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 警視庁公安部外事課では長年にわたる情報流出について捜査を続けていた。自衛隊内部の機密情報が、とある国に筒抜け状態になっているのだ。


 公安部のほうで掴んでいる内容では、機密情報といっても国家存亡に関わるほどの大きな情報ではない。それこそ新入隊員に配布するマニュアルや、学科カリキュラムの資料など、その程度のものだ。


 しかしそれは、公安部が把握している限りのことであって、その目を擦り抜けて核心的な情報までもが漏れ続けている可能性は、もちろんある。


 情報が漏れるとどうなるか。それは先の大戦でボロ負けした理由のうち大きなものが情報戦での敗北であるということを参考にしてほしい。


 情報統制もできない軍というのは、いくら軍事費を注ぎ込み装備を強化したところでただのハリボテだ。


 日本の防衛力は、諸外国から舐められること必至。


 そしてこれはいじめられたことのある人間なら容易に理解してもらえると思うが、いじめっ子というのは、

「こいつなら安全に殴れる」

 と確信したときに、拳を振り上げるものだ。


 そして残念ながら、この現代においても国際社会では、そのいじめっ子気質の国が大多数であり、それらが我が物顔で跋扈しているのだ。安全に殴れるなんて思われてしまっては、亡国の危機、つまり多くの国民の生命と財産が失われる危機ということになる。


 よってその情報漏洩の流出源については公安部の威信をかけて捜査が行われていた。


 容疑の対象となっていたのは、近衛達夫だった。


 公安警察はすぐには逮捕をしない。枝葉末節を一人二人と確保するよりも、組織の全貌を明らかにするほうを好む。


 何年も彼を監視し、どのルートで情報を流しているのか。近衛を泳がすことで、それらを詳細に突き止めようとしていた訳だ。


 だが誰と接近し、会話し、連絡を取ったか、すべてを調べ上げていたものの、依然として、近衛が誰を介して情報の受け渡しをしているのかが判明しない。近衛に握らせた情報が他国の外交官の元に流れているという『事実』は確認できても、そのルートは依然として不明のままだったのだ。


 そして明らかにならないまま、近衛は、不審死した。


 おそらく口を塞がれたものと見られるが、事故現場には殺人につながる手がかりは一切見つからず、残念ながら事故として処理されることになった。


 近衛が死亡したことで漏洩ルートは事実上消滅したと見做され、この捜査は打ち切りとなった。


 ところが、なんの関係もないと思われた外国人ライターの㓛刀英玲奈の殺害事件において、近衛達夫死亡事故が忽然と浮かびあがってきたのだ。


 警視庁のデータバンクには、過去に採取したことのある指紋やDNAのデータがすべて残されていて、検索できるようになっている。


 㓛刀英玲奈の自宅から採取した毛髪のDNAを検索したところ、過去の犯罪者や容疑者のデータから、親子関係にあるとされる人物が上がってきたのだ。


 その毛髪の持ち主は、被害者㓛刀英玲奈の一人息子、㓛刀達矢。親子関係にあるとされる人物が、近衛達夫。なんの関係もないはずの事件から、近衛のDNAを受け継いでいる男が、なんの脈絡もなく、現れたのだ。


「僕の髪の毛から、近衛達夫に繋がったということですね」

「そういうことだ。㓛刀達矢が漏らした情報の伝達ルート上に、㓛刀英玲奈がいたわけだ」


 㓛刀はあまりに次々と明かされた内容を咀嚼しきれず、しばらく呆然としていた。が、

「僕の父と母は、自衛隊の情報を他国に売っていた、ということですか?」

 と数橋にたずねた。


 数橋は

「まだ容疑の段階だ」

 と答えたが、それは断言を避けただけだろう。


 㓛刀はもうどう思えばいいのか、わからなくなってきた。

 そんなだいそれたことをする女だったとは、とても信じられない。


 困った母親との二人暮らしではあるが、大よそにおいては破綻なく、小学校、中学校、高校、大学と進学してきた。

 元から人付き合いの得意なタイプではないのでいわゆる『親友』や『生涯の友達』なんて間柄の人間はいないが、その時々に教室で雑談をする相手くらいには恵まれていた。


 思春期の頃は、

「自分の家は変わっている、母は無茶苦茶だし、父親もいない」

 なんてことに動揺したりもしたが、近頃は、

「代わりに借金を作ったり暴力を振るわれたりする家庭ってわけでもないし、経済的には苦労せずに大学まで行かせてもらっている」

 と折り合いもつけていた。


 それがある日突然に母が自宅で殺されたのだ。

 それだけでも世界観も生活も一変するような事件だ。

 なのに今日は、母だけでなく自分まで日本人ではなかったということを知った。

 物心ついた頃から使ってきた唯一のはずの名前が、実は本名ではなかったなんて、なかなかの衝撃だった。

 さらに、二十年ほど見たこともなかった父親の写真が出てきた。

 出てきたと思えばもうとっくに死んでいる人間だった。

 今は極め付けだ。

 自分の両親は、日本を売っていたのだ。

 父は口封じに、事故に見せかけられて殺されたのだそうだ。

 母の英玲奈も、同じく口封じとして殺されたのではないだろうか。


「だから達矢君、最初にも言った通りに、十分気をつけるように。君はこの公安案件について何も知らないようだった。だから関わりはないと見ている。だが君の母親を殺した犯人が同一見解かどうかはわからない。君も、英玲奈さんの犯行を幇助していたと考えて、口を塞ごうと考えていてもおかしくはない。犯人は、次は君を狙うかもしれない。君の身が危険なんだ。俺は今日の朝にも言ったし、君に会うたびに何度も繰り返し口にしているが、あらためて言う。十分気をつけて、そして何かあればどんな小さなことでも構わない、すぐに相談するように。……君まで、手遅れにならないように」


 数橋は、時計の小箱と写真を元通り紙袋にいれ、それを手に提げた。


「これはしばらく預からせてもらう。誰かにこれについて聞かれても、知らないと答えたほうがいい。この写真は、公安部が『近衛ルート』と呼んでいた情報の受け渡し先についての、確定的な証拠になる」

 㓛刀は何を言ったらいいのかもわからず、立ち上がり部屋を出て行こうとする数橋を見送る気力もなかった。


 出て行く直前に、戸口で振り返った数橋は、

「ああ、そういえば」

 と付け加えた。


「この家は、当面の間、公安警察が交代で張り込みをしている。殺害犯が再びおとずれる可能性があると見てのことだから、悪く思わずに、むしろ怪しい人間が侵入したらすぐに駆けつけられる体制をとっていると考えて、安心してほしい」

 そうして立ち去っていった。


 あまりに現実感のない話だ。咀嚼するのに時間がかかり、頭がちっとも働かない。ふと、ずっと隣にいるに関わらず黙ったままだった千石の存在を思い出したときには、もうずいぶん経っていた。


「千石さん」

 千石はまったく平常な表情のまま、静かに座っている。

「なんだか、大ごとっぽくなってきましたね」

 㓛刀は、別におかしくもないのに空々しく笑った。笑った自分のことが、気味悪かった。


「いや、実際、現実離れしているというか、よくわからなくて、親のやっていたことがどういうことでどれくらい悪いことなのかとか、そういうのもイマイチ掴めていないんですけど」

「当たり前だろう。今まで関わりもなかった世界について、少々説明されただけで腑に落ちる人間などいない」

「犯人が捕まりますようにってお願いしましたけど、犯人像、ちょっと想像つかなくなってきました。なんだか刑事ドラマみたいというか、僕にとっては現実離れし過ぎていて。……父親が犯人かと思ってたのに、もう、死んでるし……」


 から笑いをすると、千石は、㓛刀よりずっと小さな手を、えいと伸ばして、㓛刀の頭を撫でてきた。

 㓛刀は驚いた。人に頭を撫でられるのが珍しければ、それも女性、見た目だけなら同い年くらい、いやいくつか年下に見える可憐な美少女にされるなんて思いもよらなかった。

 子ども扱いされていると怒るような者もいるかもしれない場面だったが、㓛刀はその思いやりを受け入れた。


 今日はあまりにもたくさんのことを、知らなかった自分のことを次々に知ってしまった。

 そのせいで、怯んでしまった。

 けれど一緒に犯人を探そうとしてくれる人が、人外だけれども、共にいるのだ。

 願ったのは自分自身だ。

 天は自ら助くる者を助く、と言うではないか。

 西洋かキリスト教かの言葉だった気がするので千石の宗教とは違うかもしれないが、神社でのお祈りも自助努力が前提なことは違いない、気がする。


 㓛刀は大きく深呼吸をした。

 それから、

「千石さん、ありがとうございます」

 と、その手を取って、下ろさせた。


 少々女性経験が足りないため、その後の手を離す自然なタイミングがわからず、どうしようか数瞬ほど逡巡した上にわざとらしく膝の上に戻してから離すというぎこちないものになってしまったが、そこは仕方がない。


「あ、そういえば」

 気がつけば窓の外は真っ暗だ。時計の針もそこそこに進んでいる。規則正しい生活を送っている人間ならば、そろそろ夕食と入浴を済ませてしまわなければならない時間だ。


「千石さん、夜は神社に帰られます、よね? 送りましょうか?」

「どうしてだ? 犯人が戻ってくるかもしれないのだから、ここにいるぞ?」

「いや、その……」

「若い異性の姿に見えているから躊躇っているのだろうが」

「わかってるじゃないですか」

「中身は齢一千年を超す老婆だ」

「いやいやいや、生まれ変わったようなものとおっしゃってたじゃないですか。それなら、千年分の前世の記憶を持っているだけの、実質美少女ってことじゃないですか」

「じっしつびしょうじょ」

 千石は、その薔薇の花びらのようにすべすべとしたくちびるで復唱した。

「まあ㓛刀も戸惑う気持ちはあるだろうが、気にせずゆっくりするがいい」

「いや、僕のうちですけどね」

「まさか㓛刀の寝室に立ち入ったりはしない。安心して寝ろ」


 㓛刀は困惑した。

 一晩を共に過ごすのだ。

 別の部屋で休むことにするとはいえ、風呂上がりに千石と顔を合わせるのはなんだか気恥ずかしい。寝ている間、隣の部屋にまで寝言やいびきなどが聞こえてしまったら、恥ずかしくてたまらない。翌朝の、身支度していない寝ぼけた顔も、知り合ったばかりの相手に見せるのは気まずい。


 けれど実のところは、

「では、お言葉に甘えて。今日は泊まっていってくださいね」

 とてもありがたいのだ。


 慣れ親しんだ自宅は、今や母が殺された殺害現場なのだ。

 部屋中に篭った血の匂いも、母の死体を抱き上げたときの重さや硬さ、生きた人間の体とは圧倒的に違う違和感も、そんな数日で振り切ってしまえるようなモノでは、決してない。

 まるで今までと変わらないかのように自室のベッドに横になる自分に対する、理屈ではない嫌悪感と、それから突然に肉薄した死に対しての恐怖で、夜がとても長かったのだ。

 夜明けまでの時間は、㓛刀に、たった一人になったことを思い知らせ続けたのだ。

 それが今夜はなんと、この土地の由緒ある神様が宿を借りに来てくれるのだ。これ以上なく安らげと言わんばかりのシチュエーションじゃないか。

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