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 ちょっと寄っていきませんかと誘ったのは㓛刀のほうからだ。


 ミハイルと遭遇したホテルからの帰り、もうすぐ夕暮れとなる街の、斜めからさす日差しの中を二人で歩いて帰ってきた。自宅の前まで来れば、その目の前には神社がある。


 あらためて見れば、大きな神社だ。㓛刀の認識では『家の前の大きな公園の、その横にある神社』というものだったので、普段はあまり認識していなかった。母親も信心深くないため、㓛刀も自然、あまり足を運んだこともなければ、参拝の形式もおぼつかない。


「私の家にか?」

「そうですね、千石さんのご実家に」


 昨日の早朝におとずれたときとは大きく状況が変わってしまった。

 それは㓛刀のアイデンティティを大きく揺るがす秘密がいくつも暴かれたからだ。

 今でのその余震は収まっていない。動揺する内心は大渦巻のように荒れている。


「連日お参りするのははじめてなんですが」

「そうだな」

「ご存じでしたか」

「言ったろう、オマエが小さいころから見ていたと」


 鳥居をくぐる。

 昨日は気づかなかったが、朱塗りの鳥居だけではなく、石で作られた大鳥居もあった。狐像が左右に揃っているのは周辺の小さなお社のむれだけで、本殿には存在しない。きっと㓛刀の知らない理由があるのだろう。昨日まで気づかなかったが、今はその理由を知りたいと思った。


 御手水からひしゃくで水をすくい、手にかける。簡易的な禊だ。

 それを神様の見ている前で行うのはすこし気恥ずかしく、

「こんな感じであってますか」

 とはにかむと、千石は、

「どうであっても、相手を、この場合は私を、尊重する気持ちさえあればいい」

 と鷹揚だ。


 本殿の前に立つ。

 視界は、夕暮れ直前のオレンジ色の光で包まれて、きらきらとしている。風が吹き、境内に植えられている木々が、さらさらと優しい音を立てる。まるでささやき声のようだ。

 なんのこともない風景かもしれないが、㓛刀はそこに、神聖性を感じた。

 手を合わせる。

 母を殺した犯人が捕まりますように。

 そう願う気持ちは今も変わらない。あんな人でも、ちっとも尊敬していなくても、面倒ばかりかけられた思い出しかなくても、たったひとりの肉親だったのだ。その母の命を非情にも奪った輩が、今も息をして、のうのうと闊歩しているのかと思うと、やりきれない。


 しかし今は、それだけでもない。

 まだうまく言葉にできないが、㓛刀の中で、何かふつふつと感情が生まれ続けているのがわかる。なにか変わってきている。

 それは決していやなものではない。

 大事にしたい、自分の中の、なにかだ。

 こんな状況なら、恨んだり、僻んだり、わが身の不幸を嘆いて世を呪ったり、そんな精神状態に陥ってもさもありなん。

 恨みも、僻みも、呪いも、もちろん㓛刀の中にも存在している。

 だがここで手を合わせていると、それだけではない自分を、信じることができそうだった。

 不思議に肩から力が抜けて、息をするのが楽になるのだ。


 一礼をして、目を開けた。

「千石さん、行きましょうか」

「そうだな」

 千石は、何も聞かない。

 ただ帰り道となる参道を、二人で並んで歩く。


 いまさらに夏の暑さを思い出し、セミの声の激しさが耳に入った。まるで、急に現実の世界に引き戻されたかのようだ。汗をかいていたことに、ようやっと自覚する。


 石の鳥居の向こうには、公園がある。

 大きな円錐のすべり台が見える。鉄棒もある。㓛刀の幼いころはブランコと砂場もあったように思うが、そこと思える場所には今は何もない。それら遊具から離れた場所にベンチがいくつも置かれてあって、この暑い最中でも、ご近所さんとみられるおじいさんや、小さな子供連れの母親が、そこで談笑している。


 千石は、すっとそれらを指さした。㓛刀の半分ほどの太さしかなさそうな指は、つるつると張りのある白い肌に覆われていて、いかにも瑞々しい。さししめすツメは、丁寧に磨かれた硬玉ように光っている。

「あのすべり台、懐かしいだろう」

 千石は思い出話をするつもりのようだ。


「㓛刀は小さいころ、よくここで遊んでいたな。私はそれを見ていたぞ」

「前にもそうおっしゃっていましたよね」

「ああ。よく覚えている」

 千石はほのかにほほえむ。


「㓛刀はまだそんな小さいころから、人に遠慮ばかりしていた。四つか五つか、まだそんな年でもな、そんな年のくせに、すべり台の順番を人に譲ったり、先に遊んでいる子らがいると、その子らが立ち去るまでじっと待っていたりしていたな」

「……ちょっと、やめてくださいよ、恥ずかしい」


 そんな子どものころの、意気地なしな場面まで見られていたなんて、㓛刀は恥ずかしい。暑さとは違う汗が額にじわりと滲む。


「泣いている子や、怒っている子がいると、いつも一番最初に気がついていた。同じような感情になって、㓛刀まで困った顔をしてオロオロしていたな。それから、まだぜんぜん遊んでいないのに、ベンチで待つ英玲奈のほうへ戻っていくこともあった。『僕もういいよ、お母さん、寝てないでしょ』って。私はな、なんて優しい子なんだろうと思った。人間の性根は、三つ子の魂とも言うが、幼いころから明確に個性を発揮する。㓛刀は優しい。自分のことより、人の感情を優先し、振り回されてばかりいる。私はそんな子を見て、この子はこの先を生きていくのは大変だろうと、そう思ったよ。私は心配をしていた。愛しいが、哀しい子だと」

「……そうでしたか」

「今は㓛刀の手伝いができる機会が来た。だから㓛刀、せめて神様には、遠慮なく頼ればいいぞ」


 㓛刀は、深く息を吐いた。高ぶる感情を抑えようとしたが、できなかった。涙はとまらず、目からこぼれた。

 悲しいのか、つらいのか、苦しいのかといえば、切なかった。

 自分を子どものころから知っていてくれて、憎からず思ってくれている人がいるのだということが、㓛刀の胸の穴を埋め、温めてくれた。

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