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英玲奈の殺害については、たとえ自供させることができたとしても、決定的な証拠が見つからない。
これが、千石が示した懸念だった。
ミハイルに会う日の前日のことだ。
「たとえば包丁に指紋が残っている。現場に山田の毛髪や皮膚片が残されている。ドアノブや玄関のドアなどに指紋や掌紋が残っている。これらはすべて、日常的に出入りしていたという事実がある以上、山田を犯人と特定する証拠にはならない」
「……じゃあ、どうしたら」
そこで千石が提案したのが、刑事である数橋との交渉だった。
山田を逮捕するためには、疑わしいと言うだけではだめだ。英玲奈の殺害容疑での立件は難しい。
「あくまで英玲奈を殺害したという件での逮捕にこだわるのなら、私の提案は無意味なのだが」
㓛刀への殺害未遂であれば、確実に逮捕をすることができる。それも、警察官の目の前での現行犯なら刑事告訴も確実だ。
「僕への殺害未遂って、それも警察官が見ている前でなんて。そんな状況、どうやって作り出すんですか」
「……㓛刀には危ない目に遭ってもらうことになる」
ひとつめは、山田が危害を加えやすい状況を作り出すこと。
カモにネギを背負わせるように、㓛刀に証拠品たる免許証を持たせて、ほいほいと人気のない場所についていくような状況だ。
そしてそこには、警察官に張り込んでいてもらわなければならない。
「そんなの無理じゃないですか? 『今から僕、殺されかかると思うんで、そこで見ていてください』なんて、そんな話を聞いてくれて、しかも協力してくれる警察なんていませんよ。普通にアブナイ人だと思われて、職質されて終わりですよ」
「そうだな。だから、数橋刑事と取引をする。ミハイル・スミルノフによる日本国内での殺人事件への関与が明確になる証拠との引き換えに、協力を要請する。外交官は不逮捕特権があるとはいえ、さすがに警察に殺人事件関与の証拠をつかまれてしまえば外交問題となる。ミハイルの国は弱い立場に置かれることになり、ミハイルとしては失点だ。祖国での立場が悪化し、影響力も下がるだろう。日本警察としては、仮想敵国を弱体化することができ、大快挙だ。ほしくないはずがない」
㓛刀には、正直なところ、自信がなかった。ミハイル・スミルノフに会う、それだけでも相当なプレッシャーだ。その上にこちらが望んでいるような発言を促すなど、あまりに高等なコミュニケーションのテクニックじゃないだろうか。
けれども、これは、自分自身がやるしかないのだ。ほかの誰のせいにもできず、ほかの誰かに頼むわけにもいかない。㓛刀自身が、母を殺した犯人を、逮捕してもらいたいのならば。
㓛刀はしっかりとうなずいた。いつの間にか㓛刀の体には、易々と自己決定ができるほどの、固い決意が宿っていたのだ。
「千石さん、打ち合わせをさせてください。ミハイルに、どんなことを言えば自白を誘い出せるのか。山田さんをどう誘い出せばいいのか。数橋さんに、どう協力を仰いだらいいのか」
そして今それらが予定通りにすべて進行し終えたのだ。
「……千石さんのおかげです」
㓛刀は万感の思いを込めて伝えた。犯人を捕まえることだけではない。知らなければいけなかったことを知ることができた。どうやって生きていきたいかなんて難問に答えまでくれて、この先の生きる道筋まで見えるようになったのだ。
千石は、そんな㓛刀を、まるで冗談でも言っているかのようにおかしげに笑い飛ばす。
「気づいていないのか、㓛刀。すべて、オマエの手で成し遂げたことだ。オマエが動き、話し、考え、相談し、協力を求め、そうして人と関わることを恐れず、真実を知っても決してめげずに、立ち向かったんだ。その成果だ」
㓛刀は、目頭が熱くなった。悲しいわけではなく、うれしいというだけでもない。分類不可能な感情の濁流が胸の内から次々とわき、頭の中はきりきりまいで、しまいこみきれないものが両目からどんどんと溢れてきてしまう。
「……指し示してくれたのも、そばにいて見守っていてくれたのも、千石さんです」
「ああ。私は、神様だからな。元々そういうこと、見守ることしかできない」
どう言葉を尽くせばこの感謝の気持ちが伝わるのだろう。㓛刀の、高揚で真っ赤に染まったような脳みそは、空回りばかりでちっとも働かない。
そんな場面でずかすかと、数橋は二人に声をかけた。
「さあ、悪いがお二人さん、被害者にももちろん事情聴取をしなくてはならない。最寄りの署まで同行してもらおうか。ああその前に、病院だな。けがをしているなら傷害事件として立件できるから、医者に診てもらって診断書を取らないと」
うながす先は、いつの間にか神社の前に停車されていた覆面パトカーだ。白い車両の上部では、くるくると赤色灯が回転しているが、サイレンの音はしない。
「え、あ、そうか。あ、でも、千石さんは?」
㓛刀はいい。山田を起訴するためには被害届を出し、被害状況を詳細に話す必要がある。
だが、千石千早は、人間ではないのだ。彼女は証言できるのだろうか。
千石は㓛刀の考えを見透かしている。いつも、そうだ、最初に出会ったとき。神に手を合わせて祈ったときも、願いごとは、口に出して言ってなかったはずだ。それなのに千石には伝わっていた。
「そうだな、㓛刀。これで㓛刀の願いごとはかなえた。そろそろ私の出番は終わりということだ」
「終わり……?」
㓛刀は繰り返した。
まさかと、息をのんだ。
千石は、突然目の前に現れたように、また突然に姿を消すというのだろうか。
「いや、違うぞ。とりあえず神社に戻るだけだ。㓛刀が来てくれれば、いつでも会える」
「それは、今みたいに、ちゃんとまたこうして姿を見て、会話して、そういう意味での『会える』ですか?」
千石は、少しの間、黙った。
それから、うなずいた。
「神は、信者の願いごとをかなえるものだ」
それを最後に、千石はふわふわと浮き上がりはじめる。㓛刀の渡した黒のロングスカートが、ひらひらと揺れる。
「じゃあな」
そんな簡単な挨拶とともに、大きく風が吹いた。夏の夜のくせにやけに清涼で、心地の良い風だった。境内中の樹木が、ざあっと一斉に大きな葉擦れの音を立てた。風圧で、目も開けていられない。必死に瞼を押し上げていたが、反射でどうしても一瞬視界を途切れさせてしまう。そのわずかの間に、千石の姿は消えてなくなっていた。
㓛刀は、座り込んだまま、虚空を見つめた。
千石の存在があった場所、その向こうには、木の枝と、葉の隙間から、夜空が見える。星はまばらにしか見えない都会の空だけれども、それでも澄んだ、きれいな星空だった。こんな繁華街の近くの明るい街中でも、ちゃんと目を凝らせば、星座だって見えるものなのだ。
「消えちまったな……」
すぐそばで、数橋の途方に暮れたようなひとりごとが聞こえた。
「……あー、調書、最初から達矢君ひとりで相対していたと書くしかないな……」
超常現象にびっくりするよりも、不思議なものに出会った恐怖や感動よりも、現実的な書類上の問題のほうが重要らしい。
「すみません、ご迷惑をおかけしますが」
「……まあ、なあ。起こったことはもう仕方がない。だがもうこんな、自分の身をかけた取引は二度とするなよ」
「しませんよ。こんなこと、神様に出会ったり、スパイに勧誘されたり、殺されかけたりなんて、そうそう何度も起こらないと思いますし」
数橋に手を借り、立ち上がる。久しぶりに起き上がったような気がして、少しの眩暈がした。夢見心地の足取りで、歩くとふわふわとする。だが、気分は上々、爽快だった。
「僕、パトカーに乗るのって初めてですよ」
「なんだ、結構余裕じゃないか」
「そうですね、なんだか、すごくいい気分なんです」
どうせなら覆面じゃなく、よく見かける白黒塗装のパトカーに乗ってみたかった。㓛刀はそんなのんきなことまで考える。
神様は願いごとをかなえてくれた。
母を殺した犯人は、今夜、無事に逮捕されたのだ。
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