閑話1 ダイヤ不在の孤児院の朝
閑話1.
ダイヤが出て行った翌日の朝。
孤児院で飼うニワトリが大きく鳴き声を上げ、一日の始まりを告げる。その声は王都の一角に響き渡り、周辺住民たちも朝の準備をし始める。
そして孤児院で暮らす孤児たちもまた、目覚まし代わりの鳴き声にそれぞれ目を覚ます。先に起きた孤児は、まだ寝ていたりぐずっている子を起こし、長年の習慣として染みついた朝のルーチンがこなされていくのだ。
今日も誰よりも早く起きた少女――メイエルは、昔からの日課で長い金髪を手早く櫛でとかし、濡らした布巾で顔を拭った。そして他の子どもたちが順次起き出すのを見ながら、まだ熟睡している子を優しく叩き、目を覚ますようにと告げていく。
この孤児院において最も古株の一人であるメイエルは、今年でもう十四歳だ。ダイヤからは大人になるまでいればいいと言われているが、それは何もしない子どもでいることを肯定しているわけではない。
メイエルは世話になっているダイヤの役に立ちたくて、できるだけ孤児院の雑事を自ら手伝うようにしていた。少しでもダイヤの負担を減らしたいと、朝から健気に働いている。
一通り子どもたちを見て回ったメイエルは、あとを他の子に任せて共同の寝室を出た。朝ごはんの支度に取り掛かるのだ。
メイエルは、一日の中でこの時間が一番好きだ。
食堂から繋がる調理場へ向かうと、いつも先に起きているダイヤが包丁でリズミカルに野菜を切っていて、それを心地よく聞きながら挨拶をする。おはようと返事するダイヤは笑顔で、今日も良い一日が始まるのだと確信することができる。
だからメイエルは、今日もダイヤのおはようを聞きたくて、小走りになって調理場へと向かった。
そして食堂に入り、違和感に気がついた。
いつもなら聞こえる、ダイヤが朝食の準備をする音がしない。何も聞こえない。これまで一度だって寝坊したことのないダイヤが、まだ調理場に来ていないなんてことがあるのだろうか。
食堂から奥の調理場へ向かう道すがら、メイエルの胸に嫌な予感が去来する。
メイエルは食堂のカウンターから身を乗り出し、調理場の中を覗き込んだ。そして、そこにダイヤの姿がないことを確認すると、その瞬間駆け足で食堂を飛び出した。
メイエルは、普段ダイヤがよくいる場所を順番に探していく。
ダイヤ専用の寝室、院長室、自家菜園――思いつく限りの場所を巡った。しかし、そのどこにもダイヤの姿は見えない。
孤児院の中全てを必死に探し回ったが、ダイヤが見つかることはない。
いつかメイエルが見た悪夢と同じだ。大好きなダイヤが、メイエルの人生を救ってくれたダイヤが、突然自分の前から消えていなくなる。
それはまるで、かつてメイエルが過ごした地獄に舞い戻ったかのような心地でーー。
メイエルは心を染め始めた絶望に、孤児院の廊下にへたり込んでしまう。
やがて、あわただしく朝の準備に取り掛かり始めた他の孤児たちが、メイエルの異常な様子を目にして寄ってくる。
最初に声を掛けたのは、メイエルと同い年である黒髪の少年、クローブだ。明らかに何かあった様子のメイエルを見て、眼鏡の奥の瞳を細めながら問いかける。
「メイエル、いったいどうしたんです? この時間、普段なら先生といっしょに朝食を作っているはずでしょう」
「く、クローブ……。ダイヤ先生が、ダイヤ先生がいないの……!」
「先生がいない……? 孤児院を出る用事があるとは聞いてないですけど、本当にどこにもいないんですか?」
「どこにもいないの! うぅ、なんで、なんで……どこに行ったの……」
異常なほど取り乱すメイエルは、全幅の信頼を置き精神的な支柱としているダイヤの不在に、金糸のような髪を乱しながらすすり泣く。普段からよく姿を消すような人物ならまだしも、朝にダイヤの姿が見えないのは、みんなの記憶にある限りは初めての出来事だ。
その出自からすこし精神不安定なところがあるメイエルだが、そんな事情を知っている者は古株のメンバーだけだ。集まってきた孤児たちは、姉代わりの少女の取り乱しようを見て、一様に不安そうな表情を浮かべ始める。
良くない雰囲気になってきたことを察して、クローブはひとまずこの場を収めようと口を開いた。
「ほら、メイエル。こんなところで泣いていると戻ってきた先生に笑われますよ。もう十四歳なのに、いつまでたっても泣き虫だななんて。さあ、まずは朝の準備です!」
「……う、うん……」
きっと先生にも何か事情があるのだ、すぐに戻って来ると、クローブはそうメイエルをなだめる。これまでダイヤが自分たちを蔑ろにしたことは一度もなかったと、クローブが放ったその言葉には、さすがのメイエルも少し落ち着きを取り戻した。まだ目元を濡らしたままではあるが、感情を多少取り繕うことができる程度には普段の様子に戻る。
「ご、ごめんね、クローブ君……。私、朝ごはん作ってくる。きっと先生も、私なら一人でできると信じてこの場を任せてくれたんだと思うから」
「うん、それがいいです。先生の分も作って、帰ってきたら食べられるようにしてあげてください」
「……うん! 任せて」
メイエルはその碧眼を瞬かせ、力強く頷いた。クローブの言う通り、やむを得ぬ事情で今ここにいないだろうダイヤのために、自分にできることをしようと、そうすればダイヤは褒めてくれると、メイエルはそう考える。
一方で、ひとまずこの騒ぎを丸く収めることができたクローブは、その内心で不穏なものを感じていた。
ダイヤは普段おちゃらけたような軽い態度で、周りから適当な人間に見られることが多い。しかし、それが誤りであることをクローブは知っている。普段から自分たちのことを一番に考え、外でとんでもない悪さをしでかした孤児のために、必死に頭を下げるその姿を、クローブはこれまで見てきている。
そんな彼が、これまで一度も無断でいなくなったことのない彼が、何の説明もなく孤児院を空けたその理由――。
ダイヤに悪意がないことを確信してはいるが、しかしこれは荒れるかもしれないと、クローブがそう思った瞬間だった。
メイエルとクローブを中心にした人だかりに向かって、赤毛の少女――サリーが走ってくる。そして、なにやら紙切れを手に口を開いた。
「クローブ、メイエル! あ、あいつの机の上に、これが……。『長い間孤児院を空けますが、探さないでください。何も言えなくて本当にごめんなさい。みんなのこと、いつまでも大好きです』って……」
いつもは勝ち気でダイヤに食って掛かることの多いサリーが、その顔をひどく青ざめさせている。
震えるサリーの手に握られた紙切れには、確かにみんなの記憶にあるダイヤの筆跡――グネグネと曲がったお世辞にもきれいとは言えない字が走っている。
孤児院の最古株であるメイエル、クローブ、サリーの三人はその顔を見合せ、それぞれの方法でその重たい感情を胸に溢れさせる。
その後は当然、誰も収拾を付けられない、ひどい有様となった。トラウマや何らかの事情を抱える子どもが多いこともあり、泣き叫ぶ子、呆然自失の子と、もはやダイヤが帰ってこないことには手が付けられないような状況に陥る。
しかし、彼ら彼女らがどれだけ泣いても、困っても、今日に限ってダイヤがその姿を現すことはなかった。
――――そして、冷静でいられる者が一人もいないこの状況で、最後の古株の一人であるフェンがいつまでも現れないことに、この場の誰もしばらく気がつくことはないのであった。
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