寂しい世界に2人きり 

小花衣いろは

寂しい世界に2人きり



 二つ年上の彼とは、私が高校一年生の時に付き合い始めた。

 入学式を終えた翌日、部活紹介でバスケをする彼の姿を見て、私は一目で恋に落ちてしまった。


 焦げ茶のくせっ毛は柔らかそうで、色素の薄いダークブラウンの瞳は透き通っていて、クールな外見とは裏腹に笑った顔はどこか幼く見えて。


 バスケ部にマネージャーとして入部して共に時間を過ごすうちに、見た目だけじゃない、彼の内面だって大好きになった。


 私がミスをして先輩マネージャーに怒られた日には、帰り道にこっそり肉まんを買って半分こしてくれた。優しく励ましてくれた。

 試合で接戦の末にウチの部が勝てて思わず泣いてしまった時には、笑いながら頭を撫でてくれた。

 テストの点数が悪くてへこんでいた時には、意地悪気な笑みで私を馬鹿にして、でも最後にはテストに出やすい範囲を教えてくれた。頑張ったらご褒美をあげる、だなんて言われて猛勉強したこと、今でも鮮明に憶えている。九十二点の答案用紙を見せたら私以上に喜んでくれて、帰り道にアイスを奢ってくれたっけ。


 そして、彼が卒業してしまう日。私は駄目元で想いを伝えた。


 そうしたら「俺もずっと好きだったよ」って――告白を受け入れてもらえたんだ。


 両想いだって分かった時、涙が出るくらい嬉しかった。今の私は世界一の幸せ者だって、そんな恥ずかしいことも公言できてしまうくらいには。

 そんなことを馬鹿正直に話したら、彼は「大袈裟だな」っておかしそうに笑っていたっけ。


 ――そう、彼はいつだって優しかった。



 あの日から、瞬く間に三年の月日が流れた。


 彼と同じ大学に入学した私は、高校を卒業したと同時に一人暮らしを始めることにした。それを話したら、彼の方から一緒に住まないかと提案してくれたから、私は嬉しくて二つ返事で了承した。


 そして同棲が始まってからも、変わらずに彼は優しかった。

 私が作った料理は何でも美味しいと言って喜んでくれたし、掃除や洗濯も率先して手伝ってくれた。抱きしめてくれるし、キスだってしてくれる。「好きだよ」って、想いだって言葉にして充分過ぎる程に伝えてくれる。


 ――だけど。同棲を始めてから、彼は浮気を繰り返すようになった。


 ううん、もしかしたら、それよりも前からしていたのかもしれない。


 彼が高校を卒業して一足先に大学生になってからは、お互いの予定が合った時にデートをするくらいで、プライベートな部分にそこまで干渉していたわけではないから。その真相は分からない。


 彼が綺麗な女の子と手を繋いで歩いている姿や、抱きしめ合っている姿。

 同じ大学に通っているのだから、学内でそんなことをしていれば嫌でも目に付くし、噂も耳にする。それに彼は整った顔立ちをしているから、何もしていなくても女の子が周りに集まってくる。

 彼が合コンに参加しているという話だって、噂で何度も耳にした。真意を確かめると、彼は決まって数合わせで呼ばれただけだって言っていた。だけど……それも本当のことなのかなんて、私には分からなかった。


 浮気がばれる度に、彼は私に謝った。

 「もうしないから」「これが最後だから」「お前だけだから」って。


 こんな風に言われてしまうと、私はどうしても彼を責めることができずに許してしまう。


「……もう、しないでね」


 ――この言葉を、何度彼に伝えたのだろうか。



 私はある時から、諦めていた。悟ってしまった。

 きっと彼は、私のことがそこまで好きではないのだろう、と。


 先に好きになったのは私。告白したのだって私からだ。同棲を提案してくれたのは彼からだったけど……家事をしてくれる人が欲しかっただけなのかもしれない。ただの、気紛れかもしれない。彼は優しいから、私の告白を無下にできなかっただけなのかもしれない。


 友人からは、そんな男とは早く別れた方がいいと再三言われてきた。

 だけど……これまで積み重ねてきた思い出を振り返れば、いつだって隣には、優しい彼がいる。


 彼の柔らかな笑顔を見ると、あの低い声を耳にすると――どうしても、彼から離れるという決断ができなかった。


 だけど、私は最近になって漸く決心することができた。


 もしまた彼が浮気したら、今度こそ別れを切り出そうと。いつまでもこんな関係を続けていたって、お互いの為にならないから。


 彼が「もうしない」と言ってくれた言葉を、私は信じたい。

 そう思って今日まで一緒にいたけれど。


 ――――終わりはいつだって、呆気ない。



 ***


 俺には、付き合って三年になる彼女がいる。高校生の時に出会った彼女と、まさかこんなにも長く続くだなんて思っていなかった。

 彼女と出会う前にも何度かお付き合いというものは経験していたけれど、精々続いても一か月程度だったから。


 俺は、自分が浮気性だということを自覚している。

 友人にも「その性格直さないといつか後悔するぞ」なんてよく言わわれていたけど、本気で好きな子なんてできたことがなかったので、大して気にしていなかった。


 だけど――彼女は違った。


 女の子なんて皆一緒で、俺の容姿だけを気に入って近付いてくる奴しかいないって。そう思ってたんだ。

 だけど彼女は、俺の外見だけじゃなく、中身まで全部受け入れた上で、好きだと言ってくれた。


 嬉しかった。大切にしたいと思った。

 だから、他の女の子と遊ぶのだって一切やめた。彼女と過ごす時間が幸せだったから。


 でも、彼女が大学に入学してから数週間後。

 二年間姿を見せなかった俺の“悪い本性”が、顔を出し始めたんだ。


 最初は、ほんの出来心だった。


 同じ学部の女の子と、ふざけて手を握り合った。それを偶然見ていた彼女がやきもちを妬く姿が可愛くて、つい同じことを繰り返してしまった。


 高校時代に俺が浮気をすると、大抵の女の子は怒るか泣くかして俺を非難した。

 だけど彼女は困ったように笑いながら、「もうしないでね」と言って許してくれる。そんな彼女の優しさに、俺は甘えていたんだ。


 もちろん罪悪感もあった。何でこんなことしてしまったんだろうって、自分を責めたりもした。だけど……彼女はきっと許してくれる。俺の側に居てくれる。そんな確信があった。

 それでも、彼女が俺から離れていってしまう一抹の不安は拭い切れなかったので、俺から同棲を提案したりした。自分でも最低だって分かっていたけど、そんな自分の姿から目を背け続けてきた。


 ――だから、とうとう罰が当たったのかもしれない。



 ***


 家に帰れば、彼女がいつも笑顔で出迎えてくれる。今日は特に予定もないと言っていたから、先に帰宅しているはずだ。

 だけど、飲み会を終えて帰宅すれば部屋は真っ暗で、彼女の姿はどこにも見えない。そして、洋服や鞄といった彼女の私物が幾らか減っていることが分かる。


 もう一度室内を見渡してみれば、テーブルの上に白い紙切れが一枚、ポツンと置いてあることに気づいた。


 震える手でそれを手にすれば、そこには彼女の筆跡が残されていて。


 ――俺の手から、ひらりと紙切れが滑り落ちた。




 “もうしない”って言葉、信じてたよ。――さようなら。




 彼女には、今日はサークルで飲み会があると伝えていた。

 だから帰りが遅くなる、と。


 俺は、彼女に嘘を吐いていた。本当はサークルで飲み会なんてなかった。同期の女の子に誘われて、二人きりで飲みに行っていたのだ。

 彼女は、どこでこの嘘に気付いたのだろうか。――いいや、もしかしたら、初めから俺の言葉なんて信じていなかったのかもしれない。当たり前だ。俺は、何度も何度も、彼女に嘘を吐いてきたのだから。


 ――目の前が真っ暗になるって、こういう時に使うのだろうか。

 自分が今どこに立っているのかさえ分からなくなりそうな感覚。何も考えられない。考えたくない。彼女だけは、何処にも行かないと。……離れていかないと。

 そう、勝手に思っていた。


 どれだけ可愛い女の子に想いを伝えられたって、キスを強請られたって。

 結局思い浮かぶのは彼女の顔だった。俺は彼女のことが堪らなく好きなんだと痛感させられた。


 自分がどれくらいの間、こうして立ち竦んでいたのかも分からない。

 ゆっくりと視線を持ち上げれば、彼女と一緒に買いに行ったアンティーク調の壁掛け時計が目に入った。時刻は深夜の三時を示している。


 ……今思うと、俺の帰宅がどんなに遅くても、彼女は眠たそうに目を擦りながらも必ず起きて待っていてくれた。俺を笑顔で出迎えてくれた。


 彼女との思い出が次々に溢れてくる。――彼女はいつだって、優しかった。


 その気持ちを俺は踏みにじって、たくさん傷つけてきたんだ。

 後悔に胸が押しつぶされそうになる。……痛い。苦しい。


 だけど彼女は、俺以上に、ずっと痛くて苦しい思いをしてきたんだろう。

 彼女を悲しませていると分かっていながら目を背け続けていた俺に、きっともう、彼女は――あの優しい笑顔を向けてはくれないだろう。


 ――今更後悔したって、遅いのかもしれない。だけど……。


 噛み締めた唇から血が滲むのを感じる。掌で勢いよく拭い去ってから、まだ暗闇に満ちたままの空の下へと飛び出した。



 ***


 大きなボストンバックを片手に橋の上でぼうっと佇む私は、周りからどんな風に見えているのだろうか。

 ……といっても、現在の時刻は早朝の五時半。周囲に人影は一切見られないので、視線を気にする必要はないのだけれど。


 置手紙を残して持てるだけの荷物を詰め込んでアパートを飛び出したはいいものの、行く当てなどない私は途方に暮れていた。友人の家にお邪魔しようかとも考えたけど、もう夜も遅い時間に連絡するのは憚られる。


 悩んだ末に、ひとまず私は二十四時間営業のファミレスで時間を潰していた。

 だけど珈琲を一杯しか注文しなかったのであまり長居するのも気が引けて、その後は当てもなく周辺を散策していた。


 ――こんな時間に一人で外にいるって知ったら、優しい彼のことだから、慌てて迎えにきてくれるだろうな。


 お別れしてきたはずなのに無意識に彼のことを思い出してしまって、小さくかぶりを振る。


 ……でも、最後に一度だけ。彼との思い出の場所に行ってみようか。それで、彼のことを想うのは最後にしよう。


 そう決めた私が向かった先が、この橋の上だ。

 この場所は、私と彼が付き合う前、初めて二人で花火を見た場所だった。


 一緒に花火を見に行こうと誘われて、張り切って浴衣を着ていったんだっけ。

 彼に可愛いと褒められて、嬉しかった。逸れるといけないからと手を繋いでくれて、ドキドキした。

 鮮明に思い出せる記憶は、どれもきらきらと眩くて、悲しいくらいに優しい。


 ――もう、あの頃に戻ることはできないのかな。


 自分で別れると決めたくせに、まだ未練たらしく彼を思う自分がいることに気づいて、呆れてしまいそうになる。浮気されて、嘘だってたくさん吐かれたっていうのに。でも、それでも……やっぱりまだ、彼のことが好きだなんて。


 物思いに耽っていた私は、背後から近付いてくる足音に気付けなかった。

 突然後ろから手を引かれて、思わず悲鳴を漏らしてしまう。だけど、そっと包まれた温もりに、直ぐに胸が苦しくなった。


「……何で此処に居るの?」


 静かに尋ねれば、小さく身体を揺らした彼は、抱きしめる腕に力を入れる。


「っ、ごめん。ごめん……」


 ひたすら謝罪の言葉を繰り返す彼。


 ――彼は、いつも飄々としていた。浮気して謝る時だって、眉尻を下げて手を合わせる程度だった。だから、ここまで切羽詰まった彼を見るのは初めてのことだ。


「もうしないって言葉……私、信じてたよ。信じたかったよ。だけどもう、無理だよ。……また裏切られるのが、怖いから」


 私を抱きしめたまま顔を上げない彼は、今何を考えているのだろう。視線を斜め下に向けてみても、その表情を窺うことはできない。だけど、右肩が薄っすらと湿っている感覚がする。……もしかして、泣いているのだろうか。


「っ、……いっぱい傷つけてきた。許されないことしてきたって、分かってるんだ。だけど……別れたくない」


 顔を上げた彼の瞳は――思った通り、涙に濡れていた。

 実際に男の人の涙を見るのなんて、初めてかもしれない。だけど顔の整っている彼は泣き顔すらも絵になっていて、何だか狡いな、なんて、場違いなことを頭の片隅で考えてしまう。


「みっともないって、分かってる。でも、好きなんだ。お前のことだけが好きなんだ。……っ、愛してる」


 そう言って、再び私を力強く抱きしめる彼。


 ――また、浮気されるかもしれない。また裏切られてしまうかもしれない。そんな考えは拭えない。


 それでも彼を許したいと思う私は、馬鹿なのかもしれない。もう一度だけ彼を信じたいと思う私は、本当に愚かでどうしようもないって……そんなこと、分かっている。だけど、縋りつく彼の腕を振りほどくことなんて、私にはできそうもない。


 ――寂しがり屋で、誰よりも孤独を恐れている彼を、やっぱり私は放っておけないらしい。



 どうせなら、このまま世界で二人きりになれたらいいのに。

 そうしたら、傷つくことなんて恐れずに、ただお互いだけを見つめ合って生きていけるのに。


 そんな馬鹿みたいなことを考えながら、震える手で私に縋りつく彼の背中に、そっと手を回した。


 朝日が照らし始める世界の片隅で、ただ溶けあうようにして、私たちは二人ぼっち、静かに抱きしめ合っていた。


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