王と薔薇と灰色

田辺すみ

王と薔薇と灰色

 イェニ・サライ《新宮殿》の後背はボスポラス海峡に臨む砦となっており、何台もの大砲が東の空に向かって聳えている。そのためトプカプ《砲門》宮とも呼ばれるのである。


 太陽が稜線にかしぎ、珊瑚と瑪瑙を砕いたような雲が空に凪いでいる。振り返れば手入れの行き届いた庭木が揺れて、涼やかに飛沫を上げる噴水と水路の向こう、白亜の瓦を連ねた宮殿の建物群が見える。アズル・オダス《謁見の間》の小門が開けられていたから、異国の使節が来ているのかもしれない。厨房の幾つもの煙突から煙が上がっている。帝国全土から集められた財宝で、最高の技術を持つ職人たちが装飾した宮殿は、薄暮のなかで煌めくようであった。


 私はそれらを抜けて、宮殿の後方を衛る砦へ向かう。その日も王は、青白く皮膚の弛んだ顔で、銀にけぶり暗くなっていく水面を覗き込んでいた。王はその砦の塔から波間に、薔薇を投げるのだ。ハレムの庭で季節を問わず栽培されている瑞々しい薔薇を自ら手折り、三日月が現れる頃に砦の先までやってくる。人々は無能な王の奇矯な振る舞いと気にも留めなかったが、私には都合がよかった。


 いつの頃からかこの帝国が大きくなるほどに、王位の争奪が激しくなり、新たな王は兄弟たちを皆殺しにするようになった。叛逆を許さないためであり、王家が領土を分け合って細分化してしまうことを避けるためもあった。しかしまた後に、その残酷さと家の血を途絶えさせてしまうかもしれない危険性のため、王の息子たちは殺されはしないがすべからく、イェニ・サライの第四内庭から出ることを禁じられるようになった。つまり、王にならない限り、一生ここに監禁されて生きるのである。王族の男子が暮らす部屋を『黄金の鳥籠』と呼びならわすのは、このような事由からであった。


 私は王の前に膝をつき、カフタンの飾り袖を取って口付けた。王は相変わらず何を考えているか分からない表情で私を見ていたが、ゆっくりと波に視線を戻してしまった。この王は、壮麗王と畏れられた祖父とは似ても似つかず、脆弱な心胆の持ち主であった。大臣たちの言いなりであり、有力な取り巻きの権力争いを悪化させ、対外戦争に負け続け、不平等な条約を結ばされた。政争が激しくなれば庶民は疲弊する。旱魃にも戦後復興にも経済振興にも有効な手立てを施せず、酒と美術品の収集に耽溺した。だから、軍部の有志が私を呼んだのだった。


 私はかつて『黄金の鳥籠』で幼い頃の王に仕えていたことがある。『黄金の鳥籠』に侍るものは、内部の事情を漏出しないように聾者が選ばれる。私も例外ではなかったが、王子が王に即位してから奴隷身分を解放され、読み書きを学ぶ機会を得た。それからサライのさまざまな雑用をして生きてきた。王所有の奴隷でなくなってしまえば、高級官僚でも軍閥出身でもない自分のようなものは、本来遠くからかしずくことしかできない。しかし王は重たげな身体をこちらに向き直し、乱れたカフタンの合わせからから、一冊の本を取り出して、私に渡した。何度も頁を繰ったのであろう、紙面は毛羽立っていた。


 見覚えがある、王が若りし頃の筆跡だ。日記をつけていたような記憶があるが、当時の私は文字を識らなかった。訝しく思って顔を上げれば、読め、と促されるように、黄昏の中じっと見つめられた。私は恐る恐るページを開いた。多くの記述を占めるのは、薔薇と灰色グリのことだ。ハレムの女官の誰かが養いきれなくなったものか、病と飢えで汚れた獣を拾ってきて、手当てをしてやり側に置いていた。その寵物と内庭の薔薇だけが、王子に安らぎを与えてくれていたのだろう。兄弟たちやその他の王の愛妾たちとは疎遠どころか、牽制し合う間柄だ。父王に叛逆を疑われれば、処刑される。あの頃王子は確かに聡明であった。


灰色グリが言った、猿の島があるのなら、わたしだって喋りましょうよ


 おかしなことだ、王子の夢物語なのだろうか。千夜一夜アルフ・ライラ・ワ・ライラを読み過ぎて、鬼神やら魔法使いが本当にいるとでも思ったのだろうか。灰色グリは王子に化けて身代わりになってみせるから、その間外に出たらいい、と殊勝に申し上げたのだそうだ。私の目はもう昏くなってしまったし、脚も萎えてしまったけれど、あなたの代わりに鳥籠の内にいるだけなら構わないでしょう。あなたは出ていって、そこで見た、聞いた世界を、わたしに伝えてほしいのです。と猫撫で声で鳴いてみせた。


杏とアーモンドの匂い、羊肉を焼く炭火、織機を回す音

吟遊詩人が街角で騎士物語や、恋の詩をうたう

コーヒー店で商人から新大陸の話を聞いた

農村の祭りで村人とゼイベクを踊って、乳酒を呷る


 王子の筆は軽やかになる。まるで本当に見てきたかのようだ。そんなはずはない。私はいつも王子の側に侍っていたが、王子が父王の許可無しに外出したことなどないはずだ。それともあれは、灰色グリであったのだろうか。老いた灰色の獣は、最初警戒心が強く逃げ回っていたが、やがて私にもその痩せた背を撫ぜさせるようになった。ごわごわとしてインク染みのついたような毛皮は決して優雅なものではなかったが、温かく波打っていた。


屋台で蜻蛉玉の耳飾りを見つけた。紫陽花オルタンカにあげたら、喜んでくれるだろうか


 私は胸元を押さえた。あれはどこにいってしまったろう。大事にしていたのに、あの夜の混乱のなか、持ち出すことができなかった。父王が崩御し、兄が即位したが、幼い弟の後見である母后と大臣が、『黄金の鳥籠』に踏み込み高貴な血筋をみな屠ったのだ。三日月の夕刻であった。ボスポラス海峡に面する砦の上で引き裂き、遺体を海に投げ込んだ。王子は逃げ出すことのできた数少ない王族男子の一人であり、エディルネで保護され、やがて末の弟とその母親を始末した兄王に呼び戻されたはずだった。


僕はきっとあの海に沈むのだろう、もしこれを読んだ誰かが憐んでくれるなら、薔薇を手向けてくれないだろうか


 残り少なくなった筆跡が滲んでいる。朝露を帯びた薔薇の花弁のように、たおやかな王子の微笑みを思い出す。あの方のためならば、何を差し出しても惜しくない、と思った己れはもう過去のものだ。名前すら変え、サライで這いつくばって生きてきた。私のようなものは、愛玩されていない限り、何の役にも立たないのだと、散々侮辱された。文字を識ったことは、私のなかに卑屈と絶望しか生まなかった。


詩人バキの云う秋の木々のように、運命の風に何を奪われても、立ち続ける勇気が僕にあれば


 なぜだ、王子は即位して今私の目の前に立っているはずだ。そして薔薇を海峡に投げ入れているのは、その狂った王のはずだ。紙面を掴んだ手が恐ろしい予感に震え出した。まさか。王のむくれた唇が緩慢に動くが、私には何を言っているか分からない。絹の袖が風にはためき、指輪で飾った指先が私をさした。否、私の背後に重なり伸びる王の影を指差した。長く黒く砦の上を這うそれは、四つ足であった。





 私は軍部に、指示された通り、王を城壁の上から海へ突き落とした、と報告した。もとより私のような者を、信用することなどない。軍部は岸壁を探させたが、王の骸は見つからなかった。私はただ傍らに立って、潮に洗われた岩棚に引っ掛かっている潰れた毛皮を遠目に見つけただけだ。じきに海鳥たちが平らげてしまうだろう。とにかくも王は戻らず、軍部の支持する男が新しい王となった。しかしもう手遅れだ。あの無能な前王のため、内部抗争と不正の横行で行政組織は機能せず、財政は破綻し、領土は毟り取られ、土地の荒廃と人心の離反は深刻だ。巨木は根から腐り、やがて倒れるだろう。彼の望んだままに。


 私は田舎に小さな土地を与えられた。報酬であり厄介払いでもあろう。もうサライに戻ることはない。庭にささやかだが薔薇を植えた。音を聞かない代わりに、この世の輝かしいものも愚かしいものも、見せてくれたのは籠の中の王子だった。そして濁った目の灰色グリに、沢山の物語を聞かせてやったのも王子だった。日記の最後に、爪で引っ掻いたような別の筆跡がある。


あなたのおしえてくれた世界はとても美しかった


それなのにこの国はあなたをころして海にかえしてしまった

だったらわたしは、この国を土にかえしてしまおうとおもう

そうしてまたこねなおして、あたらしいいのちになればいい


あなたのあいした人はいう

どんな土くれも かつてはさけをついださかずき おとめのまなこ

やいた骨で 瓦をつくり ふえをつくり うたえ

あの青くもえたつ草むらは やがて己れのむくろからはえるもの

花は土からさき 土にかえる


 私は語らない。もう誰も、私たちのことを覚えていないだろう。

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