18

 背乗りという行為がある。


 諜報員や犯罪者などが身元を偽る際に用いられる、珍しくない工作だ。実際に日本国内で発覚した実例も多々存在する。


 たとえば他国の人間が、日本人として日本国内に潜入する場合、戸籍もないのにいったいどうするのか。


 簡単な話だ。他人の戸籍を乗っ取ればいい。


 戸籍には顔写真はない。よって、他人が成り代わっても判別できないのだ。

 パスポートや運転免許証、マイナンバーカードなどの顔写真付きのものならば、他人の物を自分のものとして通用させるのは難しい。


 だが、㓛刀が住民票を取得する際に健康保険証と学生証を用いたように、顔写真のない身分証を使って、他人の住民票をなりすましして取得することができてしまう。取得さえしてしまえば、それを使って就職もできる。引っ越しの手続きもしてしまえる。運転免許証だって取れる。就職をすればまたそこで新たに健康保険証を発行される。糸口さえつかめば、他人名義の証明書類はいくらでも紐づいて取得してしまえるのだ。


 このようにして他人に成りすますことができれば、他人名義で借金もでき、結婚もしてしまえる。


 無論、利用された本人が気づいた場合には大きな問題になる。気づかないまま何年も過ごしているケースもままあり、

「自分でも知らないうちに、戸籍上は結婚していることになっていた」

「行ったこともない土地の聞いたこともない会社で、自分が長年勤務していることになっていた」

 なんて事例も、たまにはある。


 だが、それはまだ幸運な例だ。大抵の場合は、乗っ取られた側は、生死不明、あるいは行方不明となっている。







「山田さんが、その『背乗り』をしているということですか」

「おそらく」

 千石は、言葉とは裏腹に確信をもってうなずいた。


「じゃあ、本当の、本物の『山田さん』は、僕の知らないこの免許証の写真の人で、僕の知っている山田さんは、その人の名前を騙っている、ということなんですね」

「そして英玲奈がこれを、山田の手の届かないところに隠そうとしたのは、これが山田にとっての致命的なウィークポイントとなるからに他ならない。山田が他人の戸籍を乗っ取っている、何よりの証拠だからな。山田も当然承知だ。バレれば『山田全』としての人生は終わる。ミハイルからも見捨てられるだろう。身の破滅を呼ぶことは間違いない。なんとしてでもこれを自分の手に取り戻そうと考えておかしくない」


「それって、母さんが山田さんの弱みを握っていた、……ということになります? まさか、脅していた、とか?」

「そこまではわからない。こんな方法で㓛刀に渡していた、いいや隠していたのだから、山田と合意の上で所持していたわけではないだろう。だがその目的が、山田を脅すためなのか、それとも山田から身を守るためなのか、それは私には判別つかない」

「……いや、すみません、ちょっと予想以上にドロドロしているっていうか」


 母はだらしなくて山田に面倒ばかりかけていた。

 山田に対してはあけすけで、いつ家に入ってもいいとカギを渡すくらいに信頼関係があるのだと思っていた。

 山田のほうも、英玲奈のしりぬぐいばかりさせられて気の毒だが、その息子の㓛刀にも親しく接してくれる、気のいい陽気な男だと、そう信じていたのだ。

 それが、どこのだれかわからない男だなんて。

 どこかの誰かの、人ひとりの人生、もしかしたら命までもを乗っ取って、平気な顔をして生きている男だなんて。

 二人の間に、こんなにもこじれた問題があっただなんて。

 いったい僕は何を見て生きてきたのだろう。


「僕は母親のことも、山田さんのことも、なんにも知らなかったんですね」


 自嘲すると、千石は、やけに真面目な顔をして㓛刀の顔を正面から見据えた。

 大きな、満月のような瞳に、まるで雲のように白い前髪がかかっている。


「これは私の私見でしかないが、考えてみてほしい。あのミハイル・スミルノフが、英玲奈がいなくなるまで、一度も㓛刀にコンタクトを取ってこなかったことについて」

「僕に正体を隠していたからじゃないんですか?」

「隠す必要などないんだ。㓛刀は英玲奈の息子だ。幼いころから、諜報員として思想教育を施し、工作員としての手管を仕込むほうが、彼らにとって利になることだ。なぜそれをしなかったのか」

「……英玲奈がいなくなるまでっておっしゃいましたよね。それって、母さんが、止めていた、防波堤になっていた、そういうことですか?」

「私は、そうだと思っている」


 あの放蕩で、倫理観も薄く、だらしのない女が。

 㓛刀は唖然とした。愛されていたというよりは、雑に扱われていた、そういう印象しかない。育児放棄に近い状態にされていたかと思えば、都合のいいときには顎でこき使われて。

 しかし、言われてみれば英玲奈から、祖国に対する何らかの知識を植え付けられることもなければ、怪しげな作業をさせられることもなかった。妙なことを吹きこもうとする大人に会わされることもなく、おかしな団体の行事に参加させられるようなこともなかった。国だの軍事だの情報戦だの、そんな話をしたことも一度もない。


 それどころか。

 英玲奈の著作は、ほとんど読んだことがない。断片的なものだ。それでも、グルメであっても、地方の民族文化であっても、日本を肯定的に紹介していた。その文面からは、うれしい、たのしい、日本はおもしろい、好きだと言った、そんな英玲奈の感情が詰まっていた。文面から滲みでるような、日本への愛があった。

 それを斜め読むだけでも、意識させずとも、その感情は㓛刀に伝搬していた。英玲奈の書いたものは、㓛刀へ、日本に肩入れする気持ちを芽生えさせていたのは、間違いない。

 そんなこと、つまり㓛刀が日本を好きになるようなことをするなんて、彼女の立場からすると理にかなわないことだ。

 千石の言う通り、守っていてくれたのだろうか。

 自分の裏の仕事については一切におわせず、むしろ何も知らなくても当たり前として暮らせるように、そう手を回してくれていたのだろうか。


「……じゃあ、僕も、そうだと思うことにします」

 㓛刀は、千石にそう返事をした。

「千石さんが言うのなら、説得力がありますしね」

「信頼してくれているのだな」

「ええ。だって、僕には実の母が死んだというのに、何をしたらいいのか、どう調べたらいいのかわからないままでした。ここまでいろんなことを知ることができたのは、千石さんが道しるべをしてくれたおかげです」


 㓛刀は、千石に、笑顔を向けた。

 あ、僕は笑っている、と、少しの違和感があった。

 いつごろからまともな笑顔を作っていなかったのだろうか。頬の筋肉が少々ぎこちない。すこし、ぷるぷると震えている。

 㓛刀は嬉しかった。自分がどこの誰なのかわからなくなる不安から、今は一本の芯が体の中心に通ったような心地だ。この街で生まれて育った。母からは邪魔っけにされていたのではなく、見えない世界から守ってくれていた。

 そして、そうやって生きてきたこれまでのことを、千石は幼いころから見守ってきてくれたという。

 ぼんやりと生きてきた。流されるように流されて、自分の意志や、どうしてもしたいことなどないと、自己主張をすることなく無難に、『普通』に生きてきた。

 無難だなんて、とんでもなかった。


「僕の普通を守っていてくれた母と、見守っていてくれた千石さんに、僕はなんだか、感謝したい気持ちです」

「……そうか」


 どれくらいこの気持ちが伝わっているのだろう。㓛刀は千石を見つめたが、やはり神々しく美しい、光るような顔は、いつくしむように細めた目で見つめ返してくれる。そのまなざしからは神の慈愛はあふれるほどに感じるが、㓛刀からの感謝と、愛は、伝わっているのだろうか。


「ミハイルさんには、お断りのご連絡をします。放っておいて、また誘いに来られても困りますし」

「いいのか」

「ええ、僕はこの国に残ります。確か、ミハイルさんには名刺を渡されていましたよね」

 ああ、と千石はうなずいた。


 それから、深刻に眉を顰めた。

「それならば、その前に、根回しが必要だ」

 根回し。そのあまり穏健とはいえない単語に、㓛刀は眉を曇らせ、千石の次の言葉を待った。


「英玲奈の殺害事件では、どうしても状況証拠しかそろわない。『おそらくやっただろう』だけでは警察は逮捕できない。だから警察を動かし、なおかつ逮捕するためには、多少強引な手段が必要になる。㓛刀がもし、危ない目に遭ってでも、犯人逮捕に結びつけたい、……そう言うのであれば……」

 㓛刀は神妙にうなずいた。


 千石は、節目節目でいつもアドバイスをくれる。進む方向を指し示してくれる。今ここも、ターニングポイントだということだ。そして千石がそんな前置きをするくらいだ。これまでにない大きな岐路となるのだろう。

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