19

 ミハイルとの再会は、その後すぐのことだった。


 名刺に書かれていた連作先へメールを送ると、

「会ってお話ししましょう」

 と即時に返信が来た。


 先日のホテルのラウンジでいかがかな、と。


 千石を伴ってホテルへと向かったが、千石はラウンジへは入らずに

「私はここで待っている。誘われたのは㓛刀だけだ。私までついていくのは、ミハイルを警戒させるだけだ」

 と、その外の待合ロビーのソファへと腰を下ろした。


 ここ数日、常に隣にいてくれたことから㓛刀は不安を感じたが、

「ここは㓛刀がひとりでがんばるところだ」

 と笑顔をもってかたくなに、同行を拒否した。


「なに、ここからでも会話は聞こえるし、何かあればすぐに駆けつける。それに、こう人目の多い場所で、ミハイルも実力行使に及ぼうとはしないだろう」

「わかりました。ここで待っていてください」

 㓛刀はうなずいて、千石に背を向け、ミハイルのもとへと向かった。


 一流ホテルのテーブルに着いたミハイルは、ひとりがけのソファに腰を下ろし、優雅にコーヒーを口にしている。所作も儀礼も、完璧に身に着けているという自信があるのだろう。彼は何一つ恥じるところも、後ろ暗く思うこともなく、堂々としている。


 ミハイルに軽く会釈をし、

「お待たせしました、ミハイルさん」

 と、その対面の席へと座った。

「やあ、来てくれてありがとう」

 ミハイルは親しみを込めた笑顔を向けてくる。


 㓛刀はやや緊張をしたまま、ミハイルの様子を探った。

 前回会ったときと同じように、上品なスーツを身に着けている。余計なしわもなく、袖や裾もぴったりと合う丈だから、オーダーメイドなのだろう。ネクタイについては㓛刀は詳しくはないが、夏の暑い日にかかわらずにきちんと締めている。ジャケットももちろんだ。つまり、彼がジャケットの下に銃などの武器を仕込んでいる可能性はある。

 まさかこんなところで乱闘騒ぎが起こるはずはない。㓛刀も理性ではわかっているが、恐怖があるのだ。


 ミハイルは、㓛刀英玲奈の雇い主だった。近衛から自衛隊の情報を抜き出した英玲奈が、最終的にその情報を渡していた相手だ。おそらくその中継地点に山田がいる。近衛とつながりのある英玲奈を直接ミハイルに会わせないために、仲介者はいて当然だ。

 英玲奈の殺害は衝動的だったと想定している。では、近衛はというと、周到に準備された口ふうじだ。

 目の前の男が仕組んだのだろう。

 そして、のうのうと、殺した男の息子の前で、コーヒーを啜っているのだ。


「さて、私の誘いにこたえてくれるかというと、まだそんな気になっていないようですね」

「はい、僕は日本に残ります」


 ミハイルは口を開けて笑顔を作った。欠けた歯が見えた。それは㓛刀の心象には、まるで手負いの獣のように禍々しく映る。


「だいじょうぶです、日本に残っていても仕事はできるんですよ。達矢君はもうすっかりこの国のコミュニティになじんでいますからね。ああ、そうだ、もしかしたら壮大なデータを盗んでほしいとでも頼まれると危惧しているのかもしれませんね。映画でもあるまいし、そんなことはありませんよ。そうですね。たとえば、ニュースサイトや新聞の記事を収集したりだとか、たとえば君の大学に所属する教授の懇親会や、そういうちょっとした人の集まりに出向いて、そこにいた人物が誰だったのかリストアップしてほしいとか、まあそれに似たような、そんな程度です。まったく身の危険はないし、いたって合法の範囲だ。君はそんな簡単な仕事を、ごくたまにするだけで、衣食住に不自由ない、これまで通りの生活が送れる」


 もしかしたら、食い詰めた人間からするとこの誘いはとても魅力的に映るのかもしれない。

 けれど今の㓛刀にとっては、食っていくことよりも、今自分がどこの立ち位置に立っているのか、自分がどこの国に属すのか、そのほうが大事なことだった。


 国という言葉を使うと大げさだが、㓛刀にとってこの国とは、育った土地であり、母・英玲奈と暮らした街であり、通う大学と、友人のいる場所だ。そして千石と巡り合い、千石が宿る『くに』なのだ。そこに対する愛着と、その人たちとつながっていたいという気持ち、それまで失ってしまったら、それこそもう自分がどこの誰だかわからなくなってしまう。根無し草になってしまう。

 人としての、矜持がかかっているのだ。それこそ、それを礎に、胸に抱いて海に沈んでも構わない。そう願うほどに、この先、生きていくために、今の㓛刀にとって必要なものだった。


「お誘いはありがたいのですが、僕はこのまま大学を卒業して、普通に働いて暮らしたいんです」

「普通か」


 いかにもおかしな冗談を聞いたとばかりにミハイルは笑った。


「達矢君の考える『普通』というのは、非常に限定されたコミュニティ内でしか通用しない、世界の狭いものでしかない。そんなものは、土地、人、環境、その他要因で、容易に覆る、実に脆弱な概念だ。あなたの知りえない世界など腐るほどある。それについては、エレナの死後、あなたも身に染みてわかったのではないかね? こうやって、私のもとに辿りつくほどだ。そう知り、理解したのだろう。実に聡明だ」

「僕にとっては、その『普通』がかけがえのないモノなんです」

「それは偽りの、薄氷の上でなりたっていた戯曲に過ぎない。真実に目を向けたまえ」

「ミハイルさんにとっては幼稚で愚かに思えるでしょう。でも僕は、愛着を選びます」

「それは苦難の道だ」

「承知の上です。僕は、ここで育ててくれた母が、そう育ててくれた通りに、『普通』の日本人として、生きていきます」


 ミハイルは表情を変えた。穏やかで優しい。そんな紳士の顔が急速に冷えていき、苛烈な威圧感をかもしだしはじめた。灰色の瞳からは穏やかさが失せ、そのほの暗いモノトーンは、まるで吹雪の中に遭難者が見る絶望の光景のように酷薄だ。


「あなたはここで、『普通』に生きていけるとでも思っているのですか?」


 懐柔から恫喝へと変わる。静かだが、顎を引き額にしわを集めたその表情は、厳罰を処す将校のような険しさだ。

 一言を間違えたら全力で取って食われる。この人は、自分一人などいつでも踏みつぶしてしまえる。彼が命じさえすればいつでも銃を撃つ部下などいくらでもいて、そして今まさしくその銃口は、自分の心臓へとぴたりと照準を当てている。そんな想像がたやすくできてしまう。


 㓛刀はぞくぞくと、背中からうなじへと鳥肌がよじのぼってくるのを感じた。


「既に言ったはずだ。あなたはもう、公安警察にマークされた、国賊、売国奴の息子だ。あなたの素性を知れば誰もあなたを日本人の仲間だなんて思わない。『普通』? そんな選択肢、もうとっくにあなたの手には残っていないんですよ」

「……仲間だとか、そういうのは、元々人づきあいが苦手なのでよくわかりません」

 㓛刀は次の言葉を、虎の尾を踏みぬく覚悟で口にした。

「でも、ミハイルさんこそ、わかりませんか? 父を殺し、母を殺した人のもとで働きたいなんて、思うわけないじゃないですか」


 言い切った後には、息が切れた。心臓がドキドキと鳴る。肋骨が痛む。


 人を殺人犯だと断罪をする言葉を、面と向かって口にするなど、しかも他国の立場のある老獪な男に向かってなど、㓛刀には相当に覚悟と勇気が必要なことだった。


 けれど、ミハイルは、いたって澄ました顔だ。動揺のかけらも見られない。


「それは濡れ衣ですね」

 と、あっさりと否定する。


「いえ、ミハイルさん、あなたが命じて、殺させたはずだ」

「エレナについては、本当に事故ですよ。私の意図するところではなく、道具が暴発しただけです。本当に残念です」

「……近衛達夫は?」


 ミハイルは、それには答えずに、唇だけを弓のように曲げた笑顔を見せた。灰色の双眸はがらんと感情がなく、損得と利害を綿密に見定めているような狡猾さがある。


「達矢君、あなたは迂闊ですね。好奇心か執念か、いろいろと嗅ぎまわれて迷惑です。そうやってあまり踏み込まれると、私も恐ろしくなってしまう。火の粉を、払わなければいけないじゃないですか」

「……僕のことも、始末するつもりですか」

「まさか。私は何もしませんよ。私自身はね。せいぜい身辺にお気を付けて。では今日は、これまでにしましょう。また会えるといいですね」


 ミハイルは立ち上がり、

「ああ、清算はもちろん私が。失礼」

 とテーブルの上の伝票をひらりとつまみ、まるでダンスのターンのように華麗に踵を返し、立ち去っていった。


 㓛刀も立ち上がり、千石の元へと戻る。


 千石は、いとけない顔を心配げにひそめて、㓛刀を見上げている。その容貌を白い髪が包むように取り巻いている。

「千石さんの言った通りでした」

「そうか」

「近衛達夫に関しては彼が指示を出した。彼が黒幕だ。けれど、母さんは違う。彼の手先となっている『人物』が、『暴発』して起こした事件だ。ミハイルが、そう言っていた」

「ああ」


 㓛刀はポケットから、ボイスレコーダーを取り出した。保存終了の操作をする。それからスマートフォンの録音機能も使っていたから、そちらも止めた。


「たぶん録音できていると思いますが、すみません、決定的なことは言わせられなかった、と思います」

「そうだな。近衛についても返答は無言。英玲奈についても、㓛刀にさせたかった仕事についても、㓛刀への脅しも、具体的なことは言わなかった。刑事裁判の証拠にはならないだろう。だが、怪しいと思う程度になら、じゅうぶんだ。これで警察の協力は得られるだろう」


 千石は、おおきくうなずいた。


「㓛刀、よくやった」

 㓛刀はほっと肩の力を抜いた。

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