ぼくのふつうが剝がれる日
武燈ラテ
01
僕が神様と出会ったのは、まさしく人生に迷っていたちょうどそのときだった。
そのときの僕はと言えばまったく正気ではなかったと思う。あまりに暗澹と視界は暗く、途方に暮れていて、ひとりだった。まるで世界で一番自分が不幸だなんて具合に嘆いていて、この先はどうやって生きていけばいいのかと絶望して、なにもかもに投げやりになったり、または何かしなくてはと気ばかり焦ったり、そんな具合に眠れぬ夜を過ごしていた。
その日も眠れないまま迎えた夜明けの薄青い空気の中、ふらりと家を出て、誰にも会わないエレベーターを降り、エントランスを抜けた。マンションのレンガの床の上をスニーカーで歩きぬけ、アスファルトの歩道へと出た。
睡眠不足のせいか、頭は少し揺れるだけで割れるように痛んだ。そのたびに血管のいくつかは切れて、脳内だとかそのあたりで出血でもしているんじゃないかと思うぐらいだった。
自宅の前には、小さな車道を挟んだ向こう側に公園がある。それほど広くはないものの、春には桜が咲き、屋台も出て、桜祭りと称して朝から夜遅くまで賑わう。が、夏の明け方など誰もいない。僕は人影のないことに安心した。今の僕の姿は、みじめすぎて、情けなくて、あまり人目にさらしたいようなものじゃない。
旺盛に青々とした木々の葉も幽玄と青い空気に染まり、昼間にはうるさい蝉の声もせず、生命のすべてがしんと静まり返っているようだ。空はまだ薄っすらと星の姿も確認できる。
ふと目に入ったのは鳥居だ。普段生活しているとそれほど意識はしないが、この公園は神社に隣接している。敷地の北側半分は鳥居で区切られた神域で、本堂と見られる大きな青緑色の屋根に、朱色に塗られた柱が見える。小さな社もいくつか点々と建てられていて、その周りにも鳥居や、左右に揃えられた狐像が見える。
目の前にあるのに、子供の頃からここに住んでいるのに、そういえば滅多に行ったことがない。
車の通らない車道を渡った。鳥居は、一礼してからくぐるとネットで見たことがあるから、そうしてくぐった。
桜の木と思われる枝が参道に張り出して、避けながら歩かなくてはいけないくらいだ。いくつもある鳥居や石で作られた柵などに、知らない人の名前が書かれている。誰もいないのに人の気配が賑やかだ。
小さな屋根のついた手水で手を清める。水は常温のはずなのに、少し冷やりとした。
財布の中には小銭が入っていた。近頃電子マネーばかり使っているから、どれだけあるか把握していなかった。適当に数枚ほどつかむ。
本堂と思われる一番大きな建物の前の賽銭箱に投げ入れた。
静かで開けた空間に、小銭が木箱の底を打つ音がやけに響いた。
参拝の作法などろくに知らないが、誰もいないのだから笑うような者もいない。遠慮せず手を打った。
手を合わせ、僕、㓛刀達矢は神に祈った。
――母を殺した犯人が捕まりますように。
神に祈って事件が解決するだなんて、もちろん期待しちゃいない。けれど僕は、他にどうしたらいいのかわからないのだ。
ある日帰宅したら、部屋に母が血まみれの死体となって転がっていた。
通報したら母の亡骸は警察が持っていき、しばらくして死亡診断書を渡された。
警察や行政に言われるままに書類に名前を書いたりハンコを押したりしていたら、死体は焼却されていて、気づいたらもう今は骨壷となって部屋に置かれている。
血だらけになっていた部屋は、特殊清掃の人が綺麗にしてくれた。
自殺か他殺かまだはっきりしていないからと警察は母の所持品を部屋をひっくり返してほとんど全部持っていったが、それ以来音沙汰がない。
途方に暮れているのだ。
たった一人の家族がなぜ死んだのかもわからないまま、僕は何食わぬ顔をしてこの先を生きていくのだろうか。
悲惨な死体がただの白い箱になったように、血生臭かった部屋が綺麗なフローリングに張り替えられたように、上っ面だけ取り繕って、何もなかったように一人きりで生きていくのだろうか。
無論、家族を失うなんて毎日ニュースで聞く事件だから、自分一人だけが悲惨だなんて酔いしれたいわけなんかない。
けれども、そんなものは頭でっかちの理屈でしかない。現実に僕は、たった一人の肉親を亡くし、足元から崩れ落ちそうな喪失感に打ちのめされている。今まで通りに朝昼晩と三食を食べて、この先の就職のことを考えながら大学で単位を取る自分に、強い違和感があるのだ。
それをどうしても拭いきれなくて、明け方をうろついて、まめまめしく信仰しているわけでもないくせにこうやって手を合わせてみたりなど、みっともない醜態を晒しているわけだ。
本当に神様なんていたら、こんなときばかりなんて都合がいいと、呆れるだろう。
僕は自嘲して、目を開けた。
目を開けても、変わらぬ冷え冷えとした朝があるばかり、のはずだった。
まったく気配も、人が近づいたような足音も、何もなかったのに、すぐ目の前に、ひとりのうら若い女性が立っていた。
僕は悲鳴を上げかけて、すんでのところで堪えた。
あまりに非現実的だ。
息もかかりそうな目と鼻の先で、好奇心に溢れらんらんと光る双眸は、琥珀のように金色だ。キツネの尻尾のようにふさふさと真っ白な髪をおかっぱの長さでざっくりと切り揃えた髪は、風もないのにゆらゆらとたなびいている。にっこりと笑うくちびるは慎ましやかに淡いピンク色でちんまりとしている。そして巫女の衣装に似た、不思議な朱と白の着物を着た体は、微かに発光して、黒い下駄を履いた足元は、地面に着いておらず、たしかに浮遊しているのだ。
幻覚だ、そう僕は思った。
眠れないと家を出てきたが、実はとっくに夢の中だったのかもしれないと、そうも思った。
だがその少女は、まるで神楽鈴を鳴らすような涼やかな声で、
「オマエの願いごと、聞き入れた」
と堂々と宣告したのだ。
「その犯人が捕まるよう、私が手助けをしてやろう」
まるで楽しい遊びの約束でもするように、童女のように無邪気に笑った。
僕はそのとき、前述したとおり、寝不足のせいか、強いストレス下にあったせいか、正常な判断力を失っていた。
本来の性格なら幻覚と見切りをつけて見なかったことにするか、コスプレ少女か何かだと当たりをつけてその場とりあえず空気を読んだ対応をしつつ機を見て逃げるか。僕はそういう、ことなかれの対応をしていたはずだ。
僕は目の前の少女の手を取った。
白い袖から伸びた手首は柳のようにしなやかで、肌は真珠のように輝いている。
華奢な指の先についた楕円形の爪は、桜の花びらのような薄紅色だ。
僕はその手を握り、
「信じます」
と夢現のまま呟いた。
「もしも犯人がいるのなら、神様、お願いします」
少女は白い鳩の羽のような睫毛で瞬きをして、僕の顔を下から掬い上げるように見上げた後、大きくうなずいた。
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