13 屋上
死んでいた。確かにそう聞こえた。
陶冶は状況を上手く呑み込めずにいた。隣に座る能登も、両手で口を覆ったまま動かない。
粟津先生が? 屋上で?
「死んでいるとどうして分かったんですか。気絶かもしれない」
伊奈波が尋ねた。冷静な態度に、陶冶も少しだけ落ち着きを取り戻す。
「一面血の海だったんだ。首に何か刺さっていたし、もう死んでいるのは一目で分かった。あの出血では、無理だ。皆川先生も同じ意見だった」
岸本は断言した。現場は凄惨を極めていたのだろう。刑事たちは補足も訂正もしない。その沈黙が粟津の死を肯定していた。
「あれ、キッシ……岸本先生はさっき、鍵を開けたと仰いましたよね」
渾名で呼びかけて、伊奈波が言い直す。流石にTPOは気にするようだ。
「では、犯人は屋上で粟津先生を刺して、屋上から出て、鍵をしてから逃げたということですか?」
「ん、まぁ、そう考える事もできる」
白髪交じりの刑事が言葉を濁す。
「そう考えるしかないでしょう。でも、そうなると新しい疑問が出てくる」伊奈波は前のめりになって刑事を見つめた。獲物を視界に捉えた猫のように、じっと見つめて離さない。
「どうして刑事さんは、ボクたちが屋上を訪れた時に、鍵が掛かっていたかどうかなんて些細な事をわざわざ確認したんですか? 確認する必要あります? 話の流れからして、鍵が掛かっていて当然なのに」
「それは、一応の前後関係を整理するためだ。調書を作る必要があるんだよ」
「そうでしたか。それは失礼しました」伊奈波が微笑んでみせる。
「ボクはてっきり、鍵が屋上で見つかったのかと」
その言葉に、立っていた方の刑事が僅かに反応した。岸本が驚いた顔で伊奈波を見る。対面の刑事だけは微動だにしなかったが、逆にその反応の差が、伊奈波の推測を無言のうちに裏付けた。
「ありえません」能登が言った。「粟津先生は屋上で刺されて亡くなっていたんですよね。そして屋上の扉には鍵が掛かっていた。だったら、これはまるで……」
密室殺人。
というのは言い過ぎにしても、状況は近い。
屋上はフェンスに囲まれ、出入口は中央階段に繋がる扉しかないのだから。
「鍵を蹴って、扉の隙間から通した可能性はありませんか? あとは例えば、糸で上手く引っ張るだとか」
陶冶は小さく手を挙げた。つまらないトリックだが、一番簡単な方法だ。
「それはないな。鍵は死体のすぐ傍にあったし、周りは血溜まりだ。糸を使ったなら跡が残る――ああ、いや、こんな事は、君たちに話すべきじゃないか」
刑事は我に返った顔で嗤った。
「なら、本当に密室……」
「いや、そうでもないよ。空間的には開いているし」能登の呟きに伊奈波が反応する。
「非常階段の屋根がありますよね? もう見ましたか?」
「君は、ああ、屋上に行ったことがあるんだったね」
「フェンスからあそこに飛び移ればいい。跡が残るはずです」
「君の言う通り、跡が残っていれば、そうやって逃げたと分かる」
白髪交じりの刑事が言った。伊奈波と刑事の視線がぶつかる。お互いが無言のまま、刑事が折れて降参のポーズを取った。
「ご協力感謝します。また他の刑事が同じような質問をするかもしれないが、できるだけ感じた通りに答えてやってくれ」
白髪交じりの刑事が立ち上がる。話すのはここまで、ということらしい。
「あの、この子たちはもう帰しても大丈夫でしょうか」岸本が尋ねた。
「そうですな。おい、どうなってる?」
直立していた刑事が問われ、背筋を伸ばす。
「問題ありません。箱の方も、開けたのは教頭先生ですし」
「だそうです。明日は、やはり休校ですか?」
「ええ、緊急の職員会議が後でありますが、そうするしかないかと。今日は遅くまでずっと連絡に追われそうですよ」
「え、休校になるんですか?」
能登が意外そうに言った。
「箱の方だけなら何とかなったかもしれないが、二件同時となると衝撃の度合いがな……。証拠の保全にもなるし、万が一も考えて恐らくそうなる」
「万が一?」「殺人犯が校舎内に潜伏しているかも、ってこと」
能登の疑問に伊奈波が答えた。岸本が苦々しい表情で頷く。
校内は広く、隠れる場所は幾らでもある。外へ逃げたという確証がない以上、警察はしらみつぶしに各教室を捜索するしかない。
「お前たち、帰る方向は同じか? なるべく固まって、寄り道はしないように。もし危険を感じたら、大声を出して逃げなさい」岸本が言った。
「私は迎えの車が来ます。先輩、乗っていきませんか」
「ありがとう。けど、ボク自転車だから。鍬形君はどうするの?」
「俺は徒歩です」
「あ、家近いんだ」
「駅前のタワーマンションですよ。そいつの家は。しかも一人暮らしなんです、ほんと、いやらしい」能登が個人情報をバラしてくる。
「ちょっと待て、一人暮らしといやらしさは関係ないだろ」
「反論するところがますます怪しい」
酷い言いがかりだ。高校生の一人暮らしだからといって、陶冶の部屋にやましいものなどない。あまり、ない。
* * *
正門で振り返ると校舎の東側に赤い光が反射していた。警察が屋上の事件に対処するべく増援を呼んだのだろう。一帯にパトカーが犇めき合っている。
陶冶は屋上に目をやった。上で鑑識や刑事が捜査をしているはずだが、角度的にフェンスしか見えない。曇り空に加えて日が沈んだため全体的に暗く、本当に屋上でそんな事があったのかと疑いたくなる。しかし、校舎全体を包む物々しい雰囲気が、日常へ回帰しようとする意識を否定した。
「やぁ、おまたせ」キッと高い音がして、陶冶の前に籠付きのマウンテンバイクが停まった。ただし、籠には何も入っていない。
「荷物ないんですか?」
「教科書置きっぱだから、ないよ」伊奈波は堂々と言った。
「弁当とか」
「ボクは購買派」
「筆記用具は」
「教室と部室に分けてある」
身軽さが信条だと言わんばかりの態度だ。予習復習はどうするんですか、と聞こうか考えたが、回答が予想できたので止めておく。
「じゃあ帰りましょうか」
「能登さんの迎えを待ってても良かったんだけどね」
伊奈波は車の到着まで待つことを提案したが、自分に合わせて待ってもらうのは申し訳ないからと能登に固辞されている。陶冶はどちらでも良かったが、その問答の結果、自転車とはいえ先輩を見送らないとは何事だと能登に言われ、途中まで一緒に帰ることになった。
「それにしても、なんか凄いことになったねぇ」
伊奈波が言った。陶冶に合わせてマウンテンバイクを押して歩いている。
「俺たちが屋上に入ろうとした時、粟津先生はもう殺されていたんでしょうか。犯人も、もしかしたらまだそこに……」
「粟津先生が生きていたなら反応があったはずだよ。だから、死んでいたと考えるのが妥当かな。犯人は……鍵のことがあるからなぁ、普通に考えれば、まだ屋上にいたはずだ」
屋上は、校舎の中央から西に広がる巨大な空間だ。出入口は中央階段に繋がる階段室だけで、周囲はフェンスに囲われている。東側にタンクと電気設備があるものの、校舎の形から物理的に切り離されており、そちらは出入口も別に存在する。
扉の位置関係と岸本の話を総合して考えると、死体があったのは階段室の扉前だろう。扉を開けて視界に飛び込んできたとなれば、必然的にそうなる。
「鍵が死体の側にあったといっても、合鍵があればどうにもでなるんじゃないですか?」
陶冶は伊奈波を待つ間に考えていたことを話した。
「屋上の鍵は合鍵を作りにくいタイプのはずだよ。作るにしても、職員室から長時間持ち出すのは厳しい。そして何より、合鍵を用意して殺すにしては場所が杜撰だ」
「確かに」陶冶は同意した。
わざわざ合鍵を作っても、屋上で殺してしまっては犯人候補が一気に絞られてしまう。放課後とはいえ不特定多数の人間が出入りする校内で、しかもそこに勤務する教師を屋上に誘い出して殺すのは外部の人間には不可能に近い。犯人は、まず間違いなく学校関係者だ。
「屋上で何か話していて、衝動的に殺してしまった」陶冶は口に出して、状況を整理していく。
「うん。そして、何らかの手段で屋上から脱出した。まぁ、所詮は屋上だ、密室でも何でもない。逃げる手段はいくらでもある」
「例えば何がありますか」
「パラグライダー」伊奈波は即答した。
「冗談ですよね?」
「あとは大きな傘で飛び降りて着地の衝撃を和らげる、とか」否定することなく伊奈波は続けた。「だってさ、殺人現場から逃げるんだよ? 異常な状況なんだから、異常な行動であってもおかしくない」
「それにしたって飛び降りるのはないでしょう。だって――」
そこで気付いた。屋上の開かれた密室という特殊性に気を取られて、最初に思いつくべき発想を見逃していた。
「犯人はどうして、扉から逃げなかったんだろう」
「うん。ボクもそれを考えていた」
それが一番簡単なはず。屋上を出て鍵を掛け、何らかのトリックを使って死体の側に鍵を残して逃げるよりも、一目散に走って逃げた方が安全だ。
信号が赤になり二人で立ち止まる。右折してきたトラックのハイビームが眩しくて、陶冶は思わず目を細めた。
「例えば、粟津先生を殺した直後、逃げようとした矢先にボクたちがやってきた可能性が一つ考えられる。扉の向こうに誰かいる。見られたら終わりだ。しばらく待ってみても、踊り場のあたりでまだ喋っている。更に待ってみると、どこかへ行ったようだが、まだ近くにいるかもしれない」
「疑心暗鬼になって、扉から出るのが怖くなったわけですね」
「そういうこと。そして、どうにかして逃げた。東西南北あるけど、東側の設備がある方は、まぁ無理かな。物理的に切り離されてるから、棒高跳びでもして飛び移らないと無理だ。更に屋上の設備室に鍵が掛かっている。そして、ボクが職員室で鍵ボードを見た時、設備室の鍵はちゃんとそこにあった」
「よく覚えてますね」
「屋上の鍵の隣だから当然」
「じゃあ、残るは西・南・北ですか。」
「有力なのは、西側にある非常階段の屋根に飛び乗って、屋根から四階の非常階段に身体を捩じ入れるように降りる方法」
「非常階段?」
先程も伊奈波は白髪交じりの刑事に非常階段の屋根から脱出した可能性を話していた。屋上に入った事のない陶冶には分からないが、入った事にある者にとっては最も堅実な脱出ルートと思えるのだろう。
「西側にあるじゃないか。粗末な金属製の階段」
「あぁ、あれか。ありますね」
陶冶は振り返って、すでに遠くなった校舎を見た。校舎の西端には非常階段が設置されている。四階の理学準備室は教室の端だが、更に奥へ進めば非常扉があり、そこから非常階段へ出ることが可能だ。
「警察は最初にそこを調べたはずだよ。非常階段の屋根なら、フェンスから飛んで3メートルもない。ただし、埃やら雨の汚れやらで、着地すればその痕跡は一目で分かる。もし犯人がそのルートを使っていたなら、それで密室は解決だ」
「なるほど。案外簡単に……」
頷きかけて、陶冶は伊奈波の説明に含みがあると気付いた。
「使っていたなら、ってことは、実際は使われていないんですか?」
「そりゃあね。一目で分かる、と言ったろ? あの刑事は明言こそしなかったけど、わざわざボクたちに鍵の確認をしてきたんだ。屋上の密室にこだわっているなら謎は解けていない。跡が残っていれば分かる、なんて繰り返したのは、非常階段の屋上に誰かが着地した痕跡がなかったと告白しているようなものさ」
伊奈波の言葉には迷いがなかった。
屋上から非常階段の屋根に降りていないなら、どうにかして飛び降りる強引な方法が存在感を増してくる。パラグライダーは冗談にしても、飛び降りに思考が向かう理由に陶冶は遅まきながら追いついて息を呑んだ。どの時点でそこまでの推論に至っていたというのか。
「非常階段の屋根は痕跡が残ると気付いて斜めに飛んだ、というのはどうですか? フェンスから飛んで、四階か三階の非常階段の手すりを掴めば……」
「鍬形君、物理の成績は?」
「中間テストは100点でした」
「あ、そう……。なら分かるだろ、落下と横方向は独立した運動だ。危険すぎるよ。幅跳びするにも不安定な足場で、助走なしだもの」
「だったら、非常階段の近くにある雨どいを掴んで、身体を揺らして、こう、どうにかして腕か脚を手すりに引っかければ……すみません。もっと危険ですね」
「アイデアだけなら、他にもありえるさ。南側と北側、つまりグラウンド側と校舎裏の面なら窓枠があるから、その僅かな段差に指の力だけで全身を支えて、一階ずつ降りればいい。偶然誰にも見つからなければ、これでもいける。あとはもう、骨折覚悟で本当に飛んでしまうのもありだ。雨どいを伝ってスルスルと降りても良い。常人の身体能力ではないけど、犯人だって必死なんだ、火事場の馬鹿力で大抵はどうにかするさ」
伊奈波は肩をすくめた。どのルートも納得がいかないという顔だ。
扉から出ていかず、非常階段の屋根も使わないルートを考えると、より不安定で危険な方法しか選べなくなる。そして、そのルートが突飛である程に、どうしてそんな方法を選んだのかという二つ目の問題が重くのしかかる。その解決を異常な状況による異常な行動で説明するのは、陶冶にも納得がいかなかった。
脱出はできる。しかし、納得はできない。
「ま、考えても答えは出ないよ。警察の捜査に期待だね」
国道の横断歩道に差し掛かり、伊奈波が足を止めた。
「ボク、あっちだから」
「あ、はい。お疲れ様でした」
陶冶は頭を下げた。返事はなく、陶冶が顔を上げるとまだ伊奈波は立っていて、真っすぐに目が合った。
「明日休校になったらさ、鍬形君は暇かい?」
伊奈波は細い首を少しだけ傾けて訊いた。黒髪が風で揺れる。
「そうですね。急ですし、家にいるかと」
「そっか。じゃあ良かった」
伊奈波の顔がパッと明るくなった。胸ポケットから生徒手帳を取り出すと、小さなペンでさらさらと何か書き、ページごと破る。
「はい、これ。後で何か送っておいて」
破られた生徒手帳のページを受け取ると、電話番号が書かれていた。
「明日は10時に迎えに行くから、休みだからって夜更かしして寝坊しないように」
「え?」
「採集部の活動だよ。君がくれた石の正体を、解き明かしに行こう」
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