第3話 地獄の牛頭馬頭

 治郎左衛門は江戸に着くなり、商用もそそくさと済ませ、吉原に向かった。

 別れの朝、八ツ橋は大門口であんなにさめざめと泣いてくれたのだ。さぞや首を長くして待っていてくれるであろう。

 治郎左衛門の足は自然と急いだ。


 久しぶりに大門をくぐり、吉原仲の町通りをゆくと、目当ての妓楼たる万字屋が見えてきた。

 すると――。

 二階の窓の欄干らんかんもたれるようにして談笑する男女の影が目に映った。

 西日がまぶしい。

 治郎左衛門は小手をかざして見上げるや、それは、手切れとなったはずの八ツ橋と能役者の栄之進であった。


 まさかの情景であった。

 あまりのことに、茫然と二階を見上げる治郎左衛門と八ツ橋の目が合った。

 花魁の美しい顔が引きつった。

 その横で栄之進が人形のような顔をニヤつかせて、毒を吐いた、

「おやっ、お化け次郎左どのでは、ござんせんか。あの三百両で、毎日、極楽気分で、ほれ、このとおり……」

 その言葉を最後まで聞くことなく、治郎左衛門はくるりときびすを返した。


 やはり吉原は恐ろしいところだ。

 色欲に狂ったわしのような亡者を牛頭馬頭ごずめずら獄卒が寄ってたかって責め苛むところなのだ。

 もう近寄るまい。

 そう心に決めた治郎左衛門は、虚しく武州佐野に戻り、今まで以上に商いに精を出した。

 

 一方、八ツ橋から事の仔細を聞いた万字屋の貪欲亭主は、顔を歪めて舌打ちした。

 治郎左衛門のような金離れのいい上客はザラにはいない。

 なのに、軽はずみな八ツ橋と栄之進のせいで、太い金づるがスッパリ切れようとしているのだ。


 万字屋は引手茶屋蔦屋の悪女将と相談した。

 蔦屋が口をひそめて言う。

「あのね。相手は武州の田舎者なんだよ。ここは、平謝りにあやまった上で、あれやこれやと言いつくろえば、簡単にだませるさ」

「ふむ。なるほどね」

「しかも、相手は女から相手にされない化け物なんだよ。絶対に八ツ橋に心を残しているって」

「未練たらたらというわけか」

「たらたらかどうかは判らないけど、ま、つけ込む隙はあるよ。上手くいけば、また金をむしり取れるさ」


 かくして、万字屋と蔦屋は万事しめしあわせて、おわびの触れ込みで佐野の里へ治郎左衛門を訪ねた。

 このとき万字屋らは腕っこきの幇間ほうかん(太鼓持ち)二人を伴っていた。無論、治郎左衛門の機嫌を抜かりなく取るためである。

 棍棒こんぼう代わりに手土産を持ち、やたら愛想よい笑顔を浮かべた地獄の牛頭馬頭が、治郎左衛門に襲いかかろうとしていた。


 そんなこととは露知らず、キョトンとした顔で治郎左衛門は江戸からの客を受け入れた。

 筆者からも、老婆心ながら読者の皆さんにご忠告申し上げる。

 愛想笑いの上手な人間は、男女問わず、そのニコニコ顔の裏に陰険な刃を隠し持っていることが多々ある。よくよく用心なさるべし。


 ――つづく

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