10
帰宅後に自室に放り出していた段ボール箱を開ける。
身分証明書として最初に見つけたのは在留カードだ。英玲奈と㓛刀の二人分が見つかった。両方とも顔写真と共に、氏名が記載されている。しっかりとアルファベットでの印字だ。
「Ivanovって、これ多分、イワノフって読むんですよね」
「だろうな」
㓛刀という名字とはなんの接点もない。
生命保険に関しての書類も見つかった。
Elena Ivanovは死亡時の受取人をTatsuya Ivanovに指定している。
ほんの数時間前にこれを見ていたのなら
「誰だ、こいつ」
となっていたところだが、今なら自分のことだとわかる。
契約開始日はもうかなり昔のことで、今更これを持ってして
「生命保険の掛け金目当て」
などとして㓛刀に疑いがかかることはないだろう。
「ここで父親の名前っぽいのが書かれていたらラッキーだったんですけどね」
「㓛刀はまだ父親を疑っているのか」
「今のところ、それっぽい人間が浮かび上がってこないですから」
次に㓛刀は、英玲奈の所持品から父親につながるようなものがないかを重点的に探したが、特に見つからなかった。
通帳の入出金の履歴になら、例えば養育費の支払いを受けていたら名前が残っているかもしれないと期待したが、それもなかった。ごく健全に、出版社からの原稿料や印税の受け取り、カード代金の引き落としや各種支払い、そんな、真っ当に生活していた様子が窺えるだけだ。
「……そうだ、もし認知されていたら、戸籍とかはどうなってるんでしょうか」
㓛刀は思いついて調べてみたが、外国人である㓛刀にはそもそも日本に戸籍がない。認知されていた場合なら、父親の戸籍になら載るものらしい。しかし、どこの誰かもわからない男の戸籍など調べようがない。
「こういうのって、弁護士とか雇って調べてももらうのがいいんですかね。いや、探偵とかかな?」
役所の書類のことについては丸切り無知なものだから、㓛刀はそう弱音を吐いた。
千石は、段ボールの中身をひっくり返している㓛刀のそばで大人しくしていたが、
「写真のほうから調べればいいだろう」
と口にする。
「いや、そんな写真一枚からどうやってですか」
「そんなこと、私より㓛刀のほうが詳しいだろう。ほら、そのスマートフォンで、画像検索をしてみるといい」
㓛刀は促され、時計の小箱からふたたび写真を取りだした。
スマートフォンのカメラアプリを使い、男の姿だけが写るように構図を調整し、撮影する。
その画像を使って、検索をかけた。
「こんなので検索したって、有名人しかヒットしませんよ」
㓛刀はそうぼやいた。
芸能人やスポーツ選手、Youtuberなどなら、顔写真はネットにいくらでも転がっているだろう。そういう、画像データの蓄積がある対象になら有効な方法かもしれない。
けれど、一般人なんて検索に引っかかるわけがない。せいぜい、よく似た有名人が、「もしかして?」という程度の類似性だけで表示されるくらいが関の山だ。
ところがあっさりと、検索結果には多数の画像がヒットしたのだ。
「……え? なんで?」
ずらりと並ぶ画像は、㓛刀の手元の写真の男に、非常によく似ている。
この男は、まさしくその『有名人』だったのだ。
「……千石さん、何か知ってて、僕に促しました?」
「いや? ただ㓛刀に対して、名前どころか写真すらも隠していたのなら、それさえあれば本人に結びつく可能性があるのだろうと考えただけだ」
画面に並ぶ男はどれも同じ名前だ。それも、どれも同じ事件によってクローズアップされた写真だ。
陸上自衛隊 陸将補 近衛達夫。
今から二年前の事件だ。長野県山中において事故車両を発見。運転席にいた近衛は頭部と胸部を強打しており即死。現場は見通しの良い直線車線だったことから当初は事件とみられて捜査が行われていたが、体内からアルコールが検出されたことにより酒気帯び運転による事故だと落着している。
当時は非番とはいえ陸将補の地位にある男が飲酒運転での事故死ということで、世間的なバッシングは相当なものだったようだ。
ヒットした画像データは、事件についての報道、およびバッシングとゴシップの記事で使用されているものだった。
残念なことにその頃の㓛刀はといえばちょうど受験勉強に浸りっきりで、テレビどころかネットニュースを眺める時間も惜しんでいた。だからそんなニュースがあったことすらもまったく覚えていない。
「……本当にこの人だとしたら、とっくに死んでるじゃないですか」
たった一枚しかない手元の写真と見比べるだけだが、それでも非常に似ている。
他人の空似だったらいい。「この野郎」と恨んで、「犯人ではないか」と疑っていた相手は、もうとっくに土の下だった。父の顔を知った途端の、次の展開がそれだなんて、さすがにもう気持ちの持って行き場がない。
「㓛刀、こういうのはアレだ、警察に聞くのが早い」
千石が示唆する。
相談してくれと言っていた警察の知人は今のところ、数橋しかいない。
しかし、母の殺害について捜査している刑事に、父の素性についてたずねて甲斐はあるのだろうか。おそらく忙しくしている中に、まったく担当外のことで時間をとらせてしまうのは忍びない気がした。
「㓛刀は、聞いてもいいのかと、遠慮しているのか?」
千石が目をみはる。大きな目がさらにまんまると、まるで満月のようだ。
「こんな状況で、まだ誰かの手を借りるのを躊躇するのか?」
確かに、そうだ。習慣的に、できるかぎり人に迷惑をかけないよう、手を煩わせないようにする行動原理が、無意識に身に沁みついている。だがこんな状況だ、遠慮していても前に進まない。
「そうですね、千石さんのいうとおりです。それに、悩んでいるよりは、さっさと聞いてしまったほうが早いですよね」
電話で軽くたずねて、数十秒程度だ。もしかしたら母を殺害した犯人につながる情報の提供になるかもしれない。今は何が事件の真相へとつながるのかもわからない状況なのだから。
㓛刀はそう考え方を変えて、教えてもらっていた数橋の電話番号にかけた。忙しいだろう、一般人からかけられてもすぐに出たりしないだろうなんて高をくくっていたが、数コールもしないうちに電話に出てくれて、かえって面食らった。
「あの、㓛刀です。実は父らしい人物が写った写真を見つけまして、それで数橋さんにちょっと……」
「写真? 君の父親の? 見せてもらっても?」
㓛刀が言い終わらないうちに数橋から前のめりに打診がある。
「え? あ、はい」
「今それは君の手元にあるのか?」
「はい、ありますけど……」
「君は今、自宅だろうか」
「はい、そうです」
「今から行く。五分か、十分ほどで到着する。そのままそこで待っていてくれ」
了承も待たずに数橋は電話を切った。今からすぐに自宅まで来てくれるということになった。相談できればと思っていたのですぐに対応してくれるのはありがたいが、それにしてもあまりにも急で、勢い盛ん過ぎないだろうか。
「どういうことなんでしょう、食いつき良すぎて、ちょっと怖いんですけど」
「㓛刀の父親については警察も情報が欲しかったということだろうな」
「いやそれが怖いですよ、二年前に死んでいるならもう母の事件とは関係ないはずじゃないですか」
そんなことを話しているうちに、数橋がおとずれた。本日二度目の来訪だ。朝に会ったときからもうずいぶん長い時間が経過している気がするのに、彼に疲れた様子は見えない。
「急にすまない」
数橋は深刻そうな真顔を見せる。
「いえ、来てくださってありがとうございます。これ、母が僕の誕生日にと残したものらしいのですが、時計と、その箱の中に入っていた写真です」
数橋はそれをざっと見て、
「しばらく借りても構わないだろうか」
と、ほぼ決定事項の強い口調で言った。
「それは、捜査のためでしたらもちろん」
「助かるよ」
「あの、でもその前に教えていただけませんか。僕の父は、何者だったんですか」
数橋は皮膚の薄そうな額に皺を寄せて、数秒ほど逡巡した。
すぐに
「君の様子ではもうあらかた予想がついていそうだが」
と話しはじめた。
「君の父親は、近衛達夫という人物だと思われる。彼は二年前に亡くなった、自衛隊の、要職にあった男だ。これから、もし時計に皮膚片などが付着していればDNAを調べるし、指紋があればそれを採取する。その上で確定とするが、ほぼ間違いないだろう」
「……僕の父はもう死んでいたんですね」
「そういうことになる」
相変わらず数橋は身も蓋もない。
「数橋さんは、元から父のことを知っていたんですね」
「そうだ」
肯定する数橋に、千石が
「どうして警察が、㓛刀の父親を知っているんだ?」
とたずねた。
「元から知っていたというのは、どの時点から知っていたんだ?」
と重ねてたずねた。
㓛刀には、千石の疑問がよくわからなかった。警察なら、被害者である英玲奈と関係のあった男について調べていてもおかしくないのでは、と。
千石の質問に対して、数橋はしばらく黙った。
それから、
「千石さんがそうたずねるということは、達矢君のほうも、英玲奈さんの素性についてもうある程度把握しているというということか」
と確認を入れてきた。
正直なところ、㓛刀には意図がさっぱりつかめなかったが、黙ってうなずいておいた。
数橋は
「時系列に沿って、順を追って話そう」
と、腰を据えて話す態度になった。
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