よあるき
近くの本屋に欲しい本が置いていなかった。カウンターに居た店員は「取り寄せることもできます。」と言ったが、私はその提案を断り、文庫本の棚をしばらく冷やかしてから店を出た。
外へ出ると、三月の初めにしては暖かい夜風が頬にぶつかった。外は、色とりどりの背表紙で埋めつくされた店内とは違い、街灯とヘッドライトの光がまばらに散らばっているだけだ。ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認すると七時四十三分がデジタルに表示される。
その本屋からさらに足を延ばして、大型の新古書店まで行ったが、運の悪いことに、私の探しているものは置いていなかった。諦めて帰ろうとすると、新古書店の入り口正面には、黄ばんだ背表紙の専門書がワンコインで売られているのに気が付いた。並べられたタイトルからは、近代の外交と貿易に関連している内容のものが多いことが伺えた。私は、何となく、ワゴンにぎゅうぎゅうに詰められたこれらの本たちがすべて、同じ人物の持ち物だったのではないかと思った。
私は、ワゴンの中の背表紙に指をかけ、しばらく躊躇ったあと、何も買わずに新古書店を後にした。外交も貿易も、なあなあで日々を過ごす私には難しすぎる。
新古書店の前で、自転車に乗った小学生くらいの兄妹とすれ違った。何を話していたか、正しく聞き取ることはできなかったが、二人が笑っていたのは確かだった。
ふと、公園へ行ってみようと思った。小学生の時、校庭にあったブランコが好きだったことを思い出しながら、ポケットの中に手を突っ込んだ。
公園に着いたとき、ポール時計は八時十九分を指していた。私は、鎖の錆び付いたブランコに腰掛け、地面を蹴った。空は雲に覆われ、星の見えない夜だったが、首すじを撫でる風は十分に心地よかった。
公園の周囲は住宅街だった。ブランコが前後に揺れる度、カーテンの閉まった窓からこぼれる明かりが上下した。
少しの浮遊感を楽しみながら、ぼんやりと遠くの明かりを眺めていたが、不意に公園の外周に植えられた桜の枝が目に入った。恋人と満開の桜を見に来たことを思い出す。二人でベンチに腰かけ、近くのコンビニで買ったカフェラテと三色団子を花と共に楽しんだ。
ブランコを止め、頭上に広がる枝をじっと見つめる。もちろん、今年の花はまだ咲いていなかった。
しばらく、ブランコに腰を下ろしたままで、スマホを確認する。少しの期待を持って、通知欄を確認するが、新規メッセージの通知は無かった。
弾みをつけて立ち上がる。鎖の擦れる音がして、ブランコが不規則に揺れた。
桜の枝の影を足で辿りながら、ジャングルジムへと近付く。小学生の頃、ジャングルジムは難攻不落の城のように大きく見えた。しかし、それを目の前にして立ってみると、一辺は私が両手を広げた長さより短いし、高さも私の身長より頭ひとつ大きいくらいだった。今、ジャングルジムはただのジャングルジムで、難攻不落の城でも、クラスのリーダーだけがてっぺんに登っていい特別な場所でもなかった。
一番下のパイプに足をかけ、ジャングルジムを登っていく。体も力も、昔と比べて成長したはずなのに、昔ほど俊敏に登れなくなっていた。ところどころに難しさを感じながらも、どうにか登りきり、てっぺんのパイプに腰掛けた。
並び立つ住宅の隙間から、遠くの駅が見える……気がした。駅の周囲は暗い。居酒屋とコンビニが数軒並んでいるばかりで、空を照らすような明るさは無かった。曇り空は乱雑な駐輪場にのしかかり、人気もなく沈んでいる駅のホームにぬるい風を吹き込んでいるのだろう。
実際には、ジャングルジムのてっぺんから駅の様子を見通すことは出来ない。
ポケットからスマホを取り出し、桜の木を見上げて写真を撮った。花どころか蕾もついていない枝は、黒いシルエットだけが生き物のように頭上を覆っている。
メッセージアプリを開き、履歴の一番上にあるトークルームに先程の写真を送信する。写真の横に小さく付いた八時三十四分の文字を見てから、少し考えて、
『夜の散歩中』
と、メッセージを付け加えた。
トークルームを開いたまま、しばらく待つ。けれど、すぐに怖くなって、メッセージアプリを閉じた。スマホをポケットに突っ込み、慌ててジャングルジムから降りた。登る前は大した高さではないように思えたジャングルジムも、足下を見てしまうと、一抹の不安が頭を過ぎり、パイプを強く握り締めながら、一段一段を慎重に降りた。
地面に足を下ろす。パイプから手を離し、冷えた手のひらを頬に当ててみる。
自転車に乗った若い男のグループが公園の横を通って行った。少し大きな笑い声が住宅街に響く。グループが通った道の向こうで、軽自動車がバックをして、白い壁の住宅の駐車場へ入るのが見える。
ぼんやりと、窓から明かりが零れている家々を眺めていた。
何となく、寂しくなった。昨晩うちに泊まった恋人は、今朝方に慌てた様子で出て行った。彼が残していった服を洗濯機に入れている時も、今感じている寂しさと同じようなことを思った。
家に帰りたくないと思った。家に帰れば、彼のマグカップが流しの水切りかごのなかに伏せられていて、二本の歯ブラシがコップに立てられている。ベランダには、彼の寝間着が私のワンピースと一緒に干してある。けれど、今夜、彼はいない。私は、誰もいない部屋を想像する。やはり、帰りたくはなかった。けれど、いつまでも夜の公園にいるのも、段々怖いように思えてきた。
自然と、足は交通量の多い通りの方へと向かった。国道の方へ行けば、大きな歩道橋がある。交通量も多く、コンビニや居酒屋、チェーンの焼肉店が並ぶあの辺りなら、寂しさも紛れるだろうと思った。
◆
彼と恋人になったきっかけは、ライブの打ち上げの帰りだった。私は他のサークルメンバーと別れ、横断歩道の前にひとり信号を待っていた。向かいの歩道を少し頼りない足で歩く、誰かが見えた。酔いの残った頭はまだぼんやりとしていて、その人がよく見知った人だと気付くのに、かなりの時間が必要だった。
その人は俯いて、右手に持ったスマホをじっと見つめていた。横顔がスマホの光にぼんやりと照らされ、暗闇に浮かび上がる。ステージでベースを弾いている横顔とは違う。少し悲しそうで、寒そうに背中を丸める姿は、何故か寂しそうに見えた。
信号が変わる。私は、履きなれないヒールブーツなのにも構わず、駆け出した。
◆
「お。らん子じゃん」
ふと、少し気の抜けた呼び声が後ろから聞こえた。振り返り、ライトの眩しさに目を細める。ママチャリに乗ったジャージ姿の小柄な女子が手を振っている。七瀬夏姫は、自転車から飛び降りると私の顔を見てにやりと笑った。
「おひさ。どしたん、呑みの帰り?」
「や、ただの散歩。なっつんはバイト終わったとこ?」
「ん、今日ちょうど遅番やったんよね」
夏姫は私の隣に並び、自転車を押しながら歩き始めた。チェーンの音が静かに流れ始める。久しぶりに顔を合わせて話す彼女は、高校時代と変わらず自然体で心地よかった。
はっきりとした目的地も決めず、ただ歩きながらお互いの近況を話し合った。二年制の専門学校に通う彼女は、私とは流れる時間のはやさが違う。目の前に迫った試験と就職活動に対して、夏姫はため息をついた。けれど、
「あと一年頑張ったら夢も叶うと思ったら、全部大したことないのよ、ぶっちゃけ」
どこか楽しげに笑う。つられて私も笑った。
二人で話しながら歩いているうちに、コンビニの前を通りかかった。なんか買お、と言いながら夏姫がコンビニの駐車場へ入っていく。白と青のロゴが煌々と光り、四角い建物が夜に浮かび上がるように明るかった。
無つき、是に頁をつくろう 羊野ネムリ @sleeping_sheep
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