1 犬を探さなきゃいけないから
「風が強いな……」
目の前に広がる海を見つめながら、オレ・
エンドレスな波音。
はるか彼方まで続く青い空。
海面が朝の光をキラキラと反射させている。
四月の風は、やはりまだ冷たい。
網目の向こう、欄干に挟まれた細くて長い坂道。
その先に、二つの建物が並んでいる。
一つは、古民家のような和式家屋だった。
平屋のようだが、建物自体の高さはけっこうある。
昭和の田舎の分校みたいな、ちょっと貧乏くさいルックスだ。
その隣に見えるのが、オレが気になっていた建物だった。
岬の先端。
なんだか控え目に建っている、塔のような何か。
あれは一体何なのだろう?
全高は約十メートルといったところだろうか?
ヴィンテージなランタンみたいなカタチをしている。
オレがこの鶯岬
アパートから見たこの町の風景の中で、一番気になっていたものが、今、目の前にある。
なのにオレは、その奇妙な建物に近づくことができなかった。
間に張られたフェンスがオレの行く手を阻んでいる。
あれは一体何のためにあそこに存在するのだろう?
見たところ灯台のようだが、あんなに古くてボロい灯台が、はたして現代で機能するのだろうか?
「アナタ、鶯岬デンパ塔が好きなの?」
不意に、誰かが後ろから声をかけてくる。
振り向くと、いつの間にかオレの後ろに一人の老女が立っていた。
八十歳くらいだろうか?
完全にお婆ちゃんだが、その顔には品性と清潔感がまだ残っている。
「いえ、あの、オレ、この町に引っ越してきたばっかで、その、あの建物を見つけて、ちょっと気になって……」
「そうね。気になるかもね。ちょっとヘンなカタチをしてるものね」
「でもあれ、電波塔なんですか? ってことは、あれはその、何か電波を発しているとか?」
「ううん。電波は発してないわ。鶯岬デンパ塔は通称。つまりあだ名ね。正式な名前は、鶯岬灯台」
「鶯岬灯台……じゃ、やっぱ元々は灯台なんですね」
「そう」
「でもどうして灯台がデンパ塔なんていうあだ名に?」
「昔はね、あそこに鶯岬高校の生徒がよく集まっていたのよ。そしてそこでは色々と不思議なことが起こった」
「不思議なこと……」
「だからいつの頃からか、あそこはデンパ塔って呼ばれるようになったの。あの塔がなにか怪電波でも発して、不思議なものを呼び寄せてるんじゃないかってね」
そう言って、老女がクスクスと笑う。
お婆ちゃんなのに、少女のような笑い方だった。
「アナタは鶯岬高校の生徒さん? もしかして新一年生?」
「あ、はい。そうです」
「だったらそろそろ入学式が始まるんじゃない? 時間、大丈夫?」
「あ……そういえば、そろそろヤバいかもです」
「私はね、以前鶯岬高校で教師をやっていたの」
「あ、そうなんです? 先生様だったんですね」
「そう。退職してもう何年になるかなぁ? 私は昔からこの場所が好きでね。教師をやめてからも、たまにこうして鶯岬デンパ塔を見に来るの。ここ、とても素敵な場所でしょう?」
「はい。とても」
「じゃあ、私もそろそろ行くわ。犬を探さなきゃいけないから」
老女が手に持った赤いヒモをオレに見せる。
先端にフックがついた犬用のリードだった。
どうやら彼女は犬の散歩中だったらしい。
「鶯岬はとても素晴らしい町よ。だからきっとアナタがここで過ごす三年間も素晴らしいものになると思う。勉強に、恋に、人生に、しっかりと頑張ってね。想い出はいつだって、アナタの心が帰る場所になるんだから」
「あ、はい」
「またね。入学式から遅刻すると、先生に怒られちゃうわよ」
老女が微笑み、オレは「失礼します」とその場から歩き出す。
学校までの坂道を上がりながら振り返ると、老女は金網の前でオレに向かって手を振っていた。
オレはそれに会釈を返す。
なんだかよくわからないが、これがオレの新生活の始まりだった。
坂道を登りきって学校の敷地内に入ると、満開の桜たちがオレを迎えてくれる。
真新しい制服。
どこか生真面目な顔つきの新一年生たち。
その隣を歩く、保護者たちの正装。
オレには親なんかいないけど、まぁ、とりあえず未来はあった。
坂の下に見える鶯岬デンパ塔を眺めながら、オレは小さく頷く。
今日からの三年間――オレはここで、勉強に、恋に、人生に、しっかりと頑張っていこう。
そして三年後、ここから立ち去る時は、もっともっと立派で大人な自分に成長していよう。
そう思った。
だが人生のそのような決意は、往々にして途中から無かったことになる。
初心を貫くのはとても難しい。
そう。
あの女に出会った瞬間、オレの人生はなんだかおかしな方向に進みはじめた。
オレが求める高校生活が、まったくの逆ベクトルに路線変更してしまったのだ。
神は何故、オレとあのクソ女を出会わせたのか?
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