一服した話

 衣替えったって、この時期に調子乗って夏の格好すると大体風邪引くんだよな。昼間やんなるくらいに暑いのに夜が冷える。そのくせ湿度があるから、毛布つかうのがしんどいだろ。タオルケットさ、あれ軽すぎて苦手なんだよ。重さが欲しいんだよ掛け布団には。


 寝不足ではあるけどね。何、俺そんなに心配されるような顔してる? こんな薄っ暗い中でしか会わないからじゃないか、それ。大学で特に何か言われたことねえもん。昼見れば別に普通の顔色だよ。ゼミの教授だって別に何にも……ああ、まあ、就職っつうかこの先どうなるみたいなのはね、聞かれてるけど。俺一応ゼミ長だからさ、何かっていうと呼ばれんだよ。何であんたがってのはみんな言うけどな、あれじゃねえかな、俺が一番何にもなかったからこう、肩書だけでもつけてやろうみたいなさ、お情けだよ要は。ありがたいだろ。


 単位も今んとこどうにかなってるし、卒論もまあ大丈夫だし、バイトも問題なくやれてるし。あれよ、心身共に充実してるってやつ。こうやってお前と馬鹿みたいな話して煙草ももらえるし。素晴らしいだろそんなん。


 そんで今日もあるけど、買ってくれんの?

 や、買ってくれるだろうなとは思ってるけどさ。こういうのってお約束っていうか手続きみたいなもんだから。こなしとかないと次のステップに進めない。常連相手でも、その辺はしっかりやっておかないと。大事だろ、そういうオンオフってさ。先輩後輩、売り手と買い手、そういうことだもの。

 はい、毎度。何吸っても基本的には美味いけど、人から貰った煙草ってのはこう、格別だかんな。


 そうだな、井端さんってことにしとくか。今回の話の人な。やっぱりこう、実名とか出したくないって人だし。

 俺よりちょっと年上ってところで、独身ので市内のマンションに一人暮らし。最初は実家に住んでたんだけど、仕事場に近い方がいいってことで引っ越したんだって。長男だから最初は渋られたけど、叔父が紹介するとこに住むんならいいってことで許可が出たみたいな感じだよ。部分的に俺と似たようなもんだなって思った。俺んとこはそういう仕事のやついなかったから、監視の従兄がついた。田舎だとたまにある。手持ちの人間は減らしたくないんだよな、親族って単位で考えて……まあ、その辺は別の話だな。


 で、紹介された物件なんだけど、そこはとりあえず普通だったんだよ。


 駅前からは少し歩くけど、それでも周りにコンビニとかファミレスとかあるぐらいには栄えてる。スーパーはちょっと遠かったけど、それだって我慢できないって程の距離じゃなかったから問題ない。何より第一希望は職場に近いことだったし、そこの条件については全く問題なかった。徒歩で十五分ぐらいだったかね。実家からだと電車使って駅から三十分歩いたから、それに比べたら最高だって。


 入居して、引越しとか色々やって……叔父さんも顔出してくれたんだって、普段から仲良いほうだったから。就職祝いだってことで夕飯代出してくれるって話だったから、サイドメニュー山程つけてピザ頼んだって。井端さんの実家ね、宅配範囲外だったから憧れだったんだと。


 そんでまあ、飲んで食べて雑談して何となく和やかな感じになってた頃合いでね、叔父さんが今思い出したみたいな顔して、お前煙草吸うかって聞いてきたんだって。

 井端さん、吸うんだよね。もしかして禁煙物件とかそういうやつかなって思いながら正直に答えたら、叔父さんちょっとだけ難しい顔をして、


「換気扇とかな、そういうとこで吸ってくれると助かる……ベランダでね、吸ってほしくないってだけなんだけどさ。それだけね、守ってほしいなって僕は思ってる」


 要はベランダで吸うなというだけのことなんだろうけど、何となく言い方が引っ掛かった。遠回しっていうか、曖昧っていうか、そういう感じがしたと。

 当たり前だけど、いわくつきなのかなって思ったと。そんなに家賃が安いわけでも何でもないのにそれはただ嫌なだけだな、とかそういうことも考えた。家賃が相場通りでバケモンついてきて、お得だって喜ぶやつはあんまりいない。

 顔に出てたんだろうな、叔父さんはそういうんじゃないって説明してくれた。


「お前昔っから雑だから、灰とか吸い殻とか落としそうだろ。そうすると下の階から苦情が来るから、だったら最初から換気扇のとこで吸ってくれっていうだけのことだよ」


 訳あり物件じゃないから安心してくれ、って酒注いでくれたから、井端さんもじゃあいいかって納得した。ベランダ喫煙でご近所トラブル、みたいなやつは何となく聞いたこともあったしね。前に住んでたやつがやらかしたんだろうなぐらいに思ったんだって。


 まあ、その程度に聞き流してたからな。やらかしたんだよ、やっぱり。


 五月なのにやたら暑くて、休みだったけども外出する気になれなくってクーラーかけて過ごしてたような日だった。

 夜になってようやく気温が下がったから、いつもみたく台所行って煙草吸おうと思って、魔が差した。

 夜風に吹かれて涼みながら吸ったら気分がいいんじゃないかって思いついちゃったんだな。

 叔父からの注意は覚えていたけど、だったらそこだけ気を付ければいいだろうって理屈をつけてね。俺だって昔よりはちゃんとしてるし、大丈夫だろうと。

 灰皿持ってベランダ出て、念のため手すりまでは行かないでおいた。部屋と外の境目あたりに座り込んで、ぼーっと煙草吸ってたって。

 九時回ってたから、外も大概暗くなってる。車の音がたまに聞こえるけどすぐに遠ざかって、夜になって冷えた風がちょうどいい強さで吹いている。


「やっと過ごしやすくなりましたね」


 何度か煙を吐いたあたり。声がして、顔を上げた。

 人がいた。

 井端さんの真正面、ベランダの手すりに凭れてこっちを見ている。口元に赤い火があって、ああこの人も煙草を吸いに来たんだなって思った。こういう時期なら夜風に吹かれたくもなるよな、ってのも分かったから、んだと。

 二人して黙って煙草吸ってて、ときどき間を繋ぐみたいに雑談をした。


「この時期にこの気温は異常気象ですよね。いいとこ初夏だろうに、初手からこれはしんどいでしょう」

「暑い時期だと煙草がまずいって、俺の親父は言ってましたね」

「たまに聞きますね、それ。夏がまずいんじゃなくて、冬がうまいだけなんじゃないかなって私は思ってますけど」


 とりとめのない雑談の合間に、風の具合でたまに煙が流れてきて、やけに甘いなって思ったんだと。お香みたいな匂いだな、珍しいもん吸ってんなこの人って、ね。

 そうやって吸ってるうちに煙草も短くなって、そろそろ戻るかって気になった。夜風に当たっていい具合に涼めたし、あんまり長く喋ってると騒音とかで苦情がくるんじゃないかって、遅まきながら気づいたんだと。

 じゃあ俺そろそろ失礼します、って挨拶して立ち上がった。その人も軽く会釈して、


「無茶しちゃいけませんよ。体壊すと、煙草もうまくないもんですから」


 それじゃあ頑張ってくださいとか大袈裟なことを言うから、井端さんもちょっと笑いながら一礼して、それじゃあおやすみなさいって背を向けた。


 そうやってベランダから室内に戻って、窓とカーテン閉めて。台所に吸い殻捨てに行ってから、気付いたんだって。


 あの人、誰だったんだ。

 ここは俺の部屋で、ここには俺しかいない。さっきまで俺と向かい合って煙草吸ってた人、誰だったんだ。


 そういうことに気づいて、どうにもならなくなった。

 格好も仕草も全部普通で、もちろん手足の数だって多いとか少ないもなかった。

 煙草の甘い煙と、火の色と、声。それだけしか覚えてない。ついさっきまで、目の前にいたはずの相手なのに。


 反射的に部屋を飛び出して、近くのファミレスに逃げ込んでから叔父さんに連絡取ったって。ベランダに人が、って言い出したら、三十分待てって返事があった。


 叔父さん、二十分で来てくれたって。まんま部屋着、っていうかラフいTシャツと色落ちしまくったデニムっていうすごい格好。井端さんの顔見て、ため息ついてから、すまないって謝ってくれた。


「ちゃんと言っとけばよかったな。下手に言うと怖がるかと思ったから」


 で、話してくれたけど。やっぱり訳ありとかじゃなかった。

 事件自殺事故その他、人が死ぬようなことは起きてない。住人トラブルで揉めたとかそういう話もないし、設備の苦情とかそういうのもほとんどない。

 だけど、はずっと居るんだって。

 正体とかそういうのは誰も知らない。ただそういう記録──ベランダで煙草を吸ってたらいないはずの人に会った、そういう報告だけが、それこそ新築の頃からずっとある。事情とか因縁みたいなのは、叔父さんは教えてもらってないってことだった。薄々ね、そこ深堀りするとよくない感が言葉の端々にあって、井端さん聞くのやめたっていうけどね。聞かないでいいことは聞かずに済ませたほうがほら、穏便じゃん。つまんないけど。


 別にね、退去なんかはしなかったんだよ。

 両親にも叔父さんの大チョンボを黙っとくってことで、井端さん、今でもそこに住んでる。ベランダで煙草吸わなきゃいいだけだし、職場に近くて家賃も手ごろなのを捨てる気にはならないってことだ。そのあとまた叔父さんに晩飯奢ってもらったって言ってたから、それで井端さんは納得したんだろ。

 まあ、回避手段が分かってるしな。じゃあいいよな。叔父さんは気に病むかもしんないけど、その辺はほら、必要経費ってことでさ。最初に説明をミスったのが悪いってだけのことだよ。


 バイト先うちにもそういうのいるのかね。大体いつも同じ面子がいるのはあるけど、みんな身元は割れてるし、実在だし。いや実在だよ先輩も。お前だって見てるだろ、あんな派手な幻覚見るようになったらおしまいだよ。ピンクの象じゃないんだから。──これ、言うなよ。お前と先輩会うことなんてそんなないとは思うけど、こないだみたいなことはあり得るし。俺が困る、つうか気まずくなる。


 でもさ、もし住んでる部屋になんかいても、俺多分気づけなさそうだな。だってさ、たかだか十分ぐらいじゃん煙草吸って話するにしてもさ。そんなの、相手がだれかなんて頓着しないもん。

 今だって、ここだって似たようなもんだろ。それでも別に困ってない。俺は煙草をもらったし、お前は話を聞けた。じゃあそれで十分だろ。誰が話しても渡しても、どっちでもいいんじゃないかって──。

 なんだよその顔。分かんないけど、悪かったよ。安心しな、俺に煙草寄越してまで話聞こうとするやつなんか、今んとこお前しかいないよ。馬鹿だねお前。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る