In Only Four Days

紐米育

In Only Four Days

 香炉に線香を置き、手を合わせる。そうして形式的なお墓参りの動作を終えた後に、僕は語りかける。

 この一年はどこに行って何を見たのか。

 誰に出会ってどんな話をしたのか。

 あの夏と同じように、僕が話して彼女が笑う。その光景を思い返すように。

 もちろんこのお墓には彼女だけじゃなくて彼女の両親も入っているわけだから、親にしてみればなんだこのうるさい男は、なんて思われているかもしれない。

 僕は苦笑する。うるさくてごめんなさい、ただ、少しだけ大目に見てもらえないでしょうか。

 彼女と会えたのも四日間だけ。それに僕らは普通なら出会うことのなかった二人だったのですから――。



「昔の家解体すっから物ォ運ぶの手伝ってくんねェか」

 母方のじいちゃんから連絡が来たのが高校三年生の夏休み、お盆を目前にした時期だった。

 聞けば、祖父母が昔住んでいた家が長野県のとある山間の村にあるのだが、もう訪れる事も少ないからと解体に踏み込んだらしい。その前段階として、家財などの搬出に人手が必要という話だった。

 正直受験に対する重圧に少し心がやられていた部分があって、親と相談したうえで五日間だけ行くことにした。それでも結構な休暇だ。

 勉強の傍ら、三日後の出発に向けて荷物の準備をしながらその日を待った。小さいころから知らない場所へ行くのが好きな性分だったこともあって、今回の話も実は嬉しい誘いだったのだ。おかげでその日までの時間は驚くほど長く感じた。


 じいちゃんの運転する車に乗ってからおよそ四時間、車の窓に緑ばかりが映るようになってしばらく走ったところが目的地だった。降りると一軒の、それこそ古民家としか形容できない平屋。庭に僕の背くらいの灯篭が一つ立っているのが特徴的だった。

「この家? 二人が住んでた家って」

「ええ、そうよ」 

 助手席から降りてきたばあちゃんが答える。

「ちなみに私達だけじゃなくて、美紀も小さいころ住んでたわ」

「母さんも?」

「小学校に上がる前までだけれどね」

 ばあちゃんが昔を懐かしむ目つきになる。僕の近しい人の全く知らない話、どうにも妙な心地がした。

「さ、家へ上がりましょ」


「したらまず居間からだな。彰人あきと、この箪笥手伝ってくれや」

「了解」

 軽いものはそれぞれで、重いものはじいちゃんと一緒に、という流れで、家の中にある家具なんかを前庭に出していく。時折用途の分からないものが出てくるから、何に使ったものかを聞いたりなども。昔の暮らしを知ろう、なんて小学校の頃の授業を思い出した。

 ところで僕は運動が趣味ではない人間なので、午後三時を超えたあたりで暑さと疲労によってこの体は一旦の限界を迎えた。ばあちゃんの出してくれた麦茶を飲みながら、少し村を歩いてきていいかと尋ねる。「迷わないようにね」とばあちゃんが言うだけで止められはしなかったから、少し休憩してから僕は村の散策を始めた。


 典型的な山間の村、といった様相だった。村全体が勾配の途中に位置しているので、坂道が多くその中途に斜面を平たく削った土地を設けてそこに家が建つ。僕が普段住んでいるのは平野部の、いわゆるベッドタウンである。それゆえ高層建築が無く遠くまで見通せる環境は実に非日常的な感覚だった。

 歩き回っているとごく稀に住民とすれ違った。あそこの家の親族です、と告げると納得したようにそれぞれの生活に戻っていく。ただ彼らの反応を見るに、本当に若者のいない土地のようだった。

 坂道をだいぶ登って村の端、これ以上行くと山の中に入っていってしまいそうだったので引き返そうとしたとき、僕は自分の目を疑うものに出会った。僕が通ってきた道の少し先に、おそらく同世代くらいの、一人の少女がいた。腰まで緑の黒髪が流れ、着ているワンピースは純白。その可憐さと物語じみた光景に一瞬眩暈を覚えた。

 この村でまさか同世代に出会うとは思っていなかった上に、しかも唐突に視界に入って来たものだから、僕は反射的に声をかけていた。

「あの、」

 すいません、なんて続けようとしたけど、言葉にならなかった。

 彼女が一歩ずつ歩いてくる。その顔を見た時、それこそあるべき段階を全部すっ飛ばして、僕はその少女に恋をした。言い訳のしようもなく一目惚れだった。

「こんにちは」

「あ、どうも」

「この村の人――ではないよね、君」

「ええ、はい。少し下ったところの家に住んでた者の親族です」

「そこらへんって言うと、お庭に灯篭がある家かな」

「はい、その家……よくご存じですね」

 少し驚いた。確かに灯篭は特徴的ではあったが、特別大きな家でもなかったからだ。

「小さい村だからね。自然と覚えちゃうの」

「そういうものなんですね」

「それよりお名前は? あなたの」

「園原……園原彰人そのはらあきとです」

「彰人君ね。私は綾、戸倉綾とくらあや。17歳だよ」

「戸倉さん。覚えました。……同い年だってことも。この村にお住まいで?」

「同い年なら敬語もいらないよ。うん、生まれも育ちも。学校は行ってたんだけど、病気が続いちゃってね。今もこの村で療養中なの」

「それは……」

 彼女のような境遇の人にかける言葉が思いつかずに言葉が切れる。

「ああ、うつるような病気じゃないから大丈夫だよ」

「いや、そういう心配じゃなくて、戸倉さんは大丈夫なの?」

「うん、そんなずっと寝たきりになるような病気じゃないから」

「それならよかった――とも言えないよね。浅はかだった。ごめん」

「謝らないで。……よかったら、少し歩こうよ。若い人なんて久しぶりだし、色々話してみたいしさ」

 戸倉さんが歩き出す。その様を見る限り、彼女が病気に罹っているとは思えなかった。

「おーい、彰人君も来ようよー」

「今行くー」

 遅れた分、数歩だけ戸倉さんに駆け寄る。彼女の隣に居られるという幸運に、僕の胸は高鳴っていた。


 かれこれ二時間くらい、実際は時間など気にせずに歩いていた。気がつくと日が傾き始めている。

「僕はそろそろ……家のほうに祖父母もいるからさ」

「うん、私もそろそろ帰らないと。今日は楽しかったよ」

「こちらこそ、家のほうまで一緒に行こうか?」

「ううん、大丈夫。彰人君も遅くならないようにね」

「了解……あのさ、明日も会えないかな」

「……うん、いいよ。私も彰人君の話もっと聞いてみたいし。あそこの下まで来てくれる?」

「あの目立つ木のところでいい?」

「うん。あの木」

「わかった。今日と同じくらいの時間に行くよ」

「ありがと。それじゃあ、また明日ね」

「うん、また明日」

 僕は坂道を下り、戸倉さんは反対に上っていった。烏がカァと短く鳴き、振り返ると戸倉さんの姿は見えなくなっていた。


「ただいま」

 庭で作業をしていたじいちゃんに声をかける。すると

「おーい、彰人戻って来たぞ」

 とじいちゃんがばあちゃんを呼んだ。暫くして庭に出てくる。

「ああ、アキちゃん。随分と長かったから心配したわよ」

「ごめん、普段来ないところだから色々見て回ってたら時間経ってた」

「無事なら大丈夫よ。さ、少し早いけどご飯にしましょ。清二さんもほら」

 ばあちゃんが僕とじいちゃんを家に導く。解体が間近に迫れども、まだ家にはガスも通っていた。おかげで夕飯や入浴にも苦労しなかったので存外いい生活だな、と油断していたら、母屋から離れたぼっとん便所にはしてやられることになった。実にとりとめもない余談である。


 翌日の午後三時過ぎに昨日約束した場所へ向かうと、既に戸倉さんが木に背をあずけながら座っていた。僕に気づくと手を振ってくる。

「ごめん、待たせたかな」

「ううん、大丈夫」

「そしたら今日はどうする? どっかに行くとか」

「んー、とりあえず座ろうよ。彰人君も色々疲れてるでしょ? ここなら涼しいよ」

「正直ね。隣、いい?」

「どうぞ」

 戸倉さんが少し腰を浮かし、ちょうど陰になっている部分を半分ほど開けてくれる。腰を落ち着けると思ったより戸倉さんが近いので、少し焦ってしまう。

「なんか変なにおいでもしたらごめん」

「彰人君から? 別に大丈夫だよ?」 

戸倉さんが形のいい鼻をすんすん鳴らす。気が気じゃない。

「戸倉さんは――」

「……それ」

「ん?」

「こっちが彰人君でそっちが戸倉さん。私としては少し距離があるみたいで寂しいかな」

「……綾、さん」

「敬称もいらなくて」

「綾」

 この呼び方になって、やっと戸倉さん――綾は笑顔を見せる。

「それが嬉しいな」

「了解、これからはこう呼ばせてもらうよ」


 合流する前はどこかへ歩こうか、なんて考えていたけど、木陰の涼しさは歩く気力をどこかへやるのに十分だった。結果、二人で木の下に座り込んで話をしていた。

 といっても、学校のことや旅行へ行った時のこと、たまに受験の愚痴など、話をするのはたいてい僕のほうからで、聞いていた綾はというとそれを楽しそうに、それでいてどこかせがんでいるようだった。話をするにもスマホで撮った写真を見せるのが便利だったから使っていたのだが、聞くと綾はスマホを持ったことがないようだった。この時代に? とも思ったけど、何か事情があるのだろう、と生まれた引っ掛かりを飲み込んだ。

 そうした会話の中で、僕がこの村にいるのは明々後日までと話した際は、「そっか」と寂しげな表情を見せた。

 

 この構図はこの日だけじゃなくて次の日も、そのまた次も変わらなかった。

 三日目は村のはずれを流れる沢のへり。ここが涼しくて落ち着いたので四日目も同じ場所。

 水の流れていくのを眺めながら話している中で、思い切って僕の話ってそんな面白い? と尋ねてみた。綾を除く知り合いからそんな話し上手なんて評価を貰ったことはなかったからだ。すると綾は、

「うん、すごく。私はこの体だから遠くに行ったことも無くてさ。だから楽しいよ」

「……そっか。そしたら他にどんな話ができるかな」

 スマホのカメラロールを見ていると、友人と遊んだ時に撮った写真で指が止まった。

「……綾、結構アレなお願いなんだけどさ。写真撮っていいかな」

「写真? 私の?」

「うん……うまく説明できないんだけど撮っておきたいんだ、綾を」

 彼女の姿を記録に残したい。ここ一日で急に沸き上がってきた思いだった。

「写真かぁ……うん、いいよ」

「ありがとう。嬉しいよ」

「ポーズとかは取れないよ?」

「大丈夫。こっちも写真は素人」

 僕は少し離れて、スマホのカメラを立ち上げる。綾はもともと座っていた岩に腰をかけ直し――その際少し背をしゃんと伸ばして――顔を僕のほうへ向けた。

 そんな可愛げのある動作に頬が緩み、それに気づいた綾が少しむくれてみせた。

「ごめん、嗤ったわけじゃないんだ。綺麗に写ってくれようとしてるのが嬉しくて」

「知ってる」

 改めてスマホを構え、綾を画面に映す。

「それじゃ、撮るよ。三、二、一――」

 シャッター音。手軽にも程がある工程で撮られた写真は、しかし僕に無類の安心感を与えてくれた。

「もっと撮る?」

「ありがとう、でも大丈夫。この一枚で……被写体もよかったからさ」

「そこまでいわれちゃうかぁ。ね、見せて見せて」

 綾の隣へ戻り、今しがた撮った写真を見せる。それをしばらく眺めてから、

「うん」

と、小さく頷いた。

 明確な肯定の言葉ではなかったけど、綾の表情がそれを物語っていた。

 

 その後はまたいくらか、互いの好きなことなんかの話をして、太陽が山の稜線に掛かり始めるころ。

 ここ数日に倣うなら今日も楽しかったね、で解散している。けれど。

「そろそろ帰ろっか」

「ごめん、綾。ちょっとだけいいかな」

 今日だけはこの場に残る理由があった。

「ん? どうしたの?」

 綾がこちらを振り返る。この四日間、その顔を見るたびに出会った時の一目惚れは錯覚じゃなかったと理解できた。

「今日で綾に会って四日目じゃん」

「そっか。彰人君、明日帰っちゃうんだよね」二日目と同じように寂しげに笑う。

「うん。だから、今日中に言っておきたいことがあったんだ」

「なに……かな」

 先を歩こうとしていた綾と沢を背に立ち止まったままの僕との間に距離が開いた。

「好きだ。まだ知り合ってから四日で何言ってんだって思うかもしれないけど」

「…………」

 綾は口を閉ざしている。後ろで流れる水のせせらぎがやけに頭に響いた。

「もちろん綾の体のことも分かってる。長い時間一緒にいることも難しいのかもしれないけど、時間作ってここに来るから、だから」

 ここまで言って、一呼吸置く。すると、綾が代わりに口を開いた。

「私の気持ちを言うとね、うん、私も彰人君が好きだったよ。ずっと。君といた日々が人生で一番楽しかったって言えるくらい」

 そんな綾の言葉がたまらなく嬉しかった。でも、綾の表情は寂しさを孕んだまま。

 だから、続く言葉も少しだけ予測がついた。

「でもね、私は彰人君の側にはいられないの。もちろん一緒にいられたらすごく嬉しい。そこは本当だよ?」

「うん、信じるよ……」

「……ありがとう。ならどうしてって思うよね。そこで一つお願いしたいの。明日の朝になったら、私がいつも帰る方向、坂を上った先を右に曲がって、その先。そこに来てくれる? ……変なお願いだよね、ごめんなさい」

「いや……綾がそう言うなら明日行くよ」

「ありがとう。彰人君が好きって言ってくれたの、本当に嬉しかったよ」

 綾が笑う。その目の端に浮かんだ涙は、綾の持ついくつもの感情を湛えているように思えた。

「私多分見せられない顔しちゃってるよね。ごめん、先に帰るね」

 そう言って、綾は僕に背を向けその場を立ち去った。


 綾が歩いて行ってしまってからしばらく、僕は座り込んでいた。追いかけようとしたけど、かける言葉も見当たらなくて結局足は止まったままだった。

 告白そのものは通じた。綾も“好き”と返してくれたのはもちろん幸せだ。その言葉を疑うつもりは微塵もない。しかし、手放しに喜ぶこともできなかった。当たり前だ。

 綾についての僕の未だ知らない領域、その存在がひどく重くて、結局家に帰ろうと足が動いたのは夜の帳が辺りを包んだ頃だった。


 どこにも辿り着かない思考を抱え、うまく眠れないまま翌朝を迎えた僕は朝食を摂って早々に家を出た。朝の涼しさに任せて足を急かせる。

 家を出て十五分ほど、「その先」であろう辺りに着いた僕は立ち尽くしていた。昨日の口ぶりからして、ここには綾の自宅があると思い込んでいた。しかし、見える範囲には使われているのかも分からない農具小屋が建っているだけだった。

 道を間違えた、とも考えられない。この村の道はそんな複雑じゃない。

 ならなぜ……と疑問が頭を満たす。綾は何を伝えたかった?

 その時、背後で物音がした。つられて振り返ると、農作業に出てきたであろう住民がそこにいた。正直綾であることを期待していたが、それでも何か聞ければ。

「あの、すいません。この先に家とかってありますか?」

「んー? この先つったら、前なら何戸かあったけどよ。今はここらに住んでたもんの墓地が――っておい、そんな顔してどうした」

 目の前の老人の声が遠くなる。綾の言う通りに進んできて、その先に墓地?

 脳内に、あまりに現実離れした考えが浮かんでくる。意識の混濁が起きたような感覚だった。


 うまく働かない頭でなんとか住民の人にお礼だけは伝え、僕は家に戻ることを選んだ。何にせよ、少し考える時間が欲しかった。

 家に戻ると、ばあちゃんが縁側で荷物をまとめていた。僕を見つけるなり歩き寄ってくる。

「どうしたの、ひどい顔してるわよ」

「……少しね、不思議なことがあって。ごめん、少し話してもいいかな」

「不思議なこと……ええ、聞かせてちょうだい。私も少し休憩しようと思っていたところだから」

 ばあちゃんに言われて、縁側に座ってからこの四日間のことを話した。正直助けて欲しかったのだ。

 一通りの話を終えてから顔を上げる。ばあちゃんは一言も発さない。ただ、無言のままに目を細め、得心がいったように小さく頷いていた。

「ばあちゃん?」

「そうね……私も、ようやく分かったわ。少し待っててね」

 そう言って縁側に出された荷物の中から、何かを取り出して戻ってくる。そして僕へ差し出した。けっこう古い封筒に見える。

「これは?」

「アキちゃんに。裏の下側に名前が書いてあるでしょう。差出人の」

 いまいち話の要領をつかめないままに封筒を裏返して文字を探す。

 

 黄ばんだ封筒の隅に、経年で少し滲んでしまったインク。それでも書いてある文字は十分に読める。

 戸倉綾。

 この四日間で何度も呼んだ、愛しい人の名前だった。


 ****


「里江ちゃんは最近夢って見る?」

 私の部屋、向かいに座っている一番の友達に話しかける。

「どうしたの、いきなり」

「私ね、お盆だからってわけでもないんだろうけど、ここ何日か変わった夢を見てるの」

「へえ、どんなの?」

 里江ちゃんは私の話をよく聞いてくれる。そんなにおもしろい話でもないだろうに。

「なんていうんだろう、毎晩見るんだけど、話がずっと続いてるの。一つの物語みたいに」

「それはずいぶんと……」

「それもしっかり話したことを覚えてるの。こうして起きて、生活してても」

「それで、内容は? 綾もそれを話したいのよね」

「うん!」

 私は嬉しくなってしまう。なんていい友達なんだろう。

「この村で――といっても色々違っててね、家の数とか、とにかくそこで、男の子と会うの。それでその男の子と色々話したり、不思議なものも見せてもらったり」

「へえ、いい夢ね。それで?」

 ちょうど昨日見た夢の内容、これを話すのはさすがに少し恥ずかしい。

「その男の子が告白してきてくれるの」

「あら。一応聞くけれど、その相手は綾で間違いない?」

「うん、その告白が嬉しくてね、返事をしたの。私も好き、って。そこで目が覚めたんだけど」

 途端に里江ちゃんは驚きに顔を染める。夢の中でさえ、私が恋愛するのがそんなに信じられないのかな。でも、これからもう一つ驚いてもらわなくては。

「ああ、驚いた。綾が“私も好き”だなんて」

「夢の中でくらい、普通に恋してみたかったのかも」

「……そうよね。でも最近は体も調子がいいんでしょう?」

「うん。だけど、だけどね。私の体だからどこかで分かるの。ああ、もう長くはないんだなって」

 机の上のコップを掴んでみる。ほら、前より力も入らなくなった。

「綾……」

「ううん、分かってたことだから。この年まで生きられたのも、里江ちゃんと友達になれたのも、すごく幸せだった」

 里江ちゃんは俯いて何も言わなくなってしまう。こんな雰囲気は好きじゃないのに。

「だからね、里江ちゃん。一つ頼み事をしたいの」

 顔を上げた里江ちゃんの前に、一通の封筒を差し出す。

「手紙? 誰宛?」

「……夢の中の男の子。名前はアキト君、そう言ってた。漢字はごめん、分からない」

 そう言うと、里江ちゃんは悲しみの抜けない表情で、それでも信じられないというような顔で私を見てくる。思わず頬が緩んだ。

「……え? 手紙を、夢の登場人物に? 今いくつ?」

「ひどいなぁ。 いや、私もどうかと思うよ? ただ、普通の夢とは思えないの。何日か続く、驚くくらい具体的なこの夢が。そう思ったら、突き動かされたみたいにどうにか伝えようって。どうにか届けようって」

 私自身も驚くくらい自然と言葉が出てきた。いけない、あの夢に関して私は何も隠せない。

「その行き着いた先が手紙ね。ええ、わかったわ。他ならぬ綾からの頼み事だもの。もしも届ける機会があれば必ず届けるわ。そのアキト君にね。でも、せっかくの恋文でしょう? その男の子も綾から直接貰ったほうが嬉しいと思うわ。だから綾。どうか、長生きしてね」


 ****


「それからすぐだったわ。綾の病気が悪化して、学校にも来られなくなって、そのまま」

 ばあちゃんが言葉を切る。暫く沈黙が続いた。

 現実的に考えたらありえない話だ。でも、それで片付けるには話が成立しすぎてしまっているし、何より僕自身がそれを嘘などと思いたくない。

「それから私も人生の中でアキト、という名前の人を探したけれど綾の話に合うような人は一人もいなくてね。でも美紀が結婚して少し経ったある日、子供ができたって連絡が来てね。そして、名前は彰人にしようと思うの、なんて。私も信じられなかったわ」

「でも、それは僕じゃない可能性だって」

「ええ、私もそう考えてた。でももう私もこの歳でしょ? 実はね、今回アキちゃんに作業を手伝ってもらえばって清二さんに行ったのは私なの」

「ばあちゃんが?」

「もしこれでアキちゃんが綾の言っていたアキト君だったら会わせてあげたいだなんて。私もどこかでアキちゃんに期待していたのね。そしたら、アキちゃんがさっきの話をしてくれた。とっても不思議だけれど、そうね。そういうことがあってもいいのかもしれないわね」

 こんなに話すばあちゃんを僕は初めて見た。でも、ばあちゃんにしてみれば半世紀以上、背負っていた肩の荷がやっと下りたのだ。

「おしゃべりが過ぎたわね。私は荷物をまとめているから、アキちゃんはそのお手紙を読んであげて。やっと、届くべき人に届いたものだから」

「ばあちゃん……ありがとう、本当に」

「ええ、いいのよ。あと、綾のお墓は村の坂を上って右に曲がった先、墓地の一番奥にあるわ。ぜひ行ってあげて」

 そう言って、ばあちゃんは自分の作業に戻った。僕は家の中に入ってから封筒の糊をはがす。中から三つ折りの紙が一枚。慎重に広げて、最初から読んでいく。


 ****


 親愛なるアキト君へ



 こんにちは、戸倉綾です。人に手紙ならまだしも、恋文なんて書いたことが無いからどうやって始めるべきなのかがわからないや。しかも相手は夢の中で会っただけの人、多分恋文の書き方があったとしても役に立たないね。


 まず、ごめんなさい。貴方の気持が嬉しくて、それでも、私はもうすぐ死んじゃうから。貴方に感謝のひとつも伝えられないことがすごく悔しい。


 もしすぐにでも現実に現れて、私のもとへ来てくれたら、そうすれば感謝は伝えられるのかも、と思ったけれど、多分嬉しくて何も言えなくなると思う。

 私の貴方への気持ちもそのくらい大きいって知ってくれれば嬉しいかな。


 私の夢の中での四日間、色々なことを話したよね。と言っても話をしてくれたのはほとんど貴方で、私は聞く専門。普段は私がおしゃべりだから、他の人が話しているのを聞きたかったの。それで聞けたのが貴方の話で本当に良かった。

 貴方の隣で、貴方の声で、話を聞いていられることが幸せだった。


 けっこう書いたつもりだけど見返してみると全然だね。でも、私の手も少しずつ力が入らなくなってきて、これだけしか書けてないのにもうペンを握れなくなってきてるの。

 伝えたい言葉がどんどん出てくるのにね。


 もし、貴方が本当にどこかにいて、この手紙を読んでくれているなら、いつか会いたいな。いつか、どんな形でも。今すぐに会えないなら、それくらい、望んでもいいよね。


 最後に一つ。といっても今までの内容の繰り返しになるんだけど、


 アキト君。私は貴方が大好きです。


 貴方を好きになれて幸せでした。貴方に好きと言ってもらえて幸せでした。


 だから、どうか。どうか貴方も幸せでいてください。それが、私の願いです。



 精一杯の愛を込めて、戸倉綾


 ****


 手の甲に落ちたものが、自分の涙だと気づくのに少し時間がかかった。

 手紙を置き、目を拭う。それでも涙が溢れてしまうので、僕は無駄な抵抗をやめた。綾を想って流れる涙なのだから涸れるまで流れてしまえばいい。

 涙が涸れると、僕は家を出て墓地に向かって歩き始めた。

 綾に会いたい。もうあの姿を間近で見ることは叶わなくても、やっと現実で会える時が来たんだから。


 綾のお墓、正確に言えば戸倉家の墓は、ばあちゃんの言葉の通り墓地の奥に静かに佇んでいた。そこで気がついたが、墓参りに必要な道具を何一つとして持ってきていない。

「ごめん、なんかダメだね、今の僕」

 来年はちゃんと持ってくるから。と謝ってから、綾に向けて話し始める。

「手紙読んだよ。本当に……嬉しかった。気持ちじゃ負けない気でいたんだけどさ、綾も相当だね。心からそう思うよ。最初に綾を見た時から一目惚れして、今思うと不思議な力でも働いたんじゃないかって思うけど、日を重ねるごとにどんどん好きになった。綾といたこの四日間だけで、僕は十分幸せだったよ。でもさ……っ」

 涸れたはずの涙が、また頬を伝う。こうして会えただけでも十分だ。ましてや、元気な綾と幸せな時間を過ごせた。奇跡としか言いようがない。なのに。

「会いたいよ、綾に。もう一度だけでもいいから……」

 願望ばかりがとめどなく浮かんできた。初めての想い人を前にして、僕はこんなにも幼かったのか。

 でも、同時に理解もできた。どんなに願おうと、叶わない。だからこそ、綾の残してくれた願いを僕が叶えていかなければ。

「ごめん、泣いたりして。僕は大丈夫。綾といた四日間があるだけで、僕はこれからも生きていける。それくらいのものを、綾から貰ったから」

 僕は前を向こう。それが、今を生きている僕の為すべきことだ。

「といっても綾には毎年会いに来るよ。好きな人だし、それくらいは許してほしいな」

 ひとつ息を吐く。

「それじゃあ、綾。また今度。次はお墓参りの道具も色々持ってくるからさ。待っててね」

 後ろ髪を引かれつつ、僕は墓地を後にした。

 家に着くともう出発の用意は整っていて、僕が後部座席に座ってまもなく、車は僕の家へと走り出した。

 車窓から緑が流れていくのが見える。それがどこか水の流れに見えたところで、僕は一つの事を思い出した。綾の写真を撮っていたじゃないか。

 慌ててスマホを取り出し、カメラロールを開く。一番新しい写真に、平らな岩に腰掛けながら僕のほうへ笑いかける綾が写っていた。撮った時と寸分変わらない、たった一つ、それでも確かな奇跡の置き土産だ。僕は目を閉じる。綾との時間を脳内に揺蕩わせて――、そんな穏やかな奇跡と共に、この五日間は終わりを告げた。



 線香の煙が風にあおられてこちらへやってきた。綾と出会ったあの夏から三年、僕も二十歳を迎えて身の回りでもいくつか変化はあったけど、少なくとも――。

「僕は幸せにやれてるよ」

 いつか僕も死ぬ時が来るから、それまで少し待っていてほしい。たくさん土産話を持っていくから、思う存分話をしよう。

「全部綾がいたからこそだからさ、改めてありがとう。大好きだよ、綾」

――君をずっと愛していられるように。

それこそが、僕の願い。そして今の僕の幸せだ。

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