04
事件はまだ一週間も経過していない夜のこと、母である英玲奈の死亡が発覚したのは、その㓛刀がいつも通りに帰宅したときだった。
㓛刀が帰宅したとき、室内の明かりは消えていた。
一階のオートロックも、自宅の玄関も、いつも通りにカギを開け、部屋の明かりをつけたところ、リビングの床に倒れている英玲奈の姿を発見した。
周辺にはすでに夥しい量の出血があり、血痕は乾き始めていた。
うつ伏せに寝ている英玲奈を抱き起こした際、胸に刺さっていた包丁が抜け落ちた。
包丁は自宅のキッチンで使用しているものだった。
英玲奈が死亡していることは明らかだったので、㓛刀は救急車ではなく、警察に通報した。
「母が死んでいます」
と。
これが事件発覚時の概要だ。
㓛刀達矢は都内の大学に通学している。現在二年生だ。卒業までにかなり余裕ができるようにと真面目に単位を取得しているので、毎朝早くに家を出て、夕方過ぎに帰宅する。
被害者である母親の英玲奈は留学生として日本にやってきた。両親は母国にいるとのことで、片方はその国の人間、もう片方は日系人だと㓛刀は聞いている。親から日本の話を聞いているうちに日本に憧れ、留学を決めたのだそうだ。
その後、卒業しても母国に帰らないことや、結婚をしないまま子供を産んだことなどについて両親と揉め、疎遠になったのだと言う。
だから㓛刀自身は、英玲奈の両親や親族と逢ったことがない。どこの誰かも知れぬ父親についても同様だ。
幸い、経済的には何の不安もなく過ごせた。英玲奈はライターとして働いていた。祖国と日本文化の違いについてエッセイ本を発行したり、日本食や日本観光についての記事を書いたりなどして生活の糧を得ていたが、それらが好評で仕事には困らなかった。
片親ながらバイトもせずに大学まで通わせてもらっているのだから、㓛刀もその点は母親に感謝をしている。
父親については、どこの誰なのかも知らない。英玲奈が度々「出版社のパーティだ」とか「打ち合わせだ」とかで派手な服を着て出掛けては、深夜に酔っ払って帰ってきたり、翌日の昼まで連絡がつかなかったり、はたまた「取材旅行だ」とそのまま数日ほど家を空けたりするものだから、さもありなんと諦めている。自宅には一度たりとも男を連れ込んだことはないので、その点だけでもありがたいと思わなくてはならない。
さてそういう素行だからどこそこの男に恨まれていたり、またはその周辺の女に憎まれていたりといったトラブルがあったのかも知れないが、㓛刀が母の男女関係をまったく知ろうとはしてこなかったために一切の情報はない。
有り得るとすれば男女の怨恨ではないかと推測しているだけだ。
だが英玲奈の殺害現場は、一度たりとも男を連れ込んでいないはずの自宅だった。
「自殺の場合、自力で刺すよりも、刃物の上に覆い被さるという手段を取ることも多く見られる。女性の場合、特に人間の体を深く刺すことが難しいこともあってな。その場合はうつ伏せで発見されるケースも珍しくない。自宅は施錠してあり、普段から行き来のある人間も限られていた」
「……あの母が、自殺をするとは思えなくて」
「人間性については俺からは何とも言えないが、自殺にしては遺書もなく、身辺整理をしていた様子もない。それから……さっき渡した段ボールの中身をひっくり返したらわかることだし、まあ言っても構わないか。株式の指値取引の予約注文をしていた。自殺する前に株の売買の注文を入れるやつはまあそんなにはいないだろうな。それからネット通販の履歴も調べたが、秋物衣料の予約もしていた。この辺りから鑑みても覚悟の自殺ではない」
「……じゃあ」
㓛刀は自殺ではないという言葉に安堵した。よく考えれば安堵するようなことではなく、どこか身近に殺人犯が、今も自由の身で周辺を闊歩しているということになるのだから、むしろ物騒なのだろう。
だが、それでも、唯一の肉親が自分に一言も告げることなく自ら命を絶った、そんなわけではないとわかって、正直、救われる思いだった。
「㓛刀君、残念だけれど安心できる状況ではなく」
「あ、はい、そうですよね」
「ああ、いや、ていうか、殺人だとすると、君も容疑者になるんだがな」
㓛刀は、一瞬言われている意味がわからなくてきょとんとした。
「数橋さん」
会話において瞬発力がない㓛刀の代わりに異を唱えたのは、千石のほうだった。
「自分の母親が亡くなった直後の子に言うようなことじゃない」
「ああ、悪かった」
数橋はあっさり謝った。
「ただそれくらいに、誰が犯人かわからない状況だと十分念頭に置いて、注意して過ごしてくれ。知らない人間が接触してきたり、知っている人間でもやけに距離を詰めてきたりすることがあれば警察に、俺でもいいし近所の交番でもいいから早い目に相談してくれ」
「犯人が僕に接触してくる可能性があるんですか」
「動機がわからない以上、可能性はある」
それは嫌な予想図だ。㓛刀には、殺した相手の身内に接触しようとする犯人の気持ちなどまったく想像がつかない。だが、そもそも人を殺そうとする人間の気持ちなんてわからないのだから一概に否定なんてできるわけがない。
「で、あと、お嬢さん」
「千石です」
「千石さん、他に聞きたいことはある?」
千石は軽く首を傾げた。その様子が、髪がもふもふしているせいで細い首が折れそうに重たげだ。
「この部屋に侵入する方法ですかね。カギはかかっていたと聞きましたが、玄関以外からの侵入方法、もしくは犯人がカギをかけられる方法があったのか、など」
数橋は意外だったようで千石をまじまじと見下ろしている。おそらく彼女が本気で事件の犯人につながるような情報を得たがると考えていなかったのだろう。被害者の身内が満足する程度に事件のあらましを説明すれば良いとの認識で、親切心から相手をしてくれていただけにすぎない。
「先に言っておくが、犯人探しをしようなどとして危ない真似をしないように」
数橋はすっかり年長者として説教をしたが、千石は
「はい、気をつけます」
とちっとも聞く気はない。
数橋は少々困惑げに腕組みをし躊躇っていたが、
「まあ、実証しようとしてベランダをつたい歩かれるよりはマシか」
とため息を漏らして許してくれた。
「外部からの侵入犯を疑っているというわけだな。ここは高層階だから一階から登ってくるのも、屋上から伝い降りてくるのも、通常の身体能力の持ち主なら難しいだろうな。上下階と左右の部屋の人間からは警察でもう話を聞いているが、近所づきあいはかなり希薄だったようで英玲奈さんの顔も知らないような人間ばかりだった。当日の動向も確認できているし、被害者との利害関係やその他、調べうる限りは怪しい点もなく、問題は見つからない。窓はカギがかかっていたし、何らかの細工をしたような形跡も見られなかった。となると、玄関から入ってきた誰かが、英玲奈さんを殺害した後、生真面目にも玄関のカギを閉めて出ていったということになってしまう」
「玄関のカギなら、僕と、ハウスキーパーの土佐さん、それから出版社の山田さんぐらい、ですね……」
「千石さんとお付き合いしているそうだけど、千石さんは?」
「私は持ってないです」
「そうか」
㓛刀は、なるほどこのタイミングでいもしなかった『交際相手』が急に現れたら、それは警察からしたら疑わしく思えるのかも知れないとヒヤッとした。が、数橋はそれ以上は千石へ詮索を入れず、
「じゃあまた来るから。そっちも何かあったら連絡してくれ」
とだけ言い残して、あっさりと帰っていった。
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