46.信じて
寒い。
「理瑛ちゃん何してるの、早くこっちにおいで」
寒い寒い寒い寒い。
開けていた扉から冷気が侵入してきたのか、理瑛の全身を凍りつくほどの寒気が襲った。
「高比良くん……どうして……」
一人で立っていることもできず、つい先ほどまでソファーの上で眠っていた男が、目の前で綺麗に背筋を伸ばして直立している異様な光景。
「いいから、ほら」
部屋の外から優しく手招きする引きつった青白い笑みに、違和感を覚えずにはいられなかった。
「寝てなくて平気なの……?」
「平気じゃないよ」
高比良くんは私の問いに対し一瞬眉間にしわを寄せたあと、思い出したかのようにまた口角を上げた。
「だからもう一回だけ、手を貸して」
そうだ、私が高比良くんを支えないと。
何を怯えているのだろう、最も恐るべきは高比良くんから必要とされないことなのに。
「うん、わかった……何したらいいかな……?」
本来の目的を取り戻した理瑛が急いで部屋を出ると、高比良くんはすぐに笑顔のスイッチを切った。
「それ、早く閉めて」
枯れた柳の枝のような細長い指が、防音室の扉を差している。
「あ、ごめんなさい……」
迫力のある切長の目に、扉を閉めるのを監視された。
まただ。
また知らない顔をしてる。
どれだけページをめくっても、高比良くんはすぐに知らない一面を見せてくる。
次の行動が全く読めない。
高比良くんのページには前後の繋がりがない。
「理瑛ちゃんは俺のどこが好きなの?」
ふらふらと廊下の奥の方へ歩き出した高比良くんが、また脈略のないことを言い始めた。
「ど、どうしたの急に……!? それよりさっきからなんで下の名前で呼ぶの……!?」
私はまだ知らないことばかりなのに、一人だけ先に知ろうとしないでよ。
理瑛が焦って話を逸らすと、前を歩く高比良くんは急に立ち止まり、静かに天井を見上げた。
「あれ……元々なんて呼んでたっけ……」
明らかに様子がおかしい。
「なんだ……まあいいか……今はもっと……」
高比良くんはぶつぶつと独り言を話しながら再び歩き出し、廊下の一番奥の部屋に消えていった。
「ねえ……本当に大丈夫……?」
部屋を覗くと薄い闇の中、高比良くんが白いベッドに腰掛けていた。
そっか、よかった……ここが寝室なのね……。
今の高比良くんは正直いって異常、ベッドで横になってゆっくり休んだほうがいい。
「私、飲み物か何か取ってこようか?」
「だよ……」
高比良くんは自分のつま先を見つめながら、かすれた声で何かをつぶやいている。
「どうしたの、何かあった……?」
小さな子供に話しかける時のように、少し腰を折って目線の高さを合わせて話した。
「どこ行くんだよ……」
そして気づいた。
どうして……。
高比良くんは泣いていた。
目を見開いたまま固まり、静かに涙を流していた。
「また、あの部屋に行くのか……?」
涙の理由を探していると、力なく垂れていた手に突然腕を握られる。
「た、高比良くん……?」
握られた腕は空中に接着されてしまったのか、どれだけ力を入れてもびくともしない。
「あの部屋で何を見たんだよ……!」
握られた腕はそのまま肩の関節が痛むほど勢いよく引っ張られ、理瑛の身体はベッド上に叩きつけられた。
「いや……やめて……!」
高比良くんはベッドに倒れる私の上に馬乗りになると、力強く両方の腕を押さえつけてくる。
暴漢に襲われた時、なりふり構わずに暴れれば、逃げることができると根拠もなしに思っていた。
今思えば、平和ボケした都合の良すぎる幻想だ。
ポケットにナイフやピストルが入っていたとしても、きっとなんの役にも立ちやしない。
男女の体格と筋肉量の差は、それほどまでに絶望的なんだ。
両腕を握られるのは、心臓を握られるのと同義なんだ。
「答えろよ……さっきあの部屋で何を見たのか聞いてるんだよ……!」
なんとかしないと……。
柔らかなベッドに体重のかけられた腕が沈んでいく。
このままじゃ……。
頭の中が一つの恐怖に支配された。
高比良くんが……壊れちゃう……。
自分のことなど、どうでもよかった。
目の前で高比良くんが壊れていく過程を見せられるのが、どんな拷問よりも怖くて苦しかった。
「お願いだから正直に答えてくれよ……そうじゃないと俺、理瑛ちゃんのこと……」
こんな時にでも綺麗な高比良くんの顔から、冷たい涙が降ってくる。
「ごめんなさい……私高比良くんとお母さんの写真見ちゃった……」
今の私にできるのは、慎重に言葉を選ぶことだけ。
「気になってピアノを眺めてたら、入園式の写真を見つけちゃったの……大切な思い出なのに本当にごめんなさい……」
高比良くんの瞳孔が開いていく、息が荒くなっていく、握られた両腕の感覚がなくなっていく。
「何意味わかんないこと言ってんだよ……そんな写真、この世に存在するわけないだろ……!」
もう時間がない、猶予がない、全部を言わないと、本当に取り返しのつかないことが起きてしまう。
「私と同じロングヘアで、高比良くんそっくりの綺麗なお母さんだった……!」
「そんな……嘘だ……」
お願い信じて。
「本当だよ、今も写真はピアノの中に入ってる……嘘なんてつかないよ……!」
だって私。
「高比良くんのこと大好きだもん……!」
何も見えなくなるほどの涙を流した。
何も聞こえなくなるほどの声で泣いた。
やがてカーテンの裏で夕陽が沈んだ。
高比良くんは私の胸の中で意識を失っていた。
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