17
㓛刀の通う大学は、自宅からは遠い。
しかし、のどかで、歴史はある。
山の中にあるから、繁華街付近に住む㓛刀の家からは、遠路はるばるとなってしまうのだ。
隣では、特急電車に浮かれる千石が、まるきり観光客然として座っている。昼間の車窓からの陽光で白い髪がきらきらと光り、それも彼女の機嫌の良さを表しているのかのようだ。
本日の装いは、花柄のシャツに、スタンダードな黒一色のロングスカートをはいている。
今朝の㓛刀は思い立って、英玲奈の寝室に入ったのだ。英玲奈が殺されて以来、入ることのなかった部屋のドアを開けるときは、少々緊張をした。
が、開ければ、なんてことはない。見慣れたいつもの光景が広がっていた。
一人で寝るくせにダブルベッドがどんと置かれている。寝乱れたままの形だ。
それから壁に沿って、ドレッサーが置かれている。三面鏡は扉を閉じられているので、㓛刀の姿は写される心配はない。
ドレッサーの隣には、堂々としたチェストが置かれている。クローゼットには冬物の衣装を、こちらには夏物が入っているはずだ。
そこを開けたことなど何度もある。なにしろ、風呂場から
「下着忘れた! 持ってきてー!」
なんて大声を出して呼ばれることなんて、それこそ週に何度もあったくらいだ。
ほかにも、
「気に入りのスカートがない」
だとか、
「今日着ていくつもりだったワンピースがない」
だとかで、チェストやクローゼットをひっくり返す手伝いをさせられたことも、度々ある。
そのたびに、どうしてそんなにものをなくすのかと呆れ、
「大事な用事ならもっと前もって準備しておいて」
と口をすっぱくして言ってきたが、とうとうその悪癖は治らないままだった。
そういうわけもあって、英玲奈の衣料品で目にして気まずいものなどない。外出着は土佐がクリーニングに出してくれるが、部屋着や下着類は、自分のものとタオルやハンカチなどの日用品も併せて㓛刀が洗濯をしていたというのもある。
しかし今日は、少しどきどきとしている。
部屋の主がいなくなったことなどまるで忘れた様子で、室内はいつも通り過ぎるのだ。今にも英玲奈が帰ってきそうな気すらする。
「なに勝手にヒトのタンスを開けてんのよ」
そんな憎まれ口も聞こえてきそうだ。
㓛刀は誰もいない部屋の中で、パンと手を合わせた。
「母さん、服、借ります」
これは罪悪感をごまかすためだ。
チェストを開ければ、夏物の服がぎゅうぎゅう詰めに入っている。見たことあるものもあれば、初めて目にするものもある。買ったまま値札すら切っていないものもある。
その中から、㓛刀はまっとうな服を探した。
総レースのワンピースや、谷間を強調するようなカシュクールのカットソー、深いスリットの入ったスカートなどの中から、選別する。
いたってノーマルな形をした花柄のシャツが見つかった。一度も来ていないらしく、これも値札がついたままだ。
同じような柄と生地のワンピースなら、たびたび着ていて、英玲奈は
「これイギリスの、すごく細い糸で織られた生地を使っているのよ。涼しくてきれいでしょ」
と自慢していた。きっとこちらシャツは、形が好みでなくて着ていなかったのだろう。女性らしさを盛り上げるようなデザインではないことから、そう推測できる。
こちらを拝借することにした。
下には何を合わせようかと迷った。適当なものが見つからずに困ったが、ロングスカートのワンピースを見つけた。スカート部分はふくらみがあって長さも十分にあり、可憐で慎しまやかにみえるが、デコルテがやけに広く開いており、ウエストにもぴたりと沿うように作られている。しかし、上からシャツを羽織ればその部分は隠せる。
「すみません、こういうのしかなくて」
そう千石に渡したら、ありあわせのものだといのに大喜びだった。それこそ大輪の花がほころぶような笑顔が見せ、
「ありがとう。㓛刀が選んでくれたのか。うれしいな。似合うといいんだが」
と、はしゃいで袖を通していた。
㓛刀は、いつかちゃんと、自分で稼いだお金で、千石に似合う、千石のために買ったものをプレゼントしたいと思った。
さて目的の駅に着けば大学までは徒歩だ。ほとんど山のふもとにあり、他にめぼしい施設もないので、降りる人間のほとんどが大学関係者、駅前も学生向けの弁当屋や軽食を売っている店が多い。今は夏休みだから、少々閑散としている。
「さすがに暑いな」
千石はあきれたように感嘆の息をついた。熱風の中を漕いで歩くような始末だ。
「ここから十分弱、歩きます。がんばりましょう」
「ああ。こう人目があるところを、飛んでいくこともできないからな」
「……それは目立ってしまいますからね」
一年と少し、そろそろ通いなれた通学路を、かわいらしい少女と連れ立って歩くのは面はゆい。まるで、彼女ができたみたいだ。
キャンパス生活を楽しむ多くの学生は、まるで当たり前のように恋人と通学し、講義も並んで受けたり、食堂で昼食を共にしたりしている。
㓛刀はそれらを見かけるたびに、
「どうせその可愛いのも、家に帰ればアレなんだろ」
と内心は腐していた。
何せ、誰からもうらやまれるような金髪美女の母親と二人で暮らしているのだ。その母親が、外出時は頭のてっぺんからつま先まで隙なく美しく装っているというのに、家での生活は壊滅的なのだから、他の女もどうせと捻くれて見てしまうのもやむをえまい。
ことあるごとに、
「㓛刀君のママ、美人でいいわね」
なんて言われたりもしてきたが、㓛刀からすれば、半笑いしか出てこないものだった。
だからこんな、女の子と歩いて、浮かれるような、気恥ずかしいような、ポジティブな感情に包まれるのは、はじめてのことだ。
行く先にはのどかな街並みの中に、そこだけ、こんもりと木々の茂る区画が見える。緑豊かな、大学の敷地だ。
来てみれば夏休みだというのに校門には警備員が立っていた。登校している学生も、教職員とみられる大人も多い。サークルや学内活動だけではなく、研究施設もあるのだから、そこに勤務している職員からすれば今日はただの平日なのだ。
敷地内に入ればまずは大きな円形の広場に立つことになる。学内バスのロータリーも併設したその場所は、前期、後期の講義のある時期はキッチンカーも入り、学生たちの憩いの場となっている。広場を囲むように、テラスやカフェ、文具や雑貨などが売っている店なども立ち並んでいる。
植え込みにある樹木は、知らない教授の名前の書かれた記念樹であることも多い。夏の日差しのコントラストの強い木漏れ日の下、総長の胸像も見かける。
その道を歩きがてら、㓛刀は声をかけられた。
見ると、昨夜にメッセージのやり取りをした、同じ学部の横田だ。
「よ、久しぶり」
衒いない笑顔が㓛刀にはまぶしい。
「横田、昨日はありがとう。夏休みなのに、大学に来てるんだな」
「俺はほら、サークル。大学のサッカーサークルなんて遊びみたいなもんだと思ってたのに、夏休みも結構ガッツリ練習入っててさー」
言う通り、まるで高校球児のように日焼けをした顔をしている。その笑顔がふっと和らいで、㓛刀の目を見た。
「いや、なんかほら、昨日メッセージでさ、オヤに不幸があったって聞いたからさ、そりゃめちゃめちゃ落ちこむだろうって心配したけど」
「あ……ごめん」
「あやまんなよ。むしろ思ったより顔色も悪くなくて安心した。よかったよ。それに、彼女? すごいかわいいね、アイドルみたい」
「……あ……っと……」
「あー、うん、いいよ、いいよ。いきなりツッコんで聞いてごめんな。今度、落ち着いたころにまた聞かせてよ。愚痴でいいからさ。いろいろと。彼女のことも、すごい気になるし、また紹介して。今日は㓛刀の顔を見たかっただけ。じゃあな」
「あ、うん、ありがと。またな」
怒涛のようにまくしたてられ、㓛刀は、少々呆気に取られて横田を見送った。
「㓛刀」
と千石は、横田の背中を見ながら言う。
「サッカーの練習に来ている奴と、こうバッタリ出会うと思うか?」
「え? そりゃあ同じ大学だし」
「横田の服装は、サッカーをやるものだろうか」
「ジーパンじゃやらないだろうし、この後着替えるんじゃないのか?」
「着替えるにしては荷物を持っていない。それにこんな中途半端な時間、午前中の練習だろうと午後からだろうと、どちらにしろ、ここでジャージやウェアやそういう姿でなくこんな正門の目の前で、何をしていたんだと思う?」
「それは……僕に聞かれても」
「㓛刀は鈍感だな」
千石が㓛刀をけなしたのは、これがはじめてかもしれない。明確に憤慨する様子を見せるのも珍しい。
「㓛刀を心配して、オマエの顔を見るためにわざわざ、練習を抜けるか休むか何かして、このあたりで待っていたんだろう」
「まさか。そんな自意識過剰だよ」
㓛刀は笑って否定した。だが千石は引かず、㓛刀の胸をとんと手のひらで押した。
「㓛刀は自分に向けられる好意や愛情を無碍にする面がある。それはよくない。ちゃんと受け止めろ」
そして千石は、㓛刀を促して再び歩き始めた。
横田のことを、実のところ、㓛刀はよく知らない。なんとなく会話をするようになっただけの縁だと思っている。㓛刀と違って横田はスポーツが好きで、誰とでも賑やかに話している。顔も広く、アルバイトで金をためて、サークルの仲間と旅行に行ったりと、楽しい話に事欠かない。要するに、㓛刀とは対照的な男だ。
そんな横田が㓛刀といまだに縁が切れずにいるのは、横田がマメで、講義の履修や休講やらと細々連絡をくれるからだ。これはとてもありがたい。だがそれも、横田が、誰とでも喋ることができるいいやつで、コミュニケーション上手なだけだ。横田にとっては㓛刀など、大学に多くいる顔見知りの一人に過ぎない。
「㓛刀は自分に自信がないから見失う」
見透かしたように千石はつぶやいた。
「たとえ横田にとっては㓛刀は多くいる友達のうちの一人だとしても、友達には変わりがない。㓛刀はもっと、横田に応えるべきだ」
㓛刀は何とも言えなかった。ただ、
「友達を大事にしろと言うことですか。それはよく聞きますし、そうするべきだと僕も思います。でも、大事にするって、具体的に、どうしたらいいのでしょう」
「そうだな、たとえば、さっきの約束を守ればいい」
「約束?」
「言っていただろう、話を聞かせてくれ、私のことを紹介してくれって」
「ああ……」
「ちゃんと、オマエから連絡するんだぞ」
本当にそれでいいのだろうか。自分の親が殺されたなんて話、聞かされても横田だって困るんじゃないか。それに千石のことは、どう紹介したらいいのかわからない。近所の神社の神様です、なんて、頭がおかしくなったと疑われる。
悩んで歩いているうちに、㓛刀の所属する学部のエリアに入る。目的のロッカーは、学部ごとに分かれた建物の中にあるのだ。
屋内は、ひんやりしていた。いつもより照明を絞られているのだろうか、廊下は暗い。人の気配も希薄だ。
ロッカーの前に辿り着き、小さなカギを使って開ける。
中には、置きっぱなしにしていた教科書や、講義で配られたプリント資料、もう使うことはないはずの入学時に配られた『大学生活の手引き』などの重量級の本が何冊か。それから捨てることすら忘れていたチラシやサークル勧誘ビラなんかもある。一年生時に受けた体育のための靴なども、置きっぱなしだ。
しかし全体の量は少ないので、簡単に確認できてしまう。
「母さんにもらったもの、でしたよね」
「あるのか?」
「……今の今まですっかり忘れていましたけど、これ」
㓛刀は、『大学生活の手引き』とサークルビラの間に挟まっていた小さな箱を取り出した。
「定期入れ、なんですけど」
「なんでしまいこんでいたんだ? 使えばいいじゃないか」
「……見たらわかります」
㓛刀は箱を開けて、千石へ見せた。
黒いカーフがつやつやと光る、見るからに男性用のデザインの定期入れだ。その全面にはりつくように、大きなシルバーの飾りがついている。とても有名なブランドのロゴデザインを、そのままかたどったものだ。いかにも高級ブランド品だというアピールがすごい。
「……なるほど、㓛刀はこれが恥ずかしかったわけだな」
「新入生がこんなの持ってたら、生意気じゃないですか? 変に目立ちそうですし、僕に似合いませんよ」
「まあ確かに、㓛刀が持っていたら、違和感があるな」
千石はひょいと摘まみあげる。チンピラかホストなら喜びそうなデザインは、千石の指にも似合わない。
表面を眺め、裏に返す。しげしげと眺めてから、二つ折りのそれを開き、内ポケットを探る。
「……あったぞ」
内ポケットから、千石の指が、見慣れぬカードを引っ張り出した。
「なんでこんなものが」
㓛刀は首をかしげる。
カードは、誰かの運転免許証だった。古びていて、写真を見ても、誰とも見覚えがない男だ。これを英玲奈が、㓛刀に黙って仕込んでいたとしても、意図がまったくわからない。写真の男はどう見ても㓛刀の父親とも似ていないし、いくら思い出そうとしてもその顔は記憶にない。
「山田が探していたのは、これだろう」
「これですか?」
㓛刀は最初は違和感に気づかなかった。けれど千石がそう言うのならばと、免許証の記載事項に目をやった。
「……え? これ」
「そう、これは、山田全の免許証だ」
「山田さんのって、いや、だって、これ、ぜんぜん違う人の写真じゃないですか」
氏名の欄には、間違いなく、山田全と書かれている。
山田の生まれた年までは㓛刀は知らないが、誕生日は合っている。だが住所は九州の知らない都市だし、有効期限はとっくに切れている。
裏面を見たが特に記載されている事項はない。引っ越しをしていれば、そこに記述があるはずだ。
「たまたま、同じ名前の人のもの、……なんてわけはないですよね」
「この期に及んでそんな偶然があるわけないだろう。山田は、山田ではなかったということだ」
「それって、どういうことです?」
「まあ、帰ってから説明をしよう。㓛刀、その免許証は、大事に持って帰ろう。重要な証拠となる」
あらためて写真を見る。まったく見知らぬ、これといって特徴のない男だ。証明写真だからか、少々うつろな表情をしている。この写真の男は、今はどこでどうやって暮らしているのだろう。
㓛刀は免許証を定期入れに元通りにしまった。それをポケットに入れ、その上から何度か手でぽんぽんと叩いた。
山田が山田ではなかった。
もしかしたら、㓛刀達矢が㓛刀ではなくイワノフだったように、彼も違う名前があるということなのだろうか。
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