14 バイシクル

 翌日も早乙女はやっぱり学校に来なかった。

 あのヘンな女も、虫取り網も、隣にいないというのは意外とさみしいものだ。


 この感情は一体何だろう?

 飼っていた犬が突然亡くなり、もうアイツのウンコを拾うことはないんだな……と、ふと思う空虚感に似ている。


 四時間目の授業は桜庭先生で、相変わらずのどかな声で古典の授業を続けていた。

 オレは教科書を見つめながら、ぶっちゃけものすごく飽きていた。

 教壇に立つオッサン教師の姿をボーッと眺める。


 そういえば……こないだ桜庭先生が古木の下で話をしていた男性、あれは結局誰だったんだろう?

 オレ、あの人、どっかで見たことあったんだよな……。

 そんなことを考えながら、オレはなんとなく視線を外に向ける。


 そして背筋に走ったエレクトリック・サンダーとともに――オレは「ゑ……」と息を止めた。


 窓の向こう。

 三階から見える風景。


 すぐそこの宙を…… 一頭のバカでかい蝶がヒラヒラと飛んでいるのが見えた。

 オレンジの下地に黒の模様が入った羽を動かしながら、ピンク色の鱗粉を撒き散らしている。

 ゆっくりと下降していくのが見えた。


「う、宇多田課長……」


 思わずそう呟くと、クラスの誰かが「誰だよ、それ」と絶妙なタイミングでツッコミを入れてくる。

 教室内が一気に笑いに包まれた。


「い、いや、ごめん。そ、そうじゃなくて……」


 オレはなんとか取り繕おうとする。

 急に緊張感を失った教室で、桜庭先生が窓辺にもたれ、困ったようにため息をついた。


「なぁ、水口。授業中に独り言を呟くのはやめてくれないか。今、ここ、ものすごく切ない場面なんだぞ? みんなが爆笑するようなとこじゃ――」


 呆れ顔の桜庭先生が、そう校舎の下に視線を向ける。

 次の瞬間、彼は何故かオレと同じように「え……」と目を見開いた。


「あ、芦川あしかわ先生……」


 そう呟いた桜庭先生は、あきらかにオレ以上に動揺していた。

 えっと……あの、桜庭先生?

 先生はもしかして、うたかた蝶が見えるんですか?

 あれ、フツーの人には見えないらしいんですけど。


 っていうか、芦川先生って――誰?


「キ、キミたち! 自習にします! 先生は急用です! 外します!」


 血相を変えた桜庭先生がものすごい勢いで教室を飛び出していく。

 教室内は騒然となり、ざわつきが止まらなくなった。


 だがオレにとって、これは好都合だ。

 ポケットからスマホを取り出し、電源を入れ、早乙女に電話をかける。


 うたかた蝶を見つけた!

 早乙女!

 うたかた蝶を見つけたぞ!


『へい! お電話ありがとうございます! 来々軒らいらいけんです!』


「すいません! 間違えました! ごめんなさい!」


 奥歯を噛み締めながら電話を切り、オレは桜庭先生と同様、一気に教室を飛び出していく。

 一階までの階段を全力で駆け下りた。


 あ・の・ク・ソ・お・ん・な……。

 この番号、私のケータイ番号だって言ったじゃないか!


 それが来々軒って何だ?

 出前用のケータイ番号か?

 騙しやがったな、アイツ!

 素直に来々軒の電話番号をスマホに登録したオレの立場は一体どうなる!


 一階に到着し、オレは廊下を走る。

 早乙女が一生懸命探していたうたかた蝶。


 あれを捕まえれば、早乙女はもうゆっくりできる。

 授業にだって戻れる。

 オレの席の隣に座る。


 校舎を出た。


 前を見ると――何故かその先を爆走していたのは桜庭先生だった。

 フォームは必死だが、やはり中年、動きが無駄に豪快なだけだ。

 あまりスピードが出ていない。

 それどころか、彼はすでに完全に息が切れていた。


「桜庭先生!」


 とっくに力尽きているような桜庭先生の横にオレは並ぶ。

 先生はアゴを突き上げたまま、死にそうな顔でこちらを見た。


「み、水口……じ、自習は……自習はどうした……」


「先生はもしかして、うたかた蝶を追ってるんですか?」


「な、な、何だ、そ、それは……うたかた……」


 桜庭先生はうたかた蝶を知らない?


「じゃあ、先生はなんで今ここを爆走してるんです?」


「あ、あれだ! あの人だ!」


 もはや走っているのか転んでいるのかわからないヘロヘロになった桜庭先生がなんとか前方を指差す。


 そこには、一人の女性の後ろ姿があった。

 手に――赤いヒモを持っている。

 犬の散歩用リード。

 彼女はまるで犬といっしょに走っているかのように、ヒモを地面に引き摺っていた。


 オレの心の中で、入学式の日のあの老女が少女のようにクスクスと笑う。


『私はね、以前鶯岬高校で教師をやっていたの』


「あれって、もしかして……デンパ塔にいた……」


 オレが言うと、桜庭先生は驚愕の表情をこちらに向ける。

 すでに心停止してるような顔だった。


「あ、あの人を知っているのか……」


「は、はい! 元鶯岬高校の先生ですよね?」


「あの人は、芦川先生は……私の恩師だ……今ではちょっと認知症になっていらっしゃるが……私の……私の大切な……恩師なんだ!」


「桜庭先生の……恩師? じゃあ、こないだ木の下で話していた男性は?」


「何だ……幸人ゆきとのことまで……知っているのか……」


 あの日の国道から、この間桜庭先生と話していた中年男性が『母さん!』と手を振ってくる。


「話したことは無いですけど、芦川先生の息子さん、ですよね?」


「そうだ……幸人はずっと芦川先生の面倒をみている……私の、同級生だ……芦川先生はこの鶯岬高校を愛してらっしゃった……だから退職されてご病気になられてからも……いつもこの先の灯台に赴かれて……」


「でもなんでそんな認知症の方が、あんなとこを走ってるんですか!」


「数日前……芦川先生は突然施設を抜け出し……行方不明になられたんだ……幸人も警察も……必死になって探し、て、た……」


「だ、だから追ってるってわけですね!」


「み、水口……すまない……私は、もうダメだ……芦川先生……芦川先生を……なんとか……保護してくれ……」


 そう言って、桜庭先生がその場に倒れる。

 マジで死んだかと思った。

 立ち止まり、オレは彼に声をかける。


「桜庭先生! だ、大丈夫ですか?」


「わ、私は、大丈夫だ……頼む、水口! 芦川先生……芦川先生を!」


「わかりました!」


 オレは桜庭先生を残し、再びその場をダッシュする。

 芦川先生の姿はさっきより遠くなっていた。

 さすが激動の昭和を生き抜いたガンコ者世代。

 いくら年老いても脚力はさすがだ。


 しかし――芦川先生は一体どこに行くんだろう?

 彼女の走る先を見ると、そこには例のバカでかい蝶が飛んでいた。


 芦川先生はうたかた蝶を追っている?

 いや、うたかた蝶は――もしかして芦川先生に幻を見せているのか?

 

『この蝶が羽ばたく時、蝶の羽から落ちてきた鱗粉が人間の脳を刺激し、吸い込んだ者のかつての記憶を目の前に映し出す』


 だとしたら……ヤバい……。

 うたかた蝶に幻を見せられた者は、それ以外の周りの風景がまったく見えなくなる。

 それはただでさえ認知症を患っている芦川先生には、より危険なことだった。


 この方向……芦川先生たちが向かっているのは、おそらく鶯岬デンパ塔だ。

 だとすれば――とりあえず芦川先生は大丈夫だろう。

 あそこには中に侵入できないフェンスがある。

 しかしその場合、オレはどちらを優先するべきなのだろう?


 芦川先生の保護か?

 うたかた蝶の捕獲か?

 

 しかし……く、くそ……これは、もう……ダメかもしれない……。

 芦川先生は老人なのに、ものすごく足が速い……。

 うたかた蝶に見せられている想い出の恍惚に、彼女自身も肉体の限界までハイになっているのだろうか?


 彼女との距離が、さっきまでより開いていた。

 横腹が痛くなってくる……。

 オレの限界も……近い……。


「水口!」


 その時――いきなりオレの前方に虫取り網を持った早乙女が飛び出してきた。

 何故か自転車に乗っている。

 制服のスカートから伸びる長い足がやたらとセクシーだったが、ヤツの美しい顔面は相変わらず性根が腐りきっていた。


「さ、早乙女! お前、なんで?」


「とりあえず、乗って!」


 そう叫んだ早乙女が、自転車後部の荷台に移動する。

 オレはそれに従って、前部のサドルに跨るしかない。

 条件反射で思いっきりペダルを踏み込んだ。


「なんでオレが漕ぐ側なんだよ!」


「なんで女が漕がなきゃいけないの!」


「男女平等だろ! お前ら女はいつもそう言ってるじゃねぇか!」


「脚力と座高は、アナタの方が上でしょ!」


「二人乗りは禁止だぞ!」


「まだギリギリ校内! 非常時! 標識なし! 大丈夫! なはず!」


「了解!」


 オレはサドルから腰を浮かせ、さらに強くペダルを踏み込む。

 もはや競輪選手のようなマシーンと化していた。


 さすが自転車、足で走るのとはまったくワケが違う。

 スピードが次から次へと景色を分け入っていく。

 早乙女はオレの背中に必死になってしがみついていた。

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