第八話  あたしは艶やかに笑う

 はるに  赤駒あかごま


 ちてさ緒引をひき  心引こころひ


 いかなるなら


 物言ものいはずにて


 ここば  つるばみ


 青くふると知りせば


 ここば  愛子夫いとこせ


 いきおもへるれと知りせば







 波流能野尓はるののに  安加胡麻乎あかごまを

 宇知弖左乎妣吉うちてさをひき   己許呂妣吉こころひき

 伊可奈流勢奈等いかなるせなら

 毛乃伊波受伎尓弖ものいわずきにて

 許己婆ここば  橡乃つるばみの

 青生あおくおふると之里世波しりせば

 許己婆ここば  愛子夫乎いとこせを

 氣緒尓いきのをに  念有吾登四里世婆おもへるあれとしりせば






 春の野を赤毛の馬で行く。


 馬の手綱たづなを打ち、引き、(そのように男達の)心を引き、


 どのような男にも、心を寄せる言葉を言わずにここまで来た。


 こんなにも、つるばみが青くい茂ると、知っていたら。


 こんなにも、愛子夫いとこせいき──命にあたしがすると、知っていたら。




    *   *   *




 お腹に緑兒みどりこがいると告げた日より、不思議なほど、広河さまのけんがとれた。


 いつも浮かべていた酷薄な表情が鳴りを潜め、穏やかで、静かな表情でたたずんでいることが多くなった。






 夜。

 三月の夜風に桃の香が乗る。


 お腹に緑兒みどりこがいると知ってから、広河さまは、すごく優しくなった。

 一回しか求めない。

 丁寧に、丁寧に、あたしを扱う。


 身体が雄弁な人だ……。

 そう思う。


 あたしは、大切にされている。


 こういうさ寝も、悪くない……。


 裸の胸と胸をあわせ、あたしを包むような口づけをしたあと、広河さまは、あたしの目を見て、


「何人、産んでくれる?」


 と訊く。


「何人でも。八人でも、九人でも。」


 あたしはにっこりと笑う。


「ふふ……。」


 笑った広河さまが、あたしの頬を優しく撫でる。


比多米売ひたらめ。昼も、務司まつりごとのつかさにいる時も、おまえと、ここにいる緑兒みどりこの事を考えてしまう。

 どうやら、おまえは、私のいもらしい。」

「広河さま……!」

愛子夫いとこせと呼んで良い。」


(はっ?! 上毛野君かみつけののきみの長男なのよ!?)


 おのこが一人のおみなを、いもと呼び、おみながそれを受け入れたなら。

 おのこはもう、他のおみないもと呼ぶことはない。

 撤回はできない。

 広河さまがこの先、どんな身分の高い、美しいおみなに囲まれようとも、その誰もいもにはなれないのだ。


 衝撃が大きすぎて、ぼんやりとあたしは呟いた。


「……愛子夫いとこせ……。」

「比多米売。私のいも。」


 すぐさま、口づけが降りてきた。


 あたしは、泣いた。


 なんで、泣くんだろう。





 あたし、おのこにどんなに甘い睦言むつごとささやかれたって、


(口では何とでも言える。それでおみなは誰でも喜ぶと思ってるの。バカみたい。)


 と思ってた。

 家で藁紐編わらひもあみをしながら、母刀自ははとじや姉がうっとりと、


いも愛子夫いとこせって素敵よねえ。」


 と語っていたけど、あたしは黙って、


(生涯、婚姻しないままの人だっている。

 誰でも必ず、愛子夫いとこせに巡り会えるわけじゃない。

 そんな、会えるか会えないかわからないおのこを探しまわって、腹はふくれるの?

 あたしは、全然夢を感じない。)


 と内心せせら笑っていた。

 さ寝の快楽くわいらくを楽しむなら楽しんで、少しでも条件の良いおのこの妻になるべきだ。

 そっちのほうがよっぽど良い。

 もし、貧乏なおのこが、運命の定めた愛子夫いとこせだったりしたら、あたし絶対嫌だわ……。

 そう思ってた。


 愛を囁かれたって。


 いもと呼んでもらったからって。


 あたしはそれだけで泣くような、そんなしおらしい娘じゃなかったはずよ……。




「比多米売、そんなに嬉しかったか。」


 満足そうに、広河さまが整った顔で笑った。

 あたしは、ポロポロ泣きながら、こくり、と頷いた。


「はい、嬉しいです。」


 心が温かい。

 胸が苦しい。

 想いが込み上げて、込み上げて、ポロポロと涙がこぼれる。



 そうだ。あたしは、泣くほど、嬉しいんだ。



「あたしを、ずっと、恋うてくれますか。」


 あたしを、常敷とこしへ(永久)にあなたが恋うてくれるの……?


「もちろんだ。私のいもだからな。命果てるまで、おまえを恋う。」

「う……、ああああん!!」


 あたしは大泣きして、広河さまの首に抱きついた。

 広河さまはあたしを優しく抱きしめてくれた。





 上手く言葉にできないけれど。




 あたし、これで、良かったんだと思うわ……。






 




 五月。


 花咲く野原。


 スミレは紫の花。

 手柏てかしわは白い花。

 ホトケノザは黄色い花。

 色とりどりの賑やかな野原を、広河さまと二人で行く。

 あちらこちらで、藤が見事な紫の房を垂れている。

 爽やかに吹く風が気持ち良い。


「あっ……、今。」


 緑兒みどりこ(赤ちゃん)が、かすかにお腹を蹴った。


「動いた。動いてますわ。」

「どれ……。」


 広河さまが、しっかり膨らみはじめているお腹に手を添えるが、帯できっちり守っているし、まだかすかな動きなので、


「わからんな……。」


 素直な感想を口にした。


「確かですわ。」


 ふふ……、と笑みが零れる。


(……どちらの子だろう。)


 時期を見ると、本当にどちらの子か分からなかった。

 大川さまとは、あの日以来、会っていない。

 思い出すと、針の先ほどの、微かな痛みが、ちくりと胸を刺す。


(……すごく、傷つけてしまったから。)


 ごめんなさい、と思う。

 大川さまには本当のいもを見つけて、幸せになってほしい、と思う。




 カッコウ……。カッコウ……。



 呼子鳥よぶこどり(カッコウ)が木立に啼く。

 つるばみが小さい白い花を、枝いっぱいに咲かせている。

 行く手からは、さあ……と川の水音が聞こえてくる。




 あたしは柔らかい草を踏み、歩きながら、思い返す。


 人生で一番恐ろしかった日を。


 父が、


私出挙しすいこが払えない。」


 と言い、母刀自が狂ったように父を責めはじめ、すごく人相の悪いおのこ達が大勢家にあがりこみ、鍋一つにいたるまで、全部家から持ち出してしまった。

 おのこたちは最後に、


「この子だけは止めて!」


 とあたしを抱きしめ叫ぶ母刀自からあたしを引き剥がし、あたしは、


「いや、助けて母刀自! 父さん! 母刀自! 父さん!」


 と叫び……。

 その日のうちに家族は全員散り散りになり、市に立たされ、ほうぼうに売られていった……。


 まだ去年の秋のことだ。


 あの日のあたしに、教えてあげたい。

 今のあたしを……。


 とおん、とまた緑兒みどりこが動いた。


(どちらの子かなど、どうでも良い!)


 あたしは口の端を釣り上げる。


「ほらほら、良い沢がありますのよ、早く早く……。」


 と楽しい気分で、広河さまを急かす。

 広河さまは、穏やかな笑みで、ゆっくり歩いてくる。


 広河さまだって、分かってることだ。

 あたしは大川さまのお手つきだって。

 それでも、広河さまは、


「どちらの子か。」


 と問うてきたことは、ただ一度もない。

 なら言いきかせよう。

 思い込ませよう。


 あなたの子よ、と……。


 実際、大川さまの子だとしても、兄も弟も、同じ父親の血を分けているのだから、きっと似かよるはず。

 何の問題もない。

 そしたら……。

 あたしが将来、上毛野君かみつけののきみの母刀自だ。

 なんてだいそれた夢だろう。

 こんな夢が見れるなんて……。

 必ず、叶えてみせるわ。


 どんなこごしき道(険しい道)であっても、あたしは怯まず、自分で歩いてきたのだから。

 これからも、歩いてみせる。


 楽しい気分で、あたしはくるくる踊るように回る。


「そんなに踊るな、転ぶぞ、比多米売ひたらめ。」


 広河ひろかわさまが、穏やかな笑顔のまま言った。

 あたしはピタリと踊るのを止め、広河さまの方をむいた。


「あたし、元気なおのこを産んでみせます!

 分かるんです。あたしと広河ひろかわさまの御子おこは、元気な強い子!」


 と快活に笑った。


「ああ、そうだな……。」


 ふ、と笑い、広河さまも同意してくれる。


(そうですとも。)


 あたしはあでやかに笑い、広河さまの手をとった。


「さあさあ、あたしの愛子夫いとこせ! 行きますよ……。」














↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330662485488009


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