第25話  ルッキオ、記憶を失くす〈後編〉

 次の日の朝礼で、ルッキオが落馬して頭を打ち、記憶喪失になったことはアーフェン王子の側近、イスゥから随行メンバーに申し送りされた。


「習慣とか、身体からだで覚えたものは忘れたわけではないようで、生活に支障はありません。ただ、みなさんの名前は忘れています。その前提で、ルッキオ王子には接してください」


 はじめからルッキオが、みなの名前を覚えていないことは知らない。


 馬車に乗り込むとき、ルッキオは「ぼく付きの従者のナーソーさんでしたよね、よろしくお願いします」、ひかえているナーソーに、ていねいにお辞儀した。

「よろしく。御者さん、えーと」御者台に座っているヨアヒムにも声をかける。

「パンニーニです。王子」

 ヨアヒムは、にこやかに返した。


「うん。覚えたよ。御者のパンニーニくん、よろしくね」

 ルッキオもほほえみながら、馬車に乗り込んだところ、馬車の床を占領しているカメのラピスにつまづきかけた。それで、思い切り身体からだをねじって、席に倒れ込んだ。

「何、これ、カメ? 何で、カメ⁉」


爬虫綱はちゅうこうリクガメ科リクガメ属に分類されるカメのうち、ガラパパゴス諸島産の複数種です」

 ナーソーが説明をはじめた。


「ガラパパゴスゾウガメ種群です。最大甲長こうちょう135センチメートルというのが、過去の文献に記録があります。縁甲板えんこういた後縁こうえんは弱くとがり、全身は灰褐色や暗褐色や黒。吻端ふんたん(目と目の間)やアゴ、ノドが黄褐色になる個体も。吻端ふんたんは突出せず、鼻孔びこうは円形と、王室字引の〈ウキウキぺディア〉に書いてありますよ」


「それ、知ってる」

 ルッキオは頭を押さえた。思い出せそうで思い出せない。

「それで、なぜカメが馬車に乗ってるの——。なんか、これも聞いたような気がする」


「ですね。甥から預かったカメなのです。置いていくわけにいきませんでしたから、同行しております。魔人の方々にはテストゥドゥとして愛されております。ちなみにルッキオ王子には、いっさいなついておりません」


「このカメが馬車の床に陣取っていると、ぼく、つま先立ちになって座ってなきゃならないんだけど」


「それも以前、お話しました。ラピスの甲羅にハンカチを敷いて足をのせるということにしております。あ、ラピスというのがカメの名前です」


「うん。聞いたような気がする。ラピス、よろしくね。足は靴を履いたまま乗せても? 靴を脱いでは急に暴漢に襲われた場合、おくれを取る」


「それも、話しましたね。小国の庶子の王子を誰が狙うと。さらわれた場合の身代金は、いかばかりかと」

「一千マンエンくらいかな」

 ルッキオは即答した。

「……王子、記憶を失くしたら自身の価値が爆上がりしていますが」

「そうなの? ぼくって記憶を失くす前は、どんな子だったの」


「丈夫な体を持ち、欲にかき、決して下手に怒らず、いつも静かに笑っておいででした。あらゆることを勘定に入れ、よく見聞きし長いものに巻かれ、そして自分への雑言は忘れない。東に二日酔いの男あれば行って背中をさすってやり、西に疲れた母あれば行って、その小麦の袋を代わりに持ってやり、南にバンジージャンプできない人あれば行って、こわがらなくてもいいと言い、北に二番煎じのアニメがあれば、つまらないからやめろと言う。そういう男子ではなかったでしょうか」

 ナーソーは、妄想と主観を交えた。


「とにかく、サーシェルと魔王国アラスタンの友好のために、ぼくはここにいるらしい。誠心誠意、その役目を果たすことにするよ」


 ルッキオにしてみれば、何もかも忘れているというのは困った事態だが、まわりの人たちが、みなやさしく、どうにかなる気がした。忘れているのはルッキオ自身の記憶であって、円周率は千の桁まで思い出せたし、生活習慣は覚えている。



 ゆっくりと馬車が動き出した。

 ケルンテン辺境伯をはじめとする、領の皆が笑顔で見送ってくれていた。特にケルンテン伯は「わたしはおまえを息子だと思っている。いつでも帰っておいで」とルッキオに大きく手を振った。


「ありがとう。みんな。忘れないよ」

 ルッキオも感謝の気持ちを胸に、馬車の窓から笑顔で手を振った。

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