どうか、幸せになってほしい

「お疲れ様です」

「これは私がやるので大丈夫ですよ」

「良かったら一緒にお昼食べません?」


 同僚だった彼女に恋したのは、出会った瞬間だった。

一目惚れという括りの中に入れてもいいけれど、徐々に心を奪われていった部分もある。

迷いながらも結局、始まりは最初からということにした。

出会ってすぐに恋して、彼女の明るさや僕に話しかけてくれる優しさに、さらに好きなった。

 僕の中で、誰かとの出会いについて、ここまで詳細に記憶を残したいと思ったのは初めてだった。

出会いやきっかけを頭の中で整理するほどに。


 同期入社であり、同い年の彼女は、仕事外でも僕に敬語を使った。

嫌われているのか不安だったが、 


「大学に入った時から、誰に対しても敬語の方が気が楽なんです」


と言うから、彼女の言うことを信じた。

もちろん距離は感じたが、他の人にも敬語を使っているのを見ると、安心した。

ちなみに、


「さすがに両親と祖父母に敬語は、使いませんけど」


と彼女は付け加えた。

 この発言に嘘はないのか。

そう思い返すのは、彼女に恋人がいることが分かった時。

両親と祖父母以外にも敬語を使わない人がいるのでは?と。


 大人数が参加する飲み会で、彼女の恋人の存在が発覚。

ショックを必死に隠す僕だったが、僕の前に座る十歳年上の独身の上司もショックを受けているようだった。

 確かに彼女は、誰にでも平等に接し、気遣いについては完璧すぎたから好かれるのも分かる。

同性からの人気もある。


 そうして、なぜか一番ショックだったのが、彼女の恋人が彼女の同級生で、初恋の相手だということ。

それ以上彼女は語りたがらなかったから、人の良い彼女に誰もそれ以上質問を繰り返さなかった。


 僕の初恋はおそらく、幼稚園の先生だろう。

でもそれは本当に初恋と名付けて良いのか、今になっては分からない。

 それよりも、高校で初めて付き合った人を初恋と呼ぶ方がまだしっくりくる気がした。

思いを伝え、思いが返ってきた相手だから。

愛を言葉にして、情けない姿も見せた相手だから。

今、恋愛しているぞ!と心の底から力が湧いたから。

それこそが僕にとって恋と呼ぶ価値があり、僕らしい恋愛の仕方だった。


 それなのに僕は、愛を言葉に出来ない相手を好きになってしまった。

恋人のいる女性に恋をする。

初恋の相手と幸せに過ごしている女性を、愛しく見つめる。

溢れる言葉を全て飲み込むこと。

今まで経験した恋とは違う、知らない気持ちに出会った。



 ある日、彼女が元気なく出勤した。

その元気のなさは、おそらく僕だけが気付けるものだろう。


「おはようございます」


 そう言う彼女の声のトーンは普段と同じで、笑顔も同じ。

僕は彼女の纏う、隠しきれない切なさを感じ取った。

彼女はいつもよりスマホを気にしていたし、気にした分、一生懸命働いた。


 もどかしい。

言葉にできない愛は本当にもどかしい。

言えないということを愛しく思ったり、楽しんだりするのは僕の性に合わない。

でも僕は、知らない気持ちに出会ってしまったから、言葉にしないと決めている。

これは、これまでと違う恋。

どこか特別な恋だと気付いていた。



 そんな僕にも出来ることはある。

僕の性に合っていて、思いを隠したまま出来ること。


 退勤時間になっても、予想通り彼女はすぐには席を立たなかった。

上司や同僚が退勤していき、残りがもう数人となったタイミングで僕は彼女に声を掛けた。


「良かったら、飲みに行きませんか?」


少し驚きながらも、どこか嬉しそうに見える彼女。

近くに他の同僚がいないのを確認してから、


「そうですね。行きましょう」


と優しく微笑む。

 やっぱり、恋人と何かあったのは間違いないだろう。

もちろん僕は彼女と恋人の関係を引き裂こうなんて考えてはいない。

彼女も単純に、切ない気持ちを抱えたまま一人の家に帰りたくなかったのだろう。

話し相手が欲しいのか、もしくはお酒を一緒に飲む相手が欲しかっただけだ。



 二人で居酒屋に入る。

彼女が決めた店だった。


「お疲れ様です」


「お疲れ」


彼女は敬語で、僕はタメ口。

ビールのジョッキで乾杯した。


 意外だったのが、彼女は話し相手を求めていた訳ではなさそう、ということだ。

彼女は僕の話を聞きたがった。

きっと、誰かの話を聞きたかったのだ。


「夜ご飯はいつもどうしているんですか?」

「テレビは観ますか?」

「好きな映画はなんですか?」

「朝起きるの大変じゃないですか?」


 僕は彼女の質問に答え、彼女に同じ質問を返そうとしたけれど、そうする前に彼女は新たな質問をするのだった。

いつもの彼女のように、僕の話に相槌を打っていた。


 ただ、彼女は少しずつ完璧な彼女であることを忘れていく。

僕ではなくても、その表情から切なさを読み取ることができるほどに。

だけど、良い人であるのは変わらず、酔っているわけでもない気がした。

 質問の流れで、


「どうしていつも私のこと観察してるんですか?」


と聞いてきそうで少しドキッとした。

それほど彼女は僕に質問を繰り返した。


 僕について聞かれるのは、もちろん悪い気はしない。

馬鹿な男なら舞い上がってしまい、自らアピールするように話し続けただろう。

僕はこの特別な恋に対する冷静な感情をいつも抱いていたから、そんな愚かな真似はしなかった。

冷静な感情がなければ、言葉にできない愛が溢れてしまうから。

だから彼女に対して、


「何かあった?」


なんて愚かな質問もしなかった。

彼女は彼女で、


「実は彼氏と...」


なんて、悩みを簡単に打ち明ける人間じゃないと、僕はようやく気付く。

悩みを打ち明けられるのを、少し期待していた自分が嫌になった。


 ただ、どうか。

切なく悲しい表情をしないでほしい。

僕は秘めた思いを抱え、今日も家路に着かなくてはならないのだ。

だから、幸せでいてほしい。



「そろそろ帰ろうか?」


僕がそう言うと彼女は


「はい。楽しかったです。ありがとうございました」


と、僕にしか切なさが分からない程度の表情に戻り、答えた。


 それでいい。

僕との今日の時間が無駄ではなかったと思いたい。

誰かに少しだけ隙を見せたことで、ちょっとずつ元気になってほしい。

できれば明日、無理なら今週中、もっと先でもいいから、元の彼女に戻ればいい。

僕にさえ切なさが分からないほどに。

初恋の相手と付き合っていることを恥ずかしそうに、どこか嬉しそうに話した彼女に。

期待と不安を抱え入社した日、僕の不安を消してしまった笑顔の彼女に。


 これは僕にとって初めての種類の、特別な恋だから、初恋と名付けようと思う。

この恋は、言葉にならずに、僕の心に残り続けるから。




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二度と読めない小説、二度と聴けない音楽 あおなゆみ @kouteitakurou

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