10 職員室
四階手洗い場の隣にあるヤリ貝、階段のべレムナイト、三階3-C廊下の直角貝ときて、伊奈波が次は凄いぞと興奮した様子で陶冶を案内したのは図書館の廊下だった。
図書館を何度も利用しているし、教室から武道場へ直接向かうルートでもあるので、陶冶はその廊下を頻繁に通ってきた。入学してから50回ぐらいだろうか。それでも、消火栓脇の柱にアンモナイトが埋まっていたことには、今日案内されるまで気付きもしなかった。ガラスコートされた赤茶の石の中心に、陶冶が手を広げても掴めない大きなアンモナイトが堂々と陣取っていた。
「他のもそうですけど、意識していないと気付かないもんですね」
「そうとも。知識と興味が日常の解像度を上げるんだ」伊奈波は赤褐色の大理石を撫でながら言った。「この子は、ボクの知る限り校内で二番目に大きい」
「一番はどこなんですか?」
「屋上だね。石灰石の中にいる」
「へぇ」陶冶は少し驚いた。屋上は事故防止のために施錠され、生徒は自由に出入りできないはずだ。「よく入れましたね、屋上なんて」
「一年の頃、フライキャッチの練習をしていた野球部員が屋上にボールを投げ入れたことがあったんだ。その子が職員室から鍵を借りたのを知ってお願いしたの。ボクの活動に感銘を受けたらしくて、快く同行を許してくれたよ」
「なるほど」
後半は嘘だろうな、と陶冶は思った。誤って投げ入れたボールを拾うだけの野球部員が、屋上の縁や床を眺めて興奮する女子生徒を悠長に待つ理由はない。何らかの裏取引があったのだろう。
それにしても、屋上には案外シンプルな理由で入れるらしい。
陶冶は心のどこかで屋上に対して、弁当を食べたりサボったりする青春の憩いの場というイメージを抱いていた。しかし、実際は立入禁止の空間でしかなく、創作に見られるような自由さはどこにもない。じゃんけんに負けて武道場の鍵を職員室へ返しに行く度に、鍵の並んだボードの右隅にある【屋上】の赤いプレートが付いた鍵をちらりと見るだけだった。
「見てみたいですね」
陶冶は軽い気持ちで言った。アンモナイトより屋上そのものが見たい気持ちの方が強い。例え現実は雨風で汚れフェンスに囲まれたつまらない空間でしかないと予想できていようとも、それを予想できなかった頃の自分が抱いた憧れへの手向けとして、一度見ておきたいという気持ちがぼんやりとあった。
ぼんやりと、である。
だから伊奈波が「じゃあ見に行く?」と言ったとき、陶冶は驚いて反応が遅れた。
「申請すれば入れるかもよ」
「許可でるんですか?」申請理由、アンモナイトが見たいから。そんな理由で、という言葉を無理やり飲み込む。
「近くにどの先生がいるかによるね。古典の宮坂先生なら素通しだ」言いながら伊奈波は既に職員室の方へ歩き始めていた。陶冶は慌ててそれについていく。
「緩い人じゃなかったら?」
「そこは仕方ない。生活指導の粟津先生なら無理」
目を付けられている、と以前伊奈波が話していたのを思い出す。
「各教員の裁量によるなんて曖昧ですね。校則で決めれば良いのに」
「校則なんか作ったら全面的に禁止になるよ」
「それもそうか、うーん」
「ま、ダメ元で挑戦してみよう。今のうちに見ておかないと、秋以降は無理かもしれないから」
「秋以降って、どういうことです?」
「校舎の屋上にソーラーパネルを置く話が持ち上がっているんだよ。粟津先生の奥様が、そういう会社で働いているらしい」
「へぇ、それはまた」公私混同、利益相反、幾つかの四字熟語が陶冶の頭の中を通り過ぎていく。けれど、私学である以上、それらは謂れのない批判でしかないとも思う。身内や身近に営業をかけるのはむしろ自然だ。
「知りたいと思ったわけじゃないよ。ほら、四階にいることが多いから」陶冶の沈黙を勘違いしたのか、伊奈波は手を振って釈明を始めた。
「トイレから出たら階段の踊り場に粟津先生と校長が立っていて、思わず隠れたら盗み聞きする格好になったんだ。しばらく様子を伺っていたら屋上の扉が開いて、業者っぽい人たちが出てきた」
「測量の立ち合いとか、そんなところですか」
「多分。何にせよ、具体的に話が進んでいる証拠だ」
仮に工事が夏休み中だとすると、二学期から屋上にソーラーパネルが設置され、一般生徒の出入りは不可能になる。だから秋以降、と伊奈波は言ったのだろう。
職員室は一階の東端にある。出発点である四階の理学準備室とは対角線上の位置だが、ツアーが途中だったおかげで遠さを感じない距離だった。
職員室は呼び出されでもしない限りは好んで足を踏み入れたい場所ではない。陶冶は武道場の鍵を返しに行く時以外で入った事はなかった。だから、職員室から知った顔が出てくるのを見て、一体何をやらかしたのかと不思議に思った。知った顔は職員室の中に向けて一礼し、廊下の陶冶を見つけるなり目付きが鋭くなった。
「何でここにいるのよ」能登が顔をしかめる。
「そっちこそ。呼び出しでも受けたのか?」
「私は数学の質問をしに来ただけ。あ、もしかしてアンタも?」
「俺は一年でやる範囲は終えているから、訊くことなどない」
「それは失礼しました」能登が皮肉っぽい笑みを作った。
素直に褒めてくれても良いのではないか、と少し思う。いつもならそのままヒートアップしていくのだが、職員室前の廊下のためか珍しく能登があっさりと退いて、視線を陶冶の隣にいた伊奈波へと移した。一瞬でスリッパの色を確認し、すぐに視線を戻す。
「はじめまして、一年の能登媛香と申します。先輩は女子剣道部の方ですか?」
まるで可愛らしい良家のお嬢様のように、能登がぺこりと頭を下げた。相変わらず外面が良い。というか、これをやるなら最初に自分に突っかかる必要はなかったのでは。
「いんや、ボクは採集部。土曜日に三又を貸した縁があってね、ちょっと鍬形君を連れ回しているところなんだ」
「あら、そうでしたか」
「能登さんは、化石とか鉱物とか興味ない? 今から屋上にアンモナイトを見に行くんだよ。良かったら一緒にどう?」
「アンモナイトを?」
意味が分からないといった表情で、能登が言葉を繰り返す。状況が呑み込めていないらしい。
「ほら、大理石だとかに埋まっているやつだ」「屋上のは石灰石だってば」「今はどっちでも良いでしょうが」「いや大切だ。誤解を与えてはいけない」
マニア特有の妙なこだわりを、こんな時に発揮しないでもらいたい。
「えーっと、要するに屋上の鍵を借りに来たってことですよね」
「そういうこと。察しが良いねぇ、能登さん」
「でしたら、もう誰かが借りているはずですよ。ボードに鍵がなかったので」
「え、本当か」
「嘘つく必要ないでしょ、今さっき見たんだもの。あの鍵、真っ赤なプレートが付いているから、職員室で一瞬ボードを見た時にないなぁ、って思っただけ」
鍵のボードは職員室の廊下側の壁際に張られていて、鍵を借りる生徒はそれを取って自分の名前をノートに書き、近くにいる教諭に判子を貰って管理する仕組みだ。ボードに鍵がなければ、必然的に誰かが借りていることになる。
「中々の観察眼だ。その注意力、採集部に入れば役立つよぉ、きっと」
「勧誘を始めんでください」
「構わないさ。採集部が新入部員は採集できませんでした、なんてね、笑い話にもならない現実の前には小さなプライドなど無意味だ」
「アンタ、剣道部と兼部して採集部にも入ったの?」
「違う。別にそういうわけじゃない」
「酷いよ鍬形君! あんなにも情熱的なプレゼントまでしてくれたのに! ボクを
「ややこしくなるから黙っててください」
「ちぇー、いいじゃんか鍬形君、ちょっとぐらいさ。減るもんじゃないだろうに」
言いながら人差し指で背中や脇腹を突つくのは止めてほしい。上目遣いも、さりげなく密着させてくる身体も、全てはこのツアーが終わるまでに陶冶を兼部にまで持っていくための巧妙かつ強引な策略に思えてならない。実際そうなのだろうけれど。
「あ、そうだ。一応、誰が屋上の鍵を借りているのかだけ確認しませんか」
話を逸らすため咄嗟に出した提案だったが、意外にも伊奈波は真面目に受け止め「それもそうだね」と陶冶に絡みついていた腕を離した。
「じゃ、ちょいと見てくるよ。鍬形君、そこで待ってて」
「あ、はい」
伊奈波はスタスタと職員室まで歩き、中へと消えていく。テンションの落差というか、スイッチの切り替えがはっきりした人だ。僅かだが一緒に行動を共にして、徐々に伊奈波がどういう人格なのか分かりつつある。
取り残された陶冶と能登の間には、一瞬の沈黙が流れた。陶冶はてっきり、それじゃさようならと能登がすぐに去っていくものだとばかり思っていたので、なぜその場に留まっているのか理解できず、隣に立っている同級生への対応に窮した。
その一瞬の隙が、脇腹を襲った。
「うおぅっ」
くすぐったい衝撃に驚いて、変な声が出てしまった。反射的に距離を取ると、能登が脇腹を突いてきたのだと分かる。
「何をする」
「なんかデレデレしてたから」
「してないし、それは他人の脇腹をつつく理由にもなっていない。理不尽な暴力は断固反対だ」
「その言い方だと、理不尽でない暴力がどこかにあるみたいじゃない?」
なにか警句めいた反撃を喰らって、返す言葉が出なかった。いつもなら、やり込められるのは向こうなのに。やはり心の内のどこかで、デレデレしていた自分がいたという負い目が己を鈍らせているのだろうか。
「というか、もう用事は済んでるだろう。俺をつついているほど暇なのか?」
「アンタを突いたのは暇潰しよ。先輩の誘いを無視して帰るなんて失礼でしょうが」
そういえば屋上のアンモナイトを一緒に見ないかと誘っていた。返事をしていないということか。社交辞令のような誘いだろうに律儀なやつだ。それとも、屋上に憧れがあって機会があるなら入ってみたいだとか、そんな浅はかな理由ではあるまいな。
「お待たせー」
陶冶が自分を棚上げした非難を心の中で浮かべていると伊奈波が戻ってきた。職員室に向けた一礼はなく、後ろ手で扉が閉められる。
「バッドニュースだ。借りているのは粟津先生だった。自分の名前を書いて、自分の判子が押してあった」
「屋上の現地調査ですかね」
「分からないけど、そういうのは業者の人がやるはずだけどなぁ。写真を撮るとか、簡単な確認しにいったとか、そんなとこだろうけど」
「でも、粟津先生が屋上にいらっしゃるなら、今行って頼めば簡単に入れるんじゃないですか?」
能登が言った。伊奈波は露骨に渋い顔をしたが、言われてみればもっともだ。自分が私事で屋上を訪れているのに、部活動の一環で入りたいと申し出る生徒を無下には扱いにくいだろう。
「じゃあ行ってみようか。交渉は鍬形君に任せるよ」
「なんで俺なんですか」
「雑務は新入部員の仕事だから」
さりげなく名誉部員からスライドして入部した既成事実が作られようとしている。否定しようと陶冶が何か言おうとすると、能登が横やりを入れてきた。
「政治家の息子なんだから、そういうの得意でしょ」
「酷い偏見だぞ、それは」
多くの政治家が世襲するのは立場であって、その性質ではない。
「やらない善より、やる偽善。やる善であれば尚素晴らしい。人助けだよ鍬形君」
二人の女子生徒は言うだけ言って歩き始めた。いつの間にか能登が同行する流れになっている。イエスと答えたわけでもないのに。そして同じくいつの間にか、交渉は陶冶が行うものと決定している。イエスと答えたわけでもないのに。
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