第2話 毒女郎八ツ橋

 治郎左衛門は吉原役人にすすめられるままに、引手茶屋の蔦屋ののれんをくぐり、遊郭遊びの仲介を頼み、ここでしばしくつろいだ。

 蔦屋の女将おかみは、金惜しみせず、灘の銘酒剣菱けんびしを飲み、上等の懐石料理を注文する次郎左衛門の様子を見て、ニヤリとほくそえんだ。

「これは金になる。顔は化け物だが、飛び切りの上客だ」

 そこで女将は、妓楼万字屋まんじやの花魁八ツ橋を次郎左衛門に引き合わせた。

 八ツ橋は妖艶な美女で、口も性技も巧い。

 男をたらし込み、その生き血を吸い取るにはうってつけの毒女郎であった。



 治郎左衛門は万字屋の座敷に上がった途端、八ツ橋に心を奪われた。これは天女かと思うほど美しいのである。

 見惚れてボーッと夢心地でいると、治郎左衛門の耳に紅の唇を寄せ、こうささやいた。

「主さんのお顔には、アザがありんすね。このアザでどんなにお辛い思いをなされたか、お察しいたしんす。おかわいそうに……」

 治郎左衛門は目をみはった。

 こんなに優しい言葉をかけてくれる女が、これまでおったろうか。

 醜い顔で八ツ橋を見つめる治郎左衛門に、天女が殺し文句を言う。

「でも、心の中にまでアザがあるわけ、ありんせん」


 その日から治郎左衛門は八ツ橋に魂を抜かれた。

 一夜の春を買うに、百両を捨ててかえりみなかった。

 やれ絹の打掛衣裳だの、の飾り夜具だの、やれ豪奢な鼈甲かんざしだのと、八ツ橋のねだるがままに小判を湯水のごとくき散らした。

 この八ツ橋の背後には、蔦屋の悪女将、万字屋の貪欲亭主がいて、みんなでグルになって治郎左衛門の金を絞り取っていたのである。


 そうしたある日のこと。

 八ツ橋が美しい柳の眉をひそめ、次郎左衛門にこんな相談事を持ちかけた。

「実は、わっちには、つい半年前まで能役者の栄之進という情夫いろがいんした。なれど、しつこく復縁を迫り、それがイヤなら手切れ金を寄越せと言い募るので、ほとほと困っておりんす」

「ふむ、なるほど。で、その手切れ金はいかほどか」

「三百両でありんす」

 

 治郎左衛門は、引手茶屋の蔦屋に栄之進を呼びつけ、念のため起請文を書かせてから、三百両を渡すことにした。

 蔦屋にやってきた栄之進は、能役者だけあって、水際立ったいい男であった。

 治郎左衛門はその人形のようなつるりとした顔に激しく嫉妬しつつも、感情をおさえた声音で、栄之進の前に起請文きしょうもんを置いて告げた。

「本当に三百両で八ツ橋と別れてくれるんだね」

「ええ、よござんすよ。そりゃあ、そんな大金を頂戴すれば、当然サッサと別れて、ほかの女とひっつきますぜ」

「では、この起請文に署名血判し、八ツ橋と別れるときっぱり誓約なされ。よろしいか」


 かくして、栄之進は誓約の上、手切れ金三百両を受け取り、治郎左衛門は「やれやれ」と、ひとまず武州佐野に帰ることにした。

 暁烏あけがらすが鳴く朝まだき、ねやの余韻もさめぬ風情で、八ツ橋が大門の出口まで帰郷する次郎左衛門を見送った。

 八ツ橋が後朝きぬぎぬの別離を惜しむかのように、切れぎれに涙声を出す。

「主さま、別れがつろうて、この胸がいとうて……また、近いうちに……早うお目に……」 


 ところが、次郎左衛門が八ツ橋恋し、会いたしと、再び江戸吉原を訪れたとき、とんでもないことがその目に飛び込んできたのである。


 ――つづく

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