第3話 生の手・前半
三の話、ひもじいかなしい、つらいつらい、なぜ誰も見ないのか、お弔いをせねばならぬ、この家をつぶしてお弔いせよと言うたら、畳どすんと奈落に落とし、私もそこに落とされた。
第三話 生の手・前半
人がいないスーパーは寂しい匂いがする。
カゴをもってぷらぷら歩く。今日は残業で疲れているから、値引きされた総菜を買う。
あしたは回鍋肉が食べたいので、豚肉を選ぶ。
三十パーセントオフのシールがついた肉を手にしたとき、冷気が手の甲をなでた。
パックされた手がある。白い手だ。表面がしっとりと濡れた、女性の手だ。ベージュの発砲スチロールに入れられて、ラップに包まれている。
手、人間の手がどうしてパックされて肉のコーナーにあるの?
「えっ」
私はのけぞった。
視線をあちこちさまよわせ、おそるおそる確認したときには、もう手はなかった。
後ずさりして、私は急いでレジへ行った。
女性のふっくらとした白い手は、どこまでも私を追いかけてくる気がした。
※
竹丸は美味そうにハンバーグを食べている。物部士郎は冷たいうどんをすする。
「ハンバーグが好きじゃないって、士郎先輩は変わり者だなぁ。サラダうどんとか、女子ですか」
竹丸が言う。
「性別で食べるものを指定するのはよくない」
ランチしましょうよ、という竹丸からのラインを士郎は断っておけばよかったと後悔する。バイトまでの時間、勉強する気でいたが集中できず、気晴らしがしたかったタイミングで、竹丸がラインしてきた。行くと返信したら、十分ほどで彼はバイクで迎えに来た。
竹丸は悪い奴ではないが、人との距離が近くて少し苦手だ。
スーパーの近くのファミリーレストランに入り、竹丸のにやけ顔を見たら食欲が失せた。
「ここ、けっこう来ます?」
竹丸が完食して、尋ねてくる。彼は大盛りのライスをぺろりと平らげた。
「いや、あんまり」
「真琴さんと来たことあるんじゃないですか?」
トマトを口に入れて、士郎は思案した。何度かバイト後に真琴と来たことがある。いつも彼女から誘ってくれた。
「あるけど」
士郎の返事に、竹丸が笑顔になる。
「やっぱり、そうだと思った。二人は外でも会ってる、そう直感したんですよ」
「変な言い方するなよ。店でのことの相談とか、そういう機会があっただけ」
士郎はぶっきらぼうに答えた。
「今度、三人で来ましょうよ。今まで二人っきりだったのが、新戦力の俺が加わって頼もしいでしょ。真琴先輩と良い雰囲気になったら退散するんで、そん時は合図してください。ウインクでいいですよ、士郎先輩のウインク、きっとセクシーなんだろうな」
士郎はぺちゃぺちゃと喋る竹丸の足を蹴った。
「おしとやかな士郎先輩らしくない、暴力はいけませんよ」
「うるさい。竹丸、うるさい」
士郎は睨みつける。
竹丸は笑っている。
「初対面の時よりは気を許してくれるようになりましたね」
指摘されて士郎は目をそらす。
そうかもしれない。竹丸に慣れてきた気がするし、ほだされている気もする。
竹丸はグラスを手に立ち上がり、ドリンクバーに行った。その間に士郎はサラダうどんを食べ終える。
「はい、どうぞ。食後のコーヒーです。ブラックでよかったですよね?」
「ありがとう」
士郎は驚いた。夏でも食後はブラックのホットコーヒー飲むのが習慣だ。竹丸に話したことはないが、まるで以前から知っていたような振る舞いだ。
「コーヒーって苦手なんですよ。俺は炭酸とオレンジのカクテルです」
「子供舌なんだ」
「苦手な飲み物で決めつけるのはよくないですよ」
士郎は笑った。熱いコーヒーを飲むと胃が落ち着く。
バイトが終わって夜に真琴と来たときも、士郎はブラックコーヒーを飲んだ。真琴が「眠れなくなるんじゃないの?」と言った。それが妙に嬉しかった。
ふっと前を見ると、竹丸の顔が目の前にあった。
「俺は嫉妬してます。二人の仲の良さに」
その言葉は士郎の胸中をざわつかせた。竹丸は机に立てかけられたメニューをじっと眺めてから、ゆっくりと視線を士郎に戻した。
※
太陽が隠れた夜になっても暑い。
休みなのにバイト先のスーパーに来てしまった。
母が実家に里帰りしているため、今夜の晩ご飯は真琴の当番だ。大好きなトマトたっぷのハヤシライスを作る。
七時を過ぎたスーパーは空いていた。真琴はカゴを持って冷凍食品コーナーへ涼みに行く。
アイスを買おうか悩んでいると、箱を持った士郎が歩いてきた。
「お疲れー今日は忙しい?」
こんばんは、と士郎が答える。目線を避けて、彼は真琴の後ろを通り、箱を開けて氷を補充した。
「暑いから飲料の補充が大変で」
手を動かしながら士郎が言う。
彼の顎が小さくなって、頬骨が以前よりも出ている気がした。
「大丈夫? なんか疲れてるみたいだけど」
「はい、暑くてちょっと疲れてしまって」
「今年の暑さは異常だもんね。熱中症に気をつけてよ」
真琴の忠告に、士郎は弱々しく、はい、と答える。
ハヤシライスに入れる牛肉を選んでいると、手の甲を冷気に襲われた。
白い手が生肉の横にあった。
女の手がベージュの発砲スチロールにおさまり、ラップで包まれている。ふっくらとした手はしっとりと濡れて、指の爪には血色がある。生々しい。
真琴は目をそらした。
もう一度見た時は、もう白い手はなかった。
閉店三十分前ではないのに、変なものが紛れ込んでいるようだ。
「いらっしゃいませ、お客様」
竹丸に声をかけられて、真琴はげんなりとした顔をした。
「ちゃんと働いてるか、バイト」
「バリバリ働いてますよーあのねー今日の俺はがっつりがんばってますよ。いいことあったんで」
ふーん、と真琴は聞き流して、値引きシールがついた肉をカゴに入れた。
「聞いてくださいよ。俺、今日は士郎先輩とランチしちゃいましたよ」
真琴は立ち止まり、竹丸を見上げた。
「何それ」
「士郎先輩が、俺の誘いに乗ってくれたんですよ。今日は昼からずっと一緒。いいでしょ?」
「ぜったい、強引にだ。あんまり困らせちゃダメよ」
竹丸に背を向けて歩きだそうとしたとき、またパックされた手が視界に入ってきた。
これはついてくる予感がする。
真琴は溜息をついて、早足でレジに向かった。
※
風に煽られて士郎は目を閉じる。初めて感じる風だ。竹丸のバイクに乗っていることが、非日常だ。
ランチタイムを過ぎてから、ドリンクバーでだらだらとバイトまで時間を過ごした。
竹丸に気を許せると思わなかった。苦手意識をもっていたが、なかなか気のいい奴だ。
「ありがとう。送ってくれて」
家の前で礼を言うと、竹丸は笑って手を振った。
「俺の後ろ、いつでも空いてますから。じゃ、お疲れっす」
「お疲れ」
竹丸を見送ってから、士郎は家に入った。一人になれた安堵の後に、さびしさがやってきて、しばらく士郎の胸を支配した。
寂しいのか?
自分の感情に疑問を持つ。士郎は人と深く関係しない。自分が特殊な体質で、しかも人間性にも面白みがないと思っている。
竹丸はなぜ、近づいてくるのだろう。
それよりもっと不可解なのは彼に対してのかすかな好意である。
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