第8話 織絵と銀子
モノローグ③
タカユキ、私はどうしたら良いの?この家の人達は、とても明るく振る舞っているけれど、本当は、とても悲しんでいるに違いないわ。特に、あの子は・・・。
それなのに、私はどうすれば良いのか分からないの。あの人達に、あんなに親切にしてもらったと言うのに・・・。
ねぇ、タカユキ。こんな時、あなたならどうする・・・?
数年前③
早朝の燻士家の前を、一人の女性が鼻歌を歌いながら掃除をしていました。彼女は腰まである長く艶やかな黒髪を、後ろで無造作に縛っています。そして何故か、大きめのジャージを着ていました。しゃれっ気の無い格好でしたが、その本人は、まるで女優のような美貌を誇っています。
その女性は織絵でした。彼女は、昨晩泊めてもらったお礼に、家の手伝いを買って出たのです。
「ゆっくり寝ていても良いんですよ」
弥生にそう言われて、織絵はこう答えました。
「一宿一飯の恩義は、きちんと返させていただきます」
「あら、『一宿一飯』だなんて、お若いわりに古風な言い回しをするのねぇ」
弥生が感心したように言うと、何故か織絵は「うふふ」と、いたずらっぽく笑うのでした。
「さてと、ここはもう良いわね」
きれいになった玄関先を見回して、織絵は満足気にうなずきました。
「弥生さん、掃除終わりましたよ。次は何をしたら良いですか?」
台所で朝食の用意をしている弥生に、織絵は声をかけました。
「どうもありがとうございます。もう少しでご飯だから、娘たちを起こしてきてもらえますか」
「はい。それはそうと、源一郎さんはどこに行かれたのですか?今朝から姿を見てないんですけど・・・」
「おじいちゃんだったら、ジョギングに行ってますよ。後1時間は帰ってこないわね」
織絵は少し驚きました。
(昨日、怪我したっていうのに、なんてタフな人なんだろう・・・)
そう心の中でつぶやきながら、織絵は、琴子と銀子の部屋がある二階へと上がって行きました。
二階には、三つのドアがあります。一つは昨夜、織絵にあてがわれた部屋。後の二つの内、一方には『kotoko』と書かれた木製のプレートが掛けてあります。そこが琴子の部屋なのは一目瞭然でした。もう一方の、何も飾られていないドアは銀子の部屋です。織絵はまず、琴子の部屋をノックしました。
「おはよう、琴子ちゃん」
すると、すぐに琴子の声が返ってきました。
「え?織絵さん?」
ドアが開くと、すでに制服に着替えた琴子が姿を現しました。
「あら偉いわね、もう起きていたの?」
「いえ、今日は朝練の無い日なんですけど、いつもの習慣で早く目が覚めてしまって・・・。あ、遅れましたけど、おはようございます」
「はい、おはよう。もうすぐ朝ご飯だそうだから、早めに降りてきてね」
「私も今、行こうと思ってたんですよ」
そして琴子は、一階へと降りて行きました。
「さてと、次は銀子ちゃんね」
織絵は、銀子の部屋をノックします。
「おはよう。銀子ちゃん、起きてる?」
返事がありません。織絵はもう一度ノックしました。
「銀子ちゃん、もう朝よ。早くしないと遅刻するわよ?」
またしても返事がありません。織絵はもう一度、今度は明るく、大きな声で呼びかけました。
「おっはよー!!銀子ちゃん、朝よー!!早く起きないと遅刻しちゃうし、朝ご飯、銀子ちゃんの分まで私が食べちゃうわよー!!聞こえていたら、無駄な抵抗はやめて、おとなしく出てきなさーい!!」
それでも、部屋からは何の返事もありませんでした。
「よーし。そっちがその気なら、こっちにも考えがあるわ!今から10数えるまでに出て来なかったら、部屋に突入するわよ!寝ている銀子ちゃんを、いやって言うほどくすぐっちゃうんだから!!」
部屋からは物音ひとつせず、『しーん』と静まりかえっています。
「それじゃ、いくわよ!い~ち!」
しーん。
「に~い!」
しーん。
「さ~ん!」
しーん。ドアが開く気配は全くありません。織絵は大きな声で数え続け、ついに「きゅ~う!」までいきました。
「しぶといわねぇ。でも、これで最後よ。覚悟は良い!?」
部屋は相変わらず『しーん』としています。
「じゅ~・・・」
ガチャ。
「・・・うるさいです・・・」
ドアが少し開いて、そこから銀子が顔をのぞかせました。
「あらごめんね。そんなにうるさかった?」
「・・・近所迷惑です・・・」
「え、そんなに?でもね、いつまでも起きてこない銀子ちゃんも悪いわよ」
「・・・起きないなんて、言ってません・・・」
銀子は、長い前髪の分け目から、咎めるような視線を向けてきました。そんな銀子に苦笑しながらも、織絵は改めて挨拶するのでした。
「おはよう、銀子ちゃん」
「・・・おはよう・・・ござい・・・ます・・・」
銀子は挨拶を返しましたが、その声は今にも消え入りそうで、ほとんど聞き取れません。
「もう、元気無いわねぇ。もう一度、大きな声で言ってみて」
「・・・・・・」
「ほら、『おはようございます』って」
織絵の口調はとても優しいものでしたが、それでも銀子は黙ったままです。
「ね、お願い」
「・・・しつこいです・・・」
「え?」
「声が小さいなんて、大きなお世話です・・・。それに、しつこいと嫌われます・・・」
そう言うと、銀子は目を背けてしまい、その場を、沈黙が支配しました。
うつむいていた銀子は、織絵が何も言ってこないのを不思議に思い、顔を上げました。
「!」
銀子は、息を飲みました。そこには、目と眉を吊り上げ、怒りの表情を浮かべた織絵が、こちらを睨んだまま仁王立ちしていたのです。
「はわ・・・」
驚きと、そして恐ろしさのために、思わず銀子は意味不明な声を発しました。
「しつこいですって・・・?」
「は・・・はわわ・・・・・・」
「大きなお世話ですって・・・?」
「はわわわわ・・・・・・」
「ずいぶんと、生意気な口をきくのね・・・」
「はわ・・・はわわわわわわ・・・・・・」
「そんな生意気な事を言う口は・・・」
織絵は銀子の顔に、自らの顔をぐっと近づけました。そして、
「私の唇で塞いじゃうわよぉ!」
一転して『二カッ』と笑うと、ウインクしました。その途端、
「う~~~~~~~~~~~~!!」
銀子は奇妙な声を発し、更に、本当に嫌そうな顔をすると、
バタン!!
ドアを閉めて、部屋に引っ込んでしまいました。
「ごめん、銀子ちゃん!冗談!冗談だってば!!」
慌てている織絵を無視して、銀子は机に置いてある写真立てを見つめていました。そこには、小さい頃の自分を抱いた、父の虎太郎が写っています。
虎太郎は、髭に覆われた精悍な顔をしていました。そしてその顔には、X字を描くように、大きな傷痕が走っています。体つきも逞しく、カメラマンと言うより武道家に見えました。
そして、写真立ての側らには、ハーモニカが一つ、カーテンの隙間から差し込む日の光を受けて、キラキラと光っていました。
「お父さん・・・。今、家に変な女の人がいるんだよ・・・。早く、早く帰ってきてよ・・・。あたし、変な女の人、怖いよ・・・」
銀子は悲しそうに写真の中の父に訴えると、ハーモニカを手に取り、大事そうに胸元で握りしめるのでした・・・。
「・・・おはよう・・・」
織絵が起こしに言ってから、およそ20分後、ランドセルを背負った銀子が、やっと二階から下りてきました。
「もう、何してたの?お姉ちゃん、とっくに学校行っちゃったわよ」
弥生は食器を片づけながらそう言いました。母の言う通り琴子の姿は無く、それに、織絵の姿も見えません。
「・・・あの女の人は・・・?」
「織絵さんなら、琴子と話しがしたからって、一緒に出掛けてしまったけど」
「・・・そう・・・」
銀子は『変な女の人』がいないので、少しほっとしました。
(あたしが学校から帰ってくる前に、出て行ってくれれば良いんだけどな・・・)
そんな事を考えていると、弥生がテーブルの上に朝食を出してくれました。ご飯に味噌汁、焼き魚とシンプルなメニューですが、とても美味しそうな匂いがします。
「ほら、早く食べちゃいなさい。遅刻するわよ」
「・・・いらない・・・」
「いらないって、ここの所、毎日朝食抜きじゃない。そんな事じゃ、授業に集中できないでしょう?」
「いらないったら、いらない!」
弥生は溜め息をつきました。
「銀子、お父さんがいなくて淋しいのは分かるわ。でもね、だからと言って、拗ねていたんじゃ何も良い事なんて無いのよ」
「・・・・・・」
「どんなに辛くても、笑顔でいれば幸せは向こうからやって来るものよ。ほら『笑う門には福来る』って言うでしょう?」
その時、銀子は弥生を睨みました。
「・・・そんなのウソだ・・・」
「え?」
「あたし、笑ってたよ・・・。お父さんがいた頃は、いつも笑ってたんだよ・・・。それなのに、それなのにお父さん、いなくなっちゃったじゃない!!」
「銀子・・・」
「おじいちゃんも、お母さんも、お姉ちゃんだって、いつも笑ってるのに、お父さん帰ってこないじゃない!!あんな変な女の人を家に泊めてやって、みんなで笑って、それでお父さん帰ってくるの!?」
いつしか、銀子は泣いていました。そんな娘の態度に弥生は戸惑いを隠せません。虎太郎が行方不明になってからというもの、銀子は心を閉ざしてしまいました。笑う事はもちろん、怒る事も、泣く事もしなくなったのです。
その銀子が何故か今、感情を爆発させているのです。そんな娘の姿を見るのは、弥生にとって本当に久しぶりの事でした。
「銀子、とにかく落ち着きなさい。あなたの気持ちも分かるけど・・・」
「あたしの、あたしの気持ちなんて、誰にも分かるもんか!!」
叫ぶと同時に、銀子は家から走り出して行きました。
「銀子!待ちなさい、銀子!!」
母の必死の呼びかけにも、銀子は立ち止まる事はありませんでした・・・。
その少し前、琴子が登校しようと家を出た時です。
「琴子ちゃん、歩きながらで良いから、少しお話ししない?」
後ろから、織絵が声をかけてきました。
「はい、良いですよ」
琴子は快く返事をすると、織絵が靴を履き終わるまで待っていてくれました。
「お待たせ。それじゃ、行きましょうか」
「はい」
二人は並んで歩き始めます。
「はぁ~、まいったわぁ。もしかして私、銀子ちゃんに嫌われちゃったかしら・・・」
織絵は溜め息をつきました。
「え?どうしてですか?」
「いえね、さっき銀子ちゃんに、思わず変な事を言っちゃったから・・・」
「変な事・・・?あ!あれですか?唇でどうとかって・・・」
「え!?やだ、聞こえてたの!?」
目を丸くする織絵に、琴子はクスクスと笑いながら言いました。
「聞こえてましたよ。その前の、10数えるまでに出てこなかったら、部屋に突入するとか、くすぐっちゃうわよ~とか」
「そ、そこまで・・・」
「織絵さん、自覚無いのかもしれませんけど、けっこう声、大きいですよ」
「そ、そうかしら?」
「あれを聞いて、私とお母さん、面白くって笑ってたんですよ」
織絵は、恥ずかしそうに顔を赤らめています。そんな織絵に琴子は、
「織絵さんって、本当は愉快な人なんですね」
楽しそうに笑いながら、そう言いました。
「そ、そう・・・かしら・・・?」
「えぇ」
二人は顔を見合わせると、微笑みを交わすのでした。
そのまましばらく、二人は黙って歩いていましたが、やがて静かに、織絵が口を開きました。
「愉快な人か・・・。でも、やっぱり私には、その呼び名は相応しくないかな・・・」
「そんな事無いですよ。織絵さんは、とっても愉快で楽しい人ですよ」
琴子のその言葉に、しかし織絵は首をふりました。その顔に、悲しそうな笑みを浮かべて。
「私も、そんな風になりたいとは思っているんだけど、でもやっぱりだめ。いつも空回りしちゃうのよね。案の定、銀子ちゃんにも嫌な思いさせちゃったし・・・」
「それは・・・、あの子が悪いんですよ。いつまでもイジイジして・・・」
憮然として琴子が言うと、
「仕方ないわよ。きっとそれだけ、悲しみが深いんだと思うわ・・・」
そう言って、織絵は青空を見上げました。
「きっと彼なら、銀子ちゃんとすぐに、仲良しになれるんでしょうね・・・」
「彼?」
「タカユキ・・・」
「タカユキ・・・さん?その人って、どんな人ですか?」
「彼はいつも冗談ばかり言っていたけど、本当は、強くて、優しくて、どんな時も笑顔を忘れない、とっても素敵な男性だったわ。それに、こんな私を、心から愛してくれていたの・・・」
「タカユキさんって、もしかして・・・」
織絵は少し恥ずかしそうにしながら、次のように答えました。
「私の、最愛の男性よ・・・」
それを聞いたとたん、琴子の瞳は、まるで星をちりばめたようにキラキラと輝きはじめました。
「わ~!良いなあ~!織絵さん、彼氏がいるんだ!!羨ましいなあ~!!」
「え?ま、まあね」
「ふぅ~ん、そうだったんだぁ~。あ、そうだ!!」
琴子はいかにも興味津々といった風に、矢継ぎ早に質問をしてきました。
「タカユキさんって、芸能人に例えると誰に似てますか?」
「え?芸能人ねぇ。似てる人は、特にいないと思うけど・・・」
「それじゃそれじゃ、イケメンですか!?」
「も、もちろん、イケメンよ」
「どんなタイプの人ですか?体育会系?それとも、文系?」
「基本的には体育会系だけど、本を読んだり、音楽を聴くのも好きだったから、両方かしら」
「その人も、何か武道をやってるんですか?」
「えぇ、この私よりも強かったわ」
質問に答えながら、織絵は心の中で苦笑していました。
(まいったわね。本当は、銀子ちゃんの事で色々と聞きたかったのに、話しがおかしな方に行っちゃったわ・・・)
そして、一人ではしゃいでいる琴子を、織絵は意外な気持ちで見ていました。
(それにしても、琴子ちゃんって、けっこう乙女チックなのね。スポーツにしか興味ないのかと思ってたのに。まぁ、このくらいの年齢の女の子は、『恋に恋するお年頃』って言うらしいし・・・)
そう思うと、織絵は目の前にいる長身の少女を、逆に羨ましく感じました。
織絵がそんな事を考えているとは知らずに、琴子は次にこんな質問をしてきました。
「それで、タカユキさんって、今どこにいるんですか?」
「え・・・?」
「もし良かったら、私達にも紹介して下さいよ~!」
「・・・・・・」
ニコニコと笑っている琴子とは対照的に、織絵は何故か、沈痛な面持ちをしています。
「?」
それに気付いた琴子は、キョトンとして首を傾げました。
いかにも気の強そうな琴子の、その仕草が意外にも可愛らしく見え、織絵は思わず「くすっ」と笑ってしまいました。
「どうかしたんですか?」
「ううん、別に・・・」
織絵はその美しい顔に、何故か愁いを帯びた微笑みを浮かべています。
「紹介は、ちょっとムリかしら・・・」
「え~!何でですか?そんなにかっこいい人なら、私も会ってみたいですよ~!」
「ごめんなさいね・・・。だけど、彼はずっと、ずっと遠い所に行ってしまったから・・・」
「そんなの、会いに行けば良いじゃないですか」
飽くまでも明るい琴子でしたが、その時、織絵の瞳が揺れているように見えて、思わず怪訝な顔をしました。
「織絵さん・・・?」
再び織絵は青空を見上げると、しばしの沈黙の後、こう言ったのです・・・。
「・・・さすがに、空の彼方に行かれてしまっては、もう、会いには行けないわ・・・」
織絵の言葉の意味を、最初、琴子は分かりませんでした。しかし、しばらくしてその言葉の意味する所に気付き、琴子は驚くと同時に、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
タカユキはもう、この世にいないのだと、織絵は言っているのです・・・。
「あ、あの・・・。ご、ごめんなさい!!」
琴子は、深々と頭を下げます。
「良いのよ。最初にそう言わなかった、私が悪いんだから」
織絵もまた、自らの軽はずみな言葉を悔やんでいました。
「でも・・・、でも私、無神経な事ばかり言ってしまって・・・」
いつしか琴子は、その目に涙を浮かべています。
「私って、いつもこうなんです・・・。悪気は無いのに、人を傷つける事を言ってしまって。銀子にだって・・・」
「琴子ちゃん・・・」
「あの子が、もの凄く悲しんでるのを知ってるくせに、私ったらつい、厳しくしてしまうんです・・・。本当は、優しくしてあげたいのに、いざその時になると、何て言ったら良いのか、分からなくなっちゃうんです・・・」
「・・・・・・」
「だから、つい怒ったり、怒鳴ったりしてしまうんです・・・」
織絵はこの時、琴子の本心を知りました。不器用で、でも本当は優しくて妹想いの琴子を、織絵は愛おしく思いました。
「ねぇ、琴子ちゃん」
「何ですか・・・?って、織絵さん!!」
琴子が驚くのも無理はありません。何故なら、織絵がゆっくり近づいてきたかと思うと、いきなり自分を抱き締めたからです。織絵の腕の中は温かく、良い匂いがしました。その中にあって、琴子は顔を真っ赤にさせています。
「お、織絵さん!何を!?」
ドギマギしている琴子の耳元で、織絵はささやきました。
「何も言わなくて良いの。ただ、抱き締めるだけで、気持ちが通じる時もあるわ・・・」
「抱き締める、だけ・・・?」
「言葉は、時として邪魔になるの。だから、抱き締めれば良い。愛情をこめて、力いっぱいに・・・ね」
そして、織絵は琴子を正面から見つめると、ニッコリと笑いました。
「まぁ、これはタカユキの受け売りなんだけどね・・・」
その笑顔は、まるで少女のように朗らかで、それでいて、全てを包みこむような温かさを感じさせました。
(き、きれい・・・・・・)
琴子は、思わずその笑顔に見惚れてしまい、その結果、二人は抱き合ったまま見つめ合う形になります。
やがて二人は、周りの様子がおかしい事に気付きました。見回すと、通勤通学中の人々が、自分達を遠巻きに見ています。無理もありません。ジャージ姿の美女と、女子高生が抱き合っているのですから、誰だって気になってしまうでしょう。
織絵は慌てて離れると、何とかその場をごまかそうと、「コホン!」と咳をしました。もっとも、その顔はさらに真っ赤になっています。琴子はと言うと、こちらも恥ずかしそうに顔を俯かせ、真っ赤な顔を周りの人に見られないようにしていました。
「あの、織絵さん・・・」
少し落ち着きを取り戻した琴子が、口を開きました。
「なぁに?」
「あの、本当にありがとうございました!次はちゃんと、銀子に優しくしてあげようと思います!」
琴子は笑っています。それはとても、さわやかな笑顔でした。
「それじゃ、行ってきま~す!」
スポーツ少女らしい元気な声でそう言うと、琴子は学校に向かって走り出して行きました。
「本当に元気な子ね。あらまぁ、もう見えなくなっちゃった」
琴子を見送る織絵もまた、さわやかな笑みを浮かべています。
(琴子ちゃんは、心配ないわね・・・)
織絵は納得したようにうなづくと、燻士家へと向かいました。
(あとは銀子ちゃんだけど、一体どうしたものかしら・・・?)
織絵は、銀子の悲しそうな横顔を思い出し、胸を痛めるのでした・・・。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
織絵を出迎えてくれた弥生は、心なしか元気がありません。織絵は、心配になって尋ねてみました。
「どうか、なさったんですか?」
「えぇ、ちょっと・・・」
弥生は力なく笑うと、逆に尋ねてきました。
「あの、帰ってくる途中、銀子に会いませんでした?」
「銀子ちゃんですか?いえ、会いませんでしたけど」
「そうですか・・・。あの子、ちゃんと学校に行ったかしら・・・?」
弥生は腕組みをすると、困ったような、それでいて、少し怒っているような顔をしました。
「銀子ちゃんに、何かあったんですか?」
「まぁ、立ち話しも何ですから、お茶でも飲みながら・・・ね?」
「はい・・・?」
「そうですか・・・。銀子ちゃんがそんな事を・・・」
畳敷きの居間に、ちゃぶ台をはさんで織絵と弥生が座っています。ちゃぶ台の上には湯気が立ちのぼる湯呑みが二つと、ようかんの乗った皿が二枚ありました。
先程の銀子とのやり取りを、弥生は織絵に話していました(織絵を『変な女』と言っていた事は黙っていましたが)。
「あの子にも困ったものだわ。いつまで経ってもあの調子なんだもの」
弥生は溜め息まじりにそう言いました。
「まぁ、銀子の気持ちは、痛いほど分かるんですけどね・・・」
「そうでしょうね・・・。それにしても、私は銀子ちゃんに、徹底的に嫌われたみたいですね・・・」
「そんな事・・・」
ありませんよ、と言いかけて、弥生は口をつぐみました。目を伏せた織絵の睫毛が、震えている事に気付いたからです。
弥生は、いくら自分が不安と悲しみに心かき乱されていたとは言え、余計な事まで織絵に話してしまった自分を恥じました。
そして、場の空気を変えようと、違う話題を振りました。
「あの・・・。ところで失礼ですけど、織絵さんのご家族は?」
「え?私、ですか・・・?」
唐突に質問されて、織絵は戸惑っているようです。
「えぇ。ご家族は今、どちらにいらっしゃるの・・・?」
「私は・・・」
「?」
しばしためらった後、織絵は、
「・・・天涯孤独の、身です・・・」
やっとそう答え、それを聞いた弥生は心の底から驚きました。
「あらまあ!私ったら何て失礼な事を!」
弥生は慌てて畳に手を着くと、深々と頭を下げました。
「本当にごめんなさい!知らなかったとはいえ、私ったら・・・」
「い、いえ、良いんですよ。どうか顔を上げてください」
土下座までされて、逆に織絵は恐縮してしまいます。
「織絵さん、本当にごめんなさいね。私ったらそそっかしくて・・・」
「良いんですよ。さっきも、同じような事がありましたし・・・」
「同じような事?」
キョトンとした顔で、弥生は首をかしげました。その仕草が、娘の琴子と良く似ていたので、織絵は思わず「くすっ」と笑ってしまいます。
「どうかしました?」
「い、いいえ、何も。実はさっき、琴子ちゃんにも謝られてしまったんです」
「まぁ、琴子が何か失礼な事を?」
「と言うより、私が余計な事を言ったばかりに、琴子ちゃんに気まずい思いを・・・」
そして織絵は、自身もかつて恋人を亡くした身である事を告白し、弥生もそれを静かに聞いていました。
「そうだったんですか・・・」
「えぇ・・・。だからと言う訳では無いんですが、私にも、皆さんの気持ちが分かる気がするんです・・・。あ、すいません。ご主人は、連絡がとれないだけですものね。私とは違いますよね・・・」
自分の言葉が、まるで虎太郎が死んでいるかのような言い草だったので、織絵は慌てて訂正しました。しかし弥生はと言うと、それに気を悪くする所か、優しげに微笑みながらこう言ったのです。
「それなら、私は恵まれているのかもしれませんね」
「え?」
「だって、私には家族がいてくれますし、主人もいつかは、帰って来てくれるかもしれないでしょう?それを思えば、織絵さんの方が、お辛いでしょうね・・・」
その言葉に、今度は織絵が、心の底から驚きました。
(何て強い女性なんだろう・・・。愛する夫を、もしかすると、亡くしているかもしれないのに、逆に私を想いやってくれるなんて・・・)
そして、弥生はこう続けました。
「銀子にも、今の自分が決して不幸ではないと、気付いてほしいですよね・・・」
「私も、そう思います」
「それに、織絵さんにも案じてもらえて、本当にあの子は恵まれてますよ」
「え?そ、そんな事は・・・!!」
織絵があたふたしていると、玄関から源一郎の元気な声が聞こえてきました。
「ただいま!弥生さん、今帰ったぞ~」
「あら、思ったより早いお帰りね」
弥生がそう言っている間に、源一郎が居間にやって来ました。
「お義父さんお帰りなさい」
「お帰りなさい」
「ただいま。おお、織絵さんもここにいたのか。おや、二人ともお茶にしとったのか。弥生さん、ワシにも頼む」
「はいはい」
弥生がお茶とようかんを持ってくると、源一郎はお茶を一気に飲んでしまいました。
「運動の後の熱いお茶は格別ですからのう」
「・・・そうですか・・・」
織絵は呆気にとられています。
(いや、運動の後は、普通は水かスポーツ飲料でしょう。ケガをした次の日にジョギングに行ったり、本当に型破りな人だわ・・・)
織絵の心の中のつぶやきを知らず、『型破りな老人』は、美味しそうにようかんをほうばっています。
(まぁ、型破りなのはむしろ、私の方なんだけどね・・・)
そう思う織絵の表情は、どこか悲しそうでした。
「ん?」
そんな織絵の様子に気付いた源一郎は、弥生を手招きすると、何かを耳打ちしました。弥生はうなずくと台所に向かい、しばらくして戻って来ました。その手には、皿に盛られた大量のようかんがあります。その量は半端ではなく、軽く十人前はありそうでした。
それを見た織絵は、
(源一郎さん、食べ過ぎですよ・・・)
と、呆れながらそう思いました。すると、
「さあ織絵さん、遠慮はいりませんぞ。たくさん食べてくだされ」
「どうぞ召し上がれ」
源一郎と弥生はそう言いながら、ニコニコと笑っています。
「え!?これ、全部・・・?私が・・・?」
織絵が戸惑っていると、
「織絵さんが『食い足りない』と言う顔をしていたからのう、弥生さんに全部持ってくるように頼んだんじゃ」
源一郎が得意げにそう言いました。
「織絵さんは、昨日もいっぱい食べてくれたものね。少しじゃ物足りないでしょう?」
「いえ、そういうわけでは・・・」
「まあまあ、良いから良いから!」
「ごめんなさいね。私ったら気がきかなくて
」
どうやら二人は、悲しそうな織絵の表情を見て『もっと食べたい』と思っていると勘違いしたようです。
確かに昨日の夜、織絵は大盛りのチャーハンを完食しました。でもそれは、彼女が数日前からまともな食事をしていなかったのと、弥生の料理の腕が良かったのが原因で、決して織絵が大食漢なのではありません。念のため。
さて、大量のようかんと、源一郎達を交互に見ていた織絵は、
(こんなに食べられる訳が・・・)
とは思うのですが、せっかくご馳走してくれるのに、断るのも気が引けます。
「それじゃ・・・いただきます」
覚悟を決めると、織絵はようかんに手をのばしました・・・。
数分後、ようかんは、きれいに無くなっていました。
(全部、食べちゃった・・・)
思ってもみなかった自身の食欲に、織絵は我ながら驚愕していました。
「いや~良い食べっぷりでしたのう」
「本当にねぇ。織絵さん、おせんべいもありますけど、いかがですか?」
「いえ、もう結構です。おなかいっぱいで・・・」
本当はまだまだ食べられそうなのですが、自分を大食いだと思われたくない織絵は、丁重に断るのでした。
「ところで織絵さん・・・」
新しく淹れてもらったお茶を一口飲むと、源一郎が話しかけてきました。
「何でしょう?」
「これから先、あなたはどうするつもりですかの?」
「もちろん、旅を続けるつもりです・・・」
「修行の旅を?」
「はい・・・」
源一郎は織絵の答えを聞くと、腕を組み、目を閉じると、何かを考え始めました。そしてしばらくすると、彼は目を開け、こう言いました。
「織絵さん、本当に修行のためですかの?」
「え!?」
織絵は目を見開きました。源一郎は、真剣な面持ちで続けます。
「女性である織絵さんが、それだけのために何年も旅を続けられるとは、ワシにはどうしても信じられんのです」
「・・・・・・」
「もしかして、他に何か、大切な理由でもあるのでは無いですか?」
「・・・それは・・・」
「それに、あなたほどの女性なら、誰か迎え入れてくれる男性がいるのではありませんか?」
「お、お義父さん!」
織絵が恋人を亡くした身だと知っていた弥生は、あわてて源一郎に耳打ちしました。
「な、何と!そうじゃったのか!!」
驚いた源一郎は、その場に土下座しました。
「誠に申し訳無い!知らなかったとは言え、何と無礼な事を!」
「良いんですよ。どうか顔を上げてください・・・」
そう言いながら、織絵は心の中でこうつぶやくのでした。
(この家の人達って、すぐに謝るのね。それだけ誠実で、良い人って事よね・・・)
そんな燻士家の人達を、織絵は好きになってきました。
「いや~ワシとした事が・・・」
「お義父さんも、そそっかしいですよね」
「全くその通りじゃ。しかし、そんな大切な事、弥生さんも早く言ってくれれば良かったんじゃぞ」
「そうでしたね。ごめんなさい」
弥生はまた、織絵に頭を下げました。
「別に気にしていませんよ。それに・・・」
改めて、織絵は話し始めました。
「旅をしているのは、修行をして、今よりも強くなるためと言うのもあります。でも、それだけじゃ無いのもまた、事実です・・・」
「やはり・・・」
織絵の言葉に、源一郎はうなずきます。
「私の恋人は、強く、優しく、人の笑顔を護るために、常に努力を怠らない人でした。
でも、彼は志し半ばで命を落としてしまい、自分の『夢』を果たす事が出来ませんでした。私は彼の意志を継ごうとしたのですが、その時の私では、到底無理でした・・・。
私は、彼の意志を継いでくれる人を探すため、そしてその人の力になるために、旅を続けているのです・・・」
織絵の告白を聞き、源一郎と弥生は深くうなずくのでした。
「そんな理由があったの・・・」
「うむ。そうでなければ旅など続けられん。織絵さんはただ者では無いと思っておったが、よもやそんな過去があったとはのう・・・」
「恋人さんの『夢』って何だったのですか?良かったら、聞かせてもらえません?」
弥生にそう尋ねられて、織絵は微笑みを浮かべ、こう答えました。
「ご主人と同じですよ」
「うちの人と?」
「琴子ちゃんと銀子ちゃんのような、未来を担う子供達のために、平和な世界を残したい。それが、彼の夢でした」
それを聞いて、源一郎と弥生は清々しい気持ちになるのでした。
「それは素敵な夢ね」
「うむ!彼はなかなか骨のある男じゃのう。織絵さんが惚れるのも、分かる気がするわい。さぞかし、男前だったんじゃろう」
「え?そうですね・・・。私が言うのも何ですが、確かに二枚目だったと思います」
織絵が照れながら答えると、弥生は『二枚目』の所にとても反応しました。
「まあ、そんなに?織絵さん、その人の写真とか持ってません?良かったら、見せてもらいたいんですけど」
「これこれ、弥生さんには虎太郎がいるじゃろうが」
呆れたように源一郎が言うと、
「分かってますよ。でも、二枚目って言われたら気になっちゃうのが、女ってものですよ」
と、弥生は少女のように笑いました。
「全く、弥生さんはいつまで経っても、娘っ子みたいじゃのう」
そう言いつつ、源一郎も興味があるようです。
「しかし、ワシもその人がどんな男なのか見てみたいのう。織絵さん、ワシからも頼む。ぜひ、その顔を拝んでみたいんじゃが」
二人にそう言われて、織絵は少し、悲しそうな顔をしました。
「すいません。写真は、持ってないんです・・・」
「あら、どうして?」
「・・・彼の顔を思い出すだけで私、辛くって・・・。だから、一枚も持っていないんです・・・」
それを聞いた二人は、(しまった・・・)と思いました。
「そうだったの・・・。ごめんなさいね・・・」
「う~む。また、悪い事をしてしまったのう。織絵さん、すまん!」
「どうぞ、気になさらないで下さい。それに、お二人にタカユキの事を褒めてもらって、私は嬉しいです」
「タカユキ?それが、恋人さんの名前ですかの?」
「はい」
織絵がうなずくと、源一郎は何かを考えるように天井を見上げました。
(タカユキ・・・?タカユキとな・・・)
「お義父さん?」
「どうかしました?」
弥生と織絵に声をかけられて、源一郎は我に帰りました。
「ん?あぁ、すまんすまん。何でも無いですぞ」
そう答えながらも、源一郎は『タカユキ』と言う名が気になっていました。
(どこかで、聞いたような気がするんじゃがのう・・・)
源一郎がまだ考えていると、弥生は織絵にこう尋ねました。
「そう言えば、タカユキさんって、お仕事は何をされている人でしたの?」
織絵は少しの間「う~ん」と唸っていましたが、やがて、
「何の見返りも求めず、罪無き人々を守る、『正義の味方』です!」
と、誇らしげに答えたのです。
「正義の・・・?」
「味方・・・?」
織絵の答えを聞いて、源一郎と弥生は唖然としていましたが、やがて二人とも笑いだしました。
「やっぱり、可笑しいですか・・・?」
織絵は困ったような顔をしましたが、それに対して二人は、笑いながらもこう答えてくれたのです。
「いや、可笑しくなどないですぞ!」
「えぇ、正義の味方だなんていきなり言うから、ちょっと驚いちゃったけど」
二人は、今度は真面目な顔になると、こう言いました。
「つまり、タカユキ君は人々を守るために、日夜戦い続けていた、と言う事ですかの?」
「もしかして、タカユキさんは刑事さんだったのかしら?」
織絵は視線をさまよわせながらも、こう答えます。
「ま、まぁ、そんな所です・・・」
源一郎と弥生は溜め息をつくと、深くうなずくのでした。
(それじゃ、タカユキさんは・・・)
(うむ。おそらくは、殉職してしまったんじゃろう・・・)
(織絵さん、かわいそうに)
(タカユキ君も、織絵さんを残して逝くのはしのびなかったじゃろうな・・・)
二人が小声で会話していると、織絵が唐突にこう言いました。
「あの・・・、大変お世話になりました。私は今日、旅立とうと思います」
二人は驚きました。
「そんな急に?もう少しゆっくりしていけば良いではないですか。のう、弥生さん」
「そうですよ。せめて、もう一日くらい泊まっていかれたら?」
「そう言う訳にはいきません。もう充分に良くしていただきましたし、これ以上は迷惑になりますから」
「そんな、迷惑だなんて」
「うむ、その通り。織絵さんは我らの恩人。その恩を、ワシはまだ返せたとは思っておらん。どうか、今しばらくこの家にいて、旅の疲れを癒していってくださらんか?」
二人の申し出は、織絵は涙が出るくらい嬉しかったのですが、この家には受験生の琴子がいますし、銀子には自分は嫌われてしまったようです。
(タカユキ・・・、やっぱり、私には無理だったみたい・・・)
織絵は、銀子の心を救いたいと思っていましたが、かたくなな銀子の心を開かせるのは自分では無理だと思いました。しかも、自分がいる事で、余計に銀子の心を乱してしまうのではないかと感じてもいました。そんな自分が、琴子と、そして銀子のためにも、ここに長くいる事は出来ません。
「お言葉はありがたいのですが、やはり私には、大切な目的がありますから・・・」
織絵の決意が固いと感じた源一郎と弥生は、引き留めるのは無理と悟りました。
「うむ。仕方ありませんな・・・」
「それで、いつ出発しますの?」
「昼には、発とうと思っています」
「娘達は、まだ帰ってきませんが・・・」
「琴子ちゃんと銀子ちゃんに、さよならを言えないのは残念ですが、明るい内に出発したいのです」
「そうですか・・・。なら、ちょっと待っていてくれます?お弁当を作りますから、せめてそれだけは持っていってくださいな」
「それは良い。織絵さん、ぜひそうしてくだされ」
その申し出まで断っては、返って申し訳ないと感じた織絵は、
「ありがたく、頂戴いたします」
と言って、頭を下げるのでした。
「お世話になりました。このご恩は決して忘れません」
燻士家の玄関先に、旅の用意を整えた織絵と、源一郎と弥生がいました。織絵はジャージから、武道着に着替えています。その武道着は昨夜、弥生が洗濯してくれました。お陰でとても着心地が良く、織絵は爽やかな気持ちで旅立つ事が出来そうです。
「織絵さん、達者でのう」
「近くにいらしたら、いつでもいらして下さいね。お待ちしてますわ」
「はい。それに、こんなにお弁当を持たせてくれて、ありがとうございます」
織絵の右手には、大きな風呂敷包みがあります。中身はもちろんお弁当ですが、その量もまた半端ではなく、大の男でも一度に食べ切れないように思われます。織絵は内心、
(やっぱり私、『大食い女』と思われてるのかしら・・・?)
とつぶやきながら、風呂敷包みを見つめました。
「あら織絵さん、お弁当が何か?」
弥生は心配そうに尋ねてきました。
「やっぱり、足りないですか?」
「そうかもしれんのう。弥生さん、もう少し作ってきたらどうじゃ?」
それを聞いた織絵は慌てました。
「いえいえ!こんなに沢山のお弁当作ってもらってうれしいな~と思っただけです!」
「そう?もしかして、遠慮してません?」
「織絵さんはまだ若いんじゃから、それくらいでは物足りないじゃろ」
「いえ!もう充分ですから!!」
織絵は、
(あぁ!やっぱり私、『大食い女』と思われてるんだわ~!)
と、心の中で嘆くのでした。
それでも気を取り直すと、織絵はにこやかに笑いました。
「それでは、琴子ちゃんと銀子ちゃんによろしく伝えて下さい・・・。お世話になりました。どうかお元気で・・・」
織絵は深々とお辞儀をすると、
「さようなら」
二人に背を向けて歩き出しました。
「織絵さん、さようなら」
「またいつか、会おうのう」
源一郎と弥生の声に、でも織絵は振り向かず、ただ、大きく手を振って答えます。
「もしかして織絵さん、泣いてるのかしら・・・?」
「泣き顔を見られるのは、さすがに恥ずかしいのかもしれんのう」
そう言う弥生と源一郎も、目を潤ませています。
遠ざかって行く織絵の後ろ姿を、二人はいつまでも、見つめ続けていました・・・。
燻士家を出てからしばらく後、織絵は公園のベンチに一人、腰かけていました。彼女の膝の上には、弥生が作ってくれたお弁当が乗せられています。しかし、織絵はそのお弁当に全く箸を付けていません。ただ、料理を見つめるように俯いていました。
源一郎と弥生に見送られた彼女は、その後、お弁当を食べようとこの公園に入りました。ベンチに腰かけ、大きなお弁当箱の蓋を開けるとそこには、エビフライやコロッケ、ハンバーグに焼き魚、煮物にサラダ、そしてフルーツがぎっしりと詰まっていたのです。
「作りすぎですよ、弥生さん」
織絵はつぶやき、笑みを浮かべました。弥生は織絵の為にと、お弁当を用意してくれました。これだけの料理を作るのは大変だったはずです。源一郎も、織絵の身の上が普通では無い事を見抜き、心配してくれました。二人が、どれほど自分を想ってくれていたのか、織絵には身に沁みて分かるのでした。
それと共に、琴子の明るい笑顔と、銀子の悲しげな横顔も思い出されたのです。
「あ・・・?」
織絵はその時、自分が泣いている事に気付いたのです。
「やだ・・・。私ったら・・・」
戸惑いながらも織絵は、すぐにその理由が分かりました。
「私は、あの人達が大好きになっちゃったのね・・・」
そして、織絵は青い空を見上げました。
最愛の恋人、タカユキを失ってから、織絵はずっと独りで生きて来ました。タカユキの意志を、夢を受け継いでくれる人を探して、長い旅を続けていたのです。
織絵は、旅の間に多くの人々と出会い、その人達にタカユキの事を語りました。しかし悲しい事に、まともに取り合ってくれる人は、ほとんどいなかったのです。
「夢物語ですよ」
「理想と現実は違いますからね」
「そいつ、一言で言うと『変わり者』だな」
織絵は、そう言われた時の事を思い出すたびに、悲しみと怒りで目の前が真っ暗になりました。
「夢物語!?理想と現実は違うですって!?現実を理想へと近づけようと、必死に努力していたタカユキを、その為に命を落とした彼を、あなた達は愚かだと言うの!?」
そして織絵は、かつて出会った一人の女性の事を思い出していました。
タカユキと織絵、そして仲間達の前に立ち塞がったその女性は、とても美しく、そして恐ろしい存在でした。彼女は人間を激しく憎悪し、滅ぼそうとしていたのです。
彼女はタカユキと織絵達を、その妖しげに光る金色の瞳で見つめながら、こう言い放っったのです。
「人間は愚かで醜い生き物よ。自分達の利益の為なら、平気で同じ人間を、そして、お前達を裏切るわ。人間には、お前達が命を懸けてまで守る価値などないのよ!!」
それに対してタカユキは、
「それは違うな・・・。確かにお前の言う通り、人間は愚かで弱い。そしてその為に、裏切る奴もいるだろう・・・。
だが、たとえどんなに愚かで弱くても、俺は人間を信じる!人間の優しさを、真心を信じる!!全ての人間が、お前の思うような者ばかりだと思うな!!」
強く、そう言い返したのでした。
「タカユキ、あなたの言った通りだった・・・。だって・・・」
織絵は、弥生が作ってくれたお弁当を、再び見つめました。
「こんなに、温かい人達がいる・・・。知り合ったばかりの私を、思いやってくれて、そして、タカユキを讃えてくれた人達がいる・・・」
織絵は、自分に新たな希望を与えてくれた燻士家の人達に感謝し、
「いつかまた、あの人達に会いに行こう」
微笑みながら、うなずくのでした。
「あ、そう言えば、お弁当食べようとしてたんだっけ!」
織絵は手を合わせると、「いただきます!」と言って、お弁当を食べ始めました。
その時です。
「痛い!やめてぇ!!」
急に聞こえた悲鳴に驚き、織絵は口にしたエビフライを危うく吐き出す所でした。
「ふぁ、ふぁんふぁほ (な、何なの)!?」
エビフライを慌てて飲み込むと、織絵は叫び声のした方へ走り出しました。
時間は少しさかのぼって、織絵がいる公園のブランコに、学校帰りの銀子が座っていました。彼女は遊んでいるのではなく、うなだれて、地面を見つめているだけです。いつもなら、銀子は真っすぐに家に帰っている所です。しかし今日は、あの『変な女』が家にいるのではないかと思い、顔を合わせたくない銀子は帰るのをためらっていたのです。
公園の真ん中には、芝生が敷き詰められた小山があり、織絵がいるベンチと、小山を挟んだ丁度反対側に銀子はいました。そのため、二人はお互いの存在に気付いていませんでした。
銀子は、父親の事を思い出していました。
父の虎太郎は海外にいる事が多く、日本にいられるのは半年にも満たない時間でした。だからでしょう、日本にいる間は、良く琴子や銀子と遊んでくれました。この公園でも、虎太郎とキャッチボールをしたり、今座っているブランコで遊んだりもしました。
また、虎太郎からはハーモニカの吹き方も教わりました。銀子は、父に聴かせたいと思って、一曲でも吹けるようにと頑張ったのですが、それが叶わないうちに、父が海外に出発する日を迎えてしまったのです。
「次にお父さんが帰って来るまでに、ハーモニカ吹けるようになっておくからね!」
虎太郎を空港まで見送りに行った時、銀子はそう約束しました。
「そうか。父さん、楽しみにしてるからな!」
虎太郎はそう言って笑うと、力強い手で銀子の頭を撫でてくれました。
そしてその後、虎太郎は行方不明になってしまったのです・・・。
銀子は、ポケットからハーモニカを取り出しました。父から贈られたそのハーモニカをじっと見つめていると、その表面に父の笑顔が映ったような気がして、銀子の目に、涙が溢れてきました。
「お父さん・・・」
悲しげにつぶやくと、銀子はハーモニカを吹き始めます。
虎太郎は良く、童謡や歌謡曲を吹いては、自分達を楽しませてくれました。いつかそんな父のように上手に吹けるようになりたい、そして、父との約束を守るために、彼女は今も練習を続けています。銀子はつっかえながらも、ハーモニカを吹き続けました。
その時、急に背後から怒鳴り声がしました。
「へったくそだな~!やめろやめろ!!」
驚いた銀子が振り返ると、そこにはクラスメイトの男子が数人いました。その姿を見たとたん、銀子は怯え、身を竦ませます。何故なら、その男子達はいつも、銀子をいじめていたからです。今も、男子達は皆、意地の悪い笑みを浮かべていました。
慌てて逃げようとする銀子を、男子達はあっというまに取り囲んでしまいました。
「どぉこ行くんだよぉ!?」
銀子の正面に立っていた男子が、わざと乱暴な口調でそう言いました。
「・・・家に、帰る・・・」
弱々しくしく答える銀子に別の男子は、
「そう言わないで、俺たちと遊ぼうぜ」
と言いながら、ニヤニヤと笑いました。怯えてしまって何も言えない銀子には構わず、男子達は勝手に話しを進めて行きます。
「何して遊ぶ?」
「キャッチボールなんて良いんじゃね?」
「バカ。ボールが無いだろ」
「ボールの代わりに何か無いかな?」
「ここにあるじゃん!」
「あ!?」
銀子が、悲鳴にも似た声を上げました。彼女の手に握られていたハーモニカを、男子の一人が素早く奪い取ったからです。そして男子達は、銀子の大切なハーモニカを、ボールのように投げて遊び始めたのでした。
「返して!返してよぉ!!」
男子達の間を飛び交うハーモニカを、銀子は泣きながら追いかけます。しかし、ハーモニカをキャッチした男子は、すぐに別の男子に投げてしまうため、取り戻す事が出来ません。それでも銀子は、必死になってハーモニカを、父との大切な思い出を追いました。しかし、彼女は石につまずいて転んでしまいました。
「返して・・・。お願いだから返してぇ・・・」
地に倒れ伏して泣き続ける銀子を、男子達はニヤニヤと笑いながら見下ろしています。すると、
「おい。それ、もう返してやれよ」
意外にも、一人の男子がそう言ったのです。
「え?でもさぁ」
「良いから返してやれって。かわいそうじゃん」
その子はリーダー格らしく、他の男子達は彼の言う事にしぶしぶ従いました。
「ほら」
ハーモニカを返してもらって、最初、銀子は意外そうな顔をしました。でも、すぐに嬉しそうな顔になります。
「あ、ありがとう・・・」
リーダーの男子に、銀子がお礼を言うと、
「別に良いって」
その子はニヤニヤと笑って、そしてこう言ったのです。
「だってそれ、お前の父ちゃんの形見なんだろ?」
その言葉に、銀子は目を見開きました。
形見。つまり、この子は銀子の父はもう、死んでいると言っているのです。
「・・・違う・・・もん・・・」
銀子はハーモニカをぎゅうっと握り締めると、震える声でそう言いました。
「お父さん、きっと・・・帰ってくるもん・・・」
そんな銀子を嘲笑うかのように、リーダーはこう言い捨てました。
「帰ってこねーよ。もう死んじゃったんだよ、あきらめろよ」
「死んでないもん!生きてるもん!!」
思わず叫ぶ銀子に、リーダーは更にこう言います。
「それじゃ、何で帰ってこねーんだよ?おかしいじゃねえか」
「それは・・・」
すると今度は、他の男子が口を挿んできました。
「俺の母ちゃんが言ってたよ。『きっと、他所の女と駆け落ちしちゃったんだ』って」
「違う・・・」
「僕んちでもそう言ってた。でも、駆け落ちって何?」
「違うもん・・・」
「バカ!男と女が一緒にどっか行っちゃうのを駆け落ちって言うんだよ」
「お父さん、そんな事しない・・・」
「そうか~。こいつの父ちゃん不倫してたんだ」
「お父さんがそんな事するはずが無いよ!!」
泣き叫ぶ銀子を、男子達は面白がって更に囃したてました。
「じゃぁ、やっぱり死んじゃったんだよ」
「そうだよ。銃でうたれてさ」
「そんで、血だらけになって死んじゃったんだぜ」
「じゃなかったら、地雷をふんでドッカ―ンとかな」
「そうそう」
心無い言葉の連続に堪りかねた銀子は、
「お父さんは絶対に帰ってくるんだ~~!!」
と、絶叫しました。
「うわぁ!?」
いつもは暗く、クラスでも小さく縮こまっている銀子の、その思わぬ迫力に男子達は驚愕しました。
「絶対に、絶対に帰ってくるんだ!!」
なおも叫ぶ銀子に、
「うるせぇ!!」
リーダーは足元の石をつかむと、銀子に向かって投げつけました。
「イタッ!」
石は銀子の頭に当たり、その痛みに彼女は顔をしかめます。
「やっちまえ!!」
リーダーの声を合図に、男子達は石を投げつけてきました。
次から次へと石をぶつけられ、銀子は「やめて!」と泣き叫ぶ事しか出来ません。それでも、男子達は容赦しませんでした。
「生意気なんだよ!!」
「親父がいないくせによぉ!!」
「思いしらせてやれ!!」
男子達は口々に暴言を吐きながら、投石し続けました。
織絵が耳にした悲鳴は銀子のものであり、そして正にこの時、織絵はこの場に駆けつけたのでした。
いじめられている銀子を発見した織絵は、すぐに走り出しました。そして、織絵は銀子を抱き締めると、自らを盾にして、飛んでくる石から銀子を守ったのです。頭や背中に石があたり、織絵は「いったぁ~」と言って顔をしかめましたが、すぐにニッコリ笑うと、
「大丈夫、銀子ちゃん?」
と、腕の中にいる少女に語りかけます。
「・・・?」
最初、銀子は何が起きたのか分からなかったようです。目の前にいる『変な女』が自分を守ってくれたのだと気付くまで、およそ10秒かかりました。
「どうして・・・?」
銀子は驚きに目を見開いています。それに対して織絵は、
「さあね」
いたずらっぽく笑うだけでした。
しかし次の瞬間、織絵は後ろを振り返ると、男子達を鋭く睨みつけ、こう言い放ちました。
「こら!男のくせに弱い者いじめしちゃダメでしょう!!」
男子達は、いきなり現れた織絵に初めは驚いたようですが、
「男のくせにって、女だったらいじめをして良いのかよ?」
「男女差別だ!」
「そーだ、そーだ!」
と、すぐにふてぶてしい態度をとりました。
「へりくつを言わないの!見っとも無いマネはやめなさいって言ってるのよ!いいかげんにしないと許さないわよ!!」
怒った織絵はとても迫力があり、男子達は一瞬怯みました。でも、それで謝ってしまうのはさすがに悔しいらしく、苦し紛れにこう言い返して来ました。
「お、おれ達に何かしてみろ!虐待されたって警察に言うぞ!!」
そう言って脅してやれば、普通の大人は皆、引き下がってしまうのだと彼等は思っていました。しかし、ある意味〝普通〟ではない織絵にその手は通じません。
「あのねぇ君達、人を脅すようなマネをして、本当に恥ずかしくないの?」
呆れ果てた織絵は、次には真剣な顔で男子達に語りかけます。
「弱い者いじめは卑怯者のやる事よ。そんな事はやめなさい。そしてちゃんと、銀子ちゃんに謝りなさい」
織絵が厳しい態度をとるのも、この子達のためと思っての事なのですが、残念ながらその想いは彼らには届いていないようです。
「や~だよ~!」
「誰が謝るかってんだよ、このバカ!!」
好き勝手な事を言う彼等に、織絵は本気で怒りを覚えました。
「君達ねぇ・・・。口で言っても分からないなら、鉄拳制裁でも受けてみるぅ?」
そう言って織絵は、指をポキポキと鳴らしました。
今度は織絵が脅しているように見えますし、彼女は当然、それに気付いています。しかしその事実を、織絵は大胆にも無視しました。
「ふん!どうせ何も出来ないくせに!おれ達を殴ったりしたら、本当に警察呼ぶぞ!!」
「そしたら、おばさんの人生おしまいだよ」
「ま、逆におれ達に謝るって言うんなら、許してやらないでもないけどな!」
織絵は「はぁ・・・」と溜め息をつくと、
「大人をなめるんじゃないよ。そっちっこそ、私が優しく言ってる間に謝った方が良いんじゃないの・・・?」
と、低い声でそう言いました。その声は、男子達の背筋に冷たいものを走らせます。
「う、うるせぇ!!おい!こいつにも石ぶつけてやろうぜ!!」
リーダーは叫びました。でも、それは勇気などではなく、皆の前で良い所を見せたいと言う、虚勢から出た言葉でした。それを聞いた他の男子達も、リーダーに倣い、石を拾います。そして、
「避けてみろ!!」
リーダーが叫ぶと同時に、皆一斉に、石を投げつけて来ました。
(避けてみろですって?)
織絵は不敵な笑みを浮かべると、両手を素早く閃かせました。
男子達は、石をぶつけられて痛がっている織絵を見られると思っていました。しかし彼女は、何事も無かったかのように平然としています。
「え!?」
何が何だか分からず、呆気にとられている彼らに、織絵は両手に握った物を見せてやります。それを見た全員が「あっ!!」と声を上げました。
織絵の手に握られていた物、それは、数個の石でした。
「う、うそだろ・・・」
驚いた事に、織絵は飛んできた石を、全て手で受け止めてしまったのです!
「どうしたの?もう終わり?」
そう言いながら、織絵は石をお手玉のように弄びました。
「うわっ!!逃げろぉ!!」
織絵に敵わないと見るや、男子達は全員、公園の出口を目指して走り出します。
「待ちなさい!!」
織絵は地面を蹴って跳躍します。彼女は信じられない高さで宙を舞うと、男子達の頭上を越えて、その前方に着地しました。
「わぁ!!」
行く手を遮られ、立ち尽くす男子達に向かって、怒りに目を吊り上げた織絵がゆっくりと近付いて来ます。男子達は、本当に殴られると思い、今にも泣きそうな顔をして身を寄せ合っていました。そして織絵が眼前に迫った時、彼等はギュッと目をつむりました。
次の瞬間、
コツン、コツン、コツン・・・。
小さな、本当に小さなゲンコツが、彼らの頭に落ちてきました。
「・・・?」
男子達が恐る恐る目を開けると、そこには、穏やかな表情の織絵がいました。
「どう、怖かったでしょう?あなた達は、それと同じ事を銀子ちゃんにしていたのよ」
「あ・・・」
「それに、銀子ちゃんは、誰よりも淋しい想いをしているんだから、皆で助けてあげないとね」
「・・・・・・」
「あなた達だって、大切な人がいなくなったら淋しいでしょう?」
男子達は顔を見合わせると、やがて「うん・・・」とうなずきました。織絵は、先程とは別人のように、優しい口調で語りかけます。
「それに、男の子だったら本当の強さを身に付けなくっちゃ」
「本当の・・・強さ?」
「人を傷つけるのではなく、人を守れる、本当の強さをね・・・」
そう言って織絵は、男子達の顔を一人ずつ見ました。そして、
「その方が、断然カッコイイと思うわよ」
織絵はニッコリと笑うのでした。
「分かったかな?」
「は~い・・・」
そう答える男子達の声はまだ小さく、その事に織絵は苦笑しました。
「元気ないわね~。ま、良いか」
次に織絵は彼らを伴なって、しょんぼりしている銀子の所へと戻りました。
「それじゃ、銀子ちゃんにきちんと謝りなさい。出来るよね?」
彼等は少しためらった後に、
「ごめん・・・なさい・・・」
と、謝りました。
「素直に謝ったんだから、銀子ちゃんも、許してあげてね」
「・・・うん・・・」
ややあって、銀子も小さな声でそう答えました。
「よし!それじゃ君たち、車に気をつけて帰るのよ」
織絵が笑って一人一人の顔を見ると、
「さようなら・・・」
ペコリとお辞儀をして、男子達は帰って行きました。
彼等は公園から出る時、何度か織絵の顔を振り返って見ていました。彼女が言った「本当の強さ」と言う言葉を思い出すかのように。そんな彼らを、織絵は笑顔で見送るのでした。
公園のベンチに、織絵と銀子が並んで座っています。銀子は、先程男子達に言われた事でショックを受け、未だにそれが覚めていないらしく、まだ泣き続けていました。そんな銀子をなだめようと、織絵は悪戦苦闘しています。
「銀子ちゃん、もう泣かないで。そうだ、このお弁当一緒に食べない?お母さんが作ってくれたんだけど、とっても美味しいわよ」
「・・・いらないです・・・」
「そんなこと言わないで。ほら、このハンバーグあげるから」
「そんなの、いつも食べてます・・・」
「あ、そうよね・・・」
織絵は溜め息をつくと、しばらくの間、黙って銀子を見つめていましたが、やがてこう尋ねました。
「銀子ちゃん、あなたは自分を不幸だと思う?」
「え・・・?」
織絵の言葉に顔を上げた銀子の目は、泣き続けたせいで真っ赤になっています。
「本当に、不幸だと思っている?」
その問いに、銀子はキッと目を吊り上げると、こう言い放ちました。
「当たり前じゃないですか!!」
「何故?お父さんがいないから?」
「そうです!それに、誰もあたしの気持ちなんて、分かってくれないんです!」
「そう?」
「あたしがこんなに悲しいのに、お母さんもお祖父ちゃんも笑ってばっかりだし、お姉ちゃんはすぐに怒るし・・・」
「・・・・・・」
「みんな・・・みんな、お父さんがいなくても平気なんだ~~~!!」
そして、銀子はまた泣き出すのでした。
そんな銀子の頭を、織絵は寄り添うようにして優しく撫で、銀子はもまた、織絵にその身を預けています。先程、自分を助けてくれた織絵に、銀子は心を許し始めていました。
「あのね、銀子ちゃん」
不意に織絵は口を開きました。
「・・・何ですか・・・?」
「私はね、あなたは不幸なんかじゃないと思うのよ」
銀子は顔を上げました。その顔に怪訝な表情を浮かべて。
「どうして、ですか・・・?」
「確かに、お父さんがいなくなって淋しいと思うわ。でもね、あなたにはまだ、お祖父さんもお母さんも、お姉さんもいてくれるじゃない。
それにね、みんなも本当は、お父さんがいなくなって淋しいんだと思うの。でも、だからと言って、いつも暗い顔をしていたら心まで荒んでしまうわ・・・。
いつかお父さんが帰って来た時に、精一杯の笑顔で迎えられるように、みんな明るく生きているんだと私は思うの・・・。
それとね、もちろん琴子ちゃんだって、本当は銀子ちゃんをとても心配しているわよ」
「信じられないです・・・」
銀子は織絵からそっと離れると、俯いてしまいました。
「どうして?」
「今まで誰も、そんな事言ってくれなかったです・・・。みんな、お父さんがいなくても平気なんです。きっと、お父さんの事なんて、忘れてしまったんです・・・。それに・・・」
銀子は、咎めるような視線を織絵に向けました。
「あなたに・・・あなたなんかに、あたしの気持ちが分かるんですか!?」
「分かるわよ」
あっさりと答えられて、銀子は呆気にとられてしまいました。
「な、何でですか・・・?」
「だって私の家族は、み~んな死んじゃったもの・・・」
そう言って織絵は、少し悲しそうに微笑みました。
「え・・・?」
「だからね、私も銀子ちゃんの気持ちが、何となく分かるのよ。あの当時の私は、今の銀子ちゃんよりずっと、悲しみに打ちひしがれていたし、そしてこの世を、呪い続けていたんですもの・・・」
「本当に・・・?」
銀子は、信じられない気持ちでいっぱいでした。目の前にいる、この明るくて騒がしい女性に、まさかそんな壮絶な過去があったとは、思ってもみなかったのです。
「本当よ。嘘でこんな事言えないわよ。でもね、そんな時に、ある一人の男性との出会いがあって、私の人生は大きく変わったの。強くて優しくて、そして笑顔の素敵な人。彼のお陰で、私は幸せになれるんだって気付く事ができたの・・・」
空を見上げながらそう語る織絵は、本当に幸せそうでした。
「もっとも、彼も私を残して死んじゃったけどね・・・」
「えぇ!?」
「全く、こんな美人を残して天国へ行っちゃうなんて、タカユキもひどいわよね」
「どうして・・・?」
「私を守るためにね・・・。その後、私は泣いてばかりいたけど、このままじゃいけないと気付いたの。タカユキが私に与えてくれた、愛と真心を無駄にしないためにも、私は強く生きて、そして今度は、私が誰かを守れるようになろうと心に決めたの」
そう言って微笑んだ織絵が、銀子には何故か、とても眩しく見えました。
(織絵さんは、本当に独りぼっちなんだ・・・。それなのに、こんなに明るくて。それに引き換え、あたしは・・・)
「どうしたの?急に黙っちゃって。あ、ごめん。私の話し、暗かったかな?」
「え!?いいえ!そんな事ないです!」
「そう。あ、そうだわ!ちょっと待っててね・・・」
織絵は荷物入れの中を覗くと、何かを探し
始めました。
「確かこのあたりに・・・。あ、あったあった!」
何かを取り出すと、織絵はニコニコと笑って銀子に振り返ります。
「銀子ちゃん、ちょっと目をつむってて」
「何ですか?」
「内緒」
不安そうにしながらも、銀子は言われた通りにしました。織絵は銀子の頭に、何かを巻きつけています。
「はい、良いわよ」
その声に銀子が目を開けると、何故か自分の視界が開けています。銀子が頭に触れてみると、そこに帯状の布が巻いてあり、それが長い前髪を留めているためだと気付きました。
「これは・・・鉢巻きですか?」
銀子の予想通り、そこには、純白の鉢巻きが巻かれています。
「えぇ。タカユキが、修行の時に着けていたものなの。それを銀子ちゃんにあげるわ」
「それじゃ、これってその人の形見なんですよね?そんな大切なもの、もらえません!」
銀子が鉢巻きを外そうとするのを、織絵は優しく制しました。
「あなたに使ってほしいの。だって、せっかく可愛いのに、その顔が見えないんじゃもったいないでしょう?」
「か、可愛いだなんて・・・」
銀子は頬を赤く染めます。
「それに、きっとタカユキも同じ事をしたはずよ。彼は、あなたみたいに傷付いた人を見ると、放っておけなかったんですもの」
「でも・・・」
「私は、思い出だけで充分・・・」
そして織絵は、まじまじと銀子の顔を見つめました。
「な、何ですか・・・?」
「ふふっ。やっぱり銀子ちゃんって可愛いわね。これは将来が楽しみだわ~」
「えぇ~!?」
織絵からの思いがけない言葉に、銀子は思わず目を丸くしました。
「銀子ちゃんは大人になったら、世界的なスーパーモデルになったりするかもね~」
「もう!からかわないで下さいよ~!!」
容姿を褒められた事などほとんど無かった銀子は、くすぐったいような、恥ずかしいような奇妙な気分になりました。でもそれは、決して嫌なものではありませんでした。
織絵と銀子の楽しそうな笑い声が、昼下がりの公園を満たして行きました。
「そう言えば、学校が終わるの早いくない?」
織絵は、並んで歩いている銀子に問いかけました。
「今日は、午後から職員会議があるとかで、半日で終わりです」
「そうなんだ。それじゃ、いつも通りの授業だったら、あの公園で会う事も無かったかもね」
「そうですね」
銀子は、織絵を見上げてそう答えました。心なしか声も表情も明るく、頭の鉢巻きが気に入ったのか、何度もなでています。
あの後、二人は公園でお弁当を仲良く食べました。食べ終わった後、織絵は銀子に別れを告げ、そのまま旅立とうとしましたが、銀子が淋しそうな目で自分を見るので、仕方なく家まで送ってあげる事にしたのです。
(でもまいったわね・・・。あれだけかっこいいこと言って出て来たのに、また戻って行ったら何て思われるか・・・)
心の中でつぶやく織絵でしたが、しかしそれ以上に、心にわだかまる不安がありました。
(また、あの人達に会ったりしたら、せっかくの決心が揺らいじゃうかもしれない・・・)
一人で浮かない顔をしている織絵を見て、
「どうしたんですか?暗いですよ」
と、銀子は遠慮の無い質問をして来たので、織絵は苦笑しました。
(あのねぇ、それを君が言うかぁ!?)
そうこうしている内に、とうとう二人は燻士家に到着してしまいました。
(さて、どうしたものか・・・)
織絵が思案していると、銀子は玄関を開けて、
「ただいま~」
と、中に声をかけてしまいました。
「あ!ちょっと・・・」
「は?」
慌てている織絵を、銀子は不思議そうに見ています。
「どうしたんですか?早く中に入りましょうよ」
銀子が微笑んでそう言うので、織絵もつられて笑いました。しかし、心の中ではそうとう焦っています。
(って言うか、この格好を見れば私が家を出て来たんだと普通気が付くでしょ!!天然系かこの子は!?)
などと思っていると、
「どうしたの銀子?随分と早いわね」
奥から出て来た弥生と、ばっちり目が合ってしまいました。
「まぁ!織絵さん!?」
「あ、どうもぉ・・・」
驚いている弥生と、ばつが悪そうに笑っている織絵を交互に見て、銀子は首をかしげます。
「お義父さん、ちょっと来て下さいな!」
「何じゃ騒々しいのう。どうした・・・おぉ!織絵さんではないか!!」
呼ばれてやって来た源一郎も、目を丸くしています。
(お母さんもおじいちゃんも、一体どうしたのかな?)
事情を知らない銀子が怪訝な顔をしていると、
「あの、銀子ちゃんは無事にお送りしましたので・・・」
織絵はそう言って、くるりと背を向け、
「それでは・・・」
そのまま歩き出しました。
「あ!織絵さ・・・」
言いかけて、源一郎と弥生は悲しそうに黙ってしまいました。織絵には、大切な目的があるのです。悲しくとも、見送るしかないのです・・・。
しかしその時でした。
「行かないで織絵さん!!」
大きな声で呼び止めたのは、何と銀子でした。織絵は、足を止めます。
「銀子?」
源一郎と弥生は、思いがけない銀子の声に、思わず顔を見合わせました。それに銀子は気付かずに、必死になって織絵に言いました。
「あたし、もっと織絵さんとお話ししたい!色んなこと教えてほしい!だから・・・」
「・・・・・・」
「だから行かないで!!」
織絵は背を向けたまま、肩を震わせています。それが何故なのか、源一郎と弥生はすぐに理解しました。
「お願い・・・。ここにいて・・・」
銀子は泣きながら、そう訴えます。
(そんなこと言われたら、行けないじゃない・・・。でも・・・)
織絵が悩んでいると、
「織絵さん・・・」
弥生の声が聞こえました。
「・・・はい・・・」
織絵が消え入りそうな声で答えると、弥生は温かく、そして、優しい声でこう言ってくれました。
「おかえりなさい」
その言葉を聞いた途端、織絵の目から大粒の涙が溢れました。その涙は織絵の心の迷いを、全て洗い流してくれるようでした・・・。
涙を拭うと、織絵は振り返りました。源一郎と弥生、そして、まだ目に涙を浮かべた銀子が、嬉しそうに笑っています。
織絵は、照れたように俯いた後、満面の笑みを浮かべ、こう言いました。
「ただいま!」
「ただいま~!!」
その日の夕方、燻士家の長女の琴子は急いで帰宅しました。
「おう、お帰り」
出迎えてくれた源一郎に、
「織絵さんは!?」
琴子は息を弾ませながら尋ねます。
「居間にいるぞ」
「良かった~!まだいてくれたんだ~!」
琴子はほっと胸を撫で下ろしました。彼女は織絵が旅に出るまでに、もう一度会ってお礼を言いたかったのです。
「琴子、今日はご馳走じゃぞ」
「?」
琴子が居間に入ると、弥生が作る料理を織絵と、そして何故か銀子が、テーブルの上に並べています。
「お帰り琴子」
「琴子ちゃんお帰りなさい」
「お帰り~」
「ただいま・・・」
琴子は、とても楽しそうにしている妹に近寄ると、
「あんたどうしたのよ?何かあったの?」
と、耳打ちしました。
「何が?」
「いや、何がって・・・。あんた、急に明るくなってない?」
「ふふ~ん。ひ・み・つ!」
「何が『ひ・み・つ』よ!変なやつね!それに白い鉢巻きなんかして、運動会でも始めるつもり?」
「似合う?」
「似合わないわよ!も~何が何だか分かんな~い!!」
いつもとは違う妹の態度に、琴子が困惑していると、
「銀子ちゃんはただ、大切な事に気付けただけよ」
織絵が簡単に、しかし明確な答えを教えてくれました。
「大切な、事・・・?」
「そうよ」
「そうそう、大切な事」
「あんた黙ってなさいよ!」
したり顔の銀子を、未だに困惑気味な琴子は、思わず叱り飛ばしてしまいました。そしてすぐに、琴子はその事を悔やんでしまいます。
(銀子に優しくするつもりだったのに、私ったらまた・・・)
しかし銀子は、
「ま~た、そうやって怒るんだから~」
と、唇を尖らせましたが、落ち込む所かすぐに手伝いを再開しました。
(銀子・・・?)
不思議そうな琴子に、今度は織絵が耳打ちします。
「銀子ちゃんはね、あなたの本当の気持ちが分かっているのよ」
「私の、気持ち・・・?」
「そう。だからもう大丈夫」
織絵は片目をつむってみせます。
「?」
琴子はまだ良くは分かっていませんでしたが、織絵の言葉は信じて良いのだと思いました。だから、それ以上の詮索はせず、今度はテーブルの上に目を移すのでした。
「ふ~ん、本当にご馳走ね。でも何でって、そうか、織絵さんの送別会かぁ・・・」
琴子が淋しそうにそう言うと、他の面々は顔を見合わせて笑いました。
「何?」
「違うわよ琴子。これは歓迎会よ」
弥生が悪戯っぽく笑うと、源一郎と銀子、そして織絵は楽しげに笑いました。
「??????????????????」
訳が分からない琴子は、ますます首を傾げるのでした。
第8話完 第9話に続く
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