[幕間16ーside ミラ]夜色キツネと地下牢③
帰るべき場所があるのに、そこへもう二度と帰れない恐ろしさをオレはよく知っている。オレの故郷は燃え盛る炎によって灰になってしまった。今さらジェパーグに行ったって、もう父さんも母さんももういない。思い出が詰まった家だって、跡形もなくなってしまった。
このままスレイトにも会えず、たった一人で死んでいくのはさすがに、こわい。
けどオレは約束したんだ。必ず無事に戻ると。指きりをして約束した。だったら、オレが諦めちゃだめだ。
脅しに負けて、こいつに屈服したらいけない。
「だったらなんだよ。命乞いでもしろと言いたいのか?」
強く睨みつけて皮肉たっぷりに言ってやった。レットはくつくつと笑った。
「許して欲しければ、俺様に
「いや、今の状況見ろよ。オレを吊ったのはあんただろうが」
跪きたくても跪けねえっての。仮に自由の身だとしても、オレは死んでもあんたに頭を下げねえけどな。
オレの悪態にレットは言い返さなかった。薄闇の中で、静かに笑った。ぞっとするくらいきれいな笑みだった。
不意にレットはオレの顎から手を放した。尻尾を握り込んだ左手はそのままに、右手をオレの顔へ伸ばしてくる。
思わず身構えた。けど、レットの手は顔ではなくオレの後ろへと伸び、なにかをするりと引き抜いた。ヤツの手に持っていたのは、オレが愛用している若草色の髪紐だった。レットは再び手を伸ばし、肩に広がったであろう髪を
まるで男が女に対してするような優しい手つきだ。
「宿場町で貴様に会った時、俺様は言ったよなあ。貴様の尻尾を一本一本削ぎ落とした上で切り刻んでやると。一体、何本目で貴様は音を上げるんだろうなあ」
「…………っ」
口から出てきた言葉は残酷だった。闇の中でもぎらつく朱色の瞳は、狂気に魅せられたかのように
オレはこいつと初めて会った時、その言葉は単なる脅しだと思っていた。けれど、実際にこうして
頬に張り付くこいつの手を今すぐ払ってやりたい。さっきから心臓の音がやたらうるさく警鐘を鳴らしている。一刻も早く、ここから逃げろと全身が告げている。
どうやって逃げたらいいんだ。腕は鎖で拘束されている。せめて縄だったら関節を外して逃げられたのに。
何かないのか。この最悪の状況を切り抜けられる、何かが。
ぐったりと横たわっている氷翠。あと見えるのは薄い布切れに、トイレが一つ。空っぽの器も見える。くそ、こうも自由がきかねえと道具に頼ることもできねえ。ブーツに仕込んでいた暗剣ももう使っちまった。
力を振り絞って、もう一度蹴りを入れてやるか。尻尾が自由になれば、もう一度
オレにできるのか。
迷っている時間はない。自分でもわかっていたのに勝算が欲しかった。だからその隙を突かれたんだ。
何の前触れもなく、腰に激痛が走った。レットのヤツ、思いっきり尻尾を引っ張りやがった! 雷に打たれたかのような強い痛みが走る。オレの口から言葉にならない悲鳴が大きくあがる。
痛くて熱い。やっぱり痛い——!
正確には尻尾の付け根あたりか。脈動が打っているかのようだった。世界がゆがみ、にじんでいく。
痛すぎて涙が出てきた。息を吐き出してなるべく痛みを逃がしてみるけどあんまり効果はなかった。瞬きをするたびに目からあふれた雫を、レットの指がすくいとる。その手つきはさっき暴力を振るった相手とは思えないほどひどく優しくて、頭がおかしくなりそうだった。
「
甘い声でささやかれて、耳がふるえた。レットはいまだに頬を伝う涙を舐め取っていく。そうしてオレの目の前で、ヤツは鞘から剣を抜いた。
耳障りな金属が滑る音。暖色の照明を弾く鈍い色の刃。普段から愛用している剣か、それとも拷問用に用意した武器か。もうどちらでも構わなかった。
どうせ結果的にはなにも変わらない。
「まずは一本、切り落としてやる。いい声聞かせろよ」
もう逃げられない。腕も腰もめちゃくちゃ痛ぇし。妖狐に変身したってまともに歩ける自信がなかった。
ああ、スレイトと約束したのになあ。絶対に無事で戻るって。でも今のオレにはこいつの凶刃から逃れる方法なんて思いつかない。
残酷な笑みを浮かべ、レットは慣れた手つきで剣をひらめかせた。オレは覚悟を決め、強く目を閉じた。その時だった。
「おああああああっ!?」
ガッツン、と。閉じた世界でなにかが強く打ちつけたような音がした。
変わらず尻尾も腰も熱を持っていてめちゃくちゃ痛かったけど、気が狂いそうな激痛は襲ってこない。
近くで何かが起こっている……?
ゆっくりと目を開けた。そして音の正体を見たオレはあっけにとられた。
さっきまで剣を振り上げようとしていたレットが、どういうわけかうつ伏せに倒れていた。しかも見事に床とキスしているような形だ。純粋に不衛生だと思った。汚ねえ。
(一体、何がどうなってんだ?)
まさか石に
よく目を凝らして見てみれば、床にぐったりと倒れていた
「この、愚弟が……! 我が家の面汚しめ!!」
掠れた低い声が大きく反響する。拷問で痛めつけられた身体で、尻尾も削ぎ落とされてんのに彼の瑠璃色の双眸は怒りで燃えていた。
「氷翠、無理すんな!」
「ガルディアン家の汚点は俺が責任を持って拭わねばならん。他の者たちに害が及ばぬよう、やはりおまえという存在は俺が消さねば……!」
メディカルハーブが早速効いてきたんだろうか。そうだとしても、ついさっきまで虫の息だったくせに無茶しやがって。
不意にレットががばりと起き上がった。したたかに顔を打ったせいか鼻から血が出ている。それを腕で拭い、レットはわなわなと全身をふるわせ、眉を吊り上げた。うつ伏せで這っている状態の氷翠の身体を蹴り上げ、上から押さえつけた。
「いつも楯突いて、俺様の邪魔ばかりしやがって……! まだ貴様は自分の立場がわかってねえらしいな!?」
「……おまえこそ、自分の立場がわかっていない。こんなことをして何の意味がある? おまえには大臣の地位は分不相応だ」
胸ぐらをつかまれても、氷翠は顔色ひとつ変えなかった。きつくレットを睨みつけるその目はまだ絶望していない。ひどい拷問されたっていうのに、なんてメンタルしてんだよ。
いまだ兄の心が折れていないのを見て気に入らなかったのかもしれない。レットは白い歯を剥き出しにして怒りをあらわにし、取り落とした剣の柄を握り直した。
「いい度胸じゃねえか。貴様の最後の尻尾、今削ぎ落としてやる!」
「やめろ、レット!」
ああ、くそ! 今、狐に変身しても間に合わねえ。吊られた状態じゃ手も足も出ず、オレはただ叫ぶことしかできなかった。
薄闇の中、白く浮かび上がる氷翠の尻尾の上に、剣の刃が振り下ろされようとしている。
「やめろぉぉぉぉおおおお!!」
必死で叫んだオレの声が牢に響き渡る。
いくら叫んだって、怒りで我を忘れたレットの心が動くはずがない。オレは目の前で悲劇が起こるのを、ただ見ていることしかできない。そのはずだった。
「ここで何をしている!?」
突然、鉄格子の扉が勢いよく開いて、誰かが飛び込んできた。響いてきた声には聞き覚えがある。だって、自分の声そのものだったから。
前合わせの着物も、ひだのある袴もひどく懐かしかった。高く結った髪は黒じゃなく藍色だ。でもその男は背丈も、つり気味の大きな目も顔だちも、鏡合わせのようにオレと似ていた。
「……すばる」
身体に侵食するくらいの激痛を忘れ、オレはぽつりとその名を口にした。
最大のピンチに飛び込んできたのは、数百年ぶりに見た片割れの兄貴だったんだ。
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