終話  転ぶぞ、比多米売。

 み吉野よしのの   御金みかねたけ


 なくぞ   あめるといふ


 ときじくぞ   ゆきるといふ


 その雨の   なきがごと


 その雪の   ときじきがごと


 もおちず


 れはぞ恋ふる   妹が直香ただか







 み吉野よしのの  御金みかねたけ


 なくあめは降るという


 む時なく雪は降るという


 その雨の絶え間ないように


 その雪の止む時がないように


 絶える事なく私は恋い続ける


 いも、ただその人を。





 ※直香ただか……その人の存在を言う。



   万葉集  作者不詳




   *   *   *





 丙午ひのえうまの年。(766年)


 広河ひろかわ、十八歳。


 ───十月。


 



 熱が高すぎて、意識が朦朧もうろうとする。

 苦しい。


「がふっ! ごふっ!」


 ひっきりなしに咳が出る。

 もうずっと、この状態が続いている。


「広河さま!」

「広河さま!」


 側で下人たちが、ずっと魂呼たまよびをしている。

 部屋の外では、巫覡ふげきの祈祷の声が細々と聞こえてきている。


(死ねるか!)


 冗談じゃない、ここで死ねるか。


 比多米売ひたらめ


 私のいもの腹には、緑兒みどりこがいる。

 比多米売は、必ず、迂腐うふにまみれた亀卜きぼくを蹴散らしてくれる。

 強いおみな

 必ず、元気な緑兒みどりこを産んでくれる。

 そして、私が緑兒みどりこをこの腕に抱くのを待っている。

 もうすぐ、もうすぐ産まれるのだ。

 その前に私が死んでたまるか。

 必ず、私は比多米売の緑兒みどりこをこの腕に抱く。


 比多米売、比多米売……。


「はあ、はあ、薬湯くすりゆを持て……。」


 苦しい息でそう告げる。

 すぐに女官が薬湯くすりゆを口元にあてた。

 飲もうとし、


「がはっ!」


 咳が込み上げてきて、


「が、が、げっ……!」


 止まらず、咳込み、ふ、と意識が遠のく。











 ……安心しろ、比多米売……。

 私はおまえより先に死んだりしない……。

 私のいもよ……。













 五月の花咲く野原。



「ほらあちら、良い沢がありますのよ、早く、早く……。」


 大きい腹で、くるくる踊るようにまわる若妻に、


「そんなに踊るな、転ぶぞ、比多米売。」


 と声をかける。

 急いで歩いて転んだらまずい。

 そう思って、私はゆっくり歩いているのに、まったく……。


 私のいもはぴたっと回るのを止め、


「あたし、元気なおのこを産んでみせます!

 分かるんです。あたしと広河ひろかわさまの御子おこは、元気な強い子!」


 とニカッと笑った。

 ふ、と私は穏やかに笑う。


(分かるものか……。)


 と思うが、比多米売がここまで力強く言うと、ああ、そうかもしれない、とも思う。

 私は、そんな比多米売と一緒にいる時間が好きだった。


「ああ、そうだな……。」


 相槌あいずちをうつと、比多米売は満足そうに笑った。


 あたりには光が満ち。

 白く輝き。

 何もかもを覆い尽くし。

 まるで光の霧のなかにいるようになった。

 いつの間にか、ここは花咲く野原ではなくなっていた。

 背中から光に照らされた比多米売が、愛をにじませたあでやかな笑顔で、両腕を広げ、右手をこちらにまっすぐ差し出した。


 私の手をとった。


「さあさあ、あたしの愛子夫いとこせ! 行きますよ……。」






   *   *  *







 ───あ、ほら、笑った。かんわいい!


 ───そうだな。元気だ。安心した。


 ───あ、こっち見たわ。目があいました!


 ───そうか? 見えてないはずだが……。


 ───いいんです! あたしが、目があったと言ったら、あったんです!

 足バタバタしてる。かんわいい……。


 ───そうか。そうだな。可愛い緑兒みどりこだ。



 ───広河さま、大川さまのところへは行かないんですか?


 ───ああ。とくに、言いたいこともない。

 私は伊可麻呂いかまろだけだ。

 母刀自も……、おまえもだからな。


 ───広瀬さまは?


 ───行かない。

 本当は、父上には恨み言をたっぷり言ってやろうと思っていたものだが、比多米売に会えて、どうでも良くなってしまった。私のいもよ。


 ───まあ。


 ───行かないことが、一番、こたえるはずだ。

 もう……それだけで良い。

 比多米売は?


 ───あたしは、大川さまのところへ、あの子をお願いします、って言ってきましたわ。

 それと、家族のところへ、もう、行きました。


 ───あとは乳母ちおもか?


 ───日佐留売ひさるめですか……。

 ……行きません。ほっといて大丈夫ですので。

 では、挨拶が終わりましたら、一緒に上に参りましょう。

 なんだか、あの空の上のほうから、生きてる人達を見守れるようです。

 あたし達の緑兒みどりこが風邪でもひいたら、二人で吹き飛ばしてあげましょうよ。


 ───そうだな。











     ───完───




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