7 便所コオロギ

 翌朝学校に行くと、ゲタ箱のあたりは騒々しい人々でごった返していた。

 それは新一年生たちで、皆新しい環境に慣れようと新しい触れ合いを始めている。

 そんな中、オレは靴を履き替え、三階にある一年生の教室に向かう。


 階段を上り二階までたどり着くと、そこでまた人だかりができているのが見えた。

 昨日と同じように、今度は二階の階段付近に人が集まっている。


「何だ? どうした?」


 そう呟いてふと上を見ると、二階と三階の踊り場のあたりに――昨日見たあのデカい蝶がヒラヒラと飛んでいるのが見えた。


 相変わらず非現実的でやたらビッグサイズだ。

 オレンジの下地に黒の模様。

 蝶が羽ばたくたびに、ピンク色の鱗粉がこぼれ落ちる。


「いたんだよ! 本当に! 妹がここにいたんだ!」


 二階の階下に倒れている男子生徒がそう叫ぶ。

 人だかりの隙間から覗くと、彼は押さえた額からわずかに血を流していた。


 これは確実に昨日と同じ救急車案件だ。

 おまけに今度は頭を打っている。


 その男子生徒が、仲間に両脇を支えられヨロヨロと保健室に運ばれていく。

 歩きながらも彼は何度も階段を振り返り、次から次へと溢れ出る涙を拭っていた。


「ホントだ! ホントなんだよ! 妹が! 妹がここにいたんだ!」


「嶺二、気のせいだよ。だって妹さんは一昨年……」


「そうじゃない! ホントにホントなんだ! いたんだよ、妹が! オレの目の前に! 『お兄ちゃん』って、オレのことを呼んだ! 笑ってた! 笑ってたんだよ!」


 半狂乱の男子生徒をなだめながら、彼らは階段を下りていく。

 昨日入学式を終えてから二回目の救急車騒ぎ。

 この鶯岬高校ではこのドタバタ感がフツーなんだろうか?


「なんだか今日も大変みたいだね」


 突然、オレの隣で誰かが言った。

 そちらに顔を向けると、そこにはいつの間にか彼女が立っていた。


「さ、早乙女先輩」


「おはよう、水口くん」


「お、おはようございます」


「歩きながら話そ」


 早乙女先輩が階段を上がりはじめるので、オレもそれに続く。

 さっきのデカい蝶はいつの間にか姿を消していた。

 あの蝶は一体どこに行ったんだ?


 しかし……オレの隣を歩く早乙女先輩は、とても綺麗だった。

 昨日のふざけた幼稚園児コスプレではなく、フツーの制服姿。


 彼女が美少女であることは昨日の段階からわかってはいた。

 だが、オレは完全に間違っていた。


 彼女はまぎれもなく美少女だったが、実際はそれ以上、とんでもない美少女だった。

 これまでにただの一度も見たことがないレベルの。


「昨日、そして今日――二人の生徒が階段から転落した。昨日は一階、今日は二階。ねぇ、水口くん。次は何階から落ちると思う?」


 早乙女先輩がサラッと訊いてくる。

 オレは少し考えたが、やはりフツーに答えるしかなかった。


「順当に考えると、次は三階から転落ってとこでしょうか」


「だよね」


 早乙女先輩が足を止める。

 三階に到着した。

 彼女は階段の前で立ち止まり、静かに上を見上げていた。

 彼女にならって、オレもそこにある薄闇を見つめる。


 三階の上には、陽の当たらない静かな空間がある。

 三階まではオレたちの新しい日常の世界だ。


 だがここから上は、誰も立ち入れないような不気味な空間が広がっていた。

 屋上まで通じる暗いドアが見える。


「でも一番ヤバいのは……四人目の犠牲者が屋上から落っこちそうなとこだよね」


「え……」


 早乙女先輩のその言葉に、オレは息を止める。

 そんなオレに微笑みながら、彼女は歩みを再開した。


「ねぇ、もしかしたらキミ――何か不思議に思ってることがあるんじゃない?」


「不思議に思ってること、ですか?」


「そ」


「いえ。特に何も思い当たりませんけど……」


 オレはさっき見たあのバカでかい蝶のことを早乙女先輩に話すかどうか迷った。

 確かにオレはさっきまたあの蝶を見かけ、ちょっと不思議に思った。

 なにしろオレは、アイツを昨日の事故直後も見かけ、さっきの事故直後も見かけているのだ。


 でもあんな蝶を見かけたからといって、それが一体何だというのだろう?

 蝶なんてどこにでもいる。


 鶯岬は田舎だし、おまけに今は春だ。

 どこに蝶がいても、まったく不思議ではない。

 まぁ、あれだけデカい蝶は、なかなかいないだろうけど……。


 オレの隣を歩く早乙女先輩は、なんとも整った横顔で前だけを見ていた。

 オレは……やっぱりそれを彼女に告げることにする。


「あの、昨日、いっしょに蝶を見たじゃないですか? あの、デカい蝶です。あれをさっき、また見ました。二階と三階の踊り場付近です」


「すごいね、キミ。やっぱり思った通りだ。昨日はたまたま見えたわけじゃないんだね」


 そう言いながら、早乙女先輩が一年一組の教室に入っていく。

 当たり前のような顔で、オレの席の隣に座った。


 突然教室に入ってきた先輩。

 しかも絶世の美少女。

 教室中の視線がオレたちに集中する。


「キミ、アレ、一体何だと思う?」


「あの蝶、ですか?」


「そう」


「デカい蝶、不思議な蝶、ですかね」


「まんまだよね、それ。デカいワカメ、不思議なワカメでもいける」


「すいません」


「私はアレ、今回の連続転落事故に何か関係があるんじゃないかと思ってるんだ」


「多額の保険金の次は、一体どんなサスペンスなんでしょう?」


「そうじゃない。私はね、むしろあの蝶が生徒たちを転落させてるんじゃないかと睨んでる」


「それは……一体どういう意味でしょうか?」


「そのまんまの意味だよ。だからこのままじゃあ、もしかしたら今日中に三人目の犠牲者が出るかもしれない」


「三人目の犠牲者が……」


「そう。そうならないために、いよいよ私たちの出番ってわけ」


「その、私たちとは?」


「民俗学研究部」


「いや、ちょっと待ってください。オレはホント、民俗学研究部に入るつもりはまったくないんです。昨日言いましたよね? オレは運動部に入る予定で――」


 オレが最後まで言い終わらないうちに、早乙女先輩が制服のポケットから一枚の紙を取り出す。

 それはまるで逮捕状のように、オレの目の前で開かれた。


「キミの入部届は昨日付けで受け取ってるわ。ついさっき先生に受理された。学校側に残っているのは、より本物っぽいコピー。たった今退部届を提出したとしても、部長である私は絶対にそれを受け取らない」


 信じられない彼女の言葉に、オレは寄り目気味に差し出された入部届を凝視する。


 一年一組。水口十日夜。


 たしかに……たしかにこれは……オレの字だった……。

 だがもちろんオレはこんなものを書いた覚えがない。

 じゃあ、一体何故こんなものが……。


 その時、オレは昨日の鶯岬デンパ塔での出来事を思い出した。

 強い海風が早乙女先輩の青いスモックと紺色のミニスカートを揺らす。

 まるで何かのデザイン画みたいに彼女の長い髪が美しい曲線を描いた。


『ごめーん! よく聞こえなーい! ちょっとここに書いて!』


「ま、まさか……アナタはオレの筆跡が欲しいがために、昨日鶯岬デンパ塔に……」


「のちのち問題になった時のためだよ。だからキミの筆跡が必要だった。今は、ほら、学校も色々とボンクラ関係にうるさいし」


「コンプラです」


「おまけに今年の学年主任はどうやら脳筋らしいからね。筆跡とプロテインとバナナさえ与えておけば、あのオッサンは何も言わない」


「……」


「部活動に必要なのは部員数。それを手にするためなら、私はどんだけ冴えない便所コオロギみたいな男にでも愛想よくコーヒーを振る舞うわ」


「オ、オレ? オレですか? オレ、便所コオロギ?」


「そんなわけでキミはすでに民俗学研究部の一員だよ。言っておくけど、兼部は絶対に認めないから。運動がしたいなら、毎日運動場を二十周してから部室に来なさい」


「こ、こんなの無効ですよ! 無効! オレはこんなの書いてないです! って、うわぁ……何ですか、これ……すっごい緻密……まるでマジな手書きみたいに、まったく違和感が無い……」


「フフ……それを捏造するために、あれから一体どれだけ苦労したと思ってんの?」


「い、今! 今、捏造って言いましたよね!」


「言ってない」


「こんなものを捏造する情熱を、どこか別のところで使おうとは思わないんですか!」


「まぁ、なんにせよ、今日の放課後、鶯岬デンパ塔に来なさい。今後のことを話し合いましょう」


「いや、だから、なんでオレが民俗学研究部なんかに――」


 その時、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。

 オレと早乙女先輩のやり取りに戸惑いまくっていたクラスメイトたちが慌てて席についていく。

 オレは頭を抱えながら、隣の早乙女先輩に言った。


「とりあえず……この件については、あとでゆっくり話し合いましょう。その捏造された入部届についても、その脳筋先生に相談すればまだ何とかなるはずです」


「さて、それはどうかな?」


「そろそろ先生がやってきますよ。早乙女先輩もご自分の教室に戻ってください」


「ご自分の教室? 何それ?」


「何それ、じゃないでしょう。そういえば早乙女先輩って、結局何年なんですか? 二年ですか? 三年ですか?」


 その質問に、早乙女先輩は答えなかった。

 だが教室に入ってきた桜庭先生が、彼女の代わりに答えてくれる。


「おぉ、みんなきちんと席に付いとるなぁ。いやぁ、感心感心。ん? おぉ! 今日は早乙女くんも来てるのか! 早乙女くん、キミ、昨日はどうした? 先生たち全員、キミが入学式に姿を見せないからとても心配してたんだぞ?」


「お、お、同じ歳かよ!」


 勢いよく席を立ち上がり、オレは涼しい顔で先生に手を振る早乙女にツッコむ。

 そんなオレに、先生とクラスメイトたちはあっ気にとられていた。

 当の早乙女本人は「やれやれ」といった感じで、小さくため息をつく。


「いや、もぉ、そういうのいいから。とっとと座りなさいよ、水口。みっともない」


 すでに――呼び捨てだった。

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