02
事件当夜の㓛刀は、自宅玄関のドアの前ですら何ら不自然な点には気が付かず、いたって普段通りにカバンからカギを取り出した。
マンションの廊下は、青白い蛍光灯が等間隔に並び、そのため㓛刀の足元にはいくつもの影が現れる。
夜の帰宅とは言え都心部なら暗さを感じることはない。
電車や駅構内は煌々と明かりがついているし、路上だって、車が走行するにも問題ない距離の視界が保たれている。むしろそのヘッドライトをはじめ、ネオンの看板や路上を滑るように動くダウンライトの広告、近頃流行りの自転車からは点滅するライトで目を焼かれ、そんな具合にあちこちからライトで照らされる分、昼間よりも眩しさを感じる瞬間が多いと言ってもいいかもしれない。
だから帰宅時にドアを開け、室内に明かりが灯っていないときぐらいなものだ、暗いことについて不自由を感じるのは。
「ただいま」
ほとんどの場合は返事がないが、㓛刀は防犯のためと割り切って帰宅の挨拶をする。
玄関から短い廊下、左のドアはトイレ、右のドアは㓛刀の自室、つきあたりはリビングだ。そこは暗いまま、㓛刀の帰宅にも声掛けにも何ら反応はなく、何かが動いた気配はない。
母親は出かけているか、眠っているか、もしかしたら奥の書斎で仕事に夢中なのか。
嗅ぎなれない匂いがして、㓛刀は鼻を鳴らした。またあの母親は、奇抜な香水や、奇妙な土産物を広げて、異臭をばら撒いたりしたのかもしれない。
きちんと片付けてくれていればいいがと、㓛刀は特に気にも止めず、リビングより手前にある自室のドアを開けた。教科書やレポートの入った重い鞄を置く。どさりと音が響いた。
なんとなく就職に有利そうだから。そんな理由で理系の学部に進学した。
それから一年と少し、特に興味もない講義を受けて単位を取り続けている。
特に就きたい職業があるわけでもない。周囲では、院に進むことを考えている者も多い。どちらに進むにしろ、三年、四年と進めば、就職活動か、院試か、どちらかに大きく時間を取られることになる。今のうちにできるだけ単位を取っておいたほうがいいことには間違いはない。
㓛刀はそう、惰性のような、慣性で動くような、そういう生き方を続けてきた。
やりたいことがない、熱中できない自分の性質に苛立った時期もあったが、そろそろ生まれてから二十年、そういう性格なのだと見切りも付けた。このまま無難に生きていければ万々歳だ。
上の世代からすればまだ若い身空でと嘆くかもしれないが、同世代と話すと、意外なほど同じような感覚でいる人間は多い。だから㓛刀も、
「みんなそうなんだ」
という漠然とした安心感を持って、そこに焦りを感じたりはしていない。
㓛刀は自室から出た。そのまま向かい側にあるトイレに入り、手洗いとうがいを済ませた。喉の渇きを感じた。夕食もまだだし、何か軽く食べておこうとして、㓛刀はリビングのドアを開いた。
帰宅時から感じていた異臭が、質量のある綿のように、鼻腔を埋め、顔にまとわりついた。
嗅いだことのある匂いだ。あれは小学生のころ、校庭の鉄棒で遊んだ後に、手のひらについていた匂いだ。これは、鉄さびの匂いだ。
そこにかすかに、ツンとする嫌な匂いが混ざっている。
㓛刀は、手探りでリビングの明かりをつけた。住み慣れた家だから、何も見えなくてもスイッチの場所はわかる。
パチリとスイッチの入る音がして、シーリングライトが室内の惨状を明瞭にした。
リビングの床、明るいベージュのフローリングには、血の池が広がっていた。
ほとんど乾いてきているが、その分、見た目にも粘度が増して、色もどす黒く酸化し、グロテスクだ。
その真ん中に、母である英玲奈が、うつぶせに横たわっていた。
部屋着として使っている白いコットンのワンピースは、床についた部分、そして背中の真ん中が、血に染まっている。そしてすでに乾いて、ごわごわと固まっていた。
血だまりに汚された金色の長い髪も、血で固まり、乱れ、そのまま乾いてしまう今になるまで乱雑に放置されていた。
「……母さん?」
㓛刀は呼びかけた。
英玲奈は、ピクリとも反応をしない。
まっすぐに下を向いたうつぶせの姿勢のままだ。そんな体勢で、しかも液体の溜まった床に突っ伏して、呼吸ができるというのだろうか。
ほとんど㓛刀は覚悟していた。けれどにわかには認めがたい。
「母さん」
㓛刀はよろよろと歩み寄り、震える腕で英玲奈を抱き起した。
その感触に、ぞっとした。
重力と慣性にのみ動く首は、起こされて、がくんと、捻じ曲がるように揺れた。
腕は指先まで何の意思も感じられず、関節も添え木でもして固定しているかのようにこわばって、ただ床へと自由落下するだけだ。
生きた人間ならあるはずの、反射と言えるような動作がまったく見られない。
㓛刀は顔を見た。
顔にはまるで熱を出したかのように赤いあざが現れている。まるで血色がよいかのようだ。
しかし、目は開いたままだった。どこを見ているのか、揺らそうと声をかけようと、眼球は初期位置のまま、ちっとも動かない。
口も開いたままで、その隙間から見えた舌は、だらんと動かない。夏の路上のミミズのように見えた。
いぎたない母親を無理やり起こすことは、㓛刀にとっては一桁の年齢からよくやっていたことだ。そのときの、寝ている人間を抱き起したときのむわっとした湿気、無意識に体のバランスを取ろうとする筋肉の反応、寝起きの人間の体温の高さ。
それらはもうひとつも残っていなかった。
もしかしたら、本来なら救急車を呼ぶべきだったのかもしれない。
肉親ならば、死んだと断定せずに、医療機関を頼るべきだったのかもしれない。
㓛刀の目からはどう見ても死んでいるようにしか見えなかったとしても。
けれどそのときの㓛刀は、スマートフォンを取り出し、一一〇へと通報していた。
通話口の向こうでは、事務的な男性の声で、
「事件ですか、事故ですか」
とたずねてくる。
㓛刀には事件と事故の違いがよくわかっていない。だから、
「母が死んでいます」
と伝えた。
住所や名前などを聞かれるままに応えているうちに、物が落ちる鈍い音がした。
抱き起したままの母の体から、粘々とした血だまりの中に、包丁が滑り落ちていた。
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