第46話 女神様の誕生日

 星も見えない河原。キルリの足元にボロボロの少女が転がっている。全身を骨折し、出血し、体力もなく、このまま死にゆくだけの小さな存在が。


 彼は天を仰いで、雨を浴びながらステップを踏んでいた。


「面白い! めっちゃ面白い! こんな面白い記憶を氷漬けにしちゃってただなんて、勿体なさすぎる!!」


 言って、ふと気づいた。


 ——あれ。……そういえば、オレは、どうやってこの記憶に来たんだっけ。


 外に出るつもりでジャンプしてみる。——が、足がつく。記憶の外側に出れない。


「え?」


 腕をぶんぶんと振ってみるも、反応はない。


「能力の操作が……」

「ね……え……」


 そのとき、足元に転がる少女が何かを呟いた。


「ん? 何か喋って——」


 キルリが少女に目をやると、目が合った。


 ——目が……合った。


 キルリは驚きに目を見開いて、思わず飛び下がった。しかしまだ視線が切れない。


「えっ、もしかして見えて——」


 少女の口からぼそりと零れる。消えかけるろうそくの火のように、微かで揺れた、儚い声が。


「どう……して。たす、けて……くれないの」


 キルリは絶句した。


「なんども……なんど、も……。ずっと……」





**





 幼年キルリの一日が終わった。使用人に布団をかけられて就寝する。


 使用人が出ていくところまで見届けたエールは、頭痛のあまり、ベッドの傍の椅子に腰かけた。口元に手をやる。


「うっ」


 そして吐いた。


「は……あ。うっ」


 吐き足りなくて、自分の喉に指を突っ込んだ。僅かに残った胃液も吐き出す。


「あ――…………………………」


 思考が動き始める。


 ——キモい。


「キモい。キモいキモいキモい。キモいって。キモすぎる」


 ——何が家族だ。何が友達だ。何が先生だ。何が兄弟だ。


 鼻で笑った。ゆっくり、ゆっくりと口が開く。


「ああ、これが王様の人生なんだ。はは、こりゃあ随分と、勉強に、なった。道理で物乞いが無くならない訳だ。次元が違う。想像もつかないだろうな。明日食べるものにも困る人たちのことなんて。痩せた赤ちゃんを貸し合ってまで、施しを縋らなきゃあいけない人なんて」


 ゆっくりだけど、止まらない。


「こりゃあ殺したくなるよね。キルリなんて、死んじゃえばいいんだ。これほどの厚遇を受けながら、自分の命を粗末に扱うだなんて、罰当たりにも程があるよ。信じられない。ばからし。こんな、これほどの親愛を一身に受けていて、死にたがるなんて。その親愛のひと欠片すら、受けられずに死ぬ子供がたくさんいるっていうのに。こんなに恵まれていて、なお、欲張っちゃうんだ……あー、はは。ばか。ばかばか。ばかが。死ねよ。死ね。死ね。死ね」


 立ち上がって、椅子の背を掴む。


「死ね。死ねっ」


 思い切り、床に叩きつけた。何度も、何度も。


「死ねよっ。死んじゃえよ。死ねっ。死ねばいいんだ。死ね。死ね。死ね! 死んでよ!! 頼むから——死ね!!」


 椅子は木端微塵になった。エールは笑いながらへたり込む。


「あはは。バカみたい。バカだなあ、私」


 自分の頭をガリガリと掻く。


「こんなのにカケラでも好意を持っちゃってたんだ。くだんない。私なんかがキルリと釣り合う訳ないじゃん。こっちから願い下げだよ。生きてる世界が違うんだよ。なあ。死ねよ。私がばかだったんだよ。何を思い上がってたの? ドレスを着て、ご飯を履いて捨てるような会場に来て、自分が、お姫様になったと勘違いでもしてたの? どうしてそんなに思い上がれたのかな。ははは。もしかしたら? キルリと一緒になる未来を、一瞬でも、考えたよね? ねえ——」


 木片と吐しゃ物の散らばる床を殴って。


「考えたよね!! いろんな人に、そうなる可能性を心配されてさ! 考えちゃったんだ!! 心配されるほどだったんだよ!! それだけ、私は、盲目になってたんだ! 舞い上がっちゃってたんだ! 身の程も弁えずに! 乞食風情が!! 奴隷風情が!! この、人間未満の……害虫が!! 一体何を考えていたっていうの!!?」


 叫ぶ。


「私は!! 何を!! してるの!!?」


 血だらけの拳を床に打ち付ける。泣いた。悔しさに歯を食いしばって。


「うううう——」


 その彼女の背中に、ぴとりと抱き着いた存在がいる。


「……だいじょうぶ」

「…………」


 エールの肩を、子供を寝かすように撫でる。


「ゆっくり泣こう。そうしたらきっと気持ちも落ち着いていくから」

「……やめて」


 少年はゆっくりと、優しく語り掛けた。


「それで……もし、気分が向いたら、お姉さんのことを僕に話してくれたら、嬉しいな」

「……お願い、やめ、て。お願い……だから……」

「ううん。僕……お姉さんのお話、聞きたい」


 エールは耐えきれずに振り返った。涙でぐしゃぐしゃの彼女に、キルリは寝ぼけ眼をこすりながら微笑みかける。


「お名前、何ていうの?」

「わ……私は……!」


 エールはキルリに抱き着いた。


「エール。エール・アッカラ……!!」


 彼女を形作った心の故郷は、確かにそこに刻まれている。





**





 ぱたぱたと。


 河原には雨が降っている。真っ暗な、雨の夜。


「——やあ」

「——ええ。こんにちは」


 ズタボロの少女を挟んで相対する。白いワンピースを着た金髪のエールが、重い口を開いた。


「キルリ。あなた、相当酷い人、ね」


 キルリは言い繕おうかと一度考えたが、それが無理なことを悟ると逆に笑った。


「バレちゃったか」

「あなたの最近の記憶——今も、流れ込んできてる。ああ、本当に酷い人。全部分かってて、黙ってたんだ」


 キルリは間の伸びたため息をついた。しかし彼の表情は、僅かに微笑んでいるように見えた。


「……ここまでかあー」

「何が?」

「ほらだって、オレの過去を全て追ってきたのなら——」

「あなたを殺したくなってるはず、だって?」


 キルリの額に僅かに力が入る。


「そうじゃないとでも? あれほどのものを見せられて?」


 今度はエールが、下らないものを見たようにして、ハハッと笑った。


「面白い、言い方じゃん。自分の異常性を客観視できてるんだ。流石に努力の天才サマは違うね。でもそれもそうか。色んな人の記憶を見てきてるんだもんね。そして、誰も自分のことを分かってくれないって、悲観ぶってさ。結局キルリは、狂人ぶってるだけ」


「……」


 エールは難しい顔をして、脇を見た。


「確かに、一度は、殺してやりたいって……考えた。考えたよ。でも、きっとあなたの本質は……そうじゃない。根っこは悪い人じゃない、と、私はそう思う」


 二人の足元の少女は、そろそろ息を失うだろう。雨が体温を急速に奪っていく。


 エールは少女に目を向けた。当時の自分に寄り添うように、柔らかく微笑む。


「——私は、ずっと、助けを求めてたんだ。誰か助けてくださいって、心の中で、ずっと叫んでた」


 夜明けとともに、雨は次第に弱まり、雲も分かれていった。まるで雲が何者かを歓迎して道を開けたかのようだった。


「もちろん、私が助かったのは、偶然に過ぎない。でも、それは——」


 キルリは人の気配を受けて、エールの向こうに目を遣った。少年の声が近づいてくる。


「——ほら、やっぱり! こっちにまだ子供がいるよ! 司教様!」


 ぶかぶかの軍帽を被った少年は、エールをすり抜けて少女に駆け寄った。石の河原に膝をついて、河に半分浸かっていた少女の顔を抱え上げた。


 少女の朧げで暗かった視界に、突然に少年の顔が映った。彼は焦る顔でしかし、未明の朝焼けを背中に受けていた。


「大丈夫!? 生きて……ないか!? いや、肌色は悪くない!」


 少年は少女を寝かせると胸に手を合わせて心肺蘇生を始めた。


「頼む! こんな、せっかく見つかったんだ。死んだらもったいないだろ!」


 少年は反応のない少女に何度も唇を合わせる。


「はあ……はあ……!」

「……ご、ふっ」


 少女は水を吐いた。


「……!!」


 少年の顔がパッと明るくなる。


「やった! よくやった! よく生き返ったよ! 偉い!」

「わ……たし……」


 少年は再び少女の顔を抱き上げて、笑いかけた。彼女にとって、後光に差された彼の存在は——。


「私が助かったのは、助けを聞き届けてくれた人が、いたからなんだ」


 キルリはついに、エールがアノールに向ける感情の本質を理解した。その感情の大きさに比べれば、それからにじみ出る恋愛感情などは、あまりにもちゃちなものに過ぎない。


 ——「崇拝」……なのか。


「あなたも、私と、同じ」


 エールが指摘するのは、キルリが誰にだって見せたことのない本音。


「ずっと誰かに助けてもらいたかったんだ」


 息を飲むキルリに、エールはびしりと指差した。


「なら、私は、あなたを助けなきゃ、ならない。私も助けられたんだから」

「……フッ。ご自由にどうぞ、でもどうやって? 友達になってくれるの? 恋人になってくれるの?」

「……? らしくない、じゃん」


 エールは足元の少年と少女に目をやった。


「この光景を見たら、分かるでしょ」


 エールは指差していた手を胸元にやり、要領を得ないキルリに向けて、柔らかい微笑みを向けた。あまりにも自然で、いっそ不自然すぎるくらいに完全な微笑みを。


 それは絵画か彫刻が浮かべる類いの笑みだった。非現実的で、ミステリアスな。つい呼吸が止まる、超自然の気配。


 日の出は間違いなく彼女の背中を照らしていた。


「——私があなたの、〝神様〟になってあげる」


 キルリの全身の産毛が逆立つ。


「……〝神様〟」


 暗く凪いだ退屈の海に、一筋の陽光が差した。


「うん。宗教っていいものだよ。まあ私は……クレアム様じゃなくて、アノールを? 崇拝? してるわけだけど……。信じるだけで、生きる気力が湧いてくるから!」


「人が神を……名乗る? そんな、罰当たりな……」

「五神教って自殺を禁じてるじゃん! キルリなんてもう、バチ、当たりまくりでしょ!」

「は、はは。ははは。確かに、いや、そうなんだけどさ」


 ——神を、個人が名乗る、か。それは考えてなかった。思考の基礎に教えがこべりつきすぎていて、思いつく余地も無かった。


「そんなに、変なことなの?」

「変だよ。変だけど、それは確かに面白い。そうか、僕らの価値観なんて、そんなに簡単に変わるものなのか」


 キルリが指を鳴らすと、舞台が教会に変わった。


「?」


 続けて腕を横に振ると、既にあった神像が溶けて霧散する。


「では」


 きょとんとしたままのエールを前に、キルリは跪いた。


「エール様。洗礼の儀はいかがいたしましょうか」

「あ……そうだね」


 エールは膝を少し曲げると、キルリの額にキスをした。


「これでどう?」

「いいんじゃない? けっこう様になってる」

「ふふ。ありがとう。信者第一号さん」





**





 エールとキルリの視界は煌びやかなホールに戻ってきた。二人は手を合わせたまま、足を止めて見つめ合っている。


「さて、じゃあ暗殺を回避するために——」


 楽団の演奏はそろそろ一曲を終えようというところ。あとはクレッシェンドでメロディーを繰り返すパートのみ。


「うん。見つけなきゃ。ヨルノを」


 二人は同時に会場の周囲を見渡した。足を止めた二人を奇妙に思った参加者らの視線が二人に注がれている。


「いた!」

「えっ」


 先に見つけたのはキルリだった。エールも追ってそちらを見る。そこには確かにヨルノがいた。


 しかしエールの目線は当然その隣の人物に引かれる。ヨルノの隣に並んで立っているのは——。





 アノールは、二人が足を止めたのは自分のせいかと挙動不審になっている。その焦る様子を隣から覗き見て、ヨルノはクスッと笑った。


「ねえアノール」

「ん、ん? なに?」

「こっち向いて?」


 エールがアノールを見つけた瞬間。


「え? ん——」


 ヨルノはアノールが振り向くのに合わせ、その首に抱き着くと——。


 そっと唇を合わせた。


「——!?」


 緩く目を瞑るヨルノ。僅かに溜めてから唇を離した。首に回していた腕を解き、アノールの両手を取る。


「っ、ヨルノお前——」

「覚悟はいい?」

「え、や、よくな——」


 一つ息を整えて。僅かに頬を染めながら。しかし堂々と、真っ直ぐに。


「好きよ、アノール」


 ホールの光と音楽とは、今この瞬間、この二人に独占された。


 演奏はピークを終えて、静かにゆっくりと締めくくられた。あっけにとられたアノールの間抜けな顔を見て、ヨルノは無邪気に大きく口を開けて笑った。


「さあ逃げるぞアノール! ああっははははは!!」

「い、いや!? え!? おい、ちょっとヨルノ!?」


 アノールに自分の腕を組ませ、つったかたったと走り裏口から会場を出て行く。


 去り際の一瞬、エールにチラリと横目をやった。


 ——私の、勝ち。


 エールは能力を使おうとするがキルリに手を握られ止められる。


 ——いや、アイツ、ぶっ殺すんだけど。

 ——君が能力者だとバレたら後に響くかもしれないだろ! ホールを出るまでの辛抱だ! あと、殺したらダメだから!


 エールとキルリは手を繋いだまま、アノールたちを追ってホールの外に駆けて行った。


 遅れてきたオリーブとオニクスが呆気に取られている。


「な、何事、だ?」


 オニクスは首を回したが、近くにレオンの姿は無かった。





 廊下に出たエールとキルリの前に、フィオネとショットが立ちふさがった。それぞれトランプと短刀を構えている。


「エール、あなたまさか本当にやらかすとはね。依頼を放棄するというのなら——」

「あと一歩でも前に出るなら、殺す気でやるよ」


 イヴの二人の背後で、アノールとヨルノが廊下を曲がっていった。


 ドレスのエールとタキシードのキルリが構える。


「キルリ、こんなザコ二人、蹴散らすよ!」

「神に誓って。邪魔者には退いてもらおうか!」

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