煙の向こう側

 コンビニの店舗、その裏に設置された喫煙所だからだろう。いつだって薄暗いこの場所では、憂いや翳りなどといった文学的な代物とは無関係なはずの先輩の横顔さえどことなく青白く頼りなげに見える。そんなものはただの気のせい、背後のガラス窓から零れて届く照明のせいだと知っているのに、それでもそこはかとなく不安になる。

 足音が聞こえるようにスニーカーで地面を蹴るようにして近づけば、こちらに気づいた先輩が煙草を咥えたまま片腕を上げた。


「お疲れ。元気そうじゃん」

「普通ですよ。先輩こそ最近どうですか」

「ん……まあ、平均して普通なんじゃねえかなあ。良くも悪くも」

「その割に顔色悪いんじゃないですか」


 先輩は目を伏せたまま、口の端だけを歪めてみせた。


「梅雨の時期はなあ。雨どうも好きじゃないっていうか、面白くない方なんだよ降り方が」

「降り方?」

「ざばっと降るのは好きなんだよな。豪雨とか雷雨とか夕立ちとか、勢いがあるやつ。じとじとやられんのはこう、骨にくるっていうか」


 少しだけ目を細めて、灰色の七分袖に覆われた肘を数度擦りながら続ける。


「あとはー……個人的にあんまいい思い出がないからかね。この時期の雨。そういう意味では夏が待ち遠しいかもしんない。暑いの嫌いだけどな」


 そのまま黙って煙を吐く。どうやらその思い出を話す気はないようだった。

 何をやったのかと聞ける雰囲気でもない。そもそもそんなことを聞ける立場でもない。俺の知らない聞けない古傷があるということだけ示されるのはなんとなく面白くないような気もするが、向こうが話さないということは聞いたところで面白いわけでもないと判断したのだろう。

 踏み込む間合いくらいはわきまえているので、適当に話題を変えようとした。


「雨でも仕事はあるでしょ。バイト、そっちもどうなんですか」

「普通に順調だよ。あー……」


 吐いた煙を追うように視線を上げてから、先輩は何でもないように続ける。


「話がね、結構な頻度で聞けるようになってる。何だろうね、軌道に乗ったみたいな感じかな」


 軌道に乗った──まるで業務のような口ぶりに笑おうとして、微かな引っ掛かりに口元がぎこちなく歪むのが自分でも分かった。

 先輩は気づかなかったのか、煙の合間に声が聞こえる。


職場の先輩鷲田さん、最近機嫌よくってさあ、元からよくしてくれる人ではあったけど、休みに飲み連れてってくれたりとかしてくれんだよね。向こうの奢りだったり、割り勘だったり。そういうとここだわるんだよねあの人」

「そこでお膳立てができてるってことですか」

「お膳立てっつうか、まあ話したいって人がいるときもある。それにこないだみたいに先輩から横流し又聞きすることもあるし……ま、色々集まってきてるよ。また面白いんだよな、聞ける話がさ」


 先輩はこちらを向いて微かに笑みのようなものを浮かべた。店舗から漏れる明かりに照らされた表情には薄闇が纏いついて、細やかなものは何一つ読み取れない。

 仕事先の先輩と上手に付き合えている。それだけの報告ではあるのだろう。バイトであれ仕事場の人間関係が円満なのは結構なことだ。


 なのにその状況に一抹の不安を覚えるのは一度だけあった鷲田さんの風体のせいだけではなく、やはり意図が──先輩に煙草と怪談を引き取らせて何をしたいのかという動機が俺にはさっぱり予想できないからだろう。


 理由の分からないものは怖い。それが人間であれそれ以外であれ、理解のできないものは基本的に恐ろしいものだと思う。

 ただの好意で諸々が進む、それならそれで平和な話だが、そんなことは極稀だろう。そもそも動機が好意あるいは善意であってももたらされる結果が嬉しいものであるとは限らない。先輩が人生に対して呑気なのか投げやりなのかは知らないが、よく知らない人の好意をのうのうと受けて、無事で済むことはあまりないだろう。子供でさえ、知らない人から物を貰うなと教わるのだ。

 目的が分かれば対応のしようもある、というより。目隠しされたまま渦中に放り込まれて、首尾よく結末まで連れ込まれたときには往々にして手遅れなのだ。


 俺だってそんなことを言えた義理ではないのかもしれないが、それについて見ないふりができる程度には卑怯者だ。もしも何かに巻き込まれたとしても、どうにかして逃げだすだろうことは、自分が一番よく分かっている。

 だからこうして先輩を気にかけるような素振りをするのも、暇つぶしの小芝居以上のものにはならないはずだ。


「大丈夫なんですか」

「何が」

「その……色んなことが」


 職場の先輩鷲田さんって本当に大丈夫な人なんですか、先輩はその人の何を知っているんですか、その人は何をしようとしているんですか。

 そんなことを問える立場に俺がいないことだけが分かっているからこそ、曖昧な言葉を口にするのが精一杯だった。

 先輩がどこに住んでいるのかも知らない。誕生日も血液型も好きな音楽も何も知らない。たまたま喫煙所で一緒になっただけの、同じ大学の、同じサークルに所属しているだけの関係だ。

 そしてよりどうしようもないことには、先輩にとっての俺も似たようなものだということだろう。俺たちは互いに何も知らないまま、煙草と夜の一瞬だけを共有しているだけの他人でしかない。


「……大丈夫ってのはよく分かんないけど、困ってることは今んとこないな。煙草もうまいし、単位も危なそうなのはそんなにないし」


 先輩の口元で煙草の火が赤く光る。吐き出された細い煙が闇に漂い、飲まれるように溶け消える。


「お前が心配するようなことはなんもないよ。話だって今言ったように仕入れた訳で、つまり在庫は潤沢ってわけだからさ。安心して聞きたいだけ聞いてくれよ」

「煙草目当てでしょうよ先輩は」

「だからさ、お前が買ってくんなきゃどうにもなんないからさ」


 頼りにしてるよと嘯く、その笑みが夜と暈けた照明に煙る。

 なんとなく目を合わせづらくて、俺は自分の煙草の煙をわざと盛大に吐いた。

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