14

 紳士的でにこやかな男は、ミハイル・スミルノフと名乗った。


「君のことはよく知っていますよ、㓛刀達矢君」


 㓛刀は蛇に睨まれたカエルのように動けない。

 穏やかなほほえみを浮かべる男の何が恐ろしいのか、㓛刀は自分でもわからない。ただ、これまで生きてきて、接したことのない異常な人間だということはわかった。

 異常と言うのならば、千石だってそうだろう。しかし彼女を初めて目前にした際の感情は、陶酔だった。

 今は、背筋にムカデがよじ登るような恐怖を覚えている。


「そちらは、千石千早さんですね。はじめまして」

 千石は、黒のキャップのツバを上げた。ミハイルがよく見えるようにだろうか。晒した顔は毅然として、怯む様子は微塵もない。


「私が氏名共に名乗ったのは、警察関係者を除けば山田だけだ。ミハイル、オマエはやはり、山田と内通しているのだな」

「内通? はて、それは身に覚えのないそしりですね」

 にこにこと鷹揚に構えている。


「私は祖国の繁栄のための一助としてこの国におとずれている、ただの外交官ですよ。しかし、そうですね、あなたのおっしゃるとおり、外交官という職業は、いわば公的な諜報員、スパイともいわれるような仕事をすることもある。それも含めて、私は私の職責に恥じることは、これまで何ひとつたりともしておりませんよ」

 ミハイルは落ち着き払って、まるで優し気に、自身をスパイだと認めた。


「さて、㓛刀達矢君。あなたの母親であるエレナ・イワノフとは、私は長いお付き合いでしてね」

 そしてこんな昼日中の、いつ人が通るかしれないホテルの出入り口ドア付近で、核心から切り出した。


「彼女には良い仕事をしてもらっていました。私とも年数を積み重ねた信頼関係もありました。彼女を失ったのは大変に残念なことです。彼女は聡明で美しく、魅力的でした。私は心から痛ましく思っているのですよ。そこで、よろしければ、どうでしょう、達矢君。あなたがその仕事を引き継ぐというのは」

「……どんな仕事だっていうんですか」

「なに、心配することはありません。簡単な仕事ですよ。あなたはまだ若いからね、これから学んでいけば、すぐに覚えるでしょう」


 仕事内容の詳細どころか、概要すら明らかにしない。なにも隠すこともない業務ならば、つまびらかにしたほうが信用は得られる。だというのに口を閉ざした。それに、彼はスパイと自身の身の上を明らかにしている。そのうえでのことだ。間違いなく、㓛刀は彼の非合法な尖兵として、手ごまとするために、勧誘を受けているのだ。


「……すみませんが、僕にできるような仕事とは思えませんから」


 ミハイルは、まるで親身になって相談を受けているかのように、うんうんとうなずいた。

「急に誘いかけられても、戸惑う気持ちはわかりますよ。だが達矢君も、自分の立場を考えてほしい。あなたはね、今回の事件で、すでに公安警察にマークされる人物となっているんですよ」


「……え?」


「つまり、実際スパイ活動をしようがしまいが、もう警察にとっては同じことなんです。あなたはこの国の警察から、信用のならない、油断のならない人間だと、疑われ、監視されています。わかりますよね?」

「……まさか」


 㓛刀は、数橋の言葉を思いだした。

『この家は、当面の間、公安警察が交代で張り込みをしている』

 あの『当面』は、事件が解決するか、安全が確認されるまで。そう勝手に解釈をしていた。

 事実は違うのかもしれない。なぜなら、聞いてたずねて、確認をしなかった。

 本当の意味は、㓛刀達矢が諜報員のひとりであることが否定できるまで、そういうことだったのかもしれない。

 すうっと、血の気が引く思いがした。

 母の事件を担当してくれている刑事、その彼が、根っこから自分のことを疑い、監視していたのだというのか。


「公安警察にマークされてしまったあなたは、この国ではもう公的な機関やそれに準ずる組織への就職はできないでしょう。それにもう、ご自身が日本人でないことはわかっているのでしょう? あなたがいくら、自分自身を『この国に住むほかの人たちと同じ』だと認識していても、現実は違う。就職にも、引っ越しにも、結婚にも、影響があります。あなたは、他国のスパイの子だ。この国にとって、あなたは敵なのです。どこまでいっても『異物』だ。何も知らないエレナの子どもだった時期はもう過ぎたんです。そろそろ現実を直面しなくてはならない」


 ミハイルはいかにも優し気に、いたわるように、㓛刀を見つめる。


「あなたはこの国ではまともな生活はできない。だが私は達矢君、あなたを歓迎しましょう。身寄りも一人もいない、同族もいないこの国ではなく、あなたが本来属すべき祖国へと戻り、本来生きるべきだった土地で生活をし、同じ民族の仲間たちとともに身を寄せ合って暮らしましょう。私はそのために達矢君を手助けする準備は、いつだってあります」


 㓛刀は、何も言えなかった。

 ミハイルの話がどこまで真実なのかはわからない。誇張はあって当然だろう。

 だが、㓛刀には圧倒的に知識がない。だからどこまで本当か嘘かを見極めることができない。

 そもそも、彼はスパイだと名乗った。

 けれど、外交官なのだ。政府の高官であり、身元の確かな男だ。実績や信頼がなければ、日本への赴任は命じられないだろう。彼の地位と権力ならば、身寄りのない自分一人を祖国へ呼び戻すくらい、簡単なことではないだろうか。

 そこでなら、もしかしたら英玲奈の親戚筋の人間と会えるのかもしれない。


「……㓛刀」


 千石に名を呼ばれ、はっと息を吸った。

 ミハイルは再び、紙袋を㓛刀に差し出した。今度は胸元へ押しつけてくる。気さくな仕草でぽんと軽く叩いて、その手を離した。

 もちろん紙袋は落下しはじめる。㓛刀は、とっさに手を出して、受け止めてしまった。手を出さざるを得ないように仕向けられたのだ。


「そちらは差し上げますよ、どうぞ召し上がってください。中には私の名刺もいれてあります。本日のお話はこのくらいにしましょう。ゆっくり考えてみてください。ぜひ良いお返事を。ご連絡をお待ちしていますよ」


 ミハイルは、先ほど㓛刀が開けそこなったドアから悠然と出て行った。

 夏の日差しの中でもそのスーツの背中は、そこだけ季節が違うかのように涼しげだった。


「㓛刀」

 千石に名を呼ばれる。

 㓛刀は息を抜いた。ほとんど呼吸すら忘れて緊張をしていたようだ。

 言われた言葉が頭の中で乱反射して、うまく理解できない。


「㓛刀、いったん帰ろう」

「……はい。千石さん、すみません」

 㓛刀はうつむいた。彼女にはみっともなく取り乱す姿ばかりを見られている。

 千石は、笑顔で㓛刀を振り仰いだ。

「ばかだな。なにを謝ることがある。私のかわいい信者だ。世話をすることすらも喜びだよ」

 㓛刀はその笑顔に、力なく笑い返すので精いっぱいだった。

 区役所からの帰り道のように、手をつげたらと、そういう欲を持った。

 けれどそうするには㓛刀はあまりにも自分に自信がなく、自分から彼女に触れる資格などないと、相手にうかがうことすらもせずにそうひっそり諦めてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る