11 左足
粟津は二年の世界史を担当している。生徒指導を兼任しているため、始業式や全校集会で私語をする生徒に怒っている姿を見かけたことがあるぐらいで、一年の陶冶には馴染みのない教師だ。伊奈波は苦手としているようだが、校庭の煉瓦を破壊して厳重注意を受けるのは妥当であるため、伊奈波による評価は正当とは言い難い。むしろ、職務に忠実な人なのではないか、と陶冶は想像していた。
であれば、策を練らず素直に頼むのが最善手だろう。ソーラーパネルの設置が高校にとってどれぐらいの位置付けなのかは不明だが、粟津の配偶者が絡んでいるなら、少なからず生徒から追及されれば後ろめたい面があるはずだ。面倒な疑いをかけたり、穿った見方で接すれば逆上されて意固地になってしまう可能性が高い。真面目な生徒代表として、部活動のためだとお願いするしかない。幸い、いかにも優等生然として澄ました顔をした能登もいる。
ぼんやりと説得する筋道を考えながら中央階段を昇り、再び四階までやって来た。ここから廊下を西へ進めば理学準備室だが、今は更に階段を昇る必要がある。屋上への階段の踊り場は電灯が点いておらず薄暗かった。埃を被った段ボールが積まれ、錆びたロッカーが並んでいる。
「あれ、鍵かかってますよ」
陶冶が意を決してドアノブを回すと、扉はびくともしなかった。
「変だね、作業中にわざわざ鍵かけるなんて」
「行き違いになってしまったんじゃないでしょうか」能登が言った。
「いや、それはないと思う。屋上から職員室に戻るなら、そのまま階段を降りるだろう? ボクたちとすれ違わないのはおかしい」
伊奈波が指摘する。
「何か他の用事があって回り道したんでしょう」
四階の廊下を歩いて東側の階段から降りるなら、下駄箱から職員室まで戻る分だけ遠回りではあるがすれ違いは成立する。あるいは三階や二階のクラスに用事あって、途中で立ち寄った可能性もあるだろう。現実に鍵がかかっている以上、そうとしか考えられない。
「中で何かしてるんじゃない? おーい、粟津先生! 開けてくださーい!」
ドンドンと伊奈波が強く扉をノックした。振動は虚しく響き渡り、やがて静寂が場を支配する。しばらく待ってみたが、粟津が現れることはなかった。
「やっぱりすれ違っちゃったのかな」
「おい、何をしているんだ?」
踊り場でどうしようかと顔を見合わせていると下から声がした。目をやると四階で美術教師の岸本が怪訝そうな顔をしている。デニム生地のエプロンには、年季の入った絵の具の染みがあちこちに付いていた。この一見して年齢不詳なボサボサ髪の男性教諭は、絵の具で白髪染めをしているという噂がある。
「屋上の鍵を粟津先生が持っていったらしいから、入れてもらおうとしたんだけど鍵がかかってるんだ。キッシー、何か知らない?」
「伊奈波、先生をあだ名で呼ぶんじゃない。粟津先生は……放課後は見ていないな。中にいないのか」
「ノックしても反応なしです」陶冶は首を振った。
「じゃあすれ違ったんだろう」岸本が呆れたように鼻息を漏らす。
「でもほら、中で脳卒中になって倒れたのかもしれないし、キッシー合鍵とか持ってないの?」
「だからあだ名で呼ぶんじゃない。合鍵は教頭先生が束でお持ちだから、もし職員室に粟津先生が戻って来なければ対処することになるな」
「それじゃ手遅れじゃないか」
「脳卒中で倒れて放置されている時点で手遅れだろ」
岸本は堂々と言ってのけた。身も蓋もない。救護が早ければ助かる確率は上がるというのに、同僚への慈悲はないのか。
「でも、そう言われると少し心配ですね」能登が指で唇に触れながら言った。
「なんだ能登、お前まで。あー分かった分かった、ちょっと待ってろ」
そう言うと岸本は携帯電話を取り出して指で数回タップし、耳元に当てた。職員室にかけてくれるようだ。能登の純真無垢に心配する生徒の演技が効いたのだろう。当の本人は小声で伊奈波と「さっすが」「いえいえ」と肘で小突き合っている。いつの間にそんな仲良くなったんだ。さっき会ったばかりだろうに。
「あー、岸本です。すみません、粟津先生は戻られていませんか。屋上の鍵を持ったままらしくて、ええ、そうですか。はい。いえいえそんな、鍵がかかっているのを生徒が心配しておりまして、はい。そうかもしれませんね、はい、では」
電話を切った岸本が陶冶たちの方を向く。
「職員室には、まだ戻られていない。腹でも痛くなったんじゃないか?」
「そうかもしれないけど、釈然としないなぁ」
伊奈波が口を尖らせる。
「世の中はお前が釈然とするためにあるわけじゃないんだ。ほら、さっさと下りてきなさい。これ以上トラブルを増やそうとするな。粟津先生もそのうち戻られるだろう」
「これ以上って、他に何かあったんですか?」陶冶は率先して階段を下りて尋ねた。伊奈波はまだ踊り場で粘りたそうにしている。
「不審車だよ。来賓スペースに朝から停まっていて、どうしようか相談中だ」
「呼び出された生徒の親の車だとか、そういうのではなく?」
「朝礼で全学年のクラス担任に確認を取ったがそういった話はない」
「違法駐車って民事不介入だから、警察も協力してくれないってテレビで観たことあります」能登が参加してくる。
「ああ、そうなんだよ。勝手に動かすわけにもいかんしなぁ。なにやら変な箱もボンネットに乗っていて、爆発物じゃないかなんて話も出たんだが、結局様子見しようという話になって放課後までそのままだ」
「変な箱?」
「青色の缶だよ。貰い物のお菓子とかでよくあるやつ」
その言葉を聞いた瞬間、陶冶の背筋に冷たいものが走った。
青色の缶。それは土曜日に発見した右腕の入った箱と同じではないのか。
能登も陶冶と同じ思考に支配されているのが伝わってくる。
「どうしたの二人とも」
「あの、土曜日に見つけた右腕が、青いクッキー缶に入ってて」
能登の声が少し震えている。
「偶然だろう。悪質な悪戯かもしれんが……」
「報道では、何色の、どんな入れ物か発表されていませんでした」
陶冶は言った。能登もそれを聞いて頷く。
「見に行こうか」
沈黙を打ち破るように伊奈波が言った。
* * *
陶冶の通う高校は駐車場が広い。これは野球などの交流試合で訪れた他校の生徒たちの反応を総合的に集計すると、どうやら広いらしいぞ、という見解が全校生徒に浸透しているためであり、陶冶もそう認知している。
広い駐車場の来賓スペースは職員用スペースの隣に存在し、黄色い枠線によって囲われていた。陶冶たちが東側の出入口から外へ出ると、ぽつりと一台、自動車が停まっている。黒の軽自動車だ。遠目からでもボンネットに青い何かが乗っているのが分かった。自動車の隣にスーツを着た男性が立っている。
「教頭だ」前を歩く伊奈波が言った。
距離が縮まってくると教頭もこちらの一団に気付き、軽く手を挙げた。
「岸本先生、どうされました」
「いえ、生徒たちが気になる事を言うもので、確認しようかと。教頭先生は何をなさっていたんです?」
「張り紙ですよ。車の持ち主を取り逃がして、味を占めて何度も駐車場として使われたら困りますので。窓ガラスにセロハンテープで貼るぐらいなら大丈夫だろうと、ゴーサインが出たんです」
教頭にゴーサインを出したなら、決定者は校長だろう。陶冶は先程知ったばかりだったが、教職員たちの間では大事になっていたようだ。
「ところで、気になる事というのは?」教頭はそう言うと、陶冶たちの顔を順に見た。「おや、君は能登さんだったかな。それに君は鍬形市長の……」
「ボクは伊奈波です。平凡なサラリーマンの娘の」
「もちろん知っていますよ」教頭は苦笑してみせた。
「土曜日にバラバラの死体を見つけた事件はご存知ですよね。私が第一発見者で、彼も一緒にいました」能登が陶冶に掌を向ける。
「ええ、そうでしたね。辛いようでしたら、休んでもらっても大丈夫だと担任の先生にも伝えておきましたが」
「あの、それで、見つけた右腕が、その……」能登がボンネットに乗った青い箱を指さした。「青い缶に入っていたので、岸本先生に不審車の話を聞いているうちに、もしかしたらと思って」
教頭が目を見開いたのが分かった。身体が一歩車から遠ざかる。
「ニュースは私も見ています。あの箱の中に、残った部分があると?」
「報道では青い缶とまで発表されていないみたいですよ。偶然にしては、出来過ぎている」伊奈波が言った。
「まさかそんな」教頭は笑みとも困惑ともつかない表情で全員の顔を見た。「皆さん、同じ考えなのですか」
「その可能性が高いと思って」陶冶は静かに頷いた能登に代わって答えた。
「警察に連絡するにしても、まず開けてみない事には」岸本が青い箱を見る。
もし予想が正しければ、中に入っているのは切断された死体の一部分だ。左足の可能性が高い。しかも、最低でも半日常温で放置されて腐り始めているはず。子供も大人も関係なく、積極的に見たいものではないだろう。岸本は顔色が既に青く、乗り気でないのが明らかだった。
「そういうことでしたら、私が開けます。皆さんは一応下がって」
教頭が即決した。流石は高校のナンバー2。度胸と責任感がある。陶冶は思わず感心してしまった。教頭が大きく息を吐く。細く枯れた首の血管が浮き出ていた。
「勘違いであってほしいですが」
言いながら、教頭は青い箱にゆっくりと手を伸ばした。よく見れば青い箱はボンネットにテープで固定されている。教頭は手際よくテープを剥がし、蓋に手をかけた。
数秒の停止。じっと箱を見る。
やがて意を決し、教頭は勢いよく蓋を開けた。
中を覗き込む。陶冶の立ち位置では中身が見えない。
教頭の皺の刻まれた目元が更に歪んだ。
「岸本先生、警察に連絡を」
何が入っていたかは、その言葉で十分だった。教頭は無言で蓋をして、青い箱をボンネットの上に置いた。
「ああ、なんてことだ。分かりました」
岸本が携帯電話を取り出す。
「待ってください。車の中も確認しておくべきでは?」
「何を言う。そういうのは警察の仕事だ」
「教頭先生、そこに入っていたのは左足だったんですよね」伊奈波は岸本の苦言を無視して言った。
「ええ、残念ながら」
「だったら、車の中に左足のない人がいるかもしれない。バラバラ殺人の部位が他にも見つかっているからといって、それらが全て同一人物とは限りませんよ。もし誰かいて、車内に放置されているなら、救急車も呼ぶ必要があります。確認は必須でしょう?」
確かに同じ死体だというのは先入観によるものだ。陶冶は指摘されて初めて気付いた。伊奈波は固まっている陶冶たちを気にも留めず堂々と不審車に近付き、窓ガラスに額を付けて中を覗き見た。
「あっ、鍵かかってないや」
言うと同時に伊奈波は躊躇なく助手席のドアを開けた。その動作があまりにもスムーズで、教頭も岸本も一瞬動けずに傍観してしまっていた。
「こら、伊奈波! 止めるんだ、警察が後から調べるんだから」
「うーん、とりあえず人は乗ってないですね。他には……」
「出てこいっての!」
「ぎゃ! 先生、セクハラですよ、脚引っ張らないで!」
「うるさい! 死体が見つかっとるんだぞ! 大人しくしろ!」
しばらくの間ぎゃあぎゃあと押し問答があって、いきなりガコンと音がした。何かと思い陶冶が近付くと、どうやら引っ張られまいと伊奈波が掴んだせいで、ダッシュボードが開いたらしい。車内に書類が散乱している。
「痛たた、もう先生が無理に引っ張るから。分かりましたよ、何もないみたいですし、これ戻したら出ますから」
「全く、どうしてそう落ち着きがないんだお前は」
岸本の口ぶりを見るに、陶冶が見ていないところでも色々とやらかしているのが分かる。伊奈波は悪びれる風でもなく、ダッシュボードに書類をしまって何事もなかったかのように出てきた。
「これで両手足が揃った」
ずっと黙っていた能登が確かめるように呟いた。
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