。

「鮎美・・・。おはよう・・・」

それは、アリスでした。入院しているはずの彼女が、きちんと制服を着て登校してきたのです。しかし、彼女は元気とは言えない状態で、足元はふらつき、肩で息をしています。よほど辛いのか、顔には汗が浮かんでいました。

また、アリスは長い杖を突いています。それはアリスの身長よりも長く、黒い金属で出来ていました。さっきの音の正体は、この杖がアスファルトを突く音だったのです。その鉄の杖で、弱った体を支えながら、アリスはここまで来たようでした。

「ど、どうして・・・?」

鮎美は絶句していました。アリスが何故ここにいるのか全く理解できません。アリスは無理に笑うと、こう答えました。

「あんたに会いたくて、朝一で退院してきちゃった」

「そんな訳無いじゃない!こんなフラフラな状態のアッちゃんを、お医者様が退院させてくれるはずがないよ!!」

「ばれた?」

「あたりまえだよ!!」

その時、アリスが急に顔をしかめると、腹を押さえてうずくまってしまいました。鉄の杖が倒れ、アスファルトに当たって高い音を立てます。

「アッちゃん!」

慌てて鮎美が駆け寄ると、アリスは汗びっしょりになって呻いています。

 身体が負傷した場合、本来ならゆっくりと時間をかけて傷を癒して行きます。しかし、アリスは図らずも自然な治癒力ではなく、命をつなぐ為に身体をドラゴン化して、無理やり傷を治しました。そのため、この時のアリスは傷こそ塞がっていましたが、ダメージまでは回復していなかったのです。

「だ、大丈夫・・・。平気・・・よ・・・」「そんな訳無いよ!待ってて、今、救急車呼んでくるから!」

鮎美が公衆電話を探しに走ろうとすると、その手をアリスが掴みました。

「大丈夫・・・だってば・・・。少し、休めば・・・回復するから・・・」

「アッちゃん・・・」

「それよりも、カバンから・・・薬を出して・・・くれない・・・」

「え?薬?」

 鮎美がカバンの中を見ると、教科書や文房具とともに、ガラスの小瓶が入っていました。その中には、毒々しい赤い色の丸薬が入っています。

「これ・・・のこと?」

「それを、3粒くらいちょうだい・・・」

鮎美は言われた通りにすると、アリスはその丸薬を口に運び、そのまま飲み込みました。道の隅に座り込んで、アリスは荒い息をついていましたが、薬が効いてきたのか徐々に呼吸が整ってきて、やがて、杖を支えにしながらも、立ち上がる事が出来ました。

「はぁ・・・。大分、楽になったわ」

「この薬、すごい効き目だね」

「まあね。効き目が切れると、また同じになっちゃうんだけどね。痛み止めみたいな物だから」

「もしかして、これも魔法の・・・?」

鮎美は以前、アリスからもらった魔法の指輪を実際に使った事があります。ですから、赤い丸薬もまた、魔法の品なのではないかと思ったのでした。

「そんなところかな・・・」

答えはうやむやにして、アリスは杖を突いて歩き出そうとしました。黙って自分を見ている鮎美に振り返り、

「どうしたの?早くしないと遅刻するわよ」

そう声をかけると、鮎美は沈んだ顔をして、アリスを見ています。

「ねぇ、アッちゃんはどうして、病院を抜け出してきたの?」

「だから、あんたの顔を見たいからよ」

「嘘」

「本当だってば」

笑って答えたアリスでしたが、鮎美はもちろん納得していません。怒ったような顔でこちらを睨んでいます。アリスは「仕方ないか」とつぶやくと、真剣な面持ちになって語り始めました。

「昨日のヤツが、鮎・・・私達を狙って現れるかもしれないからよ」

「あのお化けが?」

アリスは無言でうなずきます。

「でも、どうして?どうしてあのお化けが私達を狙うの?」

「それはね・・・」

アリスはじぃっと鮎美の目を見ました。鮎美もまた、真剣な顔で見つめ返します。

「口封じよ」

「口封じ・・・?」

鮎美は同じ言葉を繰り返しました。アリスはまた、うなずきます。

「あの化け物は、私達に姿を見られてしまった。このままだと、世間に自分の存在を知られてしまうかもしれない。そうなる前に、私達を亡き者にしようと襲って来ると思ったのよ」

もちろん、アリスの話しは事実ではありません。狙われているのは鮎美だけであり、アリスではありません。しかし、本当の事を言える訳も無く、アリスは鮎美に対して、何度目かの嘘をついてしまいました。

先程の「仕方ないか」と言うつぶやきは、「また、嘘をつかなければいけないのか」と言う、心の嘆きから出たものだったのです。

そうとは知らず、鮎美はアリスの言葉を信じ、申し訳なさそうな顔をしました。

「それじゃ、アッちゃんはまた、私を守るために・・・?」

「そうよ」

「アッちゃん、ごめんね・・・」

「私はあんたが大好きなんだから、守る事は全然苦にならないよ」

「アッちゃん・・・」

「もう、そうやってすぐ泣かないでよ!それより、早くしないと遅刻するわよ」

「う、うん!」

 アリスは鮎美の手を借りると、学校へと向かいました。


アリスはぐったりしながらも、授業を受けていました。それぞれの授業担当の教師は、アリスの様子と黒い杖を気にしていたようでしたが、声をかけてくる者は今の所誰もいません。

花ヶ丘の、心無い一部の教師達の間で秘かに流行っているのが『駄目生徒ランキング』でした。性格はもとより、容姿や成績、果ては趣味の内容で生徒をランク付けしていくというものです(と言うより、自分が嫌いな生徒は誰なのかと言う話しで、皆で盛り上がっているだけなのですが)。

その中で、№1がアリスでした。何故なら、彼女が何か武術を修めている事と、かつて空手の有段者である潤を軽くあしらった事は校内では知らない者はおらず、しかも、相手が教師であろうと生徒であろうと、全く遠慮がないのです。気が荒く暴力的で、人を人とも思わない(少なくとも、心無い教師達からはそう思われています)アリスは、嫌いと言うよりも、最早、恐怖の対象でした。

そう言った理由から、アリスに注意をし、鉄杖を危険物として取り上げようとする教師はいません。

ただ一人を除いては。

それは、4時間目の体育の授業の事です。体操着に着替えた鮎美達が校庭に並び、それをアリスが見学していた時でした。

「あら、アリスさんは見学?」

その声にアリスが振り返ると、燻士琴子が、いつものようにジャージ姿で立っています。

「いつもは元気なのに、珍しいわね」

「ケガをしたものですから・・・」

アリスは内心、「早くあっち行け」と思いながら答えました。

「ケガ?そう言えば、顔色が悪いわね」

琴子は心配そうにアリスの顔をのぞき込みます。

「私の顔色って、分かるんですか?」

アリスの肌の色は褐色なので、顔色など分かるはずは無いと、彼女は思いました。アリスは心の中で(いい加減な事言わないでよ)と毒づきます。

しかし琴子は、大真面目にこう答えました。

「分かるわよ。だってあなた、いつもより目の下が黒ずんでいるもの。それに目も輝きが無いし。アリスさんの目は、いつもはキラキラと輝いているわよ」

「キラキラって・・・!?」

思いもかけない琴子の言葉に、アリスは呆気にとられました。

「それはそうと・・・アリスさん、その杖は何なの?」

琴子は鉄杖を指して尋ねてきました。

「ただの杖ですが・・・」

「ちょっと見せて。何これ?鉄で出来てるじゃない。それに結構重いし・・・」

琴子は確かめるように鉄杖を振ってみました。

「これは杖って言うより、私には棒術とかの武器に見えるんだけど」

「それしか家に無かったんです。返してください」

アリスは鉄杖を取り返そうと掴みましたが、琴子はそれを、がっちりと握って放しません。

「ダメよ。これは充分危険物よ」

「良いから返してください」

アリスと琴子は、杖を掴んだまま睨み合いました。鮎美をはじめ、同じクラスの生徒達は不安そうに事の成り行きを見守っています。

アリスが杖にこだわるのには理由があります。実は、この杖は魔界最強の金属、ガルゲーダで作られた魔法の武器なのです。杖をかざして呪文を唱えれば、精神集中無しで『魔法の矢』を発射する事ができますし、この杖で殴れば岩をも砕く事ができます。

重傷を負ったアリスが、満足に戦えない今の自分の力不足を補うために、自分の屋敷の武器庫からもってきた物でした。

「返してください」

尚も食い下がるアリスに、

「・・・分かったわ・・・」

琴子は苦笑すると、あっさり杖を放しました。思いもかけない琴子の態度に、アリスは驚きを隠せません。

「・・・良いんですか・・・?」

「だって、返せって言ったのはあなたでしょう?」

「でも、どうして?」

「あなたの顔が、とても真剣だったからよ。その杖がそんなに大切なら、きっと、悪い事には使わないだろうと思ったの」

琴子はそう言って、少女のような屈託の無い笑みを浮かべました。まだ呆然としているアリスに、

「だけど、無理しちゃダメよ。辛いようなら早退しなさいね」

と琴子は言い残し、授業開始を待っている鮎美達の元へ向かいました。

生徒を指導している琴子を見ながら、

(私の事、目の仇にしていたんじゃないの?)

アリスはそう思い、首を傾げるのでした。


その日の全ての授業が終わり、アリスと鮎美はいつものように、一緒に下校しました。まだアリスの体は回復しておらず、杖を突きながら歩いています。それでも、朝と比べれば大分足元もしっかりしていて、支えようと申し出た鮎美に、「平気よ」と言って断りました。

「ねぇ、アッちゃん、とりあえず昨日の病院に行こうよ」

「え?良いわよ~、そうしたらきっと、また入院させられちゃうじゃない」

「あたり前だよ。アッちゃん、まだ元気になってないんだから」

鮎美は憮然とした顔をしましたが、アリスは首を振りました。

「でもそれじゃ、鮎美を守れないじゃない・・・」

それを聞いて、鮎美ははっとなります。

アリスが重傷を負ったのも、そして彼女が安静にしていられないのも、全ては自分のせいなのだと、鮎美は思っていたのです。

「ごめんね・・・」

「良いわよ。それに、何回も謝らないでよ」

「何回謝ったって足りないよ!私なんかのせいで、アッちゃんが・・・」

アリスは立ち止まりました。鮎美もそれに倣って足を止めると、アリスは怒ったような顔をして自分を見ています。

「ど、どうしたの・・・?」

アリスはひとつ、溜め息をつきました。

「鮎美・・・。私は私の意志で、あんたを、大好きな鮎美を守ってるんだ。もし鮎美に何かあって、取り返しのつかない事にでもなったら、私はきっと後悔する。私は自分を許せない・・・。だから・・・」

「・・・・・・」

「自分なんかのせいだなんて、そんな事言わないで」

「・・・うん・・・」

「それに、あんたにもしもの事があったら、あんたのお父さんや、せっかく友達になったさやかが悲しむじゃないの」

「アッちゃん・・・」

 鮎美は、嬉しくて涙が出ました。自分をそこまで大切に想ってくれていた事はもちろんですが、それ以上に、アリスが父やさやかを気遣ってくれていたと、知る事が出来たのですから。

「アッちゃんありがとう。私、嬉しい・・・」

「もう、謝ったり感謝したり、本当に忙しい子ね」

二人は、微笑みを交わすと、また歩き始めました。

「でもアッちゃん、お願いだから病院に行って」

「う~ん・・・。分かったわよ。仕方ないわねぇ」

そんな事を話しながら二人が歩いていると、昨日、さやかと出会った公園の近くに来ました。

「さやかちゃん、大丈夫かな?また、いじめられてないかな?」

「平気じゃない?昨日、あのバカ親を追いかけて行った鮎美、結構迫力あったから」

アリスがニヤニヤ笑いながらそう言うと、

「もう、それは言わないでよぉ」

鮎美は顔を赤らめて抗議するのでした。

 それでも少し気になった二人は、公園に行ってみる事にしました。

「大丈夫だよね?」

「うん・・・。多分・・・」

そして、二人が公園を覗いてみると、その心配が現実のものとなっていました。

昨日と同じように、さやかは男の子達に石を投げつけられていたのです。さやかは、「痛い!やめてぇ!」と泣き叫びながら逃げまわり、男の子達はそれを追いかけています。

「あ、あの子達・・・」

鮎美は怒りに拳を握りしめると、昨日と同じように走り出そうとしました。その手を、アリスが掴みます。

「待って!私が行くから、鮎美はここにいて!!」

しかし鮎美は、

「平気だよ!さやかちゃんは私が守るから!アッちゃんが私を守ってくれたように、今度は、私がさやかちゃんを守るから!」

そう言って笑うと、さやかに向かって走り出しました。

「鮎美!!」

アリスはその後を追おうとして、足がもつれて転んでしまいました。あわてて立ち上がろうとしましたが、痛みのせいで思うように動けません。それでも、アリスが立ち上がろうともがいていると、木の陰に人影を発見しました。

それは、あの軽薄な母親でした。この女は、いじめを止めようとはせず、むしろそれを楽しそうに見ています。その視線の先には、さやかをかばって石をぶつけられている鮎美がいます。鮎美は必死に、「やめなさい!やめて!!」と痛みに耐えながら叫んでいます。それを見つめる女の顔には、意地の悪い笑みが浮かんでいます。

「あいつ・・・!!私の母さんもタチが悪いけど、あの女はそれ以上だわ!!」

アリスは怒りに燃えましたが、それよりも今は、鮎美を助けるのが先と思いました。しかし、体は言う事を聞いてくれません。その間にも、鮎美とさやかは石をぶつけられていました。

「あ・・・鮎美・・・」

鮎美の危機だと言うのに、自分は何も出来ない。その無力感に、アリスは打ちのめされていました。

「鮎美・・・、鮎美・・・」

アリスは泣きながら、最愛の少女の名を呼び続けます。その声は、とても苦しげでした。

その時、アリスの声が聞こえたように、鮎美がこちらを見ました。鮎美は痛みに耐えながら、気丈にも笑顔を見せました。まるで「平気だよ」と言っているかのように・・・。

「鮎美・・・」

こんな状態だと言うのに、自分を想いやってくれる鮎美。そんな彼女を助けたいと、アリスは手を伸ばしましたが、もちろん届くはずもありません。鮎美は、痛みに耐えながら目を閉じています。アリスは、声を限りに叫びました。

「鮎美ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

その時、一陣の風が、アリスの銀色の髪を巻き上げて通りすぎて行きました。

「え・・・?」

アリスはその『風』を目で追います。それは風ではなく、一人の人間でした。その人はもの凄い速さで、鮎美達の元へと走って行きました。


鮎美は石をぶつけられながら、泣いているさやかに、

「大丈夫!私が守るから!さやかちゃんは、私が守るからね!!」

と、語りかけていました。

「あゆみ・・・おねえちゃぁん・・・」

さやかは泣きじゃくりながら、鮎美に抱き付いています。

本当は、鮎美は痛くてたまらないのですが、それでも、さやかを守るために盾となり続けます。

(ケガをしたアッちゃんに、守ってもらう訳にはいかない。でも・・・)

しかし、そんな鮎美の心を知る事も無く、投石が止む気配はありませんでした。

(一体、どうしたら良いの・・・?)

アリスと同じように、鮎美もまた、無力感に打ちのめされていました。さやかを助けようにも、これ以上どうする事も出来ません。   アリスに目を向けると、彼女は地に倒れ伏し、涙を流しながらこちらを見ています。

(アッちゃん・・・)

鮎美は、せめてアリスを安心させようと、笑顔を作りました。

(平気だよ。アッちゃんのケガに比べれば、これくらいどうって事無いよ)

心の中でつぶやきながら、襲ってくる痛みに耐えるため、鮎美は固く目を閉じました。

(神さま、お願いします。どうか、アッちゃんとさやかちゃんを助けてください!お願いします!)

鮎美は心の中で祈りました。もはや、彼女にはそれしか出来ません。

(お母さん!二人を助けて!私の大切なお友達を助けてあげて!!)

さやかを抱き締める腕に、力がこもります。

(助けて!誰か助けて!!)

そうしている間にも、石は容赦無く鮎美の体を撃ちました。

(お願い!!)

その時、急に投石が止みました。

「・・・?」

鮎美は、不思議に思い目を開けると、

「いってぇ~!」

背後から声がしました。どうやらその声の主が、身を挺して鮎美達を投石から守ってくれたようです。鮎美は振り返り、叫びました。

「アッちゃん!?」

しかし、そこにいたのはアリスではありませんでした。

「いてて・・・。ねえ君、小さい子を守るためとは言え、ちょっと無理しすぎじゃない?」

そう言って痛みに顔をしかめているのは、花ヶ丘のものとは違う制服を着た、一人の少女でした。彼女はとても背が高く、頭には白い鉢巻きを巻いています。

鮎美と少女は顔を見合わせ、そして同時に驚きの声を上げました。

「あ、あなたは昨日の!!」

「あれぇ!?昨日の子じゃない!!」

何と言う偶然か、鮎美達を救ってくれたのは、昨日、アリスを病院まで運んでくれた少女だったのです。思いがけない再会に、二人は目を丸くしました。

やがて、先に驚きから覚めた鮎美が口を開きます。

「あの、え~と・・・。昨日は、大変お世話になりました!」

鮎美が深々とお辞儀をすると、

「いえいえ、どういたしまして」

少女も釣られて頭を下げます。

「そう言えば、どうしてあの子がここにいるの?」

少女はアリスを指さしました。

「今朝、病院の先生から、あの子がいなくなったって電話があったんだけど・・・」

「えっと・・・、話すと長くなりますけど」

「長くなるなら、とりあえず良いや。それよりも・・・」

そう言って、次に男の子達に振り返った少女は、眉を吊り上げて怒鳴りました。

「こら!男のくせに弱い者いじめしちゃダメでしょお!!この子達に謝んなさい!!」

今まで石を投げていた男の子達は、いきなり現れた大柄な少女に驚き、戸惑っていました。しかし、上から目線でものを言われて、明らかに不服そうです。

「やだよ。なあ?」

「パパでもママでもない奴に、何で怒られなきゃいけないんだよ?」

「先生にだって怒られた事無いのに」

「男のくせにって、じゃあ、女だったらいじめをしても良いのかよ~?」

口々に不満を口にする男の子達に、

「へりくつ言うんじゃないわよ!君達が悪いんだから、素直に謝んなさい!!」

少女はそう言い放ちました。しかし、男の子達は逆に囃したてます。

「や~だ~よ」

「そうそう。それに、僕達に何かしたら、虐待されたって警察に言っちゃうよ!」

「そうしたら、お前大変だぜ」

それを聞いた少女はため息をつきました。

そして、

「あのねぇ・・・。あたしをなめるんじゃないよ。口で言っても分かんないなら、鉄拳制裁受けてみるぅ?」

ドスの効いた声でそう言いながら、少女は指をポキポキと鳴らしました。

思いがけない少女の態度に、男の子達は一瞬たじろぎましたが、

「ふん!どうせ口先だけだよ!おい、こいつにも石ぶつけてやろうぜ!!」

そう言って石を投げようとしているのは、リーダーであるはずのマナブではなく、別の子でした。そのマナブはと言うと、今は何故か後ろに下がっていて、表情にも元気がありません。

(?)

その事に気付いた鮎美が不思議に思っていると、マナブは他の子を倣って石を拾いました。しかしその動きは鈍く、嫌々やっているのが目に見えて分かります。

(あの子、どうしたんだろう・・・?)

鮎美がそう思っていると、男の子達は―マナブも含めて―石を投げようと構えました。

「危ない!!」

鮎美が叫ぶと同時に、

「くらえ!!」

一斉に石を投げつけてきました。男の子達の人数は5人。5個の石が少女目がけて飛んできます。

その時、少女の目が、研ぎ澄まされた刃のように、すうっと鋭くなりました。その場にいる誰もが、少女が逃げるか、あるいは身を守ろうとするだろうと思っています。

しかし、少女は逃げる事も、身を守る事もしません。その代わりに、

「やぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

と、鋭い叫び声を上げながら、両手を素早く閃かせました。そして、少女は次にはピタリと、動きを止めています。その場にいる誰もが、今、何が起きたのか理解出来ませんでした。

すると、少女が顔を上げました。その顔には何故か、いたずらっぽい笑みが浮かんでいます。少女は、両手を開いて、その手にある物を見せました。

「あっ!!」

それを見て、男の子達は驚きの声を上げます。それは、先程自分達が投げつけた石でした。少女の右手に2個、左手には1個、合わせて3個の石が、少女の手の中にあったのです。

少女はその石でお手玉をしながら、ひとり言を言いました。

「う~ん、3個かぁ。まだまだ先生のようには行かないな~」

それを見た鮎美も驚きを隠せません。

「まさか、飛んできた石を・・・?」

そのまさかでした。何と、この長身の少女は、飛んできた5個の内、3個をつかみ取ってしまったのです。残りの2個はつかみ損ねていたようですが、それでも、この少女の技量は驚くべきものです。優れた動体視力と、素早い動きが合わさって、初めて可能になる技でした。

 少女はニコッと笑うと、

「どうしたの?もう終わりかな?」

男の子達にそう言いました。

「わぁ!に、逃げろぉ!!」

一人が叫ぶと、皆いっせいに逃げ出しました。

「待て!!」

少女は走り出し、男の子達の前に素早く回り込みます。

「わぁ!!」

退路を断たれてしまった男の子達は、怯えて立ち尽くしています。そんな彼らに、少女はずんずんと近付いて行きました。その顔には、怒りが浮かんでいます。男の子達は恐ろしさのあまり、身を寄せ合って震えています。

そしてついに、彼らの目の前に少女がやって来ました。少女は握り締めた拳を、ゆっくりと振り上げます。次の瞬間、強烈なパンチが飛んで来ると思い、男の子達はギュッと目をつむりました。

 そして・・・。

コツン、コツン、コツン、コツン、コツン。

とても小さなゲンコツが、男の子達の頭に一つずつ降って来ました。

「・・・?」

男の子達が恐る恐る目を開けると、

「どう?怖かった?」

少女が優しく語りかけてきました。

「どうして・・・?」

そうつぶやいたのは鮎美でした。彼女は、少女が男の子達を殴ると思い、慌てて止めに入ろうとしていたのです。

少女は鮎美に微笑みかけると、こう言いました。

「だって、殴ったりしたら、この子達と一緒でしょう?自分達がした事は悪い事なんだって、分かってもらえれば、それで良いじゃない」

そして次に、少女は男の子達の目線に合うようにしゃがむと、こう語りかけました。

「君達、どんな理由があるにせよ、弱い者いじめしちゃダメでしょう?弱い者いじめなんて、卑怯者のする事だよ。君達は、卑怯者なのかな?」

男の子達は、何と答えたら良いのか分からず、困ったように顔を見合わせています。その気持ちを察した少女が、先に答えました。

「違うよね?卑怯者なんかじゃないよね?」

男の子達は「うん・・・」とうなずきます。

「それにね・・・」

少女は、男の子達一人一人の顔を見つめるように語り続けます。

「男の子は、強くなくちゃいけないの。誰かを傷付ける力なんかじゃなく、誰かを守れる強さを持たなくちゃいけないの。それこそが本当の強さだとあたしは思うな」

そして少女は立ち上がると、

「それに、その方が断然カッコイイと思わない?」

そう言って、二カッと笑いました。

 男の子達は顔を見合わせ、そして、

「思い・・・ます・・・」

と答え、それに少女は満足気にうなずきます。

「それじゃ、あのお姉ちゃん達に、ちゃんと謝ろうね」

「そう・・・だな・・・」

男の子達も、お互いにうなずき合いました。

このやり取りの間、鮎美はさやかをなだめつつ、アリスの元へと向かっていました。

「アッちゃん、大丈夫?」

アリスが立とうとするのを手伝いながら、鮎美は心配そうに尋ねます。

「うん、平気。それより、あんたこそ大丈夫なの?」

「こんなのへっちゃらだよ!」

鮎美は努めて笑顔を作りましたが、彼女が痛みを我慢している事に、アリスは気付いていました。

「鮎美、守ってあげられなくて、ごめん」

「そんな事無いよ!こっちこそ、ごめんね」

「何であんたが謝るのよ?」

「だって、アッちゃんは昨日、私を助けてくれたじゃない。それなのに、私はさやかちゃんを守るのに精一杯で、アッちゃんを助けてあげられなくて。あの人が来てくれたから良かったけど・・・」

アリスは長身の少女に目を向けました。

「そう言えば、あいつ、誰なの?」

「あの人は、昨日アッちゃんを病院まで連れて行ってくれた人だよ」

「え?そうなんだ・・・」

アリスは昨日、治療を終えた後に、件の少女とは会っていましたが、鮎美にばかり気を取られていたので、記憶の中に残っていませんでした。

「あいつの名前は?」

「あいつだなんて失礼だよ」

「あぁ、そうね。あの子の名前は?」

「知らないんだ。『名乗るほどの者じゃないよ』とか言って、教えてくれなかったから」

「そう・・・」

二人が会話していると、少女は男の子達を連れてやって来ました。彼等はアリスの姿を見て、一瞬顔を引きつらせましたが、

「ほら、ちゃんと謝ろうね」

少女の言葉に気を取り直し、声を合わせて謝ろうとしました。

「ごめんな・・・」

その時でした。

「ちょっと待ってよぉ」

いかにも軽薄そうな声がして、全員が目を向けると、そこには昨日の若い母親がいました。彼女は不機嫌そうに、口をひん曲げています。

「ママ、あのね・・・」

マナブは呼びかけましたが、それをこの母親は無視して、少女の目の前にやってきました。

「あんた、何勝手な事してんのよぉ?」

「勝手とは?」

少女は澄ました顔で聞き返します。

「あんた、マナブ達を叩いたわねぇ。あれって暴力じゃないのぉ?」

「暴力?それをしていたのはこの子達です。あたしは、この子達の過ちを正してあげただけですよ」

少女の答えを聞いて、この母親は「はぁ!?」と驚いたような声を出しました。その嫌味な顔は、とても子を持つ母親のものとは思えず、アリスと鮎美は思わず顔をしかめてしまいます。

「マナブ達が何したっていうのよぉ。言ってみなさいよぉ」

「それでは・・・」

 少女は落ち着いた様子でうなずくと、

「女の子に石をぶつけたのと、その子をかばった子にも石をぶつけたのと、そしてそれを助けようとしたあたしにも石をぶつけようとした事です!」

一気にそう言いました。しかし、母親はそれを鼻で笑います。

「それのどこが悪いのよぉ?大した事無いじゃない」

少女の目が一瞬鋭くなった事に、この母親は気付いていません。

「大した事は、無い・・・?」

「そうよぉ。子供のやった事でしょぉ。それを大袈裟に騒がないでよぉ」

「・・・」

「それに昨日も言ったけどぉ、いじめられるのが嫌なら、引っ越せば良いのよぉ」

「・・・・・・」

先程から少女は無言のままです。それを、自分の演説(?)の正しさから何も言い返せないと思った母親は、得意になって続けました。

「第一ぃ、うちの子を叩いておいて偉そうな事を言うなんてぇ、どうかしてるんじゃないのぉ?親の顔が見てみたいわよぉ」

「なっ!?」

アリスと鮎美は、怒りに声を上げました。

「こいつ、許せな・・・、え?」

思わず前に出ようとしたアリスを、長身の少女が手で制しました。

「お話しは良く分かりました。それでは、息子くん達は謝る必要は無いと言うんですね?」

真面目な顔で、少女は母親に尋ねました。

「あったりまえでしょぉ。逆に、あんた達が謝んなさいよぉ」

「では、息子くん達の代わりに、自分が謝ろうという気もないんですね?」

「何で私がぁ?ふざけんじゃないわよぉ」

「そうですか。良く分かりました」

「そうそう、分かれば良いのよぉ」

「良く分かりました・・・。口で言っても分からないヤツだって事がね!!」

少女はそう言うなり、右手を振り上げました。そして・・・。

 バッチーン!!

少女の、強烈な平手打ちが母親の左頬に炸裂し、その音は、公園内に響き渡りました。

「え・・・?」

いきなりの事に、アリス、鮎美、さやか、そしてマナブ達は呆気に取られてしまいました。叩かれた母親はと言うと、まるで糸の切れた操り人形のように、くるくると体を回転させ、そして、地面に尻餅を着きました。彼女は、自分の身に何が起こったのか理解出来ていないようで、呆然としたまま頬を押さえています。そんな母親を、少女は怒りに燃える目で睨み付けました。

そして、母親は、まるで子供のように急に泣き出しました。

「うわ~ん!パパにも、ママにも叩かれた事無いのに~!」

その情けない姿に、ここにいる全員、特に、マナブがゲンナリした顔になっています。

(こんなお母さんじゃ、マナブ君が可哀そうだな・・・)

鮎美はマナブに、心底同情しました。

「何でよぉ!何で私が叩かれないといけないのよ~!うわ~ん!!」

「叩かれても仕方が無いんじゃない?」

アリスも呆れ果てています。

「あんたぁ、名前と学校言いなさいよぉ!親と学校に文句言ってやる~!!」

泣き叫ぶ母親に、少女はずいっと近付きました。

「知りたい?」

少女はにやりと笑いました。

「そんなに知りたきゃ教えてやるから、耳の穴かっぽじって良ぉく聞きやがれ!!」

少女は自らを親指で指し示すと、

「あたしの名は、耀南中学校2年3組、燻士銀子!!良ぉく憶えとけ!!」

銀子は、まるで歌舞伎役者が大見得を切るかのように名乗りを上げました。


第9話完 第10話に続く


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