[幕間16ーside ミラ]夜色キツネと地下牢②

 心のどこかで、絶対に助けに来てくれると信じていた。長い年月が経って成長した今もそれは変わらず、ただの一度も上司を——、総帥を疑ったことなんて一度もない。


 目を閉じると昨日のように思い出す。

 背中をとんとんとやさしく叩いてくれた大きな手のひら。

 直接肌に触れる人のぬくもりが心地よかった。首に腕を回すと、総帥は小刻みにふるえるオレの小さな身体を抱き上げて、あの人はそっと耳もとにささやいてくれた。


「これからは僕が君を守ってあげるよ」


 それは己の心に誓った厳粛の言葉。そう、オレたちの故郷で言う指きりのような。あのささやきが絶対に貫き通すと決めた約束だったと思い知ったのは、大人になってからだった。







「ゼルスの赤獅子に会いに行くだって?」


 朝食のコーヒーを淹れた後、休暇申請ついでに理由を話すと総帥は眉をひそめた。


「前にも言っただろ、ミラ。ルーンダリアはともかく、ゼルスは危険だから入国は勧められないな」

「オレだって、前に言っただろ。故郷の友達ダチがゼルスで指名手配されてんだって! ふみを送っても音沙汰ねえから、直接ゼルスの赤獅子に直談判しに行くんだよ」


 負けじと言い返しても総帥の表情には変化がない。どうにも納得してねえって感じだ。


「危険ってもうオレは子供じゃねえんだぜ!? 大体、ゼルスにも《闇竜うち》の支部があるじゃねえか」

「あるにはあるけどさ。もう規模も縮小してるし、ゼルス支部は畳んでもいいと思ってるんだ。未だに《闇竜》を狩ろうとする連中だっているわけだしさ」

「そんなん、サフィーが聞くわけねえだろ。あいつ、ゼルスが故郷なんだから」

「そうなんだよ。誰も僕の言うことを聞いてくれなくて、ほんと困っちゃうよね」


 総帥はそう言って、これ見よがしに肩をすくめた。それでもしっかりコーヒーカップを握っていて離さない。

 薄めのブラックが総帥の好みだ。砂糖はなし。嬉しそうに笑って飲んでくれるから、オレとしてもコーヒーを振る舞うのが楽しい。


 って、そうじゃねえ。


「話それてる! だからさ、危ねえことは何もねえんだって。赤獅子にちょっと話に行って、手配書を取り下げてもらうだけなんだからさ」

「ちょっと話に行く、ねぇ……」


 カップをソーサーに置いて、総帥はじっとオレを見た。もともと細い紺碧色の目がますます細くなる。


「まあ、いいか。行きたいなら行ってきなよ」

「え? マジでいいの?」

「いいよ。ただ、三日に一度の報告書は忘れないように。あれは生存報告も兼ねてるからさ。僕があげた魔法具は持ってるかい?」

風便りウインドメールが使えるアレか?」

「そう」


 総帥は小さく頷いた。

 これは驚いた。まさか本当に許可がもらえるなんて思わなかった。

 総帥は部下に過保護で甘い。そりゃ、オレにとってこの人は父親みたいなものだ。まるで自分の息子に対するようにオレに接してくる。

 正直な話、三日に一度手紙を送るのはだりぃけど、毎日送れって言わないだけまだましだ。


「わかった。手紙は必ず送る。だから心配すんなよ、総帥」

「心配するに決まってるだろ。君は大事な僕の身内なんだからね」


 ほっとしたのも束の間。総帥はカップを持ち上げ美味そうにオレが淹れたコーヒーを飲み干したあと、最後に笑ってこう釘を刺したのだった。


「どうにもならなくなったら、僕が全部片付けてあげよう。君を守ると誓った通りにね」




 + + +




「……つっ」


 覚醒の瞬間は最悪だった。

 頭はめちゃくちゃ痛いし、殴られた腹も痛い。ついでに腕も。絶対に打撲痕が残ってる。意識が飛ぶほどの不覚を取ったのはずいぶん久しぶりだ。


 しまった、と思った時には後の祭りだった。

 氷翠ひすいの治療に夢中になっていたなんて言い訳にもならない。あの小賢しいレットが、獲物を放置したまま様子を見に来ないはずねえのに。

 くそ。腕……、いや、手首か。めちゃくちゃ痛ぇんだけど。ん、手首?


 室内は暗くて、わずかな暖色の照明だけ。窓すらない鉄格子の部屋だ。床にはオレが横たえた氷翠が見える。いや、むしろオレの方が見下ろしてる……?


「案外、早く目を覚ましたじゃねえか。気分はどうだ、黒狐」


 オールバックの赤髪の男が迫ってくる。獣のような目を向けられていても、オレは確認せずにはいられなかった。おそるおそる真下を見る。嫌な予感がした。

 予想通り、オレは宙に浮いていた。足もとにはゆらゆらと動く複数の黒い影。変化へんげが解けて表に出ちまったオレの尻尾だった。


 オレ、なんで宙に浮いてんだ。

 見上げるとオレの腕は頭上に固定されていた。ご丁寧にも細い鎖が何重にも巻かれている。

 つまり何が言いてえかっていうと、オレは無様にも天井に吊るされている状態だった。


(や、やっべぇぇぇぇえええええ!)


 ああああっ、なんで注意散漫になっちまったんだ、オレ!? 今の状況、めちゃくちゃピンチじゃねえか。よりにもよって、レットに捕まっちまうなんて!

 捕縛されるのは初めてじゃない。慣れてるって言うのは自分でもどうかと思うけど、こうして牢に監禁されるのも、天井に吊るされるのもすでに経験済みだ。修羅場なんて何度もくぐってきたし、怖くはない。だって、オレには守ると誓ってくれた鬼のような保護者がいるから。いや、今は鬼に来られたら困るんだよ!


 だって、オレがなによりも恐れるのは、総帥が助けに来ることだからだ。


 子供ガキの頃からあの人のことを疑ったことは一度もない。どこにいようと、総帥は誓いを立てた通りに身内であるオレを助けにくる。そうして最後には危害を加えた相手を殺すのだ。

 過去に実例がある。《闇竜》に入る前、まだ変化へんげでキツネの耳と尻尾を隠していなかったせいで、オレはどこかの国の悪徳貴族に拉致されたことがあった。国外だったのに、総帥はすぐに助けに来てくれた。彼は泣きじゃくるオレの頭をやさしくなでたその手で、主犯の男を絞め殺したのだ。当時見たその光景は子供だったオレには衝撃的すぎて、いまだこの目に焼きついている。


 総帥は凄腕の暗殺者アサシンだ。身内には甘くて過保護だけど、敵に手心を加えない。一度逆鱗に触れてしまえば、容易く命を刈り取ってしまう。あの人がオレを助けに来れば、ゼルスの城に血の雨が降っちまう。


 レットは最低最悪の男だ。エリアスを陥れて追放し、つむぎ澄晴すばるを利用して謀反を企てた。実の兄貴を手にかけて拷問するようなヤツだし、オレだってヤツの命が惜しいとは思わない。

 けど、レットはエリアスの手で捕まえて、ゼルスの王が裁かなくちゃならない。総帥にヤツの命を負わせてはだめだ。


「質問に答えろ。気分はどうだって聞いてんだよ」


 無造作に顎をつかまれ、上向かせられた。嫌でもレットの顔を見なくちゃいけなくなる。

 鋭い二つの赤い目は獲物を前にしてぎらついていた。にやにやとした残酷な笑みを向けられても、怖いとは思わない。むしろ、どうやって総帥が来ることを阻止するか。そのことばかり考えてしまう。

 オレはあの人にこれ以上、殺しをして欲しくない。


「そんなの最悪に決まってんだろ。この下衆げす野郎」


 宙吊りの腕に力を込める。勢いにまかせて素早く蹴り上げた。鈍い色の軌跡が弧を描き、鮮血が散る。


「ちっ、暗剣か! 面倒くせえ」


 不機嫌そうに眉間に皺を寄せるレットに与えた傷は頬のかすり傷だけだった。

 くそ。やっぱり吊られてる状態じゃ狙いを定めにくい。


「随分といい顔になったじゃねえか。少しは男前になったんじゃねえか?」

「生意気な狐め。貴様、自分の立場がわかってねえみてえだな」


 飛び道具に怯んで距離を取るものとばかり思っていた。逆にレットは大胆にも距離を詰めて、太い腕でオレの足を押さえ込んできた上に、背後でゆれるオレの尻尾に手を伸ばした。


「うあ……っ」


 尻尾の先から腰にかけて激痛が走った。まるで雷にでも打たれたみたいだ。なにも考えられなくなる。表に出た三角の耳が垂れ下がる。力が、抜けていく。


「貴様ら妖狐のことなら、俺様はよおく知ってるんだぜ。尻尾が弱点なのも、どうすれば得意の変化へんげが使えなくなるのかもな」

「う……氷翠がオレと同じ妖狐だから、かよ」

「くくくっ、散々兄貴で実験したからな。貴様もそんな狐のナリをしてんのなら、こういう扱いは初めてじゃねえんだろ。少しは慣れてるってことだよなあ?」


 上唇を舐め、レットは顔を近づけてきた。鼻が触れそうなくらいの至近距離で、レットは凄惨に笑う。


「なあ、《闇竜》の黒狐」


 一瞬、オレは呼吸を忘れた。痛いところだらけだったのに全部忘れ、目を見開いて固まってしまった。

 そのオレの顎を再びとらえ、レットはたのしそうに笑う。


「貴様ら《闇竜》のことならよく知ってるぜ? 世界に数カ所の支部を持った闇組織ギルド。暗殺、人身売買、国の乗っ取り……金を積まれば何でもしてくれる便利な組織だったよなあ。ま、総帥が代替わりしてからは、人身売買からは手を引き国家を脅かすこともなくなって、今はずいぶんぬるくなったみてえだけどな」

「……何が言いたい?」


 嫌な汗が流れていくのがわかる。こんなヤツ、指一本だって触れられるのは不快だってのに振り解けない。ヤツの手はしっかりオレの尻尾を握って離さない。

 虚勢を張るくらいしか抵抗できなかった。


「新しい《闇竜》の総帥には直属の私兵がいるっていう噂は有名だぜ。和国ジェパーグから引き入れた忍者部隊がな。そのうちの一人は貴様だろ、黒狐」


 くそぅ。大体合ってる……、いや、合ってねえ。まるで総帥が狐狩りでもしたような物言いじゃねえか。けど、こいつ相手にムキになって間違いを正しても仕方ない。

 エリアスがオレたち忍びのことを知っていたくらいだ。そりゃ噂はゼルスまで広まってるよな。


「だからなんだよ。オレが《闇竜》の忍びと知って怖気づいたのか」

「まさか。その逆だ」


 鼻で笑われた。


「俺様の知り合いには《黒鷹》のヤツらが多くてな。あいつらは今もゼルスから《闇竜》を根絶しようと狩りをしているんだぜ。……俺様がその気になれば、貴様の身柄を《黒鷹》に引き渡すことが可能だって話をしているんだ」


 その言葉はもはや脅しだった。敵対勢力の組織に売り渡されたら、いくら総帥でも助けるのは不可能かもしれない。そうしたら、もう二度とスレイトには会えない。

 まるで狂気に囚われたかのように、オレの目の前でレットは歪んだ笑みを浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る