煙行き交うも他生の縁
「君さあ、二年の久慈だろ。国文の」
「……そうですけど」
「そんな顔すんなよ、傷つくなあ。天文部の先輩だよ俺。国島」
大学生の無闇に長い春休みもあと少しで終わる三月の夜。神経に障る生温い闇に煙を浮かばせながら、国島先輩は口元を裂くようにして笑った。
名乗られた名字には何となく聞き覚えのあるようなないような記憶しかない。見覚えがあるかどうかも曖昧な顔。率直に言って先輩を名乗る不審者としか見えずに露骨に怪訝そうな表情をしていたであろう俺に細めた目を向けたまま、先輩は続けた。
「俺そんなにサークルにも顔出さないからな。バイト多いし、今年から四年生だし……あ、じゃあお前も今年から三年か。留年してなきゃの話だけど」
「しませんよ留年なんて。そもそも何で俺のこと覚えてたんです」
「たまに部室で見かけるたびに異様につまんなそうな顔してたってのと、あと学科同じだって自己紹介で喋ってたから。そんでね、なんとなく」
吐き出された煙が生白い顔の横に細く昇る。縋りつく指のように湿った風が頬を撫でて、俺は顔を顰める。
先輩は値踏みするような目をこちらに向けたまま、
「大学の人間とキャンパス外で顔合わせるのってあれだね、妙な感じだ」
そう言って突きつけるように寄越された缶コーヒーはとっくに冷え切っていて、名残りのように仄かな温みが人肌のようで僅かに苛立ったのを覚えている。今考えればあれはバイト先でもらったか何かしたものの横流しだったのだろうなと予測がつく。
そのまま打ち合わせをするでも約束をしたわけでもなく、ただ何となく週一で顔を合わせるようになって、煙草のついでにぽつぽつと雑談をするようになった。そこからどういうわけか今は煙草のやりとりをしている。我ながら成り行きにも程がある。最近になって先輩が持ち掛けてきた取引──面白い話をするから煙草を寄越せというのも、普通に考えれば結構な無法ではあるだろう。けれども持ってくる話が申告通りに奇妙な、少なくとも煙草一本分ぐらいなら損をした気にはならないような代物なのだから仕方がない。
いつものようにゆるゆると細く紫煙を上げる先輩の横顔を眺めていると、突然に首がぐるりとこちらを向いた。
「何? 金なら貸さないよ」
「いりませんよ。つうか後輩と目が合って言うのがそれですか」
「あんまりじっと見られてるからさあ、警戒しちゃうだろそんなの。俺気小さいし」
後輩から煙草を毟り取るような提案を差し出しておいてどの口が言うのだろうか。正確な自己認識が下手なタイプなのかもしれない。
言うだけ揉め事の種にしかならないであろう邪推を内心に押し留めて、俺はどうでもいい会話の糸口を投げつける。
「バイト順調なんですか」
「そりゃまあ。自分で言うのも何だけど真面目だからね。逆らわないし。長いものと強いものにぐるぐる巻きにされる人だよ俺は」
「まだ煙草貰ってるんですか」
「煙草っつうか話ね。聞いてるよ」
話を聞く代わりに煙草を一本分けてもらう、そんな傍目にはわけの分からない行為はまだ続いているようだ。そんな対価を払ってまで人に話を聞いてもらいたいものなのだろうかと考えたが、俺にはどう頑張ってもちょうどいい理屈が思いつかなかった。
「最近だと色んな人がくれるよ。一回来た人も別の煙草持ってきたり。律義だよね、別に同じのでもいいのにさ」
「懺悔室みたいですね」
「懺悔室金取んなくない?」
でも無償だったらやってらんないよねとそこそこに冒涜的なことを言って、先輩は煙をゆるゆると吐いた。
「まー、元々バイト先もそんな感じの仕事だしなあ。不用品みたいなもん引き取って回って、いるってところに手数料とちょっとつけて融通するみたいなさ、そういう感じのお仕事だもん」
「リサイクルショップみたいなやつですか」
「そうだね。その名称だとこう、大手でシステムっぽくなっちゃうけど。もっと地味なやつよ、個人事業でやってるし」
「なんでそんなとこに縁ができたんです」
「……知らねーブランドのマフラーとかさ、ジャケットとかさ、そういうの……」
「は?」
先輩はいつもより長く煙草を咥えていたかと思うと、おもむろに煙を吐いた。
「彼女がさあ。元なんだけど……何かってえと物くれる人でさ。で、別れてからどうすっかなこれって
「最初は先輩も客だったって話をしてますね?」
「そうね。そんでまあ、色々あってバイトしてんの。金はあった方がいいし。従兄ちゃんも保証してくれるし、じゃあってんで」
明らかに重要なところが有耶無耶にされている。
誤魔化し方が下手だ。いつもの饒舌ぶりもどこへやら、何もない暗い駐車場を眺めて煙をひっきりなしに吐いている。
話したくも聞かれたくないのだろう。けれども伏せられた箇所に興味がないと言えば嘘になるくらいには俺は下世話な人間だ。
だけども、ここで踏み込んで上手くやれる自信もない。その程度には臆病でもある。
総合して平均的な卑怯者だ。我ながら悲しくなるが、事実だから仕方がない。正しい自己認識は真っ当な生活を送る上で欠かせないものだ。
とりあえず週一、こうして煙草を吸いながら妙な話を聞く。その関係は維持していたい。成り行きと流れで始まったものではあるが、そこは嘘でも何でもない本心だ。そのくらい俺が毎日に退屈しているということでもあるのだろうが、そんな情けないことをわざわざ口にしてまで確認したくはない。
「……話、まだ貰ってるんですよね」
「ん、そうだね、そこそこ。煙草もね、結構色んなの貰ってる」
「じゃあネタ切れしそうにないですね」
先輩が眉間に皺を寄せた顔をこちらに向けた。俺は何でもないように、ただ見返して煙を吐く。
「何ですか。そのままの意味ですよ。せっかくちょっと楽しみにしてるんで、早々にバテたらつまんないなってだけで」
「需要があるなら喜んで話すけどさ、安くはならないよ」
「期待してませんよ先輩にそんなの。そんな真っ当な気遣いができるんなら、話の横流しなんかしないでしょうし」
箱から一本を探り出して、先輩に向かって差し出す。
先輩はますます眉間の皺を深くしてから、いっそ困ったような顔で俺を見た。
「今日話してないけど……何、これから話せって?」
「いや、これ吸ったら帰ります。アイス買って帰るんで」
「じゃあ、」
「先輩の話をしてくれたじゃないですか。バイト先とか、そういうことを」
先輩は一瞬片目を瞠ってから、
「あー……そういうとこ律義だね、お前」
それなら今回は試供品だからいいよと煙草を片手に先輩は笑う。
試供品を渡すタイミングがおかしいんじゃないのかと言おうかと迷って、俺は短くなった煙草を咥えたまま、擦れたスニーカーの爪先を見つめた。
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