13

 山田の勤める出版社であるところの詠談社は、実は㓛刀の自宅から自転車で数分ほどのところにある。

 今日は千石が一緒だから徒歩にしたが、それでも二十分もかからない。


「……母さんがアレだから、近くに住むようにしたって聞いてる」

 締切前に催促するにしろ、資料を届けるにしろ、打ち合わせをするにしろ、すぐ近くのマンションであれば、山田が直接家へたずねることができる。そうであれば、遅刻癖のある英玲奈を待ちぼうけせずに済むし、締切日なのにまだ寝ているなんて事態にも対応しやすい、というわけだ。

「なるほど、合理性重視だな」

 千石はうなずく。


 詠談社は大きな会社ではない。バブル期に建てた自社ビルはもう古びていて、外から見てもあちこちにガタが来ていることがわかる。修繕したり引っ越ししたりする余裕がないのか、土地柄やビル建設の経緯に思い入れがあってのことなのかは、社外の人間からは窺いしれない。


 そのビルの出入り口が見えるコーヒーショップで、千石と二人で張り込みをしている。

 全国チェーンの安価な店だ。そこのガラス張りの店頭に向けて作り付けられたカウンター席に、二人並んで座っている。


 㓛刀はアイスコーヒーを、千石は抹茶ラテを選んだ。

 千石はやはりこういう店にも来るのは初めてのようで、

「知ってはいたが、知っているのと実際に来店をするのでは違うな」

 とメニューを前に目をキラキラとさせていた。写真を見比べ、どれにしようかと真剣に悩み、店員にも

「これは甘いのか? 量はどれくらいあるのだろう。あ、サイズは選べるのか。なになに。三種類もあるが基準になる大きさがわからないな。コールドとホットがあるのか。㓛刀は? 冷たいのを飲むのか? じゃあ私もそうしよう」

 と、根掘り葉掘りといった具合に聞いて、大変充実した時間を過ごしたようだった。


 もっと女性が好みそうな、やたら長い名前の商品名が並ぶコーヒーショップもある。千石ならそこでも喜びそうだし、そのうち連れていってやりたい。今のように、やはり店員にあれこれと遠慮なくたずねて、悩みながら選ぶのだろうか。


 そんなことを考えながら空いた席へと、千石と肩を並べて座る。

 そしてひとくち、口に入れ、とたんにぱあっと輝くような、ご満悦の表情といったら。

 幸せそうな千石を見守るとつい忘れそうになってしまうが、今は尾行をするため、山田がビルから出てくるのを、こうして待っているところなのだ。


 この一杯をすっかり飲み切ってしまうまでに山田が姿を現すか、それとも今日は一日社内での仕事になるのか、それは㓛刀にはもちろんわからない。

 尾行ならば人目を避ける必要があるだろうと、千石には黒のキャップを被せてみた。せめて髪色がごまかせればと思ったが、やはり人目は引いてしまう。店内に客はまばらだが、店員はずっとソワソワとこちらを伺っている気配が続いていて、㓛刀は少々疲れを感じていた。


「……山田さん、まだ社内にいますか?」

 千石は、くるりと大きな目を巡らせて、㓛刀を見上げた。

「なんだ。もう飽きてきたか」

「飽きたというよりは、あんまり長居するのも店員さんに申し訳ないというか」

 嘘ではないが、お為ごかしではある。

 それを見透かしてかどうか、千石はニンマリと笑う。

「まあそう急くな。もうそろそろだぞ」

 言い振りは、まるで山田のこの後の行動を把握しているかのようだ。


「千石さん、やっぱりこの後のこと、予想できているんじゃないんですか?」

「最初に伝えた通り、未来視できるほどの神力、いわゆる宿命通は戻っていない」

「宿命通?」

 聞き慣れない言葉に㓛刀は反芻する。


「神が持っているとされる五神通のうちの一つを言う。具体的には、神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通。実際のところそう綺麗に五つに分類することはできないが、便宜的に人間に理解してもらう際にはわかりやすいので私もそう呼んでいる。神足通は、ひとっ飛びでどこにでも行くことができ、好きな姿を取れる力だ。天耳通は、すべての声を聞く力。この場合の『声』とは広義のもので、人の喋る言葉だけではない。次に、宿命通。人間の過去、現在、未来を見通す力だ。これが戻っていれば山田の行動の把握は容易だろう。最後の天眼通が、人の生死や輪廻転生を見通す神力だ」


「すべて戻っていたら、犯人探しなんてしなくてもすぐにわかっちゃいますね」

「そうなのだが、残念ながら私にはごく限定的な神力しかない」

「どんな力ですか?」

「それは……少々、浮いたりだとか、特定少数に対して、ほら、一度会った人間、それも転生後のこの体で会ったことのあるという限定だが、その人間の居場所がだいたいわかるだとか。ああそうだ、神前で祈る人間の願いごとが聞こえる、というのもそうだな。そんな程度だ」


 千石が易々と口にしたそのタイミングで、目の前の詠談社の自社ビル、玄関から男が出てきた。山田だ。今日もジーンズに綿のシャツというラフな格好をしている。少々太り気味だが、彼の年齢ならごく平均的な範囲だ。真夏の炎天下に、いかにも暑そうにタオルで首を拭いながら歩いていく。

「行こう」

 千石に促され、店を出た。


 エアコンの効いた店内から外へ一歩踏み出すと、まるでサウナのような湿度だ。走る車が照り返す太陽光が目に刺さる。アスファルトの上は、まるで湯気が立っているようにゆらゆらと茹っている。

「千石さん、僕、尾行ってしたことないんですけど」

「それは今朝も聞いた」

「例えばどれくらい離れて歩くとか、どういうことに気をつけるかとか、そういうアドバイス、なにかありませんか?」

「特にない。というか付け焼き刃で今何か指示を出して不自然になられるほうが困る。所詮㓛刀の自宅の近場だ。もし気づかれて話しかけられたところで、デートだと言い張ればいい」

 デートという単語に、㓛刀はきゅうと肩に力が入る思いだった。口にも変に力が入ってしまって、強張ってしまう。緊張してしまうのだ。これではまったく、不自然だ。


 詠談社の自社ビルを出て、㓛刀の自宅方面とは逆へと数分ほど歩けば、そこは繁華街だ。駅前では大きな交差点に、太く横断歩道が敷かれている。その空間を取り囲むようにビルが立ち並び、壁面は看板や電光掲示板で埋め尽くされている。雑多で猥雑かつ賑やかだ。

 平日昼間と言えど多くの人が行き交っている。夏休みの時期だから、学生の姿が特に多い。海外でも有名になったフォトスポットもあることから、外国人観光客が集団でスーツケースを引いている姿もよく見られる。ファッションビルが乱立し、インポートブランドの路面店が並ぶ。㓛刀と同じ世代の男女なら、ことさら着飾っておとずれる場所だ。


 普段の㓛刀ならば、

「親の金で食っている学生が着飾ったところで、かえってカッコわるい」

 とひねくれ、斜に構えてそれらを見ているところだ。

 しかし今日は、隣に千石がいる。

 自分の着古した服を着ている彼女の姿を見るにつけ、

「だったらアルバイトでもして、自力で小マシな服でも揃えたらよかったのだ」

 と反省した。


 今朝の自炊のこともそうだが、㓛刀はこれまで、いかに自分の怠惰を母親のせいにしてきたのかを思い知った。

 自炊も身繕いも、興味があったわけでも、ことさら好きなわけでもない。だからあえてやる必要もないと言えば、そうだ。

 けれど、やらない理由に英玲奈を使っていたのは、あまり格好のいいことではなかった。

 英玲奈はもうこの世にいないし、今後も誰も自分に『生活』を教えてくれる者はいないだろう。ならば自分で、衣食住を整えるスキルをある程度身につける努力は、必要なのではないだろうか。

 興味がないだなんていって放置せず、もっと自分から目を向けて、関心を持てるように心がければ良かったのではないか。

 自分の口に入るもの、着るものにすら無関心でいたのは、きっと、自分自身が自分を大事にしようだなんて、これまでこれっぽっちも思わなかったからなのだろう。


 そんな、心ここに在らずなよしなしごとを浮かべているうち、山田はある建物に入っていった。

 メインストリートに面する大きなホテルだ。少なくとも㓛刀が物心ついた頃にはこの場で操業している。この辺りでは最もグレードの高いホテルになるだろう。

 一階は大きく開放感のあるエントランスで、そこではタクシーや周回バスがゆったりとしたスペースで乗客を降ろしている。停車したタクシーにはすかさずドアマンが近寄り、接遇している。ドライバーと共に乗客のトランクを下ろすのを手伝い、ロビーへと案内をしている。


 中に入るとラウンジがある。大きなスペースにはいくつも座り心地の良さそうなソファが置かれ、そこでコーヒーを楽しむ人の姿もちらほらと見える。

 それを横目に突っ切った奥には待合スペース、その向こうに大きなカウンターがあり、チェックインをする宿泊客を笑顔で待ち構えるホテルマンの姿が多数見える。

 飲食ができる場所も、ここに限らずいくつもあるようだ。また、アフタヌーンティーを提供するスイーツ自慢の店や、高級衣料品を扱う店なども多数取り揃えられている。ホテルまるごとがひとつのレジャースポットのような様相だ。


 足音が消えるふかふかした床の上を歩きながら、㓛刀は場違いさを感じている。みぎれいにした、いかにもお金持ちそうな人種が多くいる中に、学生然とした洗いざらしのティーシャツは、居心地が悪い。


 山田を探せば、ラウンジの立て看板を見ている。季節のフルーツをふんだんに使ったスイーツの一皿に、興味津々の様子だ。しかし、そこで飲食をするのが目的ではないようだ。素通りした。


 チェックインをするわけでもないようだ。カウンターの前も素通りした。


 そのまま距離を開けたまま追えば、いくつかの店を通り抜けた後、ホテル内のパン屋に入っていった。


 ホテルメイドのパンなら、山田からたまに英玲奈宛の差し入れとしていただくものだ。単純においしいということもあるし、英玲奈にとってはキーボードを打ちながらの片手でも食べられるものということで、重宝していた。㓛刀ももちろん食べたことがある。

 それがこの店のものだっただろうかと、店名のロゴを見つめるが、思い出せない。見たことがあるような気はするが、㓛刀もそもそも、英玲奈宛の差し入れの紙袋を、そんなに注意して見ていなかったのだ。


 山田はトングとトレイを手にして、店内を巡回している。

 ホテルは柱や大きな観葉植物など身を隠せる遮蔽物がそこかしこにあるから、㓛刀と千石はそこに身を潜めて、離れて観察をした。


 山田の様子は、いたって普通だ。

 来慣れているのだろう。物馴れている。いくつかは山田にとって定番品と見えて、躊躇なくひょいひょいとトレイに載せている。その次は、あれこれと悩んでいるそぶりで、あっちの棚の前に移動したり、また戻ってきたりを繰り返している。その様子は、新作に手を出そうか出すまいか、悩んでいるようにしか見えない。とても呑気で、平和だ。


 そうやって往復を繰り返しているから、同じくトレイを持った別の客に肘が当たる。すいませんとでも言っているのだろう、ニコニコした笑い顔で軽く頭を下げている。ぶつかられた男性のほうも気にする様子はなく、一言二言、言葉を交わした後、お互い目当ての商品がある棚の前に移動した。

 山田はまだ店内で悩んでいる。

 男性のほうはさっさと会計を済まし、小さな紙袋一つで店から出てきた。


「㓛刀、あの男を追うぞ」

「え? はい?」

「あれはデッド・ドロップだ。情報の受け渡し方法の一つだな」

「デッド・ドロップ?」

「直接顔を合わさず、もしくはすれ違いざまにブツを渡す方法だ。今のやりとりで、山田はあの男に情報を渡している」

「え、まさか」


 㓛刀は訳がわからない。だが千石には、㓛刀には見えない何かが見えていたのだろう。

 ホテル内を、男を追って歩く。

 改めて見ても、知らない男だ。悠々としたスーツの後ろ姿は、威厳すら感じる。頭頂部はすっかり禿げているが、襟足には白髪が少々残っている。すっと伸びた背筋は自信の表れだろう。どこぞの大企業の重役か、いやそれにしては気品がありすぎる。大学の名誉教授や、研究機関の重鎮、そういった知的産業に従事しているような佇まいだ。よく見えればそれほど背も高くはないのに、やけに存在感があるのはそのせいだ。


 本当にこの男が、山田とやりとりをしていたのだろうか。


 千石を疑うわけではないが、品の良い紳士は、英玲奈とも山田とも、まったくタイプが違う。彼らとは違う世界の人間のようにしか見えない。

 ロビーから離れ、衣料品を扱う店が多くなると、廊下には人の姿が減る。

 これでは尾行に気づかれてしまうと㓛刀は懸念したが、しかしそもそもこの男性とは面識がないのだ。気づかれるも何も、たまたま同じ方向へ歩いていただけの二人連れにしか見えないだろう。


 千石も、いたって平然としている。


 出口に近づいてきた。

 正面のエントランスとは違い、サブストリートに面したこの出入り口は簡素なものだ。両開きの大きなガラス扉に豪奢な照明こそはあるが、前には車を止めるスペースもなく、ドアマンもいない。すぐ前は歩道だ。そこでは買い物や食べ歩きを楽しむ人々が、自由に闊歩している。


 そのドアの前で、男は立ち止まった。

 腕時計を確認する様子を見せた後、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出す。

 道端で急に立ち止まってスマートフォンを確認する姿は、どこででもよく見る光景だ。


 ここで自分達まで立ち止まるのは不自然だと、㓛刀はその隣をすり抜けようとした。ぶつからないように避けながら、

「すみません」

 と声をかけ、ドアの金色のハンドルをつかみ、押して開けようとした。

「ああ、どうも」

 男が柔和な声で返事をする。


 それから、意外な行動に出た。


 手に持っていたパンの紙袋を、㓛刀に差し出したのだ。

「よかったらどうぞ、㓛刀達矢君」


 自分の息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。

 にこやかに笑いかける男の目の色は、灰色だった。

 白髪だと思っていたが、どうやらもともとから色の薄い髪を持っているようだ。

 開いた口の中にはやけに白い歯がずらりと揃っていたが、前歯が一本、欠けていた。

 大きな鼻は、日本より北に位置する国に住む人種によく見られる特徴だ。


「……どうして、僕の名前……」

 㓛刀は息が止まったかと思うほどに驚き、やっとそれだけを口にした。心臓が、ドキドキと跳ねている。

「立ち話で結構。少々時間をくれないかね」

 男はやはり友好的な笑みを浮かべている。だが声の強さは、明らかに強制だった。

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