モラ虎リアム

 朝起きたら、隣で虎が寝ていたことはあるか。俺はある。

 大学二年の夏、モラトリアムの特権とも言えよう長い夏休みも後半に差し掛かったころであった。その日は例年と比較しても特段に蒸し暑く、故障したエアコンの修繕費すら出し惜しむ俺にとっては、常に窓を開け放ちその暑さを凌ぐほかに術はなかった。東京のアパートはどこも家賃が高い。当時は、同じく上京し、体育系の大学へと進学した親友兼戦友の寮に居候(原則、部屋は一人で使うという決まりがあり、住まわせてもらっていたというより隠されていたといった方が正しい)しながらも不動産屋に通い詰め、やっとのことで予算に合う部屋を見つけることができた。とはいえ、数々の最低条件の上に立ったこの部屋には網戸がない。今考えれば、それは犠牲というにはあまりに大きなものであった。

 夏の間この部屋には有象無象が出入りをし、大学から帰れば八畳部屋の真ん中でネズミたちのパーティーが開かれている。無論、ブロックチーズを買う金など俺にはないため、ネズミたちが囲むのはチーズではなく、出口を見失い飛び疲れ瀕死状態に陥った醜きバタフライであった。

 そんな我が家であるからして、俺は「寝ている間に何が入って来ようが望むところである、受けて立とう!」というスタンスでいたのだが、さすがにその日の珍客にはその闘志を折らざるを得なかった。

 彼女もおらず、これといった予定を持ち合わせることのない俺はその日を、丸一日アルバイトに使った。朝九時にバイト先である駅前のスーパー「ちょんまげ」へと出頭し、休憩は昼過ぎ頃に取り、そのまま退勤時間の夜八時までを何事のトラブルもなく遂行した。

 そんな日の夜を、俺はこれでもかと自分を労わることに使う。帰宅後はできるだけ早く湯を張った風呂に入り、「ちょんまげ」で買ってきた缶チューハイと、茶系色を極めたお惣菜にスライスチーズをかけて晩酌とする。開け放した窓からは夏にしてはひんやりとした夜風が気まぐれに吹き込む。よくわからないシミのついた畳に横たわり、これからの大学生活で起こりうるであろう出会いやイベントに思いを巡らせる。時々、残された学生期間が二年もないという事を思い出し夜風が余計に冷たく感じるが、それは二缶目の缶チューハイと一緒に胃袋へと押し込む。そして、寝るまでの間、思うがままに時を過ごす。お気に入りの雑誌を覗いてみるもよし、週連載のマンガを読むもよし、はたまた、お盛んな若き身体の欲望を放出するもよし。

 夜が明ける。

 例によって特に予定もないので、目覚ましのアラームはかけなかった。何時だろう。もしかしたら、もう昼も過ぎた頃合いなのではなかろうか。眠い目をこすりながら、体を起こす。やはり窓は開け放たれており、日の光が畳の上に落ちている。ふと、視界の端に、何やらモフモフとしたものが映った。一瞬、思考が硬直する。その光景は、あまりに異質であった。あまりに部屋とミスマッチだった。

 視線を向けたその先に居たのは、紛れもなく虎であった。

 突如として目の前に現れた大型肉食獣には、流石の俺も混乱した。ここで起こしたら確実に襲われる。起こさなかったとして俺は一体どうすれば? そもそもなぜ? 虎なんて町中にいるようなものではないだろう。

 ここにいては命が危ない。俺にはまだやり残したことがごまんとある。気に入って読んでいた小説の映画化もまだ見ていないし、バイト先の気になるあの子に思いを伝えていないし、上京を許した両親への親孝行も済んでいない。

 俺は、まず部屋を出ようとした。しかし。立ち上がり、歩みを進めたその時であった。大きな音が鳴る。昨日、飲んで放っておいたチューハイの缶を思いきり踏みしめてしまったのだ。刹那、缶から出た決死の断末魔は虎の耳に届き、虎は目を覚ました。まずい。俺は無我夢中で玄関の戸に手をかけ、追ってくる虎を危機一髪で避けながら部屋を飛び出した。中から聞こえるうめき声。勝手に侵入しておいて襲ってくるとはなんて無礼な奴なのだろう。きっと、虎の世界には礼儀というものが存在しないに違いない。

 こうして、難を逃れた俺は、部屋を出る前にかろうじて掴み取った携帯電話で警察へ通報を入れた。電話の向こうから、その虎は昨晩に動物園から脱走したものであるだろうとの話があった。一体俺が何をしてこんな不運に見舞われなければならぬというのだ。脱走した虎が家に入ってくることなどそうあるものか。流石の警察も動揺した様子であったが、俺の必死さが伝わったのか、虚偽を疑うことなく捕獲部隊の手配を行ってくれた。

 あとは警察の皆様を待つだけだ、と肩の力を抜いたその時であった。俺はとんでもない失態に気が付いた。

 昨日の晩、欲望のままにおっぴろげた破廉恥本が、そのままの状態で床に放りっぱなしだったのだ。

 このまま何もしなかった場合のことを想定してみよう。一、警察が来る。二、部屋に突入する。三、捕獲作戦中、我が破廉恥本が目に入る。四、俺の日頃の欲の発散事情から性癖までもが警察の方々の間に漏洩する。

 まずいまずいまずい。このままでは俺の名誉が砕け散る! 何とか警察が来るまでにあの破廉恥本を回収せねば。そう思った俺は、何を思ったか携帯電話を取り出し、共に上京してきた例の体育系大学生、隼人に電話をかけていた。

 

 「いるのか、虎が、中に」

 「ああ、間違いねえ。俺はこの目で見たんだ」

 「そしてその近くに」

 「ああ、間違いねえ。俺の究極いやらしいセレクションが広げてある」

 「それを取って来いというのか?」

 「いや、お前にはあの虎をどうにかしていてほしい。十秒だ。それだけの時間を稼いでくれ」

 俺が彼を頼ったのは、まず、あの虎を押さえつけておける人員が必要だったためだ。彼は大学にてラグビーをやっている。当然、そのガタイもよく、濃い体毛と合わさってもはや熊のような外見をしている。まさに、この作戦において適任者といってよいだろう。彼が虎を押さえつける。俺がその隙に破廉恥本を回収する。全力で逃げる。非の打ち所のない完璧な作戦だ。

 「さん、に、いちで行くぞ」

 「待ってくれ。もし失敗したらどうする。俺らは無残にも肉を引きちぎられ、警察が来たときに残っているのは男子大学生二名の死体と血まみれの虎、加えてお前の破廉恥本だ」

「失敗はない。そのためにお前を呼んだ。わかるな? 俺らは二人で一つ、運命共同体だ。きっとできるさ。それに、虎も鬼ではあるまい。わかってくれるさ」

 「虎は虎で怖いんだよ。馬鹿が」

 「行くぞ」


 「さん」


 「に」


 「いち」


 部屋に飛び込むと、奥に鎮座する虎の視線は我々を捉えた。瞬間、その巨大な体をごうごうとうねらせながらこちらに向かってくる。

 「隼人!」

 「ああ!」

 牙をむき出しにした虎に、隼人が横から猛烈なタックルを決める。台所に吹き飛ぶ虎。

 「今だ! 虎太郎!」

 実は奇しくも、俺の名前は虎太郎であるのだが、この際そんなことはどうでもいい。少しでも時間を短縮すべく、破廉恥本に向かって特大ダイブを決める。

 掴んだ。

 手にはしっかりと肌色に染まった薄い本が握られている。

 「隼人!」

 しかし。彼に目をやると、大口を開けた虎に今にも捕食されそうになっていた。

 「俺のことはもういい! お前だけでも生き残れ!」

 「でも!」

 「いいんだ! 俺はもう駄目だ! 生きろ!」

 「でも! 二人で戦えばどうにかなりそうじゃないか!」

 「そうか!? いけそうか!?」

 「うおおおおおおお!」

 俺が虎の腹部めがけて突進しようとした時であった。

 「君たち、伏せるんだ!」

 その声の主は警察であった。手には麻酔銃らしきものを持っており、半ば信じられないというような目でこちらを見ている。

 「グオオ!」

 警察の撃った麻酔銃が見事、虎に命中する。そして隼人から離れ、少し暴れたかと思うと、そのまま気を失った。途端、窓から風の吹きつける音だけが、部屋に響く。俺と隼人は息を切らし、間一髪、といった表情で小汚い床を見つめていた。

 「君たち、怪我はないか」

 「はい、大丈夫です。ありがとうございました。死ぬかと思いました」

 「駄目じゃないか。生身の人間が虎に勝てるとでも思ったのか」

 「いやあ、すんません。ちょっと事情が……」

 「まあいい。無事でよかった。一応、現場の状況も記録しなきゃだから、署まで同行願えるかな」

 「あ、はい。隼人、大丈夫か」

 「すまん、俺は練習がある」

 当初現場にいたのは俺だけであったため、隼人は解放された。あいつには今度、飯を奢ってやろうと思う。もちろんその時、俺は水で耐え凌ぐことになるだろうが。

 というわけで作戦は成功、無事に本は守られた。友達にああいうガチムチ系がいてよかった。きっと、虎自身も相手を熊だと思って戦っていたことであろう。

 そしてその事件の後、しっかりとトラウマを刻まれた俺は、頑丈な網戸のある部屋に引っ越した。今度は湯船が犠牲となった。エアコンを直せばよかっただけであったのだという事に、引っ越した後に気が付いた、おちゃめな俺であった。

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非公式短編集 村田非公式 @Yubikawatabezou

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