05

 数橋が帰った後、千石はごろ寝スタイルのままでまたふわふわと浮き始める。どうやら彼女にとっては空中は全て居心地のいいソファのようなものらしい。


「ワイヤーやロープ、登山道具などを使用すれば大して体力がない人間でも上階から降りてくることは容易い。だがそんなものを使用すれば壁やベランダの柵に傷や跡が残る。痕跡があれば警察がすでに見つけているだろう。そもそも周辺の住民に英玲奈を殺害するだけの動機がある人物もない。玄関から出入りしたと考えるべきなのだろうな」


 浮いている腰からは、余ったベルトが尻尾のように垂れ下がっている。

 㓛刀は数橋から受け取った段ボールをそのまま自室へ運び入れた。なるべく早く目を通して、手続きが必要なものはさっさとやってしまったほうがいい。

 とはわかってはいるがやはりまだ手をつける気にはなれず、ひとまず手近なところへ移動させたわけだ。

 問題の先送りというやつだ。


 それから電気ケトルで湯を沸かす。

 神様、と呼びかけて、

「千石さん」

 と口にした。

「千石さんも紅茶は飲みます?」


 人間と同じ生態のわけがないので、紅茶を飲めるものかどうかもよくわからない。だから確認したまでなのだが、千石は妙に嬉しげにいそいそと床に降りてきて、リビングの椅子に座った。

「いや、適当につけた名だが、㓛刀に呼ばれるのは悪くないな」

 とご満悦のようだ。

「そうですか、それはよかった」


 㓛刀はティーカップを二つ、取り出す。一度熱湯を注ぎ、温めてから改めて湯を注ぐ。ティーパック式なのは、そのほうが扱いが楽だからだ。

 もう過去の話となってしまうが、英玲奈には、よく紅茶を淹れてくれと頼まれたものだった。彼女は紅茶好きで、いろんな銘柄を買い集めていたが、淹れるのは面倒くさがり、もっぱら㓛刀にやらせようとした。

 流行りのものや珍しいものをどんどんと買い込んではほとんどコレクションとなった大量の在庫を、消費するためにせっせと㓛刀を働かせようとしていた。面倒だからティーパック式しか淹れないと、㓛刀はそう嫌がって、それからは、リーフ状態のものの在庫追加は目に見えて減っていった。


 あのときは

「この女、あくまで僕に茶を淹れさせるつもりか」

 と腹を立てたが、いなくなってしまった今となれば、別にそう強情を張るものでもなかった。顎でこき使われるというか、マジックハンドくらいにしか思われていない扱いだとか、そういうものが嫌だっただけで、紅茶を淹れること自体は嫌でもなんともないのだ。


「どうぞ」

 対面に座る千石にカップを一つ渡す。

 千石はそれを、両手で包み込むように持つ。日本茶を飲むように啜る仕草はおばあちゃんのようで、容姿にまったくそぐわない。

 ただし、大事そうに嬉しげに飲む姿は、まるでとびきりお気に入りのジュースを与えられた童女のように無邪気で、かわいらしい。


「ものすごく年上なのか、今日生まれたばかりなのか、どっちなんですかね」

「どちらでもある。……まあ、少々威厳のない姿なのは自覚がある。これも信者が増え神力が増せば、人間の目に映る姿も自然と変わるだろう。今は頼りなく見えるかもしれないが許せよ」

「いえ、別にそのままでいいと思いますけどね」

 威圧感があるよりは、同い年ほどに見えて、人に紹介しやすい今の姿のほうが、犯人を探し回るのには都合がいい。㓛刀はそう思ってのことだったが、

「そうか、㓛刀はこういうほうが好きか」

 と喜ばしげだ。

 少々齟齬があることは㓛刀も察したが、せっかく機嫌を良くしているのに否定することもない。

 まさか㓛刀の好みだからなんて理由で浮かれるわけがない。

 神様からすれば、信者から好ましいと言われて喜んでいるだけなのだろう。

 それに外見上どうかと問われれば、それこそ生まれてからこれまでに見てきた人間すべてとは比較にならないほどに愛らしく麗しいのだから、あながち間違ってもいないのだ。

 それこそまつ毛の先まで、指の先まで、どこを見ても驚くほどに理想的な色形をしている。部屋のどこにいたとしても自然と彼女に目を惹かれてしまい、釘付けになるほどの愛らしさだ。


「ところで㓛刀、その玄関のカギを持っているという人間についてだが」

「ああ、それでしたら、本日中に二人ともに会えると思いますよ」

「おお、手際がいいな」

「いえ、別に準備していたわけではありません。たまたまです」


 一人目は、山田全、英玲奈が世話になっている出版社の社員だ。英玲奈が初期に出版したエッセイ本「不思議の国ニッポン」の版元で、新人だった英玲奈が発行部数を伸ばすのに尽力してくれた人だ。以来十数年の付き合いで、㓛刀も子供の頃から顔を知っている。今ではほとんどマネージャーのような仕事もしてくれていて、いい加減な英玲奈に代わり、スケジュール管理や仕事量の調整や、資料の収集、それどころか英玲奈が打ち合わせや出張旅行やらに出かけた数時間後に山田が、

「英玲奈さんの忘れ物を取りに来ました!」

 と慌ててこの自宅に駆け込んでくることも珍しくない。

 英玲奈がまともに仕事を続けてこられたのは、ひとえに山田のおかげだと、㓛刀は認識している。


 二人目は、土佐慶子、ハウスキーパーだ。週に二回の部屋の掃除をお願いしている。

 子供の頃はハウスキーパーがいるというと

「おまえん家、どんな金持ちだよ」

 なんて揶揄されたものだが、なんのことはない、英玲奈は家事が本当に、これっぽっちも、一切できない女だったというだけだ。それこそ冗談でも誇張でもなく、電気ケトルで湯を沸かすことすらままならないような女だった。

 そんな女の細腕一つの家庭だ。今の年齢ならともかく、まだ幼少時の㓛刀には部屋の片付けも身繕いも難しかったため、まさしく汚部屋。ゴミダメの中で放置されている幼児を見かねた山田の提案で、来てもらうことになったのだ。今の時代なら虐待として騒ぎ立てられるような事案だろう。このことについても山田には世話になっている。

 何せ土佐が来てくれるようになってから㓛刀は初めて小学校の制服のシャツにはアイロンをかけるものだということを知った。髪は整えてから家を出るものだということも知った。食事というのは買うのだけでなく家で作ることができるのだということも教えてもらった。片付いている状態の部屋がどういうものかという知見も得た。まともな人間らしい文明的な生活は、全て土佐に教えてもらったと言っても過言ではない。


 善良でお人よしのこの二人が、まさか殺人事件など起こすわけがない。

 そもそも殺害しなくてはならない理由がない。

 そして、

「その二人以外にカギを持っているのは、僕だけです」

 と㓛刀は俯いた。

 容疑者は、絞られているのだ。


 千石は大きな目をくるりと巡らし、㓛刀の顔を見る。まるで人形のように、どこにも力が入っていない白いほお、自然に解けたままの形のくちびるで、

「今の私には神力もないから犯人が誰かなんてわからないことを前提に」

 とさらさらと話し始める。


「たとえば英玲奈が、㓛刀の知らない誰かに合鍵を渡していた可能性。そうでなくても英玲奈に害意のある誰かが彼女のカギを盗み勝手にコピーを作製していた可能性。そう、今のところまで聞いた限りの英玲奈のうっかり度なら、カギをどこかで失くしたにも関わらずカギの交換をしていない可能性だってある。それならば、関係性のない第三者が、たまたまカギを入手し、英玲奈の身なりから金を持っていると考えて強盗に入った可能性。またこれまで話したのは英玲奈から犯人へカギが渡った可能性についてだが、㓛刀がどこかのストーカーに知らないうちに目をつけられていた可能性や、山田や土佐から漏れた可能性だってある。……だから、まあ、なんというか、さっきの刑事の言うことはもう気にするな。まだまだ犯人がこの三人に絞られたわけではない」


「千石さん、優しいですね」

「私の最初の信者だしな」

 㓛刀はほっとした。

 神様なんて超然とした存在だから、勝手に細やかな心配りなどは期待できないような気でいた。ところが千石は、いっそ実の母の英玲奈よりも㓛刀の心の揺れ動きを鋭敏に察知するし、それを慰めようともしてくれる。

 英玲奈のせいで少々女性不信気味だった㓛刀としては、こうして言葉を尽くさなくても心が傷んでいることが伝わることや、それに対して労わられることなどは、目新しく、物珍しい経験だった。

 英玲奈との間では、血が繋がっているのに関わらず、言葉を尽くしても話が通じないということが多々あったのだ。

 それにも関わらず、血の繋がりがないどころか、人ですらない存在の千石のほうが、近くに感じる。


 千石にも、神性ではなく、人間性があるのだろうか。例えば性格、趣味嗜好、食欲をはじめとした欲求、信者の好みだとか……。

 たずねてみたくて、でも少し躊躇しているうちに、インターホンが鳴った。

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