第4話 勘違いのココア

 いつの間にか、過去の出来事に逃避してしまっていたらしい。


「大丈夫。落ち着いて」

 貴美子叔母さんの声で我に返る。言われて初めて、僕は自分が過呼吸になっていたことに気が付く。


 呼吸は短く浅い。これでは碌に空気を取り込めない。それがわかったところで、何をどうしたらいいものか。普段からどうやって呼吸しているか、なんて考えたこともないんだから。

「吐くことに集中して」

 貴美子叔母さんの言葉だけが、今、頼れる唯一のものだ。


 碌に空気を吸えていないから、吐くと余計に苦しくなる。本当に信じてしまっていいのだろうか、と不安が頭をよぎる。

 ところが、吐こうと意識して空気を吐き出すと、今度は吐くのが止まらなくなってしまう。これ以上は吐けなくなるまで吐き切ってしまった。苦しい、もう、意識が。


「力を抜いて!」

 その声に驚いて、力が抜けた。途端に、体内へ空気が流入してくる。そっか、吸うのに力は要らないのか。

 暫く、ぎこちない呼吸を繰り返していき、なんとか呼吸が落ち着いた。


「前の病院ではPTSDと簡単に片付けられてしまったけど、お薬でも一向に良くならないわね。でも大丈夫よ。明日行く病院は催眠療法のスペシャリストみたいなの。譲みたいな症例を数多く治しているらしいわ」

 僕の頭をひと撫でして部屋から出ていく貴美子叔母さんの姿に、本気で心配してくれているのでは、と錯覚してしまいそうになる。あの会話を聞いていなければ、本気で信じ込んでいただろう。


 もしかしたら、迷惑とは別に、本当に心配してくれているのかもしれない。だが、変に期待はしたくない。それが違うからといって、恨んでしまうのは嫌だから。

 僕の中にある貴美子叔母さんとの今までの幸せな思い出まで、嘘にしてしまいたくはないのだ。


 貴美子叔母さんは、すぐにマグカップを持って戻って来る。渡されたマグカップのココアを呑む。温かさが染み渡る。同時に、口の中へ風味が広がった。甘みもある筈なのに、苦みしか感じられない。

『ああそうか、まるで貴美子叔母さんみたいなんだ』


 ほどなくして、眠りに就く僕が最後に見たのは貴美子叔母さんの瞳だった。


~~~

 鋭い視線が向けられている。それは、僕にではなくて、隣にいる少年にだけど。


「ほら、『弱虫』。ジョウ様の慈悲だ。半人前のお前にも、今日だけは俺たちと同じ飯を与えてやるよ」

 グレーの耳が生えた猫族の獣人が、少年の目の前に器を置いた。というよりは、落としたといったほうが近いかもしれない。

『ドン!』

 テーブルが器を受け止める音に、元々おどおどとしていた少年が肩を跳ね上げた。それを見て、周りの獣人達が一斉に笑い出す。


「なんだ、役立たずのお前でも、役に立つ事もあるんだな。戦勝記念に大笑いしたい気分だったんだ。がぁっはっはっは!」

「そ、それは、よかった、です。え、えへへ」

 はっきりいって気分は良くなかった。弱々しい人族の少年を酷い扱いで笑いものにする姿にも、媚び諂うように感情を押し殺した笑顔を振りまく少年にも反吐が出る。


 だが、僕には何も出来ない。今はたまたま、勝利の立役者とされて持て囃されているが、少年の肩を持てばどうなるかは想像が付く。僕の中学にもいじめられっ子を庇って、虐めのターゲットにされた奴もいたのだから。

 だからといって、虐める側にも立ちたくない。彼らと同じ様に振舞えるか。いや、やりたくないだろう、ふつう。結局僕は一番卑怯な傍観者を決め込むのだ。


 だから、僕はある程度もてなして貰ったところで、獣人達の所から離れることにした。


 良心の呵責から、お暇ついでに、旅の案内役としてこの少年が欲しいと、纏め役のヒュオトレに言ってみた。ダメ元だったのに、思いの外すんなりと認められる。 

 意外だった。獣人達の彼に対する扱いからみて、奴隷のようなものかと思っていたのだが。

 よくよく話を聞くと、彼らも人族の少年の扱いに頭を悩ませていたらしい。


「ふ、不慣れですが、せ、精一杯、務めさせて頂きます」

「そういうのは、やめてくれ」

 媚び諂う笑顔を向けたので、一先ず頭をはたく。

「これからは旅の仲間なのだから、関係は対等に、だ」

 僕は手を差し出した。

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