45.謎の部屋

 ひとまず高比良くんをソファーに寝かせた理瑛は、寄り添うようにすぐそばのカーペットに座り、高比良くんの体調の変化を注意深く観察していた。


「ごめんね、しんどいよね……」


 この体調不良の原因はなんなのだろう。


 ソファーまで運ぶ最中に触れた高比良くんの身体は、生物として認識できる最低限の熱すら持っていなかった。


「ご飯、本当に食べなくていいの……?」


 咳をすることも、吐き気を訴えることもない。


 数分前まで心配する私に小さく『だいじょうぶ』と繰り返していた口も、今は荒い息を漏らすだけ。


「ちょっと換気しようか……!」


 少し空気を入れ替えたほうがいい。


 外から新鮮な空気を取り入れるためにも、この家全体に漂う、沈むような重い空気を外に吐き出すためにも。


 しびれかけの足でカーペットから立ち上がり、重量感のある黒いカーテンに手を伸ばす。


 窓ガラスには今日の分厚い雲によく似合う、雷のような大きなひびが走っていた。


 思ったより寒そう……。


 大きなひび割れをスライドさせると、薄暗い部屋に肌寒い秋の風が吹き込んだ。


 あれ。


 意識を部屋の中に戻すと、命の気配が消えていた。


 高比良くん?


 どうやら窓を開ける一瞬の間に、高比良くんは意識を手放したらしい。


 高比良くんの穏やかな寝顔に薄い光がよじ登る。


 この世のものとは思えないほど美しい。


 この世のものとは思えないので恐ろしい。

 

 魂の欠片たちが、どこか遠くに呼ばれ、引かれ、吸い込まれていく。


 私、何してんだろ。


 気づくと理瑛は、音を鳴らさないことに細心の注意払いながら、広い家の中を散策していた。


 そうだ、高比良くんに毛布をかけてあげよう。


 自身の行動を正当化させるために、目的は後付けで設定した。


 毛布を手に入れるなら寝室だ。寝室に繋がっていそうな扉を探すんだ。


 しかし真っ先に目についたのは、開ける前から寝室ではないことがわかる唯一の扉だった。


 中の様子がわからない、一切の隙間もない扉だからわかった。


 この部屋に毛布は置いていないだろう。


 中にあるのはきっと。


 無意識下に、手はドアのレバーにかかっていた。


 後付けの目的など、今はどうでもよかった。


 やっぱり……。


 ドアを開けると、部屋の中央には立派なグランドピアノが置かれていた。


 この部屋は防音室だ。それもかなり上質な。


 よく見るとピアノの他にも、さまざまな物が床に散乱している。


 カメラの三脚やビデオテープなどが収納されたダンボールの山。


 衣類らしき物がまとめられた半透明のゴミ袋。


 裏向きの状態で重ねられ、何が描かれているのか確認できないキャンバスボード。


 部屋の物はすべて等しく埃を被っていた。


 この部屋に人が立ち入るのは、いつぶりのことなのだろう。


 手入れがされていない開けっぱなしのグランドピアノを憐んでいると、弦の下の響板に張り付いている小さな紙を見つけた。


 そっと手を弦の下に潜らせ、小さな紙を丁寧に剥がしとる。


 これって……。


 それは一枚の古い写真だった。


 写っているのは、柔らかく微笑む美しい女性と、その手握る無愛想な小さな男の子。二人の間には『入園式』と書かれた立看板が飾られている。


 高比良くんとお母さんの写真だ。


 この写真をたとえ道端で拾ったとしても、高比良くんを知る人間なら一目でわかる。


 お母さんの顔は、今の高比良くんと全く同じ顔だった。


 似ているのではなく、同じ。


 親子ではなく、一卵性の双子のレベル。


 逆に写真の中の高比良くんは今とは少し違う、丸々としていて可愛らしい顔立ちだった。


 これが……三歳の頃の高比良くん……。


 可愛い顔をしているが、カメラを睨みつけるような生意気な表情には、どこか面影があるような気がする。


 理瑛は時間も忘れ、立ち尽くしていた。


 こんなにも綺麗な人が、もうこの世にいないなんて……。


 に亡くなられたかは知らないが、この写真の時から少しでも長く、幸せな人生を過ごしてくれたことを願い、写真を元の場所に返した。


 そうだ、早く高比良くんに――。




「理瑛ちゃん、何してるの?」

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