12

 㓛刀は久しぶりに朝まで一度も目を覚ますことがなく眠ることができた。事件以降は明かりをつけたままベッドに入るのが慣わしとなっていて、昨夜もそれはそのままだったのだが、横になって気がつけば窓の外はもう明るかった。


 部屋から出ると、千石は、相変わらずリビングの真ん中でふわふわと浮いていた。華奢な四肢に不恰好な男物の衣服を身につけたまま、それを気にする様子もなく、㓛刀に

「やあ、おはよう」

 と声をかけてきた。


「おはようございます、千石さん」


 芍薬の花のように豪華な頭部に、細い茎のような頼りない首筋が可憐だ。掃き出し窓からさす朝の自然光は部屋中を回って眩く、千石の肌も真珠のように輝いている。


「朝食は食べますか」

「わかっていると思うが私に物理的な食事は必要ないのだ」

「なんとなく、そうだろうとは思っていました」


 昨日の様子を思い起こせば、口にはしていたものの、必要性に駆られてというわけではない。それよりは、面白がって摂取しているのだろうということは、見ればわかっていた。


「だが㓛刀が構わないのなら、私の分も用意してくれるだろうか」

「もちろん、ぜひ」


 千石を前にして、一人だけで食事をするほど面の皮も厚くない。

 㓛刀は冷蔵庫を開ける。土佐が用意してくれていたフレンチトーストが入ったタッパーがある。㓛刀がまだ子供の頃に初めて食べた際に喜んだせいで、いい大人になった今でもまめまめしくこうやって作りおいてくれるのだ。

 タネに漬け込んである状態で置かれているので、焼くのは㓛刀が行う。

 キッチンに立ち、フライパンを火にかける。バターを落としただけで、芳醇な香りが周囲に立ち込める。食欲を誘う。

 自分一人ならそれを焼いただけで食べてしまうが、㓛刀はそこからジャムを出した。生クリームやアイスクリームなどがあれば女性の好むような味付けになり、ちょうどいいのかもしれないが、常備しているわけではないので在庫がない。

 さらに、野菜室からミニトマトとレタスを取り出した。ちぎって軽く洗い、サラダボウルへ盛り付け、ドレッシングをかける。


「どうぞ」

 自分ではほとんど料理をしない大学生の男にしては頑張ったつもりだ。


 焼き目のついたフレンチトーストと、殺風景なサラダの前で、千石は

「美味しそう」

 とニコニコと笑う。嬉しそうだ。


 㓛刀は内心ほっとする。良かったとため息をつく。

 㓛刀は、自分だって英玲奈のことは言えないなと自嘲した。自分が食べるだけだからと今までろくに自炊もせずに適当に済ませてきたのだ。母子家庭かつ母がやらないのであれば、多少は家事スキルもあっていいものだというのに。

 こういうときに大事な人に振る舞える程度には、料理も覚えておくべきかもしれない。


 バターの香り高い黄色い食べ物を口に運ぶ千石は、とても幸せそうに笑っている。土佐任せでなく、自分で作ることができれば、この笑顔は自分の功績になるのだ。㓛刀はひそりとそういうことを考えていた。どうにももうすっかり、たった一日で、千石は㓛刀にとって、大事な人になっていた。


 さて食後、千石はおもむろに切り出す。

「今日は山田を尾行しよう」

 なかなかに不穏だ。


 㓛刀は仰天した。

「いきなりですね、なんで山田さんですか。しかも尾行って、僕そんなこと、したことないですけど」

「したことがあったらむしろびっくりする」


 千石はしれっとした顔のままだ。なまじ陶器のようにつるんとした頬を持っているだけに、そういう表情をとるとまるでよくできた人形のようにも見える。


「㓛刀、昨日明らかになった情報を整理するとだな」

「はい」

「英玲奈が留学をしたそもそもの目的からなのか、来日してからそういう状況に陥ったのか、その時期は不明だが、英玲奈は裏の仕事、つまり諜報活動をしていた。ならば、日本へ残留した理由は、その仕事のためだと思われる」

「……ああ、そう言われれば、そうなりますね」


 まさか自分が今日本に住んでいる理由がそんなところにあっただなんて、予想だにしなかった。自明の理だというのに指摘されるまでわからなかったのは、つまり㓛刀が思考を閉じていたせいだ。


「ならば移住にあたってさまざま手続きをしたという山田は、何かを知っている可能性が高い」


 㓛刀は首を捻った。

「……山田さんが、父や母のように情報を売っていた人たちの、仲間だということですか?」

 㓛刀の知っている山田は、『気のいいおっちゃん』だ。少々抜けているところもあり、また㓛刀にとっては無神経と思えるようなところもあるが、基本的には朗らかで人のいい男だ。英玲奈も㓛刀も、それぞれが別の意味で『面倒な人間』であることにも関わらず、気のおけない対応をしてくれて、長年面倒を見てくれている。

 そういう男も疑わなければならない現状は、引き続き㓛刀にとっては気鬱だ。

 しかし、言い換えれば、父と母の素性が思いもよらないものであって、それを実の息子である自分は二十年もの間、まったく知らず気づかずにいたのだから、山田だって特別例外なんてことがあるわけない。㓛刀の知らない大きな秘密があっておかしくないのだ。


「でも尾行って……。先に事情を聞くとか、そういうんじゃなくてですか?」

「㓛刀は、もし山田が本当にスパイの工作活動に加担していたとして、たずねたら素直に教えてくれるとでも思っているのか?」

 指摘されて初めて、自分がいかに日和見な、甘い考えをしていたのかを思い知った。

「……無理でしょうね」

「情報漏洩ルートというものがあったのなら、英玲奈から依頼主に直接情報を渡していたわけじゃないだろう。間に入る人間がいたはずだ。近衛から英玲奈に、英玲奈から誰かの手を経由していき、最後に『他国』のもとへ渡される、それがルートだ」

「それに山田さんが関わっているということですか?」

「そう。そのルート上に、山田がいる可能性は高い。なにせ、諜報員が日本へ定住するための手引きをしたのだから」

 㓛刀はうなずきがたい。


 英玲奈が定住するにあたり大変お世話になったという話は聞いている。だがそれは、あくまで英玲奈がひとりで手続きをすることができないタイプの女だったから、そして山田は、その当時から担当編集として英玲奈についていたからだ。そう聞いているし、そこに不自然な点はないように思える。


 しかし。

 これまでのところ、千石は、それこそ千里眼で見通すかのように、次にやるべきことを示唆してくれている。千石がいなければ、父の名前すらいまだにわからないままだっただろうし、数橋から父母の正体を聞き出すこともできなかっただろう。


「……尾行って、具体的に、どうすればいいんでしょうか?」

 㓛刀は尾行することを承諾した。


「今現在、山田は出版社に出社しているようだ。とりあえずその出入り口近辺で張り込み、どこかに出かけるようなら後をつけよう」

「なんでわかるんです?」

「一度会った人間の居場所ならだいたいわかる」

「それって神通力ってやつでは?」

 千石は㓛刀に目をぴたりと合わせ、ゆっくりとウィンクをした。

「信者一人分の神力だな」

 たったそれだけで㓛刀は動揺して、今からすぐに出かけて尾行する気満々の千石に唯々諾々と従う羽目になる。


 玄関口を出るにあたって、

「千石さん、信者なら他にもたくさんいるでしょう。僕だけでなく」

 と疑問を呈してみたが、千石は意に介さない。

「私は転生体だが記憶はあると言っただろう。㓛刀のことは、子どもの頃から知っている。幼稚園や小学生のころは、よく神社の隣の公園で遊んでいたな。見ていたぞ。私にとっては、昔から知っている子どもなのだ。その子どもが、生きるか死ぬかのような悲壮な顔をして拝みにきたのなら、まだ転生して間もなく神力もない今の私であろうと、手を貸したくなるというものだ」

 と、幼い頃の話を突然振られて、

「え、そんな、見てたんですか? ていうか子どものころの話とか急にされても、恥ずかしいんですけど」

 やはり慌てるのは㓛刀のほうだった。


 それとともに、㓛刀は少々、もの寂しくも思った。

 㓛刀にとってはすでに、おいしいものを食べさせたいと、笑わせたいと思うくらいには憎からず想っている相手なのだ。

 これはまだ恋というほどには育ってはいないが、少なくとも、その他大勢に埋もれるような感情ではない。

 千石にとっては、公園で遊ぶたくさんの子どもたちのうちの、昔馴染みの一人でしかないのか。

 神様に対して、これを寂しいと想うのは、さすがに、おこがましすぎるのだろうか。

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