02 アンフィスバエナ

「尻尾のない二頭の蛇?」


 伊奈波は言葉を反芻し、不思議そうに掌を見つめた。


「つまり、ボクの両手が蛇の頭だとすると、こう……」


 伊奈波は両方の手をパクパクと動かし、蛇の頭を作りながら肘をくっつけてみせた。可愛らしいポーズであるが、伊奈波の表情は真面目だった。


「こういう感じ? アンフィスバエナって……確か竜じゃなかったっけ? 何かの紋章で見た覚えがあるけど」

「検索しましたけど、色んな形で描かれてるみたいですよ」


 陶冶は尻ポケットから端末を取り出して画面を差し出した。昼休みに表示したページがそのまま残っている。最後に見たのは黄色と青のタイル模様で描かれた蛇が、Wの字を作って両端の頭から舌を伸ばす絵だ。伊奈波は端末を受け取って、解説ページをじっと眺めた。


「プリニウスの『博物誌』に登場する架空の蛇か。あの本さ、水晶のことを純粋な雪だとか氷の一種だとか、適当なこと書いてあるんだよね。眉唾しかない」

「プリニウスも批判を受けて、アンフィスバエナの頁はちゃんと書いたかもしれませんよ」

「残念だけど水晶の記述は『博物誌』の最終巻なんだ。まぁ架空の生物だから、正確さも何もないんだけど……そもそもアンフィスバエナ自体、あんまり聞かないなぁ」


 伊奈波が人差し指を動かして端末を捲っていく。


「知名度はないですよね。俺はネットでそう呼ばれているのを見て調べるまで、存在すら知りませんでした」

「翼があったり足が生えたり竜だったりで、安定しないな。ギリシア語で『両方』を意味する『アンフィス』と『行く』を意味する『バイネイン』に由来し、両方に進める意味を持つ……か。けど頭がそれぞれ反対に進んだら、結局どっちにも進めないよね」

「それより、教えてください」

「何を?」

「どうして俺たちが蛇を捜しているって分かったんですか」

「そりゃあ、ヒントが多かったからね。絞り込むのは容易だよ」


 伊奈波は陶冶に端末を返すと、くるりと回って実験机の上に飛ぶようにして腰掛けた。もう少しスカートを履いている事実に気を配って欲しい。そう思いながら陶冶は新しい段ボールに手を伸ばして、無理やり目線を落とした。


「まず、状況を整理しよう。剣道部の部長である滝沢君が、金曜日の昼休み、半年ぶりに私のところにやって来た。何やら急ぎで、採集部に三又があるなら土日の間に貸してくれという。園芸部にも当たっていた様子だったから、複数の三又を必要としているのが分かる」

「それは確かにそうです。でも、そこから蛇までどう繋がるんですか?」

「まぁ焦らないで。飛躍して見える推理も、分解すれば当たり前の推論の積み重ねなんだよ」


 伊奈波はいつの間にか手に取っていたバラ輝石をかざし、うっとりした表情で眺めながら滔々と続けた。


「滝沢君は剣道部の後輩に取りに行かせると言った。つまり、個人でなく剣道部が土日に集まって三又を振るうわけだ。新しいトレーニング法にしては斬新すぎるから、別の用途だろう。しかも、木曜日には存在しなかった何らかの事情でね」


 陶冶は道場で三又を素振りする自分を想像して、すぐに打ち消した。


「園芸部の分で足りない点から、複数の人間が三又を使うと分かる。そして『土日に貸してくれ』という判断から、その事情は一時的なものだ。継続的に必要ならホームセンターで買えばいい。けど、そこまでじゃない」

「なるほど。高校生が集まって、土日に片が付きそうな、降ってわいたような事情ですか」


 陶冶は感心しながらも段ボールの整理を続けた。やけに重いペットボトルが出てきて、よく見ると砂が詰まっている。砂金堀りでも試したのか? 絵筆、流木、アルミ板と次々に物が発掘されるものの、目的のパイロクスマンガンは見当たらない。


「では、その事情とは何か。青春真っ盛りの高校生たちが、三又を担いで貴重な休みに何をしようというのか。恋人とデートの一つでもすれば良いものを」

「後半は余計なお世話ですよ」


 剣道部部長の滝沢に、そして残念なことに陶冶にも仲睦まじい相手はいなかった。それもまた、陶冶たちが『事情』に参加した理由の一つには違いないが、人から言われると反発したくなる。反発したところで虚しいため、強く返せないのが哀しくはあった。


「三又で可能なのは、耕すか、掻き分けて捜す、の二通りだ。耕すのは、相当アクロバティックな理由が要る。親戚の農家に駆り出されたなら道具は先方が貸してくれるだろうし、もっと嫌々といった雰囲気になるはずだ。けど、滝沢君はどう見ても自主的に動いていた。三又を掻き集めていたようだから、大勢で何かを捜すんだろう」

「段々分かってきました。次は『三又で捜すに相応しいのは何か』と進めていくんですね」

「そう。そして捜索場所は海や河原じゃない。恐らく市街地でもない。まぁ我が県には元々海がないにしても、川や市街地の捜索に三又は不向きだ。掻きわけるのは草木だろう。捜索場所は山か、山沿い。であれば捜すのは動物だと予想できる」

「物体の可能性は?」

「三又を使うほど大きいなら、人を割かなくともどこで落としたか大体分かるよ。仮に人を割くほど大切なら、そんなものに誤って傷つけうる三又は使わせない。ある程度大きくて、多少雑に捜しても大丈夫で、場所が特定しにくくて、捜す意味がある何かと来れば、まぁ動物だろう。逃げ出したペットが妥当だ」


 手掛かりを積み上げて、思考の中でぐんぐん蛇に近付いていく。最初の印象では山猫のようだった伊奈波が、いまや陶冶の目には老獪な猫又に映っていた。


「だから、ペットとして飼われる動物で、山の草木に隠れやすく、逃げ出した時に皆で捜すようなのは何かと考えた。鳥類と魚類なら三又はありえないし、哺乳類は素早いから同じく不向きだ。爬虫類の可能性が高い。パッと思いつく候補はオオトカゲと蛇。この内、どっちが騒ぎになるかといえば蛇だろう? ニュースにもなりやすい」

「ああ、俺の質問もヒントになっていたんですか」

「そうとも、あの時点で蛇だと確信した。現実はもっと特殊な事情みたいだけど」


 外に跳ねた髪に触れながら伊奈波が言った。少し不満そうだ。推理の結論が、与えられた条件に含まれない情報によって完答にならなかったのが不服なのだろう。しかし、現実は概してアンフェアである。陶冶はどこから話すべきか考えながら、新しい段ボールから出てきたハンドスピナーを回した。


「一年に能登媛香のとひめかって女子がいまして、親が揖斐川からこっちまで、一帯の大地主なんです」


 陶冶は能登の顔を思い浮かべた。想像上の能登媛香はいつも眉間に皺が寄っていて、眼鏡の奥にある鋭い目で真っすぐこちらを睨んでいる。どうしたのか尋ねれば、誰のせいだと思っているの、と返される。険悪とまでは言えないが良好な関係とも言い難い。中学時代のイメージが更新されないまま今日に至っていた。


「能登の祖父母は趣味で農家をやっているんですが、畑を動物に荒らされて困っていたらしいんですよ。ただ、罠を置こうにも、猪か鹿か、狸かハクビシンか分からない。そこで、話を聞いた孫娘はカメラを仕掛けました。夜間でも映る赤外線カメラを」

「それはまた、随分ハイテクだね」

「情報処理部なんですよ、能登は」


 絶妙に説明にはなっていないが、説得力としてはそれで十分だった。陶冶は中学時代の能登がガジェットマニアだったことを知っているが、今もそうなのかは知らない。落ち着いたのか、悪化しているのか。この種の嗜好は『円熟した』とでも表現しておくのが無難である。


「結局畑を荒らした犯人は猪だったらしいんですけど、その時撮った映像の中に両頭の蛇が映っていたんです。それをSNSにアップしたら、思いのほか拡散されたようで……」

「なるほど、ツチノコ騒ぎみたいなものか。そういえば、あれも蛇だな」

「拡散されて、インフルエンサーが取り上げて、ネットのニュースサイトに載って、ネット上で取材の申込みが来て、遂には大垣のペットショップが懸賞金をかけた、というのが木曜までの出来事です。アンフィスバエナって呼び方は、ネットでいつの間にかそう呼ばれていました」

「つまり君たちは、懸賞金目当てか」伊奈波が呆れ顔で息を漏らした。

「半分は」陶冶は肩をすくめる。「でも、能登からの依頼でもあるんですよ。祖父母の畑や山が野次馬に荒らされる危険があったので、能登は取材でどこで撮影したのか答えなかったんです。県までは最初から公開してましたけど、具体的な場所を知っているのは、能登と能登が話をした周りの人間だけという状態ですね」

「捕まえてしまえば、騒ぎも収まって懸賞金も貰えて一石二鳥なわけだ」


 そうです、と陶冶は首肯した。アンフィスバエナと呼べば幻獣だが、実体は畸形の蛇でしかない。さっさと発見して祖父母の畑の平穏を取り戻したいという能登の気持ちは理解できる。


「ちなみに懸賞金はいくらだい?」

「ズバリ、生捕りで30万円」


 答えてから、三又のレンタル代として分け前をよこせと言われたらどうしようと不安になったが、伊奈波からは「ふうん」とつまらなそうな反応だけが返ってきた。


「興味なさそうですね」

「君ねぇ、ボクだってうら若き乙女だよ? 蛇なんて身震いしかしないさ」

「採集部なら、標本とか剥製とかお好きかと」

「こういうのはジャンルが細かいんだ。ボクは無機物専門。ボクを喜ばせたいなら、綺麗な石の一つでも取ってきてよ」

「蛇がすぐに見つかったら善処します」

「郡上の水晶山が近いから、探せば何か見つかるはずだ」


 体よく断ったつもりだったが、真っ当に返されてしまった。婉曲表現と知られた上で踏み抜かれると返答に困る。陶冶は作業に集中するフリをして聞かなかったことにした。真っ白な空のプラケースをどかして、段ボールの奥にあった黒い紙の箱に手をかける。


「あ」と声が出た。紙箱は黒い養生テープで補強され、ごわついた手触りと重さがあった。傾けた瞬間、オレンジ色の間延びした光を反射し、深い赤が輝く。陶冶がそれを綺麗だと思う間もなく「うっひょう!」と背後から歓喜の声が響き渡った。


「見つけたね、それだよそれ! うわぁああ良いなぁ、これ程に美しい赤が他にあるかい? ルビーとも辰砂しんしゃとも柘榴石ざくろいしとも鶏冠石けいかんせきとも違う、これこそがパイロクスマンガン鉱だよ。ひゃぁあ! もう! 大きくなったらパイロクスマンガンになりたい! 将来の夢!」


 伊奈波は興奮した様子で訳の分からないことを早口でまくし立てながら、陶冶の手から紙箱を奪った。両手で目線の高さに掲げ、破顔したかと思うと、急にそれが重さを増したかのように両手を維持したまま膝をついた。何かに供物を捧げるポーズのまま、パイロクスマンガン鉱をじっと見つめて動かない。


「あの、それじゃ見つけましたんで、三又はお借りしていきますね」

 陶冶は恐る恐る声をかけた。

「ああ、好きに使ってくれ」


 伊奈波はもはや陶冶に興味を失い、ひたすら夕日に輝く美しい鉱石を愛でていた。変な先輩だな、というのが陶冶の感想である。陶冶には、そこまで夢中になれる対象がない。それを思うと少しだけ羨ましい、ような気がした。

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