第45話 命が無いからゴースト
——オレの人生は五歳で終わった。ガーレが頑なに選抜を受けるのを嫌がっているのが理解できなかったが、今となってはアイツの方が正しかったと言わざるを得ないだろう。
オレはそれまで、人間がいかに属性とレッテルで物事を評価しているのか知らなかった。そして、自分がいかにそれに恵まれた人間であるかも、知らなかったんだ。
「キルリおぼっちゃま。朝ですよ」
使用人がキルリの肩を揺らす。
——はあ、早く起きろよ。
ズキリ。酷く敵対的な感情がキルリの脳内に流れ込んできた。慌てて体を起こす。
「お、おぼっちゃま、どうなさいました?」
キルリは冷や汗をだくだくと浮かべながら、俯いて答えた。とても使用人の顔は見れなかった。
「あ……うん。起きるよ」
着替えて食堂へ向かうと、珍しく両親が座っていた。
「お父様! どうかなさったのですか?」
父親は微笑みかけて、隣の席を差し示した。
「たまには君たちと一緒に食べようと思ってね。ほら、座りなさい」
「はい!」
呆然と眺めていたエールの胸の内に、暖かい感情が湧き上がってくる。
「この、感情……なに?」
キルリは喜んで両親の間に座った。
「キルリ、このあいだのことを教えてくれるか?」
「?」
母親がキルリの手を取った。
「きっと、大学の先生を呼んでお話を聞いたときの話です」
「そう、それだ」
「あ、はい! それでしたら……」
——まったく、ませた子になってしまったわ。また知識自慢を聞かされるのかしら。選抜も受かったし、キルリが王位を後継するのは間違いないみたいね……はあ。
ズキリ。エールの胸中にも、キルリと同様の痛みと困惑が湧き上がる。
「……あー、あれですか。すみません、無理言って頼んだのに、あまり話が分からなくて。オリーブの方が分かっていたみたいで。自分の不勉強さを突きつけられました」
「まあ。そうだったのですか? それは残念でしたね」
母親の手の平越しに喜ばしい感情が伝わってくる。
「……そうか。励めよ、キルリ」
父親が彼の肩を叩けば——。
——期待していたんだがな。キルリなら私より優秀な王になれると。
ズキリ。
「あっ……一応、オリーブの解説があれば、僕も理解できましたよ、お父様」
「ん? そうか。それなら良かった。兄弟で支え合っていくんだぞ」
エールは自分の胸に手を置きながら、無言で少年キルリのことを眺めていた。
朝食を食べ終えて、キルリは家庭教師の下へ向かう。途中、オリーブとすれ違った。
「あ、オリーブ! おはよ!」
「……ああ、キルリ兄さん。おはよう」
すれ違いざま、ふと肩がぶつかる。
「あっ、ごめんっ」
「ごめんキルリ兄さん、こっちこそ……」
——僕の方が優秀なのに、少し早く生まれて能力を授かっただけで、お父様とお母様と一緒に朝食を食べるなんて。
ズキリ。
キルリが頭痛によろめいたのに、オリーブが駆け寄った。しかしキルリはオリーブの手を避けるようにして、慌てて何歩か下がった。
「兄さん? どうかした?」
「あっ……いや、えっと……オリーブ。お母様は……お父様に呼ばれなければ……オリーブとご飯を食べたかった、と、思うよ」
「……? なんの気休め? お兄様の方が優秀なんだから、当然でしょ」
「あ……うん……」
「じゃ」
家庭教師が背中越しに間違いを指摘する。
「ここはこうですよ、キルリ様」
——いやー、王子様相手なら一日教えるだけで、凄まじい高給だな!
「あ、あの……聞きたいんですが、僕は……優秀な人間でしょうか」
「え? どうしたんですかキルリ様。当然です。その立場に見合った優秀さでございます!」
「僕に勉強を教えられて、嬉しいですか?」
「当然ですよ!」
——君より優秀で前途ある子供は他にもいるけどね。それこそオリーブ様とか。
「あ、あはは。そうですよね、すみません変なことを聞いて」
一日を終えて、夜。キルリは枕を持ってガーレイドの部屋へ向かった。ガーレイドは、ベッドに座って恋物語を読んでいた。
「ガーレイド……」
「え、キルリお兄様!? ど……どうしたの、一人じゃ眠れなかったの?」
キルリは憔悴している様子だった。頬には涙の痕がある。
「ガーレイド、僕と、重なってくれない?」
「……はえ?」
キルリはベッドに寄ると、ガーレイドを押し倒した。
「ごめん」
キルリはガーレイドに覆いかぶさって、そのまま重なった。この唇の触れ合った一瞬が、ガーレイドの運命のファーストキス。
両者の記憶と感情が相互に流入する。
「お、お兄様。これは……」
「よかった。ガーレイドは僕のこと、見てくれてる……」
キルリは涙に笑いながら、そのまま、眠りに落ちた。
エールの頭に、キルリの能力の詳細までもが流れ込んできた。
「じゃあ、私が見ているこれも……流入してきた、キルリの記憶」
呆気にとられたままキルリの背中の辺りを撫でるガーレイド。
「キルリは、初めは……期待に応えようとしていたんだ」
——けれど、どこかで……やってられなく、なったの?
**
——物心ついたとき、私は裏路地にいた。常に空腹だった。周りの人もみなそうだった。
親のような人がいた。血管の浮いた年老いた腕。私は物心つくまでのしばらく、その人に生かされていたらしい。なぜなら物心ついたとき既に、私はその人に対して信頼を寄せていたからだ。無条件に、一番信頼できる人はこの人なのだと思っていた。話すのも億劫なほど空腹だったから、確かめたことはなかったけれど。
私は空腹のあまりいつも体に力が入らず、その人に引きずられないと動けなかった。その人は、そんな私のために、物乞いで得たパンを一欠片分けて、口に入れてくれた。鳥の餌付けみたいな無茶な動作だったけど。でも、私はその人に、本当に心の底から感謝していたんだ。
私は気付いたときにはその人の元を離れていた。後で分かったことだが、私は売られたようだった。
物乞いは赤ん坊を抱いている方が施しを受けやすい。私は、その効果に期待した物乞いの間で貸し借りされる——貸し子だったのだ。でも、私が大きくなって、通行人の憐みを掻き立てる効果が薄くなってきた。だからその人は、私を奴隷商に売った。もしくは、マフィアとかに取り上げられたのかもしれないけど。いや、多分、売ったんだろうな。きっとそう。
私の住処はそれから倉庫になった。屋根があったけれど、それでもそこは、どうやら裏路地より寒いようだった。周りの子供たちと身を寄せ合って夜を凌いだ。顎を震わすあまり歯が擦り減った。昼になると農園のようなところで延々と果実の世話をし、夜になると狭い倉庫に詰められ鍵をかけられた。
比較的背の高い子は、大人の夜の慰み者としても働かされていた。そういった子はすぐにダメになる。一人また一人といなくなっていった。
ついに私に出番が回ってきた。いつの間にか年長者になっていた。しかし私は、覆いかぶさってきた男の頭に、石の灰皿を振ったんだ。
男が怯む。エールはすかさずもう一度振ろうとした。しかしその灰皿は、男の腕で無理やり弾き飛ばされてしまった。
逆上した男はエールに馬乗りになり、その顔に拳を振り下ろした。何度も何度も。それだけでは飽き足らず、壁に投げつけてからは、しつこく身体を蹴りつけた。
エールは散々の暴力を受けた後、夜の森に捨てられた。
「わーお……」
キルリが指を鳴らして止める。
「こりゃ、接触恐怖症にもなるわけだ」
指を横に振れば時間が巻き戻って、エールが部屋に連れて来られたところまで場面が戻った。
「はあ。すごい経験してるじゃないかエール。こんな純正の恐怖、初めて味わったよ。ちょっと、もう一回見せてくれよ? もっとその感情を味わわせてくれ」
キルリはまだ、能力の異常に気付いていない。
**
スクールの木の下で。
「そんな、キルリ、なんで……」
「飽きた」
少年期のキルリ。彼はガーレイドのことを振った。
「な……そんな! ねえ、何がダメだったの!? ボク、キルリのことを分かろうとしたよ? 足りなかったなら、もっと頑張るよ! ねえ——」
「そういうの、いいよ。ガーレが頑張れば頑張るほど、絶対にオレの気持ちなんて分かりやしないってことが、オレには分かるんだ。身に染みてね」
「それは——」
「もう、ガーレの人間としての底は見えたんだよ。だから飽きた。ガーレだけじゃないけどね。みんな、みんな分かり切っちゃったよ」
キルリは鼻で笑った。それは誰かを嘲笑っているようだった。
「オリーブより優秀になったって、お母様はオレよりオリーブのことが好きだった」
ガーレイドに見えなかった去り際のキルリの目元には、涙が浮かんでいた。
「分かってたのにな」
エールにとって、キルリの母親への想いは理解しがたいものだった。
「なんで、分かってたのに、頑張っちゃったんだろ。無駄なこと……」
翌朝、王城の中庭の池で浮かんでいるキルリが発見された。
「うそ、キルリ……」
エールは愕然とした。その惨状にではなく、流れ込んできたキルリの感情に。
「死の苦しみを、本当に心の底から、楽しんでいたって言うの?」
報せを受けたガーレイドとオリーブが焦ってキルリの部屋に行けば、二人の心配をよそに、キルリはケロリとしていた。二人に笑いかける。
「いやあ、死ねなかったよ。精霊体の自殺って難しいな」
うっと涙を浮かべるガーレイド。オリーブはガーレイドの表情を見て、キルリを睨み、その胸ぐらを掴みに行った。
「お……お前!! 誰にどれだけ思われてるのか分かってないのか!! お前の肩に背負っている期待と重責を、理解してないのか!!?」
「あ……初めて、一致した」
「……は?」
「そして、オレの価値の十割を占めているのがそれだってのも、理解した。もうずっと前から分かってたけど」
「なに……言ってんだ。年頃みたいなことを言ってるんじゃねえ! お前は普通の人間じゃないんだ! この国を継ぐ人間なんだぞ!? 期待されて当然だろ!!」
「ああ、気持ちい……そのグサグサした感情が、凄く気持ちいよ」
「……キルリ。本当にどうしたんだ?」
「オリーブ。みんながオレに期待するなら、オレもお前らに期待していいか?」
オリーブとガーレイドに、微笑みかける。
「オレに死んでほしくないって言うなら、お前らがオレを楽しませてくれ」
それから二人は工夫を凝らしてキルリのために努めた。それは、二人がキルリの重責について誰よりも理解していたからだった。
ガーレイドは歳の近い女子をキルリにあてがった。
「飽きた」
オリーブは知的好奇心を刺激しようとした。
「飽きた」
二人はあらゆる手段を用いてキルリを楽しませようとした。承認欲求や自己実現も完璧に演出する。しかし彼は第一王子だ。あらゆる欲求は既に満たされていた。彼の能力が、それの飽きを加速させていたのだ。
だからキルリは自殺を止めない。
餓死。失血死。焼死。窒息死。転落死。溺死。凍死。
ついにオリーブがキルリにナイフを向けた。壁際に追い詰める。
「いい加減にしろキルリ。ガーレイドがどれだけ心を砕いてお前に尽くしているのか分からないのか。お前はそれだけの人でなしだったのか」
オリーブの鬼の形相を前にして、キルリは——笑った。
「面白い」
「……は?」
キルリはオリーブの足を払ってナイフを退け、そのまま右手首を取ると、瞬く間に床に押さえつけた。
「惜しかったじゃん! 今のは面白かったぜ!」
笑顔で笑うキルリを見て、オリーブは言葉を失った。
——狂ってる。
**
キルリは固唾を飲んで、エールの強姦未遂のシーンを何度も繰り返し鑑賞していた。暴力に骨を折られ血を流す、幼い少女。その凄惨な光景は、キルリとって、麻薬のように魅力的なものだった。なにせ、その少女の痛みと感情を体感できるのだから。
「凄い、凄い、凄すぎる」
夜。辺りは右も左も分からない森の中。ホーホーと鳥が鳴く。暴力の限りを尽くされたエールは、最後、そんな森の中に、無造作に投げ捨てられた。
微かな声で——。
「た、す……け……て」
エールは何度もうわごとのように呟いていた。彼女がなんとか身を動かそうと藻掻いていると、斜面に出て転げ落ちた。
川沿いに落ちる。しかし骨が折れて動けない。水があるばかりに長く命が持ち、彼女は長く苦しみ続けた。
キルリは天を仰いだ。
「なんていい人生を送ってるんだ、エール」
**
エールはキルリの記憶を閲覧しているうちに、気分が悪くなっていった。しかしそれは、キルリの常軌を逸した行動が原因ではない。
「この……感情」
エールは記憶を巡った末に、キルリが選抜を受ける以前、ずっと幼かったころの記憶に流れ着いていた。幼年キルリの一日を追っていく。
「……これが、『親愛』だというの? じゃあ、私の、は……」
勉強、運動、娯楽。いずれにも家族の庇護があり、信頼のおける友人がおり、競い合える兄弟もいて、キルリは満たされていた。
時間があり、余裕があり、侵犯されない自分のテリトリーもある。
「この感情を、産まれた頃から感じていられる人がいるの? それが、ふつうなの?」
ぬるい風が常に吹いていた。輪郭がはっきりとして、世界は揺るがない。エールはこの感覚に浸されて、次第に頭が痛くなってきたのだ。
「はは。こんないい人生を、送れる人がいるんだ」
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