23

 ぼくが公園に行きたいといったから、おかあさんはふきげんだ。


「まったく、徹夜明けだっていうのに」


 そうイライラして、準備をしているあいだも、家を出てからエレベーターに乗っている間も、ずっと文句ばかり言っている。


「ああ、もう、エレベーターはなかなか来ないし、太陽がまぶしいったら」


 なにを見ても、おこっている。


 いきたいって、いわなければよかった。

 ぼくは後悔をしているけれど、でももういまさら、やっぱりやめとくなんて言えば、もっと怒らせてしまう。

 なんだかもう、むねの中がぺたんこのきぶんだ。


 家を出たすぐ前に、公園がある。ほそい車道ごしの、向こうがわだ。

 ぼくは、もうはやく行ってしまいたくて、つい駆けだしてしまう。意識してじゃなくて、きもちがあせって、勝手に足が速くなってしまったのだ。

 おかあさんは、大きな声を出す。

「車が来るでしょ! ちゃんと周りを見て!」

 どなられて、ぼくの体は、びくっと動く。あわてて左右を見るけれど、くるまはどちらのほうにも見えない。


 ぼくは、おそるおそる、おかあさんのほうを振り返る。

 おかあさんは、だまって、ぼくを見ている。

 ぼくは、おかあさんのところにもどって、おなじ速度になるように気をつけて、歩く。


 公園にはいると、おかあさんは、

「もう歩き回る元気とかないから。ここで待ってるから、好きに遊んできな」

 と、ベンチにどっかりと腰を下ろして、それからもう、動こうとしない。


 ぼくはこまって、どうしたらいいのかしばらくなやんで、それから、この公園でいちばん好きな、おおきなすべりだいのところへ行く。


 すべりだいは、おおきなおわんを伏せたみたいなかたちをしている。いろんな方向にむかってすべることができるから、人気で、いつも子どもがたくさんいる。

 今日も、大きな声でわらいながら、たくさんの子があそんでいる。

 なんにんかでいっしょに、はなしながら、なまえを呼びあいながら、はしりまわって、なんどもすべりだいに上って、きゃあきゃあとさけびながらすべって、とても楽しそうだ。


 おかあさんがいっしょの子もいる。

「ほら、おかあさんといっしょに滑ろうね」

 そういって、抱っこしたまま、ふたりですべりおりていく。

 さいしょはおびえた顔をしていた子も、そうやってすべりおりたあとは、にこにこの笑顔だ。おかあさんと手をつないで、もういっかい、もういっかいとせがんでいる。


 ぼくは、そのなかに分け入って、自分もすべることが、なんだかできない。


 ひとが少なくなって、空いてきたら、すべろうかな。

 そう思って、まっているけれど、ぜんぜんへったりしない。


 すべりだいにいるみんなは、ぼくのことなんて気にせず、たのしそうだ。


 ぼくはこまってしまって、あんまり好きではない、てつぼうのほうへいった。

 てつぼうなら、そんなにひとがいない。

 ぼくはそこで、ぶらさがったり、のぼろうとしてみたり、できもしない逆上がりを、見よう見まねでちょうせんしてみて、しっぱいしたり、そういうことをしていた。


 そうしたら、ぼくよりもうちょっと年上の子どもたちがきて、ぼくのことをニヤニヤして見ながら、めのまえで逆上がりをしはじめた。


 くるくる、くるくる、かわるがわる、逆上がりをしている。


 ぼくは、そこからはなれて、しゃがみこんで、アリを見ているふりをした。

 ぎょうれつになっていないアリは、いっぴきだけで、あっちにうろうろ、こっちにうろうろ、何を探しているのか、行き先がわらかないのか、どうしたらいいのかわからないのか、おろおろしているように見える。


 なんだか見ていられなくて、ぼくは立ちあがった。


 おかあさんは、ベンチに座ったままだ。つかれた顔をしている。いまにも寝そうなのに、ねむるのをがまんしている。

 ぼくのせいだ。


 ぼくは、おかあさんのもとへ、もどった。

「おかあさん、かえろ」

 おかあさんは、ふしぎそうに、ぼくのかおをまじまじと見る。


「どうして? せっかく来たのに、もっと遊べばいいでしょ」

「ううん、もういい」

 ぼくは首をふる。


「おかあさん、しんどそうだし。もう、かえって、ねよ。ぼくも、かえりたい」

「そう? なら、いいけど」

 ぼくは手をのばした。おかあさんに、手をつないでもらった。

 おかあさんは、ぼくの手を引きながらあるく。


「おかあさん、ごめんね」

「何言ってるのよ」

 おかあさんは、おおあくびをする。


 いえにつくと、おかあさんはぼくとふたりで、ならんでおひるねをするという。

「締め切り前だけど、ちょっとくらいいいでしょ。寝ましょ、寝ましょ。はー、しばらく、まともなモノも食べてないわね。明日か明後日、原稿を送ったら、そこのファミレスへゴハン食べにいこっか。達矢、あそこのパンケーキ、好きだもんね」

 くっついて寝ると、あたたかい。ぼくはもう、ほとんどねむりながら、おかあさんのはなしをきいている。


 だんだん、はなしごえもきこえなくなってきて、すうっとからだが浮きあがるような……。


「……母さん」

 僕は僕の声で目を覚ます。


 はっと息を吸う。ベッドの上だ。ひとりきりの家だ。しんと静かだ。真っ暗な部屋の中を、窓から街明かりの頼りない光がほのかに照らしている。青い空気が充満している。


 子どものころの夢だ。楽しくもない夢だ。

 僕はさみしくて、申し訳なくて、泣いてしまう。

 僕は子どもだった。当たり前だが、子どもで、情けなくて、弱かった。

 母も子どもだった。自分の機嫌で当たり散らして、気分次第で子どもに冷たく、あるいは甘く接した。


 それで『普通』だったのだ。


 母が作ってくれていた、『普通』だったのだ。今の僕とたいして変わらない年齢で、外国で、周りは油断のならない人ばかりで、ひとりきりで子どもを育てていた、ひとりの女が、守ってくれた『普通』だった。

 あの頃の僕は間違いなくただの母親として母を慕っていたし、母も子として僕に、できるかぎりのことをしてくれていた。


 僕は、愛されていなかったわけではない。

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